慶応三年二月生まれの漱石が亡くなったのは、大正五年十二月、節目の五十歳にはまだ二ヶ月残している。五男三女の末っ子に生まれた漱石は、自身がまた二男五女の親となる。漱石の死が、「猛烈に働いた」(『道草』)結果の、過労死のようなものであったことは前回に触れた。子沢山の家族の生活の安定のため、国に仕える官から、「新聞屋」たる一介の勤め人に転じ、がむしゃらに働き続けた生涯は、気付いてみれば時代の最先端を走っていたのであり、漱石自身が、時代に丸ごと絡め取られていたことになる。新聞小説というのは時代の鏡であり、小説の背後には、同様な環境に置かれた多数の名もなき人々が控えている。連載の一回一回が、その反応を確かめながらの、時代の精神を読み込む、手探りであったに相違ない。
未完のままに、漱石にとっては最後の作品となった『明暗』の連載が始まったのは大正五年五月、その連載中の十月、漱石の家に風変わりな二人連れが止宿する。二十歳そこそこの若い禅僧で、以前からの文通の縁で、東京見物がしたいと、神戸の寺から上京したのだという。一週間ほども、日頃の生活ぶりを互いに披瀝し合い、去って後、この鬼村、富沢を名乗る二人の礼状に、漱石が返信している。
……大して御世話もしないであんな丁寧な御礼をいわれては痛み入ます。しかしそれが縁になって修行大成の御発心に変化すれば私に取ってこれほど満足な事はありません。私は日本に一人の知識を拵えたようなものです。富沢さんもほぼあなたと同様の事をいって来ました。坊さん方の奇特な心掛は感心なものです。どうぞ今の志を翻さずに御奮励を祈ります。私は私相応に自分にあるだけの方針と心掛で道を修めるつもりです。気がついて見ると、すべて至らぬ事ばかりです。行往坐臥ともに虚偽で充ち充ちています。恥づかしい事です。この次御目にかかる時には、もう少し偉い人間になっていたいと思います。あなたは二十二、私は五十、歳は二十七ほど違います。しかし定力とか道力とかいふものは、坐ってゐるだけにあなたの方が沢山あります……(鬼村元成宛十一月十日)
二人の珍客の逗留は、漱石にとって余程印象的であったらしく、実際にその世話に当たった、鏡子の口を通して、こんな風にも語られている。
……実際こういう素朴な生活を見るにつけ夏目に思われるのは、自分の間近にひろがっている周囲の生活であったらしいのです。みんなそれぞれお出来になる世間なみには立派な方々ではありますが、どうも話がややこしい。誰がどうしたの彼がこうしたのと、年がら年中夏目の耳に聞こえて来るのは、大して愉快な話というものもなく尊いというところもありません。其上みんな神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい。つくづくそれとこれと比較をしたものと見えまして、この雲水さんたちが神戸へかへってからやった手紙に、貴方がたは私のところに集まって来る若い人達より余程尊い人達です、有難い人達です。私のところへ集まる人達も、私さえもっとえらければどうにかなるのだろうがなどと感じの一端を洩らして居りますが、余程そうした感慨は深かったものと見受けられます。……(『漱石の思ひ出』)
死後に整理してみると、この二人と遣り取りした手紙ばかりは、別に大切に仕舞われていたともあり、この出会いが、その生涯において、特別な意味を持ったものであったことは間違いないのだが、この時漱石には最早時間が残されていない。この率直極まる返信の一ヶ月後、宿痾の胃病で病み衰え、五十に満たない生涯を閉じることとなる。漱石にとってのみならず、若い二人の「雲水」にとっても、その出会いが、改めて発心を促す体のものであったとすると、想像するに、漱石はこの時既にその死を見据えた静謐を湛えており、かれらは、嗅覚鋭くそれに気付いていたということも考えられる。
