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峠越えれば

峠境に むこうとこっち 峠越えれば別の国

峠越えれば(31) 大愚到り難し

2014-03-14 | 峠越えれば
 慶応三年二月生まれの漱石が亡くなったのは、大正五年十二月、節目の五十歳にはまだ二ヶ月残している。五男三女の末っ子に生まれた漱石は、自身がまた二男五女の親となる。漱石の死が、「猛烈に働いた」(『道草』)結果の、過労死のようなものであったことは前回に触れた。子沢山の家族の生活の安定のため、国に仕える官から、「新聞屋」たる一介の勤め人に転じ、がむしゃらに働き続けた生涯は、気付いてみれば時代の最先端を走っていたのであり、漱石自身が、時代に丸ごと絡め取られていたことになる。新聞小説というのは時代の鏡であり、小説の背後には、同様な環境に置かれた多数の名もなき人々が控えている。連載の一回一回が、その反応を確かめながらの、時代の精神を読み込む、手探りであったに相違ない。

 未完のままに、漱石にとっては最後の作品となった『明暗』の連載が始まったのは大正五年五月、その連載中の十月、漱石の家に風変わりな二人連れが止宿する。二十歳そこそこの若い禅僧で、以前からの文通の縁で、東京見物がしたいと、神戸の寺から上京したのだという。一週間ほども、日頃の生活ぶりを互いに披瀝し合い、去って後、この鬼村、富沢を名乗る二人の礼状に、漱石が返信している。

……大して御世話もしないであんな丁寧な御礼をいわれては痛み入ます。しかしそれが縁になって修行大成の御発心に変化すれば私に取ってこれほど満足な事はありません。私は日本に一人の知識を拵えたようなものです。富沢さんもほぼあなたと同様の事をいって来ました。坊さん方の奇特な心掛は感心なものです。どうぞ今の志を翻さずに御奮励を祈ります。私は私相応に自分にあるだけの方針と心掛で道を修めるつもりです。気がついて見ると、すべて至らぬ事ばかりです。行往坐臥ともに虚偽で充ち充ちています。恥づかしい事です。この次御目にかかる時には、もう少し偉い人間になっていたいと思います。あなたは二十二、私は五十、歳は二十七ほど違います。しかし定力とか道力とかいふものは、坐ってゐるだけにあなたの方が沢山あります……(鬼村元成宛十一月十日)

 二人の珍客の逗留は、漱石にとって余程印象的であったらしく、実際にその世話に当たった、鏡子の口を通して、こんな風にも語られている。

……実際こういう素朴な生活を見るにつけ夏目に思われるのは、自分の間近にひろがっている周囲の生活であったらしいのです。みんなそれぞれお出来になる世間なみには立派な方々ではありますが、どうも話がややこしい。誰がどうしたの彼がこうしたのと、年がら年中夏目の耳に聞こえて来るのは、大して愉快な話というものもなく尊いというところもありません。其上みんな神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい。つくづくそれとこれと比較をしたものと見えまして、この雲水さんたちが神戸へかへってからやった手紙に、貴方がたは私のところに集まって来る若い人達より余程尊い人達です、有難い人達です。私のところへ集まる人達も、私さえもっとえらければどうにかなるのだろうがなどと感じの一端を洩らして居りますが、余程そうした感慨は深かったものと見受けられます。……(『漱石の思ひ出』)

 死後に整理してみると、この二人と遣り取りした手紙ばかりは、別に大切に仕舞われていたともあり、この出会いが、その生涯において、特別な意味を持ったものであったことは間違いないのだが、この時漱石には最早時間が残されていない。この率直極まる返信の一ヶ月後、宿痾の胃病で病み衰え、五十に満たない生涯を閉じることとなる。漱石にとってのみならず、若い二人の「雲水」にとっても、その出会いが、改めて発心を促す体のものであったとすると、想像するに、漱石はこの時既にその死を見据えた静謐を湛えており、かれらは、嗅覚鋭くそれに気付いていたということも考えられる。

 それにしても、上の鏡子の話は面白い。毎週木曜、お馴染みの顔ぶれが集まり、飽きもせず漱石を囲んでワイワイやっているのだが、わけも分からず、毎回それを障子越し聞かされる鏡子にとってみれば、たまったものではない。「神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい」のが我が亭主であり、それに輪を掛けた同類ばかりが集まって、熱を吹き、亭主を焚きつけ、詰まるところその害を一身に引き受けてきたのは、他ならぬこの私だと、そう言いたいのかもしれない。最晩年の漱石の生涯を、飄然と横切って去った、浮世離れした二人の「雲水」は漱石のみならず、鏡子にとっても何事か救いであったのかもしれない。

 「発心」と言い、「知識」と言い、「道を修める」と言い、人の世には「尊い」ものが存在すると言い、この時代には、こんな言葉が、まだ今ほどには忘れられていない事実は記憶されてよい。五十歳の漱石は、大真面目で「もう少し偉い人間になっていたい」と心底願ったのであり、そこに到り得ない自身を責め続けていた。言うまでもなく、漱石は、五十間近にして、ようやくそこまでたどり着いたのであり、書くことを職業とし、生活に追われながらも、ついにはそこまでたどり着いたのであり、初めからそこにいたわけではない。書くほどに彼我の距離を測り、それをわずかずつ埋めながら、ついにはそこにたどり着いた。

