希薄な罪の意識 2園児刺殺 (産経新聞) - goo ニュース
鄭容疑者 謝罪の言葉もなく
滋賀県長浜市で幼稚園児二人が殺害された事件で、殺人の疑いで逮捕された主婦、鄭永善容疑者(34)の長女(5つ)が事件前日、ほかの園児と遊ぶ約束をしたものの、相手の都合でキャンセルされていたことが二十日、分かった。鄭容疑者は調べに対し「以前から娘が仲間外れにされていると感じていた」と供述しており、長浜署捜査本部は鄭容疑者が長女の交友関係をめぐって被害妄想的な感情を募らせたとみて、動機の全容解明を急いでいる。
調べなどでは、鄭容疑者は長女が市立神照幼稚園に入園後、園に長女の様子を見に行ったり、「娘が周りにいじめられていないか」などと園に相談するなど、長女と友達との関係を異常に気にかけていた。
また、犯行前日の十六日、鄭容疑者の長女が同じ年中組の園児と幼稚園で遊ぶ約束をしたが、帰宅後、相手の園児が家庭の都合で遊べなくなったため、翌十七日午後に変更された。この園児や殺害された女児と長女は仲がよく、時々遊ぶ約束をしていたという。
鄭容疑者はこれまでの調べに対し「娘のことでずっと悩んでいた」と供述。一方、殺害された二人らグループ送迎で一緒だった園児三人に対しては「特別な憎しみはなかった」と話しており、捜査本部は鄭容疑者が些細(ささい)な出来事から、一方的に周囲への嫌悪感を募らせたとみている。
鄭容疑者は調べに対し当初から容疑は認めている。しかし、大津地検に送検される前日の十八日には、捜査員から顔を覆うジャンパーが必要かと尋ねられ、「何でかける必要があるの」と反発。取り調べでは罪悪感に欠ける面もみられ、殺害した園児らへの謝罪の言葉もいまだないという。
供述も一定しない部分やあいまいさが出ており、捜査本部は動機面を中心に慎重に調べている。
≪「天国でも仲よく」告別式≫
「若奈ちゃん、迅ちゃん、天国で仲よく二人で遊んでね」-。滋賀県長浜市の園児殺害事件で亡くなった同市新庄寺町の武友若奈ちゃん(5つ)と佐野迅ちゃん(5つ)の葬儀・告別式が二十日、同市小堀町の斎場で営まれ、親族や市立神照幼稚園の同級生ら約五百人が最後の別れを告げた。
午前十時の開始を前に喪服姿の参列者が続々と集まり、泣き崩れながら歩く女性の姿もあった。この日は幼稚園が臨時休園となり、園児約四十人も保護者に付き添われて斎場に入った。
参列した人によると、告別式では迅ちゃんの父の正和さん(33)が「短い人生でしたが、みなさまに温かく見守ってもらい幸せでした」、若奈ちゃんの父の利光さん(29)が「若奈は元気な子でした。若い別れはとても残念ですが見送られて喜んでいると思います」と、それぞれ涙をこらえながら謝辞を述べたという。
参列者らは一様に沈痛な表情で、わずか五年で生涯を閉じた二人の冥福を祈った。出棺では二人の棺が両家の霊柩(れいきゆう)車に乗せられ、参列者が見守る中を出発した。
男児の一人は「バイバイ、元気でね」と声をかけたという。同級生の女児を連れた母親は「娘が『天国でも二人で遊べたらいいね』と話すのを聞いて、涙が止まりませんでした」。別の男児の母親は「きょうが最後のお別れだよ、と言いましたが、(二人の死を理解できているか)半々ぐらいですね」と話した。
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この事件では容疑者が周りに溶け込めないことから被害妄想的な感情を募らせて犯行に及んだと言われている。
こうなると中国出身の容疑者を周りが受け入れなかったから・・・とか言い出す人もいるし、この前のペルー人の事件も受け入れる日本人側に差別的な問題があったのではないかという人もいた。
実際、日本語があまり上手ではなかったと言われているし、周りとのコミュニケーションがあまりうまく取れず、そのことが今回の事件の一因になったのかもしれない。
だが、容疑者が「娘が周りにいじめられていないか」などと園に相談するほどの会話ができるのであれば周りとの意思疎通が不可能なわけではないだろう。実際、他人の子供を幼稚園に連れてくることができるくらいなのだから。