それにしても、上の鏡子の話は面白い。毎週木曜、お馴染みの顔ぶれが集まり、飽きもせず漱石を囲んでワイワイやっているのだが、わけも分からず、毎回それを障子越し聞かされる鏡子にとってみれば、たまったものではない。「神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい」のが我が亭主であり、それに輪を掛けた同類ばかりが集まって、熱を吹き、亭主を焚きつけ、詰まるところその害を一身に引き受けてきたのは、他ならぬこの私だと、そう言いたいのかもしれない。最晩年の漱石の生涯を、飄然と横切って去った、浮世離れした二人の「雲水」は漱石のみならず、鏡子にとっても何事か救いであったのかもしれない。
「発心」と言い、「知識」と言い、「道を修める」と言い、人の世には「尊い」ものが存在すると言い、この時代には、こんな言葉が、まだ今ほどには忘れられていない事実は記憶されてよい。五十歳の漱石は、大真面目で「もう少し偉い人間になっていたい」と心底願ったのであり、そこに到り得ない自身を責め続けていた。言うまでもなく、漱石は、五十間近にして、ようやくそこまでたどり着いたのであり、書くことを職業とし、生活に追われながらも、ついにはそこまでたどり着いたのであり、初めからそこにいたわけではない。書くほどに彼我の距離を測り、それをわずかずつ埋めながら、ついにはそこにたどり着いた。
この時期、漱石は午前中に『明暗』連載一回分書き上げる毎に、それを自ら投函し、午後は専ら漢詩の推敲に当てていたらしい。それだけだと晴耕雨読にも似た優雅な自適とも取れるのだが、心身の磨り減らしての、それがぎりぎりの創作持続の手立てであったに違いない。横書きには馴染まないのだが二三書き出してみたい。
自笑壷中大夢人 自ら笑う 壷中大夢の人と
雲寰縹緲忽忘神 雲寰縹緲 忽ち神を忘る
三竿旭日紅桃峡 三竿の旭日 紅桃の峡
一丈珊瑚碧海春 一丈の珊瑚 碧海の春 後半略(大正五年十一月十三日)
大愚難到志難成 大愚 到り難く 志 成り難し
五十春秋瞬息程 五十の春秋 瞬息程
観道無言只入静 道を観じて 言無く 只 静に入り
拈詩有句獨求清 詩を拈じて 句有り 独り清を求む
迢々天外去雲影 迢々天外 去雲の影
籟々風中落葉聲 籟々風中 落葉の声
忽見閑窓虚白上 忽ち見る 閑窓 虚白の上るを
東山月出半江明 東山 月出でて 半江明かなり (大正五年十一月十九日)
最初のものは、「雲水」鬼村宛の書簡の三日後のものであり、現世のしがらみの埒外に居る二人を念頭に、「雲寰縹緲忽忘神」そうであったらどんなにかいいのになあと、そんな呟きとも読める。一時自らを慰めるための詩であり、この時ばかりは、連載の重圧から解放されている。
「大愚難到志難成」あの若い「雲水」たちはといえば、詰まらぬ世俗の知恵などとは縁のない、大愚に既に成り果せて居るではないか。それに引き比べ、この自分はと言えば、「もう少し偉い人間になっていたい」と、志だけはあっても、いつになったら、そこにたどり着けるのか。そう思ってふり返ってみると、随分以前からいつでもそうは思っていたような気はするのだが、気付いてみれば「五十春秋瞬息程」今にして何も変わるところはない。こうなったらせめて詩の中に、一時その境地を求めて遊ぶに如くはない。
江戸人にとって、最大の詩人は、芭蕉よりも茶山だったというような言い方もある。漢詩は、それほどに東アジア共通の教養として、最初からこの国に根付いていたのであり、俳諧以上に漢詩が幅広く愛好されていたことは事実であり、慶応三年生まれの漱石にとっても、その点変わるところはない。平仄のような煩瑣な約束事に従い、推敲を重ねることが、非日常の時間に没頭するには都合がよかったのかもしれない。最早漢詩を鑑賞するに足る教養を失った今、漱石が遊んだ境地には到底到り得ないにしても、繰り返し口に唱えてみると、漢字本来の響きのよさと対句の妙から、どうにかその一端を、垣間見ることくらいは出来そうな気がする。