 この時期、漱石は午前中に『明暗』連載一回分書き上げる毎に、それを自ら投函し、午後は専ら漢詩の推敲に当てていたらしい。それだけだと晴耕雨読にも似た優雅な自適とも取れるのだが、心身の磨り減らしての、それがぎりぎりの創作持続の手立てであったに違いない。横書きには馴染まないのだが二三書き出してみたい。

自笑壷中大夢人  自ら笑う 壷中大夢の人と
雲寰縹緲忽忘神  雲寰縹緲 忽ち神を忘る
三竿旭日紅桃峡  三竿の旭日 紅桃の峡
一丈珊瑚碧海春  一丈の珊瑚 碧海の春  後半略(大正五年十一月十三日)

大愚難到志難成  大愚 到り難く 志 成り難し
五十春秋瞬息程  五十の春秋 瞬息程
観道無言只入静  道を観じて 言無く 只 静に入り
拈詩有句獨求清  詩を拈じて 句有り 独り清を求む
迢々天外去雲影  迢々天外 去雲の影
籟々風中落葉聲  籟々風中 落葉の声
忽見閑窓虚白上  忽ち見る 閑窓 虚白の上るを
東山月出半江明  東山 月出でて 半江明かなり (大正五年十一月十九日)

 最初のものは、「雲水」鬼村宛の書簡の三日後のものであり、現世のしがらみの埒外に居る二人を念頭に、「雲寰縹緲忽忘神」そうであったらどんなにかいいのになあと、そんな呟きとも読める。一時自らを慰めるための詩であり、この時ばかりは、連載の重圧から解放されている。

 「大愚難到志難成」あの若い「雲水」たちはといえば、詰まらぬ世俗の知恵などとは縁のない、大愚に既に成り果せて居るではないか。それに引き比べ、この自分はと言えば、「もう少し偉い人間になっていたい」と、志だけはあっても、いつになったら、そこにたどり着けるのか。そう思ってふり返ってみると、随分以前からいつでもそうは思っていたような気はするのだが、気付いてみれば「五十春秋瞬息程」今にして何も変わるところはない。こうなったらせめて詩の中に、一時その境地を求めて遊ぶに如くはない。

 江戸人にとって、最大の詩人は、芭蕉よりも茶山だったというような言い方もある。漢詩は、それほどに東アジア共通の教養として、最初からこの国に根付いていたのであり、俳諧以上に漢詩が幅広く愛好されていたことは事実であり、慶応三年生まれの漱石にとっても、その点変わるところはない。平仄のような煩瑣な約束事に従い、推敲を重ねることが、非日常の時間に没頭するには都合がよかったのかもしれない。最早漢詩を鑑賞するに足る教養を失った今、漱石が遊んだ境地には到底到り得ないにしても、繰り返し口に唱えてみると、漢字本来の響きのよさと対句の妙から、どうにかその一端を、垣間見ることくらいは出来そうな気がする。

眞蹤寂寞杳難尋  真蹤は寂寞 杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今  虚懐を抱かんと欲して 古今を歩む
碧水碧山何有我  碧水碧山 何ぞ我有らん
蓋天蓋地是無心  蓋天蓋地 是無心
依稀暮色月離草  依稀たり暮色 月 草を離れ
錯落秋聲風在林  錯落たる秋声 風 林に在り
眼耳雙忘身亦失  眼耳 双ながら忘れ 身 亦失っす
空中獨唱白雲吟  空中 独り唱す 白雲吟 (大正五年十一月二十日)

 本当の道は模糊として知りようがない。心を空しくしようと様々に尋ねてみた。気付いてみれば、何のことはない。山や川、そのどこに、私の持て余している心があるというのだ。天地全て無心のそのもの、あるがままではないか。黄昏時、暗い草の中から煌々と月が昇り、林の中では秋風が枯れ葉を鳴らしている。そんな眼前の光景さえ忘れ、この身のあることさえ忘れ、空中にただ一人雲に乗って漂い、悠然と詩を吟じるだけの自分でありたいものだ。

 大意を要約してみればこんなところであろうか。要約するまでもない。よく知られたお馴染みの世界ではないか。東アジアに共通の伝統の境地そのままではないか。同時期のものに、「耶に非ず 仏に非ず 又 儒に非ず 窮巷 文を売って 聊か自ら娯しむ」(大正五年十月六日)という一連もあるのだが、漱石の好きな蕪村の名を上げるまでもなく、そんな文人趣味が市井にあふれていたのが江戸時代であり、漱石は空想の中でそこに立ち帰っている。そうあれたらどんなにかいいのになあと、漱石のため息が聞こえてくる。

 上の漢詩を記した翌々二十二日、日課にしている『明暗』の原稿を前に、通し番号189を書いたところで漱石は力尽きる。以来病床に臥し、亡くなったのは十二月九日、その間、文字通りに白雲に漂うかのごとく、存分に詩を吟じることができたとしたなら、それが漱石にとっての、短くはあっても無上の余生であったに違いない。

 漱石が生きた人口増の右肩上がりの急成長は、そのまま戦後の二十世紀後半の高度成長に引き継がれ、死に至るまで働く過労死は珍しくもなくなる。そして、時代は、今人口増の成長から人口減の成熟へと、ごく分かり易い変化の最中に置かれている。参考になるのは、例えば、漱石であるなら、まだ一部その余慶を享受できた江戸人の生き方であり、ここ百何十年かの常識は全て捨てて掛かった方がよい。四つ上がりの八つ下がり、十時に出勤してお八つの時間には、早その日の仕事を終えてる、それでも社会は成り立つのであり、さして老いてもいない隠居が、大道を大手を振るって、世を睥睨していた。それが成熟社会の余裕であり、風格というものであろう。世には合掌を誘う尊いものが存在したのであり、人の生き死に関わる全ては尊いものであり続けた。諸々の悲惨、不条理もまた常のごとくにあったにしても。

