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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

水彩漫筆(06) 渋柿と富有柿

2011-12-15 | 水彩漫筆

 店で買った富有柿と我が家の渋柿を、縁側の日当たりに転がして描いてみた。富有柿は、姿形もなるほど名前の如くに見事で、大きさは我が家の柿とは親子ほども違い、三倍ほどもある。この渋柿はどうするかというと、このまま放っておけば勝手に渋が抜け、薄皮一枚残してとろとろに熟し切り、暮れにはこれ以上ない甘さの食べ頃になる。炬燵に入って、歯に浸みるような冷たい柿を、食べるのではなく啜る、これが柿の味で、固い柿にも、その甘さにも、まだどこか違和感がある。それにしても幼時親しんだ柿がこんなにも小粒であったとは。富有柿といった金を出して手にする柿が異様に大き過ぎるということなのであろう。

 峠を越えると知らぬ者のいない高名な画家がおり、作品についての好みとか評価は別に、山国育ちらしい何とも強烈な、今ではどこか懐かしい、文学的とでも言うしかない、その人となりに惹かれて、最近はその周辺にも目を向けているのだが、そのお孫さんがこんなことを書いている。

 ……あの頃の柿の木は幸せだった。てっぺんに二、三個鳥の分を残して、あとは丁寧に実を採られていたのだから。……炬燵にあたり乍ら、鬼笊一ぱいの柿の皮を剥く。小学校へあがる前に、私はこの柿の皮剥きをやらされて刃物の扱いをおぼえた。先ず、小刀の尖ったところを柿のへたにあてて、回し乍らえぐるようにしてへたを落とす。そして、へたのあたりからくるくるとむきはじめる。へたの曲った柿、青い柿はごまが少く、手がぎしぎしとして渋で黒ずむ。これを二階の屋根に敷いたむしろの上に並べ干す。柿が小さいから、よその干し柿のように甘いたっぷりとしたものにはならず、種も多いのであまりおいしくはないけれど、お正月の御馳走のひとつである。こんな柿の木は家のまわりから消えてしまった。缶入りコーヒーの自動販売機はどんな村の中でも一晩中あかりをつけて唸っているけれど、藁屋根の家がこわされて新建材のしゃれた家にかわったとき、柿の木は消えてしまった。たまたま残っている木があっても、その木のとりまく家は住み捨てられている。いっぱいに実をつけた柿は、鴉や、尾長のつつくにまかせ、そのうち何度か霜が来ると黒ずみそして乾びてゆく。最後にへただけが枯れた枝にみにくく残る。毎年毎年このくりかえしである。庭に柿の木を植えたいと思う。美しい実を見て楽しみたいから。え、あの実食べられるってほんとう?と本気で言う人がそのうち出て来るような気がしてならない。

 そうなのだ、ついこの間まで甘柿であれ、渋柿であれ、我が家の柿が「お正月の御馳走のひとつ」であったのだ。前回の「(05)稲架と柿」との関連もあり、ついつい長く引かせていただいたが、お孫さんとはいっても昭和も初めのお生まれ、柿にとって人に食われるのが幸せか、鳥に食われた方が幸せか、それはともあれ、柿にまつわる思い出とその深さは、年代、人により様々ではあっても、肝心なところは皆同じで、何も違ってはいない。

水彩漫筆(05) 稲架と柿

2011-11-20 | 水彩漫筆

 変わらぬ光景というものが、どれほどに貴重か、あえていうまでもない。柿の実が熟し、稲架(はざと呼んでいる)が立ち、山は色づき、遠くに浅間山がこんな風に見える。もうすぐ初冠雪、見慣れた溶岩流の跡が山頂からくっきりと白い筋を引く。よくよく見れば、いつの間にやら、巨大な鉄塔と高圧線が野を越え山を越え村を越え、目の前を横切っているし、見慣れぬ人家、工場も増え、高速道まで走っているのだが、少し目を細めて描けば、そんなものは都合良くみんな消えてしまう。写真だとこうはいかない。

 稲架は随分少なくなった。稲刈りの後は、天日干しを省いて、さっさと大型の機械で、刈り取りから脱穀、袋詰めまで同時に済ませてしまう。それでも休日に三世代総出で稲架掛けをしたり、稲扱きに精を出している農家が結構それなりに残っている。早々簡単にはみんな同じ方向に走ってしまわないところがよい。学校帰りに隠れん坊遊びをするにはもってこいなのだが、一部まだ健在で頼もしい。「稲架の陰鬼の後行くかくれんぼ」(甲斐里枝)「稲架襖恋の襖となることも」(齋田鳳子)

