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軍艦「甲鉄」始末

2016年10月21日 | 
軍艦「甲鉄」始末

薩長率いる新政府軍が一番恐れたのは海軍力の差でした。幕府には榎本武揚率いる開陽、回天、幡竜があった。特に開陽は幕府がオランダに発注した当時最新鋭の木造軍艦であった。榎本は留学先のオランダからこの開陽に乗って日本へ帰国。鳥羽伏見の戦いが始まる少し前の事であった。やがて薩長率いる新政府軍と幕府軍が武力衝突。軍艦を⒓隻保有している幕府海軍だったが、陸の鳥羽伏見では惨敗。江戸に迫る新政府軍はこの恐怖を払拭すべく榎本に幕府艦隊の引き渡しを迫った…。
 しかし、榎本の頭の中には一抹の不安が。アメリカに発注し日本へ届いている軍艦がまだ幕府にも薩長にも渡っていない。この軍艦が薩長に渡ってしまったら海軍力の差など簡単に追い抜かれてしまう。そう、その軍艦は甲鉄で覆われていて幕府海軍の砲撃を跳ね返してしまう防御力と看艦首に鋭い形状の衝角を持ち最新鋭のアームストロング砲とガトリング砲を搭載していた。しかもアメリカ南北戦争で使用された実績のある軍艦だった。

黒船
嘉永六年(1853)アメリカ東インド艦隊率いるマシュー・ペリ―が江戸湾入口の浦賀沖に来航した事はあまりにも有名だ。この時の「黒船」とはペリーが座乗していたハナサスケ号以下3隻も船体が黒く塗られていたため黒船と呼ばれた。
 黒船というと、大型の蒸気帆船を想像してしまう。ペリーが乗っていたハナサスケはこの大型蒸気帆船フルゲート鑑、全長78メートルで砲9門搭載。
他の船も比較してみますと、ミシシッピ・大型蒸気帆船フリゲート艦、全長68メートル砲12門搭載。
 プリマス・小型帆船スループ砲鑑、全長44メートル砲22門搭載。サガトラ・小型帆船スループ砲艦全長45メートル砲22門搭載。
スループ鑑とは1本マストの帆船の事。それに対してハナサスケとミシシッピは蒸気機関2基を持つ鉄張りの外輪鑑に対してプリマスとサガトラは煙突を備えていない小型補助艦であったが、初めて蒸気帆船の集団を見た日本人は4隻とも大型蒸気帆船に見えたのだろう。
実は日米和親条約の調印をするために2回目の来日をするペリーが座乗していたのはポーハタンフリゲート艦。ハナサスケと同じような要目であった。幕府は欧米列強がこんなにも大きな軍艦をいくつも保有している事に驚いたが幕府が自前で軍艦を作る技術を持ち合わせていなかったため、時の老中阿部正弘はオランダへ軍艦購入を決意した。(オランダとは貿易を行っていたため)オランダとしては日本に老朽化した軍艦を日本に売りつけて荒稼ぎを計画したようだが、開国に踏み切った日本は横浜:下田:函館などを開港したため、諸外国の船が入るようになり、イギリス、フランス、ロシアと競合関係になったためオランダは新型軍艦を建造する運びになった。この時の新造戦艦が開陽である。
結局のところ、アメリカ政府は明治新政府を日本の正式な政府と認め、薩長に軍艦「甲鉄」を引き渡してしまう。榎本率いる幕府海軍は旗艦開陽を松前城攻撃で座礁、沈没させてしまい甲鉄に対抗出来る軍船を持っていなかった。そのため、この甲鉄を奪う作戦「アボルダージュ作戦」が宮古湾で行われたが失敗に終わり、海軍力でも新政府軍に押されてしまう事になる。対抗する軍艦のない函館政府に対して函館湾から艦砲射撃を行い、その攻撃力を見せつけた。結果として、榎本武揚に降伏を決意させ2年に渡る戊辰戦争が終結した。

「東鑑」
戊辰戦争も終結し、明治政府として国を運営していく中で海軍力は諸外国に対して軍備を強化していく必要があった。そんな新生日本海軍のエースとして甲鉄改め東(あずま)とし横浜に配備された。そこにはヨーロッパで行われていた普仏戦争が始まったため、プロシア船とフランス船が日本の港や近海で交戦しないように監視するためであった。翌年に普仏戦争も終結。その大役からも解放された。残念な事に明治政府は新たに数隻の軍艦を諸外国に発注していたため、東は活躍の場が減ってきた。
明治10年 西郷隆盛率いる薩軍が蜂起したため政府は各地港を警備強化。東は神戸港へ配備されたが、薩軍1万3000人も激戦の末、3000人に減り、その軍事力を維持できなくなってきた頃、神戸港が襲われる脅威から解放されたと同時に東の任務に終了。この出撃が旧幕府艦隊を苦しめたエース鑑の最後の出撃とは少し寂しい。明治も10年になると軍艦には魚雷発射管が搭載されていたため、新型兵器を搭載していない東はもはや時代遅れになってしまっていた。

宮古湾海戦や函館湾海戦にかんしては割愛させてもらったので詳細を知りたい方は軍艦「甲鉄」始末で確認して頂きたいと思います。