 過日、テレビのドキュメンタリーで、かつてない長寿社会の下で、家はあっても病院から施設、次々にたらい回しされ、死に至るまで、ひたすら漂い続ける夥しい老人の群が映し出されていた。そこにはそれなりのビジネスもまた成り立つのだという。余生といえばこれも余生で、それがお前の明日の姿だと言われれば、そうであるのかもしれない。七人に一人は認知症を患うのだと言われれば、他人事で済むはずもない。先々どこまで行っても、世の悲惨と、不条理はなくなりそうもない。そうではあっても、いつの時代にも、その脇には、尊いものもまたごく控えめに寄り添っていた。それが今、ものの見事に抜け落ちている。結局のところ行政の手立てを待つしかないのだとすると、嘉すべき長寿社会の将来は、暗澹たるものでしかない。畢竟問われているのは、来るべき時代に相応しい死生観ではないのか。こればかりは一旦は伝統に回帰するしかない。行政や医療は何も応えてくれはしない。

 漱石について、殊更に私見を述べてみたいわけではない。デフレとはありがたいもので、手付かずの古本が嘘みたいに安く手に入る。何十年か前の全集を一括購入して、偶々冬籠もりの徒然に、端から端まで読み通しての感想なのだが、漱石の作品の何が傑作かと言えば、その生涯以上の傑作はない。淋しくも、尊い生涯であったと、これはその一端を記したにすぎない。(つづく)

峠越えれば(30) ピンコロ地蔵

2014-03-11 | 峠越えれば
 我が家から東南へ二十数キロ、古い町のど真ん中に坐されるお地蔵様は、今や全国区の人気で、大型バスが押し寄せ、門前町ができている。最近、家の近くの村外れでも、真新しい小振りのよく似たものを見掛けた。元々道祖神やら、馬頭観音やら何やらが、やたら目立つ地域なのだが、もう何年かすると、その脇にはどこもかしこも、その分身が据えられ、懇ろに祀られるのかもしれない。今の時代、延命地蔵や子安地蔵などより余程切実で、単純明快、名前の分かり易いところがよい。

 なにぶん、峠のこちら側、我が山国は名だたる長寿国で、健康寿命の長さを誇っており、お地蔵様の御利益の程も知れようと言うことで、仮に医療費を、ここでは当たり前の、そのレベルにまで抑えられれば、どれほどに財政負担に寄与するか。いざとなればやはり、神仏を頼むのが一番の近道なのかもしれない。

 ここでは、件のお地蔵様の坐される町の名前を冠した菜漬けが名物で、暮れに大きな桶に仕込み、専ら冬の間は、凍り付いた、歯に浸みる冷たいのを刻んで、熱いお茶を何杯でもお代わりして、炬燵で話に興じるのが伝統的な冬籠もりであった。よくあんなにお茶ばかり飲めたものと思うのだが、一つには、このお葉漬けが無類に塩辛かったからであろう。身体にしみ込んだ味の好みは、そうそう変えられるものではないのだが、そこが理屈大好きのこの国の真骨頂で、塩分過多が命を縮める、事の道理を不承不承ながらも受け入れ、農村医療の最先進地帯となったのはもう随分昔の話になる。ピンコロと伝統の味、二者択一に迫る知恵者がいたのかもしれない。

 変わらないものの代名詞みたいに、その旧弊ばかりが論われてきた農村なのだが、その懐は意外に深く、変化も余所者も、必要とあればいくらでも受け入れてきたし、今後ますますそうなるであろうことは間違いない。人口減の成熟社会においては、里山を残した田舎の方がはるかに余裕があり、峠の向こうには、今後に必要な変化を受け入れるだけの余裕が、既にして無くなっていると言い切っていいのかもしれない。 

 人口が頭打ちになる成熟社会は、既に一度経験している。戦国乱世から江戸時代初期、農民がしっかり地域に根を張り、新田を開発し、里山中心の農村が一定の安定をみたあたりで、それまで増加一辺倒(1600-1700年の人口増は2.3倍と推計されている)であった人口は、ほぼ三千万を維持し、気候変動その他、人為も加わり、若干の増減を繰り返しながら、安政の開国(1854年)に至る。この間の安定した成熟社会が、その恩恵として何をもたらしたか。一言で、それは文化の洗練であり、その裾野の拡大に尽きる。具体的には、全国一律、どの程度に読み書き能力が向上したかを考えてみれば十分で、この意味は計り知れない。

 思えば、江戸時代とは不思議な社会で、人口増に結びつく経済成長を、無理矢理に封じ込めてしまった、島国ならではの、ごくごく特異な例であったのかもしれない。同じ国内で為替相場が立ち、先物取引まで行われるほどの、先進的な資本主義と、伝統的な共同体原理の農本主義が、拮抗しながら微妙なバランスを保ち、二百数十年続いたのであり、実験として考えれば、これほど興味深い時代はない。火薬を用いた殺傷力の高い武器が、何千年来の刀槍に置き換えられ、心身の鍛練に使用を制限されたり、活字印刷に代えて、手彫りの木版刷りが異様な発達を遂げたり、大型船の建造や、幹線での車を使った移送が禁じられたり、技術革新の常識に反することが堂々とまかり通ったわけで、それでいて何一つ後退はしていない。