容疑者が孤立しているのであればそれを打開するために周りと交流することは不可能だったのだろうか。自ら閉じこもって孤立していては周りと交流することはできない。
こういうと冷たい人間と思われるかもしれない。中国から一人できて不安なのだから周りがサポートしないと・・・と言われるかもしれない。確かに、受け入れる側に先入観による差別的な感情があれば問題だし、困っていれば助けるのは必要なことだと思う。彼女の場合も一旦中国でリフレッシュさせたりなどしたらよかったのかもとも思う。
だが、新しい場所にきてそこに溶け込もうとするのであれば溶け込もうとする努力をまずしなくては誰も受け入れてはくれない。これは日本人であろうと同じだ。例えば会社に入ったとき、なにもかも会社が手取り足取り教えて完璧なサポートをしてくれるようなところなどない。たとえいろいろサポートしてくれるとしても仕事を覚え、働くのは結局は自分自身である。
新たな場所に根を下ろし、周りに認めてもらうには自分自身が努力するしかないのである。周りの世話になってばかりなのはあくまで「お客さん」に過ぎない。「お客さん」であれば別になにかの努力をする必要もないし、認めてもらう必要もない。だがそこに定住し溶け込み「お客さん」を受け入れる側の立場になるには、受け入れる側に「この人はこちらの立場の人なんやな」と認めてもらう必要がある。そのためにはその努力が必要だ。
それはとても大変なことだ。決して簡単なことではない。だから新たな場所で暮らすってことは大変なのだ。周りのことなど気にせず、ただ単に寝るだけで、気に入らなければ引越して・・・であれば気軽で悩むこともないが、その地域社会に受け入れられることはない。地域社会の一員となるのであればその一員としての責任が生じてくる。それを負わずに受け入れろと言うのは無茶としかいえない。
二人の子供を殺害し、謝罪の言葉もない容疑者が地域社会に受け入れられる努力をしていたとは思えない。
この事件でもう一つ気になったこと。京都で幼い少女に猥褻行為を働いた在日韓国人の宗教家を通名のみで本名を報道しなかった朝日新聞がこの容疑者は本名を報道したこと。その差は何故。
鄭容疑者 謝罪の言葉もなく
滋賀県長浜市で幼稚園児二人が殺害された事件で、殺人の疑いで逮捕された主婦、鄭永善容疑者(34)の長女(5つ)が事件前日、ほかの園児と遊ぶ約束をしたものの、相手の都合でキャンセルされていたことが二十日、分かった。鄭容疑者は調べに対し「以前から娘が仲間外れにされていると感じていた」と供述しており、長浜署捜査本部は鄭容疑者が長女の交友関係をめぐって被害妄想的な感情を募らせたとみて、動機の全容解明を急いでいる。
調べなどでは、鄭容疑者は長女が市立神照幼稚園に入園後、園に長女の様子を見に行ったり、「娘が周りにいじめられていないか」などと園に相談するなど、長女と友達との関係を異常に気にかけていた。
また、犯行前日の十六日、鄭容疑者の長女が同じ年中組の園児と幼稚園で遊ぶ約束をしたが、帰宅後、相手の園児が家庭の都合で遊べなくなったため、翌十七日午後に変更された。この園児や殺害された女児と長女は仲がよく、時々遊ぶ約束をしていたという。
鄭容疑者はこれまでの調べに対し「娘のことでずっと悩んでいた」と供述。一方、殺害された二人らグループ送迎で一緒だった園児三人に対しては「特別な憎しみはなかった」と話しており、捜査本部は鄭容疑者が些細(ささい)な出来事から、一方的に周囲への嫌悪感を募らせたとみている。
鄭容疑者は調べに対し当初から容疑は認めている。しかし、大津地検に送検される前日の十八日には、捜査員から顔を覆うジャンパーが必要かと尋ねられ、「何でかける必要があるの」と反発。取り調べでは罪悪感に欠ける面もみられ、殺害した園児らへの謝罪の言葉もいまだないという。
供述も一定しない部分やあいまいさが出ており、捜査本部は動機面を中心に慎重に調べている。
≪「天国でも仲よく」告別式≫
「若奈ちゃん、迅ちゃん、天国で仲よく二人で遊んでね」-。滋賀県長浜市の園児殺害事件で亡くなった同市新庄寺町の武友若奈ちゃん(5つ)と佐野迅ちゃん(5つ)の葬儀・告別式が二十日、同市小堀町の斎場で営まれ、親族や市立神照幼稚園の同級生ら約五百人が最後の別れを告げた。