眞蹤寂寞杳難尋 真蹤は寂寞 杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今 虚懐を抱かんと欲して 古今を歩む
碧水碧山何有我 碧水碧山 何ぞ我有らん
蓋天蓋地是無心 蓋天蓋地 是無心
依稀暮色月離草 依稀たり暮色 月 草を離れ
錯落秋聲風在林 錯落たる秋声 風 林に在り
眼耳雙忘身亦失 眼耳 双ながら忘れ 身 亦失っす
空中獨唱白雲吟 空中 独り唱す 白雲吟 (大正五年十一月二十日)
本当の道は模糊として知りようがない。心を空しくしようと様々に尋ねてみた。気付いてみれば、何のことはない。山や川、そのどこに、私の持て余している心があるというのだ。天地全て無心のそのもの、あるがままではないか。黄昏時、暗い草の中から煌々と月が昇り、林の中では秋風が枯れ葉を鳴らしている。そんな眼前の光景さえ忘れ、この身のあることさえ忘れ、空中にただ一人雲に乗って漂い、悠然と詩を吟じるだけの自分でありたいものだ。
大意を要約してみればこんなところであろうか。要約するまでもない。よく知られたお馴染みの世界ではないか。東アジアに共通の伝統の境地そのままではないか。同時期のものに、「耶に非ず 仏に非ず 又 儒に非ず 窮巷 文を売って 聊か自ら娯しむ」(大正五年十月六日)という一連もあるのだが、漱石の好きな蕪村の名を上げるまでもなく、そんな文人趣味が市井にあふれていたのが江戸時代であり、漱石は空想の中でそこに立ち帰っている。そうあれたらどんなにかいいのになあと、漱石のため息が聞こえてくる。
上の漢詩を記した翌々二十二日、日課にしている『明暗』の原稿を前に、通し番号189を書いたところで漱石は力尽きる。以来病床に臥し、亡くなったのは十二月九日、その間、文字通りに白雲に漂うかのごとく、存分に詩を吟じることができたとしたなら、それが漱石にとっての、短くはあっても無上の余生であったに違いない。
漱石が生きた人口増の右肩上がりの急成長は、そのまま戦後の二十世紀後半の高度成長に引き継がれ、死に至るまで働く過労死は珍しくもなくなる。そして、時代は、今人口増の成長から人口減の成熟へと、ごく分かり易い変化の最中に置かれている。参考になるのは、例えば、漱石であるなら、まだ一部その余慶を享受できた江戸人の生き方であり、ここ百何十年かの常識は全て捨てて掛かった方がよい。四つ上がりの八つ下がり、十時に出勤してお八つの時間には、早その日の仕事を終えてる、それでも社会は成り立つのであり、さして老いてもいない隠居が、大道を大手を振るって、世を睥睨していた。それが成熟社会の余裕であり、風格というものであろう。世には合掌を誘う尊いものが存在したのであり、人の生き死に関わる全ては尊いものであり続けた。諸々の悲惨、不条理もまた常のごとくにあったにしても。
過日、テレビのドキュメンタリーで、かつてない長寿社会の下で、家はあっても病院から施設、次々にたらい回しされ、死に至るまで、ひたすら漂い続ける夥しい老人の群が映し出されていた。そこにはそれなりのビジネスもまた成り立つのだという。余生といえばこれも余生で、それがお前の明日の姿だと言われれば、そうであるのかもしれない。七人に一人は認知症を患うのだと言われれば、他人事で済むはずもない。先々どこまで行っても、世の悲惨と、不条理はなくなりそうもない。そうではあっても、いつの時代にも、その脇には、尊いものもまたごく控えめに寄り添っていた。それが今、ものの見事に抜け落ちている。結局のところ行政の手立てを待つしかないのだとすると、嘉すべき長寿社会の将来は、暗澹たるものでしかない。畢竟問われているのは、来るべき時代に相応しい死生観ではないのか。こればかりは一旦は伝統に回帰するしかない。行政や医療は何も応えてくれはしない。