 彼のピンコロ地蔵を中央に、千曲川流域の盆地状の平地に点在する村々でも、蚊の頭ほどの仮名で、親切にルビが振らた、漢語交じりのあらゆる文献が、ごく当たり前に読まれ、謡や和歌俳句、書や立花を趣味とする者が珍しくもなかった。国学を通じて歴史や古代の文化に触れ、幕末期ともなれば、一端の志士気取りの農民も少なくなかった。これらの伝統、気風、蓄積は当然のこととして、今に引き継がれている。ここには、創業何百年の酒蔵が、何軒も今猶健在であり、その間盛衰はあっても家業として途絶えることはなかったのであり、顧客第一の少量生産は、大量生産大量消費の、成長最優先の大手に伍して現に生き抜いている。あるいは、江戸時代初めの開発者の名前を冠した新田の米が、その物語性もあって、今やブランドとして定着したりもしている。里山の文化は、有形無形の様々な蓄積の上に築かれており、後は野となれ山となれの、過去の蓄積を食い尽くすだけの、成長一辺倒とは、それが常に再生、持続可能な点において、ごく分かり易い対照をなしている。

 異質な二つの原理が相拮抗し、微妙なバランスの下にあった時代は、開国を期に、箍が外れたように、人口増の、成長が成長を呼ぶ、何事も金次第の世の中にあっという間に変貌を遂げる。分かり易いと言えば、これほど分かり易い世の中もないわけで、多くは文明の名の下に、解放された気分で、欲も野心もむき出しにして、急成長と国威の発揚に有頂天になり、新時代に適応するのに忙しく、かつて長い時間をかけて培った、実の所、金には置き換えられない価値の方が、世の中には多い事などはすっかり忘れてしまった違いない。

 そうではあるのだが、いつの時代にも生来の不器用から、そこで逡巡し、苦悩し、悪戦苦闘する者も少なくない。分かり易い例として、維新前年の生まれ、夏目金之助の場合を考えてみたい。幕府が瓦解すると共に、徳川家の家臣は、所領を400万石から70万石に削られ、江戸を追われ、一夜にして失職、窮乏化する。徳川恩顧の八百八町の名主達も同様に、窮迫の中に浮沈を繰り返すこととなる。金之助は、かつてであれば、泣く子も黙る町名主の家に、五男三女の末っ子として生を受ける。物心つく前に、子供のいない同じ名主層の養子となり、塩原を名乗るが、養父母の離婚により、塩原姓のまま七歳で生家に戻り、後に二十一歳の時、生家の事情で夏目に復籍する。この時、金之助の七歳までの養育費として240円が支払われている。

 生い立ちは複雑であっても、金之助の学業は順調であり、復籍の事情も、予定外の兄たちの急逝により、その将来に期待するものがあったからに違いない。養父の側にしてもその点は同じで、生家に戻った後も何かと目を掛け、その学業を支え続けていたらしい形跡がある。わざわざ養父と金之助の間で、復籍の後も互いに「不実不人情」のないようにしたいと、わざわざ一札を交わしている。支払われた幼年期の養育費以上のものが、そこに介在していたことは間違いない。

 復籍前の二十歳の頃、私塾で月給5円を得たのが金之助の最初の所得であり、学業成って先ず松山中学での、金之助二十八歳の月俸は80円、翌年、縁あって貴族院書記官長の娘鏡子との結婚が決まると、月俸100円で五高に転じる。鏡子の実家の、大きな官舎に、書生、女中三人ずつをも抱える、羽振りのよい暮らしとの釣り合い上、この位の月俸を必要としたとされる。

 金之助三十三歳、この年五高在籍のまま、二年間の留学を命じられてロンドンに行く。留学中の手当は年額1800円、留主手当は300円、ただし建艦費他が引かれ、実際の手取りは月額22円程になる。鏡子は東京に戻り、二人の子供と共に実家に身を寄せる。高級官吏といえども浮沈は激しく、金之助の留守家族を支えるに足る、結婚時程の資力は既に実家にはなく、夫婦共に、それぞれに生活は極度に窮迫する。

 留学を終えて帰朝した金之助は五高を退職して、大学から年俸800円、一高から年俸700円、併せて1500円、五高時代の1200円を上回るが、地方との物価の差を考えると、生活は楽ではない。私立大にも出講し、月給30円を得て不足を補う。年収は1860円となる。帰朝後の身分はいずれも講師であり、子供が増え成長して行く将来を考えれば、身分の安定と、更なる収入の増加を考えないわけにはいかない。

 たまたま雑誌に発表した小説の評判が良く、原稿一枚が1円に売れることを知ったのが、生活上の大きな転機となる。大学の教師が小説を書く珍しさもあって、その文名に目をつけた朝日新聞が、小説記者への転身を勧誘する。月200円は掛かる、生活上の要求を朝日が承諾したことで、入社を決断するが、月給200円の条件は、年に百回分ほどの長編二本の連載であり、これは尋常な転身ではない。捉えどころのない、不特定の読者の興味を、毎回一日一日繋ぎ止めなくてはならないのであり、途中で飽きられてしまえばそれまでのことで、金之助の尻を押した、生活の逼迫は、それ程に切実であったことになる。