 柿はといえば、いよいよもって健在。今の時期、店に一斉に出回る大粒の柿よりは、一回りも二回りも小さい渋柿を、わざわざ高い木の上から収穫しようとは誰も思っていない。時々椋鳥の大群がやってきて、嬉々として啄んでいるが、やはり渋いのは後回しで、大騒ぎの割には、鈴生りの柿はそれほどには減っていない。青空をバックに日に日に赤く色づき、山の紅葉とはよい対照で、柿の実が、人為を廃してこれほど見事に、里の、秋の光景に取り込まれた時代はかつてない。

 峠のむこう側の話になるが、多摩の外れ、一面の桑畑が宅地に変えられていった、戦後も早い時期に開発された街の一角で、大分以前ある秋偶然気付いた。定年後の余生を楽しんでいるかの近隣の住人の、どの家の庭にもきまって柿が植えられている。実の生る木を身の回りに植えるとなれば、やはり柿なのだ。「里古りて柿の木持たぬ家もなし」 芭蕉の頃から何も変わっていない。柿は有用無用を超えて、郷愁そのものと化している。

水彩漫筆(04) 枯れ木の中を

2011-11-15 | 水彩漫筆

 これも前回(03)と同じ裏山の林道。所々唐松林になっている。黄葉が始まり落葉するにつれ日に日に林の中が明るくなり、散策にはもってこいで爽快なことこの上ない。木漏れ日の中をどこまでも歩いていたい気分になる。だが、さすがに標高千、三時を過ぎると一気に気温が下がる。急いで山を下り、冷え切った身体を風呂で温め手足を伸ばす。

 「葱買て枯れ木の中を帰りけり」 これも蕪村の句。枯れ木の中を急いで帰った所だけが同じで、状況は大分違うのだが、描いている時の気分は蕪村で、そんな感じのものに仕上がっているようにも思える。道は、画面中央、逆光のその奥、西に向かってどこまでも、果てしなくうねうねと続いている。

 木枯らし吹く中、枯れ木の中を通って家路を急ぐ。手には葱というのがいかにも蕪村。鍋に葱を煮て温まりたいのだ。家族が帰りを待っているとしてもしてもよし。一人でもよし。我が家に帰ることに変わりはない。

 蕪村の家遠しの果てしのない旅は、いかなる時も我が家の温もりと表裏をなしている点で、その敬愛する芭蕉の旅とは大分異なる。芭蕉が旅に病んで、その途上で死を迎えた五十一歳の、それと同年の蕪村は、その時まだ旅を終えていないのだが。芭蕉が曾良の口を借りて、行き行きて倒れ伏すともと詠んだようには、蕪村は決して詠まない。釈蕪村、早くから仏弟子の自覚もあったようなのだが、資質の違いもあるであろうし、何よりも画技に通じた余裕がある。ともあれ蕪村の句が愛されるのは、この辺にあるのであろうし、最晩年に至って一人娘の嫁入りに腐心したりしているところは、いかにも蕪村らしい。
 
 蛇足ながら、前回、蕪村と春風馬堤曲に触れた、その同日、偶々手にした時代小説を拾い読みしていると、「あのあたりが毛馬村です。わたしめをどこの馬の骨かと思っていなさるでしょうが、じつはわたくし、毛馬の生まれなんです」「なるほど毛馬の骨ですか」なんていう会話が出てきてびっくりした。時々こんな妙なことが起こる。時代小説というと藤沢周平しか読まないので、会話の相手が田沼意次ということもあり、最近はこんなのもありかという驚きなのだが、蕪村が愛される故とすれば、これもよしとすべきなのであろう。何年か前某全国紙に連載された(辻原登『花はさくら木』)ものだという。

水彩漫筆(03) 家遠し

2011-11-12 | 水彩漫筆

 「春風や堤長うして家遠し」「花に暮て我家遠き野道かな」蕪村の場合、この「家遠し」に込められた想いは、どうやら単純ではない。前の句は、蕪村六十二歳の俳詩、春風馬堤曲の冒頭に置かれている。浪速に奉公に出、偶々藪入りで帰省する娘に成り代わって、その道行の有様と心情を述べたこの作品の出板を知らせた手紙の中で、「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情」に衝き動かされてのものだと、自らの望郷の想いを託したものであることを率直に告白している。春麗らかな一日の道行には、蕪村の生涯が凝縮されているとも読める。