午前十時の開始を前に喪服姿の参列者が続々と集まり、泣き崩れながら歩く女性の姿もあった。この日は幼稚園が臨時休園となり、園児約四十人も保護者に付き添われて斎場に入った。
参列した人によると、告別式では迅ちゃんの父の正和さん(33)が「短い人生でしたが、みなさまに温かく見守ってもらい幸せでした」、若奈ちゃんの父の利光さん(29)が「若奈は元気な子でした。若い別れはとても残念ですが見送られて喜んでいると思います」と、それぞれ涙をこらえながら謝辞を述べたという。
参列者らは一様に沈痛な表情で、わずか五年で生涯を閉じた二人の冥福を祈った。出棺では二人の棺が両家の霊柩(れいきゆう)車に乗せられ、参列者が見守る中を出発した。
男児の一人は「バイバイ、元気でね」と声をかけたという。同級生の女児を連れた母親は「娘が『天国でも二人で遊べたらいいね』と話すのを聞いて、涙が止まりませんでした」。別の男児の母親は「きょうが最後のお別れだよ、と言いましたが、(二人の死を理解できているか)半々ぐらいですね」と話した。
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この事件では容疑者が周りに溶け込めないことから被害妄想的な感情を募らせて犯行に及んだと言われている。
こうなると中国出身の容疑者を周りが受け入れなかったから・・・とか言い出す人もいるし、この前のペルー人の事件も受け入れる日本人側に差別的な問題があったのではないかという人もいた。
実際、日本語があまり上手ではなかったと言われているし、周りとのコミュニケーションがあまりうまく取れず、そのことが今回の事件の一因になったのかもしれない。
だが、容疑者が「娘が周りにいじめられていないか」などと園に相談するほどの会話ができるのであれば周りとの意思疎通が不可能なわけではないだろう。実際、他人の子供を幼稚園に連れてくることができるくらいなのだから。
容疑者が孤立しているのであればそれを打開するために周りと交流することは不可能だったのだろうか。自ら閉じこもって孤立していては周りと交流することはできない。
こういうと冷たい人間と思われるかもしれない。中国から一人できて不安なのだから周りがサポートしないと・・・と言われるかもしれない。確かに、受け入れる側に先入観による差別的な感情があれば問題だし、困っていれば助けるのは必要なことだと思う。彼女の場合も一旦中国でリフレッシュさせたりなどしたらよかったのかもとも思う。
だが、新しい場所にきてそこに溶け込もうとするのであれば溶け込もうとする努力をまずしなくては誰も受け入れてはくれない。これは日本人であろうと同じだ。例えば会社に入ったとき、なにもかも会社が手取り足取り教えて完璧なサポートをしてくれるようなところなどない。たとえいろいろサポートしてくれるとしても仕事を覚え、働くのは結局は自分自身である。
新たな場所に根を下ろし、周りに認めてもらうには自分自身が努力するしかないのである。周りの世話になってばかりなのはあくまで「お客さん」に過ぎない。「お客さん」であれば別になにかの努力をする必要もないし、認めてもらう必要もない。だがそこに定住し溶け込み「お客さん」を受け入れる側の立場になるには、受け入れる側に「この人はこちらの立場の人なんやな」と認めてもらう必要がある。そのためにはその努力が必要だ。
それはとても大変なことだ。決して簡単なことではない。だから新たな場所で暮らすってことは大変なのだ。周りのことなど気にせず、ただ単に寝るだけで、気に入らなければ引越して・・・であれば気軽で悩むこともないが、その地域社会に受け入れられることはない。地域社会の一員となるのであればその一員としての責任が生じてくる。それを負わずに受け入れろと言うのは無茶としかいえない。
二人の子供を殺害し、謝罪の言葉もない容疑者が地域社会に受け入れられる努力をしていたとは思えない。
この事件でもう一つ気になったこと。京都で幼い少女に猥褻行為を働いた在日韓国人の宗教家を通名のみで本名を報道しなかった朝日新聞がこの容疑者は本名を報道したこと。その差は何故。