 以来、死に至るまでの十年、この時四十歳の金之助は、四人に加えて、この先なお三人の子供をなし、書くほどに心身を病み、急速に老いて行く。雑誌に書いた頃の低回趣味は影をひそめ、一作ごとに語り口を改め、構成を練り、洗練を加え、同時代のある層の読者を、しっかり捉えて放さない手際は、天才の天才たる所以なのだが、創作のストレスが胃病を悪化させ、喀血を繰り返し、神経症の発作は、意味のない暴力となって家族に向けられる。その壮絶、悲惨は想像を超えている。

 それはさておき、金之助にとって金が如何なるものであるかについては、完成された作品としては最後の、死の前年の『道草』が参考になる。これは自伝でも告白でもない。留学を終えて帰朝した金之助が、大学に職を得て世間的には成功し、高給を得て、なお金に追われ、そこから何処へ向かおうとしたか。この時代にあって、金之助の立場が必ずしも特殊ではないことを、小説に仕立て、読者を納得させるには、やはり小説記者十年の熟練が必要であったのであり、最晩年にして漸く成るべくして成った作品というべきであろう。

 「遠い所から帰って来て」、年1500円で暮らす主人公の元に、零落した養父が二十年ぶりに現れ、古い証文をちらつかせて、扶養の義理を口説く。小説では、件の証文を100円で買い取ることで、決着をみたかに語られているのだが、それで片付くほど単純な話ではないことは、金之助にはよく分かっている。そもそも「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」のであり、証文を書いたり、金を遣り取りしても、済ませようのないのが世の中で、それを持て余しながらも、なお生きるしかない。そうではあっても、問題はこの100円に懸かっているのであり、逼迫する生活の中で、それをどう工面するかなのだが、思い余った小説の主人公はこうしたとする。

 ……健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働いた。恰もわが衛生を虐待するように、又己れの病気に敵討でもしたいように。彼は血に飢えた。しかも他を屠る事が出来ないので已むを得ず自分の血を啜って満足した。予定の枚数を書き了えた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。「ああ、ああ」彼は獣と同じような声を揚げた。……

 金之助はかくして職業小説家となったのであり、死後には、株券他の「30000円足らず」が残されたと、これは鏡子が語っている。

 100円といい、30000円といい、これを現在の金額に置き直してみたいのはやまやまなのだが、これは諦めた方がよい。生活の実態が、今ほどには標準化されていない以上、比較のしようがない。参考までに、明治末年の月収100円は、判事・警視・軍医といったあたりで、大工・石工・人力車夫・各種職人等の日給を、月収に直せば、ほぼ20円前後であり、消防夫・郵便配達・駅夫・日雇ともなると10円前後となる。

 金の価値も、その持つ意味も、身分立場それぞれに違いすぎるのであり、同じ人口増の成長期でも、戦後のそれは、金之助のような大卒サラリーマンが、例外的なエリートではなくなり、これも金之助のように、命を削って猛烈に働き、過労死に至る例も珍しくなくなり、その分、金の持つ意味は格段に標準化されている。

 金之助が生きた、慶応三年から大正五年の五十年間の人口増は1.49倍、戦後の二十世紀後半の五十年間のそれも1.53倍、典型的な右肩上がりの成長期であることは共通している。学校出のサラリーマンが主役の、猛烈な競争社会であることも共通する。一点異なるのは、金之助にはまだ、俳句、漢詩、絵画に遊ぶ、江戸以来の文人趣味、成熟社会の余慶が残されており、それが陰影となり、単純な猛烈には終わっていない。残されたそれを手掛かりに、金之助には許されなかった、その老後を、あえて空想してみたい。(つづく)

峠越えれば(29) 山の神

2014-03-02 | 峠越えれば
 家から直線で南へほぼ1キロ、千曲川の対岸に山の神が祀られている。石の社が据えられ、二百年程前の建立の日付が刻まれている。ご神体は河岸の切り立った、標高差百㍍を越える見事な岩壁であり、遠く迂回して上に登ってみれば、何のことはない、そこはただの台地なのだが、下から見上げる限りは山には相違ない。このところ毎年正月にはまずこの社に参拝する。東西どっちから向かっても橋を越え、片道3キロほどはあるのだが、間に遮るものもなく、我が家を見守るかに坐す以上、恐縮この上なく、年頭の義理くらいは欠かすわけにはいかない。少し離れた川岸には水神様も祀られていて、こっちの方は二百数十年前の、いまだに生々しい寛保の大水害の名残なのだが、山の神の由来については誰も知らない。知るまでもない。山や水を畏敬することなしに成り立つ人の暮らしなどかつてあり得なかったであろうし、これから先もそこだけは変わり様がない。

 里山をキーワードとする論調がここ数年、或いはここ十数年すっかり根付いてきたかに見受けられるのだが、当然の流れであり、3.11から間もなく早三年、これは必然であり、大歓迎である。あまりに身近にあり過ぎて、日常に紛れて、ついうかうかと、忘れられているのは何も里山に限らないのだが、それらは、それが、そこに在ることに気付いた、その瞬間既に人を動かし、影響を与え始めている。件の我が山の神も、そんな風にしてある日突然眼前に立ち現れたのであるが、これは里山と言い直した方が、今のこの時期分かりやすいかもしれない。

