my life still goes on 2024

コツコツと60代を突き進んでおります

K君のこと

2020-09-02 23:12:08 | あの日、あの時、あの場所で

突然ですが、古い友人“だった”K君のことを書きます。

なぜK君はあんなにも父親のことが嫌いだったんだろう。

K君。
中学2年、3年と同じクラスで、
お互いの家で遊んだりしていましたが、
ごく普通のご自宅で自分の広い部屋もあり、
エレキギターなんかも持っていて、
ワタシには少しうらやましい家庭環境にも思えたものです。
まあ、彼の影響でワタシはギターを買ったようなものです。
そして彼自身、おもしろいヤツでもあったのは事実です。

その後、高校まで同じ学校に進学しました。
ただ、仲が良かったと言えばそうなんですが
同じ高校にまで行きたいほどの仲か、というとそうでもなく、
もちろん同じ高校に行こうぜ、と相談をしたわけでもなく、
彼は父親の勧める全寮制の学校の受験をするようでした。

ワタシは都立高の受験を決めていて、
それも担任の先生が
「腕試しにランクの高い私立を受けるのはいいが、
 お前が合格した場合には、誰かが落ちるんだぞ」と諭されたり
「お前なら都立一本で大丈夫」とおだてられた(?)こともあり
の都立高受験だったのです。

でもK君は違いました。
家庭内のことは多く話してくれませんでしたが、
全寮制がイヤだったのか、父親への反発だったのか、
「daikiと同じところに行くわ」
と、そこそこ成績が良かったはずなのに
「全寮制の試験では全部テキトーに答えを書いてきた」と
故意なのかどうか、とにかくその高校を不合格になり、
ワタシと同じ高校へ進学したのでした。

入学当初は、通学も時間を合わせたりしましたが、
違うクラスになると、それぞれの友達や時間ができるので、
校内で顔を合わせれば「おう!」くらいはあるものの、
だんだんと疎遠になっていきました。

K君は中学時代にはそんな素振りも見せませんでしたし、
家庭に原因があったのかも推測でしかないのですが、
高校入学後にキレやすくなってきた気がします。
前述のようにツルむこともなくなってきたのに
何かのときに「なんだよぉ、中学からの友達だろッ!」
と絡んできたりもあったように覚えています。
ワタシがフォークソング同好会(テニス部と兼部)で、
文化祭のコンサートに出ると言うと
「生意気だよッ!」と半ギレの状態になったり。
それまでフツーに会話していたのに、ですよ?

そして一年生の終わりころから、彼は悪くなっていきました。
暴走族とのつきあい、校内での喫煙、ペシャンコのカバン、
髪の毛はパーマ&リーゼント、スカートの長い女子たちとのサボり…。
二年、三年と彼とは同じクラスになったのですが、
ただそんなツッパリたちも、暴れるということではなく、
授業中は意外に普通にしていました。
休み時間には教室の後ろでディスコミュージックをかけて
踊りまくっていましたけどね。

さて、そんなK君ですが、実は卒業後の進路はまったく知りません。
進学したとも聞かなかったし、まともに就職したとも、
ホントにまったく見当つきません。


ただ、卒業から3年か4年経った頃、
突然訃報の連絡があったのです。
ワタシはフォークソングを一緒にやっていた高校時代の友人と
告別式に参列して焼香してきました。
事情をツッパリ仲間に聞くと、
「工事現場の警備の仕事をしていてダンプにひかれた」
と、事故の状況とK君がどんな状態だったかも含め
教えてくれました。

ワタシの知る中学時代のおもしろいK君は過去のもので、
K君とのつきあいもまったくなかったので、
年取った今のように、感慨深くなるようなこともなく、
「そっか、死んじゃったか」
というのが正直なところでした。

その後、何回か参加したクラス会では、
「Kのところ、お父さんも自殺しちゃったんだ」
などという話も聞きました。

もちろんお父さんの自殺の真相などは知る由もありません。
でも、息子との確執があって、息子を早くに失くして…
などと、あらぬ想像をしがちです。


K君の22、3年の人生。
そのうちのほんの2、3年しか友達ではなかった。
今だって、天国にいるK君に心の中で話しかけることすら、ない。

でも、そのほんの一時期は友達だったからね、
誕生日、覚えているんだよ。9月2日だったろ?
無難に生きて60歳になっていたとしたら、
どんな人間になっていたんだろうな。
どんな人生を送れていたんだろうな。

今年は同級生がみな60歳になる年です。
ワタシは大トリともいえる3月末ですけど(^^;)
頑張っていそうな友人たちと同時に
K君のこともふと思い出したのでした。

圭志(ケーシ)、生きてれば還暦だな、おめでとう。


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