漱石について、殊更に私見を述べてみたいわけではない。デフレとはありがたいもので、手付かずの古本が嘘みたいに安く手に入る。何十年か前の全集を一括購入して、偶々冬籠もりの徒然に、端から端まで読み通しての感想なのだが、漱石の作品の何が傑作かと言えば、その生涯以上の傑作はない。淋しくも、尊い生涯であったと、これはその一端を記したにすぎない。(つづく)
未完のままに、漱石にとっては最後の作品となった『明暗』の連載が始まったのは大正五年五月、その連載中の十月、漱石の家に風変わりな二人連れが止宿する。二十歳そこそこの若い禅僧で、以前からの文通の縁で、東京見物がしたいと、神戸の寺から上京したのだという。一週間ほども、日頃の生活ぶりを互いに披瀝し合い、去って後、この鬼村、富沢を名乗る二人の礼状に、漱石が返信している。
……大して御世話もしないであんな丁寧な御礼をいわれては痛み入ます。しかしそれが縁になって修行大成の御発心に変化すれば私に取ってこれほど満足な事はありません。私は日本に一人の知識を拵えたようなものです。富沢さんもほぼあなたと同様の事をいって来ました。坊さん方の奇特な心掛は感心なものです。どうぞ今の志を翻さずに御奮励を祈ります。私は私相応に自分にあるだけの方針と心掛で道を修めるつもりです。気がついて見ると、すべて至らぬ事ばかりです。行往坐臥ともに虚偽で充ち充ちています。恥づかしい事です。この次御目にかかる時には、もう少し偉い人間になっていたいと思います。あなたは二十二、私は五十、歳は二十七ほど違います。しかし定力とか道力とかいふものは、坐ってゐるだけにあなたの方が沢山あります……(鬼村元成宛十一月十日)
二人の珍客の逗留は、漱石にとって余程印象的であったらしく、実際にその世話に当たった、鏡子の口を通して、こんな風にも語られている。
……実際こういう素朴な生活を見るにつけ夏目に思われるのは、自分の間近にひろがっている周囲の生活であったらしいのです。みんなそれぞれお出来になる世間なみには立派な方々ではありますが、どうも話がややこしい。誰がどうしたの彼がこうしたのと、年がら年中夏目の耳に聞こえて来るのは、大して愉快な話というものもなく尊いというところもありません。其上みんな神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい。つくづくそれとこれと比較をしたものと見えまして、この雲水さんたちが神戸へかへってからやった手紙に、貴方がたは私のところに集まって来る若い人達より余程尊い人達です、有難い人達です。私のところへ集まる人達も、私さえもっとえらければどうにかなるのだろうがなどと感じの一端を洩らして居りますが、余程そうした感慨は深かったものと見受けられます。……(『漱石の思ひ出』)
死後に整理してみると、この二人と遣り取りした手紙ばかりは、別に大切に仕舞われていたともあり、この出会いが、その生涯において、特別な意味を持ったものであったことは間違いないのだが、この時漱石には最早時間が残されていない。この率直極まる返信の一ヶ月後、宿痾の胃病で病み衰え、五十に満たない生涯を閉じることとなる。漱石にとってのみならず、若い二人の「雲水」にとっても、その出会いが、改めて発心を促す体のものであったとすると、想像するに、漱石はこの時既にその死を見据えた静謐を湛えており、かれらは、嗅覚鋭くそれに気付いていたということも考えられる。
それにしても、上の鏡子の話は面白い。毎週木曜、お馴染みの顔ぶれが集まり、飽きもせず漱石を囲んでワイワイやっているのだが、わけも分からず、毎回それを障子越し聞かされる鏡子にとってみれば、たまったものではない。「神経質でいらいらして、頭ばかりが発達して七面倒くさいこと夥しい」のが我が亭主であり、それに輪を掛けた同類ばかりが集まって、熱を吹き、亭主を焚きつけ、詰まるところその害を一身に引き受けてきたのは、他ならぬこの私だと、そう言いたいのかもしれない。最晩年の漱石の生涯を、飄然と横切って去った、浮世離れした二人の「雲水」は漱石のみならず、鏡子にとっても何事か救いであったのかもしれない。