 つい先日、峠の向こうでは、降って湧いたような選挙が唐突に始まり、候補の一人は確かこう訴えていた。この国の人口は、数十年後には、戦後の高度成長前頃にまで減り、更に百年後には江戸の時代と大差ないまでに減るに至るであろうと。要するに、生産年齢人口の自然増を当て込んだ、過去百年の一切の常識は今より後通用しない、人口減の成熟社会には、それに相応しいエネルギー政策なり、福祉政策がなくてはならないと、舌足らずではあっても確かにそのように訴えていた。予想に反してなのか、予想通りになのか、大雪をついての選挙は投票率五十㌫を切って終わった。ひょっとして大化けするかもしれない期待を持った一人として、結果は残念ではあっても、臆せず正面切って、常識に挑んだ七十も半ばの元総理二人が、政治に一つの節目を刻んだことは間違いない。過ちを改めるに憚ることなかれと、そうも訴えていた。まさしくその通りで、いったん現役を退いてみさえすれば、政治に限らず、その世界の常識なるものが、いかに将来に禍根を残すかは容易に見て取れる。二人は忠実にそれを行動に移したまでで、余裕あるものの範としてよい。酔狂は当の本人が一番よく分かっている。

 百年で倍増した人口が、また百年で半減する。きれいに左右対称の波の形であり、こと人口に関しては、数十年単位でほぼ正確に将来が予測できる。同じ波ではあっても半年後、一年後さえ見通せない景気の予測などと混同してはならない。人口は出生数から死亡数を引くだけであり、どちらの数値もそうそうは変わりようがない。多少の変化があっても、世代交代を経て、その違いが数の上に反映されるには、それなりの年数が必要なわけで、人口動態ほどに正確に将来が見通されるデータというのは実のところ他にはない。総務省なり、社人研(国立社会保障人口問題研究所)のHPを一度覗いてみればよい。詳細なデータがいくらでも手に入る。それによれば、数年の躊躇の後、人口が明らかな減少に転じたのは2010年以降であり、選挙の話題に上るタイミングとしては、政治のセンスとしてそれ程悪くはない。

 産めよ殖やせよが貧困を背景にしたものであり、やがては生活の余裕から少産少死の人口減に転じるのは、社会・文化の成熟の指標であり、必然であり、それ自体何も問題はない。生産年齢人口の減少が、所得の増大といった量的な成長に結びつくことはありえず、仮にあったとしたら、実質を伴わないインフレのようなものでしかない。人口減の成熟は、既に充分な蓄積を前提にしたものであり、非生産の老齢人口の扶養に、それが活かされていないとしたなら、成熟に相応しい知恵が不足しているだけのことで、政治の未熟、貧困こそが問われてよい。一説に依れば、この国では平均一人あたり三千数百万円を使い残して死んでいくのだという。実際には、この金額は、当然あって然るべき年金からも見放された、多くを含んだ上での平均と言うことになると、相対的には恵まれた、これも平均的な高齢者については、実際にはこれをはるかに上回る額を使い残しているとみてよい。老齢に伴う健康上、その他諸々のの不安から、使いたくても使えないのであり、これは特権的な一部富裕層の話ではない。おれおれ詐欺といった奇態な悪意が世にはびこる背景はこれであり、寒々しい政治の貧困そのままではないのか。本来は我が老後の、我が為に残した金ではなかったのか。老後に備えてせっせと貯め込んでも、いざその時になれば、使いたくても使えない。豊かな老後のためには、最低でも、この位の蓄積がといった類の計算ばかりが、一人歩きしているだけで、誰しも自らの老後は、その時に至って自ら実感するまで、本当のところは知りようがない。老後は人生の集大成、豊かさの意味は千差万別、人それぞれであるにしても、金は、その額の多寡に関係なく、そのままでは老後を支えてはくれない。

 豊かな老後などと聞くと、一方では悠々自適、晴耕雨読などという、数千年来お馴染みの漢語を即座に連想するのだが、晴耕雨読には、実のところ金は必要としない。居直って、貧を甘んじて受け入れるのが晴耕雨読ではないのか。「ただ静かなるをのぞみとし、うれへなきを、楽しみとす。……もし、なすべきことあれば、すなわち、おのが身をつかふ……もし、歩くべきことあれば、みずからあゆむ、苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますには、しかず……つねに歩りき、つねにはたらくは、養生なるべし」。前回も引用した『方丈記』の一節なのだが、晴耕雨読の要諦はこれに尽きる。「馬・鞍・牛・車」の類の、スマホも車もテレビもカルチャーセンターも海外旅行も老後にはなくてよい、ない方がよいと、晴耕雨読の達人はそのように言っている。読書に必要なのは、老いてなお広く世間を知る好奇心と探求心であり、金ではない。金は「うれへ」の元であり、「養生」を怠る元でもある。

 老後に金は必ずしも必要がないとして、老後を支える上で、それに代わる、絶対に欠かせないものは何であろうか。土と水と食料・燃料さえ確保できれば人は生きられる。どれも金で買えないことはないが、買うまでもない。それらすべてを直に手に入れればよいだけのことで、それらすべては里山の中にある。それらすべてを過不足無く与えるに足る存在こそが、かつて里山と呼ばれていた。それほど昔の話ではない。せいぜい数十年前、戦後の高度成長前に遡って記憶の隅を掘り起こしてみれよい。当時農家の多くは、まだ台所の燃料を山から切り出し、水は各自の井戸から汲み上げていた。

