奇妙な生き物が顔突き合わせて、ひそひそと何事か話しているような風情だが、これはアケビ、通草と書いたりもする。近所の道の駅で五つ入って一袋二百五十円。珍しさに惹かれて買って帰り、しげしげと眺めてみると何とも不思議な色合いで、熟れて背中が割れた形も面白い。握ってみると掌にすっぽりと心地よく収まる。この色、形、風情は日本画向きだなと思いつつ水彩で描いてみた。
買って帰ったのは、一緒に入っていた萎びた葉っぱから、どうやら三つ葉アケビらしいのだが、物足りないので、庭から普通の五つ葉のアケビの蔓を切り取って添えてみた。こっちの方は畑の隅に勝手に生えていたのを、庭に移植し枯れ木に絡ましておいたのだが、当分実を付けそうにない。アケビは里でもよく見かけるのだが、なかなか実を付けるまでには至らない。山の中で稀に見つけたりすると無上に何故か懐かしいというか嬉しくなる。熟れた果肉は口にしてもどうということもない代物なのだが、この感じは多分遺伝子レベルの何かなのだろう。このあたりは俳句向きで、結構詠まれている。ついでなので少しだけ上げてみる。
悪路王手下が喰ひしあけびかな 百合山羽公
杣が子はあけび待つらむ父待つらむ 石田清斗
こんな風にも詠める。
つと径をそれて提げ来しあけびかな 鈴木キヌ子
好きなこに通草の秘密教えます 松田ひろむ
ここまで詠めればもう言うことがない。
どこにても死ねる山中あけびの実 手塚美佐
どうということもない代物などとうっかり書いてしまったが、昨今の果物や菓子に慣れ、味覚が麻痺してしまった舌では、もはやアケビの甘さは遠い懐かしい記憶でしかないのかもしれない。悪路王は田村麻呂伝説の蝦夷の族長、随分と古い記憶で、アケビは縄文以来の秋の実りの象徴であるのかもしれない。これはやはり日本画の画材であろう。
時にまたまた健さんなのだが、健さんがアケビを描いたか、描かなかったか、見たことはないが多分描いたと思う。こんな格好の画材を健さんたるものが見逃すわけがない。健さんの水彩は、日本画に回帰するというか、その伝統を取り込むことで、質量共にその芸域を拡げていったことは間違いない。ただ、その量が問題で、直近の回顧展の作品の実に半分が初出で、今後まだまだ出てくるかもしれないし、今だに代表作が定まらない。健さんクラスの画家でこんなことはあまり聞いたことがない。