 同じ手紙の中で、浪速近郊の毛馬村が生まれ故郷であることを事のついでに触れてはいるものの、その出自については、これが唯一の例外であり、後は一切口を閉ざしている。若年にして江戸に下り、関東を放浪し、中年になって京に妻子得るが、蕪村の旅はその後もまだ続く。人並みの安定した生活が得られるのは六十八年の生涯の最後の十年ほどで、家業といったものを持たず、画工として身を立てるとなれば、これがこの時代普通であったのかもしれない。俳諧などは余技でしかない。今時の、会社の都合であちこち回され、晩婚で定年を迎える、ありふれた給与生活者の生涯とそれほどの違いはない。

 明和元年、蕪村四十九歳の山水図を見てみる。六曲一双、平面に置き換えれば横幅七㍍を超える大画面の右下、蕭条とした冬の原野を旅人が行く。道は果てしなく続く。画面中央人家の脇を通って道は山に入り、細くうねうねと、やがて左上の峠を越えていったんは視界から消える。季節は夏に変わって、再び道は右下に現れ、ここでも人家と大河を脇に見て、道はいつか険しい山道に入り、それがどこまでも続いている。蕪村が、この山水図で何を描いているかといえば、これは一繋がりの道であり、それ以外ではない。蕪村は、山水という、それに相応しい大きな景を借りて、どこまでも続く果てしない道、言い換えれば自らの家遠しの想いを描いてみたかったのではなかったか。

 道遠しの、果てしない、遙かな感じは、当たり前の事ながら、実際にそのような道を自分の足で歩いてみないことには知りようがない。やっかいなことに、今のこの時代、肝心の、そんな当たり前すぎる道が実は存在しない。峠のこちら側でも、かつて縦横に通じていた野道は舗装路に取って代わられるか、休耕の荒れ地の中に埋もれてしまい、移動には専ら車が使われ、散策向きの道などどこにもない。道は車のためのもので、人が歩くものではない。

 かろうじて見つけたのが上に描いた裏山の林道で、標高千、一般道からの車の進入は普段鎖されているので、今の時期、落ち葉をがさごそと踏んで、どこまでも人気の途絶えた道を一人行くと、いつしか蕪村の山水図に紛れ込んだ気分を、ここでだけ唯一、一時味わうことができる。道は上下し、左右に曲がり、先が見通せるような平坦な直線はどこにもない。そんな道を描いてみたかった。

水彩漫筆(02) 絶頂の城

2011-11-05 | 水彩漫筆

 「絶頂の城たのもしき若葉かな」若葉を添えたところがいかにも蕪村で、蕪村の句の中では、よく知られているものの一つなのだが、旅の途次、ふと山頂の城跡に気付いて、振り仰いで詠んだもののように勝手に思いこんでいた。そうではないのかもしれない。案外、蕪村は戦国の世に、一城の主になったつもりで 、山の上から四囲を見渡していたのかもしれない。

 夢に出てくるほどの、幼時からすり込まれている山のイメージは何かというと、実はこの断崖絶壁であり、遙か離れて見事な稜線を描いている、いかにも山らしい浅間山の方はそれほどの印象はない。ついでながら、同じ蕪村の「浅間山けぶりの中の若葉かな」は感心しない。そんな浅間山は世に存在しない。

 かつての信越線の、小諸駅を出て暫くの間、千曲川に沿って西に下って行くと、例の布引岩を含めて、切り立った断崖がパノラマのように車窓に広がり、紅葉の今の時期なかなかに見応えがある。反対側の車窓には緩やかな斜面がどこまでも上に伸び、鉄道の走っている辺りが、その扇状の先端に当たり、この斜面を少しばかり上れば、この断崖の上が何の変哲もない広大な台地であることは容易に見て取れるのだが、幼時そんなことは思いもよらなかった。山といえば、かくのごとき断崖に決まっている。

 断崖の頂点との標高差は、川面からだと二百メートル程もあり、振り仰いだ時の圧倒的な威圧感は、子供の目には正しく壁そのもので、その向こうに何があるかは想像の外でしかなかった。このただならぬ断崖絶壁が外山城という、れっきとした山城であり、甲信越の戦国武将が鎬を削った夢の名残であることを知ったのは、実のところ大分後のことで、壁の向こうには、歴史という意外な世界が広漠として広がっていたことになる。

 実際に上の絵の最上部、最近松枯れで少し木が疎らになった辺りに立って四囲を見渡してみれば、これがいかに頼もしい城であるかは一目瞭然、こんな好都合な場所を放っておく手はない。蛇行する川筋にしたがって崖の方も、ここでは前にせり出しているので、川上から川下まで敵の動きは手に取るように見え、攻める側としたら、これでは手も足も出ない。絵に描いたような完璧な山城である。

 句にするなら若葉、絵にするなら紅葉、いずれにしても頼もしき城には違いはない。