 峠のこちら側、日本国ではない、我が山国の人口動態を確認しておきたい。ごく近い将来、現在は210万人ほどが、三十年後には167万人と予測されている。逆に遡ってみると、この人口規模に見合うのは昭和初期、実に九十年ほど前と言うことになる。三十年前の昭和から平成に変わる頃はというと、規模において現在とあまり変わるところがない。更に遡って七十年前、敗戦直後1945年も同じく210万人ほどであり、要するにこの間ほとんど横ばいのままといってよい。ということは、この間人口の自然増分はすべて国外に流失していたということであり、里山レベルで考えると、この国の人口200万はほぼ適正な規模とも言えるし、生産年齢人口の減少、高齢化による現在進行中の耕作放棄は、里山の機能回復上に欠かせない調整という言い方もできる。日本国はいざ知らず、この国に関する限りは、軸足を金から里山へ移し、IターンやUターンやらを大いに奨励し、流失した分を取り返しさえすれば、三十年後を悲観する理由などなにもない。

 峠の向こう、彼の地でよく誤解されるのだが、ここ山国の東部一帯は思いの外降水量が少ない土地柄で、もう何年も汗を流して雪掻きをしたことがない。先月二週続けて週末は大雪となった。珍しく所の話ではない。何十年ぶりかの記録的な大雪で、1㍍近く積もり、幹線でトラックが立ち往生し、物流は途切れ、通勤の車は動かず、スーパーもコンビニも食料品を売り尽くしてしまった。家の前の生活道路は、つい先日まで、凍り付いたまま通り抜きできないまま放置されていた。折悪しく灯油も底をつき始め、当座の間に合わせにポリタンク持参で買い出しに行こうと、雪の中から車を掘り出してみると、これまたバッテリが上がっている。幸いなことに最悪期は二三日でまた元に復したのだが、教訓様々で、こんなこともあり得る。悪いことばかりではないない。雪を掻いたり、立ち往生した車を救出したり、日頃ごく淡い付き合いも、この時ばかりは大いに協力し合い、隣人同士親近感を育む良い機会とはなった。運悪く途中何日も足止めに合い、無事帰還した長距離便の隣人には、雪掻きの礼に、四国産の大根二本を貰い、有り難いことこの上ない。早速大鍋におでんを仕込み、これだけでも何日かは籠城可能な気分になれた。いざとなれば、金は使えるかも怪しいし、安心ばかりは金では買えない。すべては人の繋がりに係っている。これはついこの間の3.11でも、かつての神戸の震災でも、当事者のみならず、誰もが学んだばかりではなかったか。

 何も竈と囲炉裏の時代に、また戻ればよいと言っているわけではない。金もないよりはあった方がよいに決まっている。ただ、成長の果てに、その上更なる成長はありえない。成長の果てにあるのは成熟のみであり、それは社会については、差し当たり人口減という形を取る外ない。もし金にも人格が備わり、意志があるとしたなら、更なる成長、増殖をどこまでも目指すというだけのことで、それをもって金の亡者と称し、あるべき人の姿ではない。

 成長とは所得の増加であり、国単位では国民所得ということになる。要するに会社の売り上げの中から、外から持ち込んだ諸々を差し引いた会社の儲けであり、具体的にはこれが、人件費である給与や投資や配当他に振り分けられており、その総和を国民所得と呼んでいる。人口増の下では、生産年齢人口の絶対数が増える以上、放っておいても売り上げは増え、国民所得は右肩上がりに成長する。厄介なことに国単位では生産者は同時に消費者であり、その絶対数が減少に転じ、売り上げが伸びない中で生き残りを懸け、人件費を抑えれば、いわゆる内需も減る。ますます売れなくなる。国内で売れない分を海外に売ろうとすると、これも厄介なことに国際競争ともなれば、途上国に追い上げられ、人件費は更に削るしかない。生産を人手に頼らないで、機械化して、生産性を上げたらどうか。車など物を造るのであれば、それでもよい。これも厄介なことに、既に生産の主流は物からサービスに移っており、最も所得に寄与しているのは第三次産業であり、そこで何が起こっているかと言えば、非正規の雇用ばかりが増え、質の向上は望むべくもない。需要はあっても、働き甲斐のない所には人が集まらない。既に役割の終えた大量生産、大量消費にこだわる限りは、どうにも動きが取れそうもない。これが失われた何年とか称され、政府がデフレ退治に躍起になっている、よく知られた今の姿に違いない。

 人口減という眼前の事実を直視しないことには、どうも何事も始まりそうもない。十年、二十年、三十年単位でものごとを考える、それが今ほど必要な時期はないのではないか。もっとも、それを国に期待しても、政治家に期待してもはじまらない。国や政治家を安易に頼まないというのが、人口減の成熟社会の本道であり、まっとうな生き方かもしれない。里山への回帰、里山を頼りとすることの中には、それもまた含まれているとしてよい(つづく)

水彩漫筆(13) 食用菊

2012-11-07 | 水彩漫筆

 食用菊を大量に貰った。一度には食べ切れないので、花瓶に入れ、必要なだけ花を毟って菊膾にし、三日で食べ尽くした。食用とはいえ、開き切ると結構大輪で見栄えもいい。食べるだけでは勿体ないので、花は苦手というか、描いたことがないのだが、敢えて挑戦してみた。やはり勝手が違う。陰影や遠近感にこだわると、肝腎の華やかさが消えてしまう。持て余している中に茎だけになってしまった。後は残像で誤魔化し、どうにか格好だけはつけたつもりなのだが、どことなく宙に浮いた、掴み所のないものになってしまった。花とはそんなものなのかもしれない。