「発心」と言い、「知識」と言い、「道を修める」と言い、人の世には「尊い」ものが存在すると言い、この時代には、こんな言葉が、まだ今ほどには忘れられていない事実は記憶されてよい。五十歳の漱石は、大真面目で「もう少し偉い人間になっていたい」と心底願ったのであり、そこに到り得ない自身を責め続けていた。言うまでもなく、漱石は、五十間近にして、ようやくそこまでたどり着いたのであり、書くことを職業とし、生活に追われながらも、ついにはそこまでたどり着いたのであり、初めからそこにいたわけではない。書くほどに彼我の距離を測り、それをわずかずつ埋めながら、ついにはそこにたどり着いた。
この時期、漱石は午前中に『明暗』連載一回分書き上げる毎に、それを自ら投函し、午後は専ら漢詩の推敲に当てていたらしい。それだけだと晴耕雨読にも似た優雅な自適とも取れるのだが、心身の磨り減らしての、それがぎりぎりの創作持続の手立てであったに違いない。横書きには馴染まないのだが二三書き出してみたい。
自笑壷中大夢人 自ら笑う 壷中大夢の人と
雲寰縹緲忽忘神 雲寰縹緲 忽ち神を忘る
三竿旭日紅桃峡 三竿の旭日 紅桃の峡
一丈珊瑚碧海春 一丈の珊瑚 碧海の春 後半略(大正五年十一月十三日)
大愚難到志難成 大愚 到り難く 志 成り難し
五十春秋瞬息程 五十の春秋 瞬息程
観道無言只入静 道を観じて 言無く 只 静に入り
拈詩有句獨求清 詩を拈じて 句有り 独り清を求む
迢々天外去雲影 迢々天外 去雲の影
籟々風中落葉聲 籟々風中 落葉の声
忽見閑窓虚白上 忽ち見る 閑窓 虚白の上るを
東山月出半江明 東山 月出でて 半江明かなり (大正五年十一月十九日)
最初のものは、「雲水」鬼村宛の書簡の三日後のものであり、現世のしがらみの埒外に居る二人を念頭に、「雲寰縹緲忽忘神」そうであったらどんなにかいいのになあと、そんな呟きとも読める。一時自らを慰めるための詩であり、この時ばかりは、連載の重圧から解放されている。
「大愚難到志難成」あの若い「雲水」たちはといえば、詰まらぬ世俗の知恵などとは縁のない、大愚に既に成り果せて居るではないか。それに引き比べ、この自分はと言えば、「もう少し偉い人間になっていたい」と、志だけはあっても、いつになったら、そこにたどり着けるのか。そう思ってふり返ってみると、随分以前からいつでもそうは思っていたような気はするのだが、気付いてみれば「五十春秋瞬息程」今にして何も変わるところはない。こうなったらせめて詩の中に、一時その境地を求めて遊ぶに如くはない。
江戸人にとって、最大の詩人は、芭蕉よりも茶山だったというような言い方もある。漢詩は、それほどに東アジア共通の教養として、最初からこの国に根付いていたのであり、俳諧以上に漢詩が幅広く愛好されていたことは事実であり、慶応三年生まれの漱石にとっても、その点変わるところはない。平仄のような煩瑣な約束事に従い、推敲を重ねることが、非日常の時間に没頭するには都合がよかったのかもしれない。最早漢詩を鑑賞するに足る教養を失った今、漱石が遊んだ境地には到底到り得ないにしても、繰り返し口に唱えてみると、漢字本来の響きのよさと対句の妙から、どうにかその一端を、垣間見ることくらいは出来そうな気がする。
眞蹤寂寞杳難尋 真蹤は寂寞 杳として尋ね難し
欲抱虚懐歩古今 虚懐を抱かんと欲して 古今を歩む
碧水碧山何有我 碧水碧山 何ぞ我有らん
蓋天蓋地是無心 蓋天蓋地 是無心
依稀暮色月離草 依稀たり暮色 月 草を離れ