 膾はといえば、これはもう最高で、しゃきしゃきした食感も、ほどよい苦みは申し分ない。食用の菊というと、黄色とばかり思い込んでいたのだが、これは見ての通りで、食卓に酒の隣に置いてみると何とも楽しい。山形辺では、何か以ての外の名がついていたような気がするが、それは忘れた。最近では、新潟経由でこの辺でも見掛けるようになった。よく見ると花弁の一つ一つが、開き切らない筒状のままで、多分そのため食感が独特なのであろう。花の色は正確には、酸水で茹で上げ、冷水で冷やした段階で、絵のような鮮やかなピンクになるが、咲いている時はもう少し紫がかったり、白っぽかったりする。花が如雨露状にやや俯いてしまうあたりが、観賞用には向かないのかもしれない。

 菊膾とくれば、これは日本酒以外はないわけで、飲み慣れた焼酎は置き、早速地元の蔵のものを用意した。偶然なのか、これが滅法よく合う。そしてもう一つ、菊膾とくれば、これはもうこの人しかないわけで、「東京をふるさととして菊膾」(鈴木真砂女)、俳句もまた肴になる。小体な店の片隅で、年季のいった女将に手早く誂えて貰った気分でちびちびやりながら、歳時記をめくっていると、こんな句に出合った。「君が代を拒んで一人菊膾」(蓮見徳郎) 作者については何も知らない。この君が代は歌だと思うのだが、真砂女の句がそうであるように、これもまた我が生涯をつらつら思い返しての感慨なのであろう。言外に語られない個の事情、痛切な思い、若しくはその継承があるのであり、それ以上の真実はない。個の事情を寄せ集め、織りなしたものが歴史であり、それ以上の真実はない。何かというとすぐに国だの民族だのを持ち出すのはどこか嘘っぽい。

水彩漫筆(12) 筆柿と団栗

2012-11-04 | 水彩漫筆

 筆柿に団栗を添えてみた。団栗は、隣の耕作放棄地に勝手に自生した櫟が、道に大量に散らせているのを拾ってきた。この辺だと、耕作放棄地にまず根を下ろすのはウルシ、ヌルデ、アカシアといったあたりで、厄介な嫌われものなのだが、くせのない無害な櫟は珍しい。耕作放棄地が全て櫟林の里山に戻るのなら、それはそれで結構なのだが、実際はなぜか嫌われものばかりがはびこり、真面目な耕作地を侵略する機を窺っている。

 柿に二種類、尖った柿と平べったい四角の柿、どちらかというと先の尖った、この筆柿のような柿の方が柿らしい。であるのだが、この辺では箱柿と称し、少数派であった四角い柿が今や全盛で、どんどん大形化し、糖度を増し、種無しも増え、店頭で客に媚びている。絵に添えた団栗と比べれば分かるように、筆柿がそれほど小粒というわけではない。富有柿のような柿が大き過ぎるのであり、筆柿よりは重さにして三倍、かつての林檎と同じほどのものが、一個いくらで売られていたりする。筆柿はといえば、十許りも入って一袋三百円ほど、大きさを除いては色形味全て優、どちらを買い得というべきか。

 筆柿は三河の一地方の特産で、隣国の信州にも流通しているだけで、両国以外ではあまり見掛けないかもしれない。蔕に接している実の部分に蔕に似たくびれがあり、この形がそれぞれなところがよい。くびれのはっきりしたものだけを選んで描いてみた。彼の地では通称ちんぽ柿、そういえば筆下ろしなどという下世話な言葉もある。絵の方は、まだ皮の剥けない餓鬼共が、仲間の一人を見張りに立て、よからぬ悪戯を企んでいるかの図に見える。年端の行かない団栗の洟垂れは、どうやらまだその仲間には入れてもらえないということなのだろう。

 「一景一句」でも、この「水彩漫筆」でも、柿については度々触れている。芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」がある。柿というと、まずこの句をいつも思い浮かべている。二番煎じの気味はあるのだが、柿の懐かしさは、芭蕉の頃と何ら変わるところがない。この里は、実は芭蕉の故郷、伊賀上野を指し、句自体は五十一歳の死の直前のものなのだが、そんな芭蕉個人の事情などはどうでもよいほどに、芭蕉はこの句を詠み切っている。人が変わろうが、時代が変わろうが、国が変わろうが、里があり、そこに人が住む家がある限りは、見渡せば、そこかしこ柿の木は必ずある。その景色が変わることはない。柿の実が赤く熟す季節がやってくる度に、その平凡な事実を見届け、誰もが安堵している(していたのにとも読んで欲しい)。

 時に我が家の柿はこの秋、あまりというか、ほとんど実をつけていない。周りを見ればどこも鈴生りで、不作の年に当たるわけではない。考えられる理由は一つだけで、年古りた柿の木の隣に、新たに苗木を一本植えたのがよくなかった。どこもそうなのだが、柿の木は、畑の隅、隣との境界ぎりぎりに植えられるのが常で、畑を少しでも広く使おうとすると当然そうなる。結果、隣への遠慮もあり、下枝はどんどん切られ、柿の木は上へ上へと背高に仕立てられることとなる。よほど長い竿がないと収穫できない。柿の木は脆いので木に登るのは怖い。結果、そうそうに収穫は諦め、後は椋鳥の出番となる。

 土地を持て余している今の時代、これは考えを改めるに如くはない。柿の木こそは畑の真ん中に、枝は地に垂れるほどに、それこそ尖った筆柿のようにではなく、平たく四角な富有柿のように、木を仕立てるべきであろうと、実際に富有柿の苗を植えたのだが、これがよくなかった。柿に限らないのだが、植物にも心がある。古りて、樹齢百年近い我が家の渋柿は、用済みと誤解し、どうやらすっかり臍を曲げてしまったというのが、事の真相らしい。