錯落秋聲風在林 錯落たる秋声 風 林に在り
眼耳雙忘身亦失 眼耳 双ながら忘れ 身 亦失っす
空中獨唱白雲吟 空中 独り唱す 白雲吟 (大正五年十一月二十日)
本当の道は模糊として知りようがない。心を空しくしようと様々に尋ねてみた。気付いてみれば、何のことはない。山や川、そのどこに、私の持て余している心があるというのだ。天地全て無心のそのもの、あるがままではないか。黄昏時、暗い草の中から煌々と月が昇り、林の中では秋風が枯れ葉を鳴らしている。そんな眼前の光景さえ忘れ、この身のあることさえ忘れ、空中にただ一人雲に乗って漂い、悠然と詩を吟じるだけの自分でありたいものだ。
大意を要約してみればこんなところであろうか。要約するまでもない。よく知られたお馴染みの世界ではないか。東アジアに共通の伝統の境地そのままではないか。同時期のものに、「耶に非ず 仏に非ず 又 儒に非ず 窮巷 文を売って 聊か自ら娯しむ」(大正五年十月六日)という一連もあるのだが、漱石の好きな蕪村の名を上げるまでもなく、そんな文人趣味が市井にあふれていたのが江戸時代であり、漱石は空想の中でそこに立ち帰っている。そうあれたらどんなにかいいのになあと、漱石のため息が聞こえてくる。
上の漢詩を記した翌々二十二日、日課にしている『明暗』の原稿を前に、通し番号189を書いたところで漱石は力尽きる。以来病床に臥し、亡くなったのは十二月九日、その間、文字通りに白雲に漂うかのごとく、存分に詩を吟じることができたとしたなら、それが漱石にとっての、短くはあっても無上の余生であったに違いない。
漱石が生きた人口増の右肩上がりの急成長は、そのまま戦後の二十世紀後半の高度成長に引き継がれ、死に至るまで働く過労死は珍しくもなくなる。そして、時代は、今人口増の成長から人口減の成熟へと、ごく分かり易い変化の最中に置かれている。参考になるのは、例えば、漱石であるなら、まだ一部その余慶を享受できた江戸人の生き方であり、ここ百何十年かの常識は全て捨てて掛かった方がよい。四つ上がりの八つ下がり、十時に出勤してお八つの時間には、早その日の仕事を終えてる、それでも社会は成り立つのであり、さして老いてもいない隠居が、大道を大手を振るって、世を睥睨していた。それが成熟社会の余裕であり、風格というものであろう。世には合掌を誘う尊いものが存在したのであり、人の生き死に関わる全ては尊いものであり続けた。諸々の悲惨、不条理もまた常のごとくにあったにしても。
過日、テレビのドキュメンタリーで、かつてない長寿社会の下で、家はあっても病院から施設、次々にたらい回しされ、死に至るまで、ひたすら漂い続ける夥しい老人の群が映し出されていた。そこにはそれなりのビジネスもまた成り立つのだという。余生といえばこれも余生で、それがお前の明日の姿だと言われれば、そうであるのかもしれない。七人に一人は認知症を患うのだと言われれば、他人事で済むはずもない。先々どこまで行っても、世の悲惨と、不条理はなくなりそうもない。そうではあっても、いつの時代にも、その脇には、尊いものもまたごく控えめに寄り添っていた。それが今、ものの見事に抜け落ちている。結局のところ行政の手立てを待つしかないのだとすると、嘉すべき長寿社会の将来は、暗澹たるものでしかない。畢竟問われているのは、来るべき時代に相応しい死生観ではないのか。こればかりは一旦は伝統に回帰するしかない。行政や医療は何も応えてくれはしない。
漱石について、殊更に私見を述べてみたいわけではない。デフレとはありがたいもので、手付かずの古本が嘘みたいに安く手に入る。何十年か前の全集を一括購入して、偶々冬籠もりの徒然に、端から端まで読み通しての感想なのだが、漱石の作品の何が傑作かと言えば、その生涯以上の傑作はない。淋しくも、尊い生涯であったと、これはその一端を記したにすぎない。(つづく)