この一日を愛することが出来たかなぁ、と、そう思うことそう思える一日を、365日のどれくらい生きたかと、年末だからか、振り返ってしまう。
何に愛おしみを思うか。それが個人個人の文化なのではと思う。
国の文化、民族の文化、文化にも色々あるが、とりわけ、一人一人の個人の文化を大切にしなければと、例えば僕なら僕自身の文化や周りに知り合っている人一人の文化を、大切に出来ているかなぁと、自省することがある。同時に、大切にしたくなる文化を生成しているかなぁ、とも思う。
世界は一つだが、その中には沢山の一人一人が生きていて、その一人の中にもまた一つ一つの世界があるのだから。
舞場で踊る。稽古場で踊りに立ち会う。観客と向き合う。自ら観客になる。踊り手を教え、自らも踊る。そんな状況に懸命になりながら、ハッと気づくのは、身体や存在や場や時に対する処し方として自分の視点がどんな広さに辿りつき得ているか、ということだったりする。これこそが正しい、なんていう視点に立っているとすれば、僕は小さなファシストにすぎない。驚き得る心、気づき得る心、対話し溶け合うことを楽しめる心。そんな心で、様々な、さまざまの豊かさと、触れ合い、振れ合いたい。
そう、つとに思いつつ年が暮れる。
僕は酷い近眼で治らないのだが、魂まで近眼になりたくない。加えて最近は強度の乱視と老眼に悩まされる。もはや肉の眼は残念としか思えない状況だけに、魂の眼に期待が増す。
文化を味わい、文化について真面目に考える
時間を、意識的に作らなければと思う。生活の杖が文明ならば、存在の杖が文化なのではないか。経済の杖が文明なら、幸福の杖が文化なのではないか。とも思う。
バブル、NY9.11、オーム、イラク、チベット、フクシマ、パリ、、、。深刻に捉えざるを得ない、世界と私の距離を左右するような出来事。それらを書き出すと、むしろそれら意識することで欠落してゆく無数の点を同時に想像してしまう。
特別な何か、に属さないけれど大切な出来事は沢山ある。皆には深刻でないかもしれない、しかし忘れたくない何かの連続に、個々それぞれの文化は息づいているように思う。
小さな、書き出すことさえ困難になるほど様々な出来事。僕たち一人一人の文化。政治や経済や生活や、つまりは文明なるものの背後にある、潜在する何か。
統合され実現されゆく夢や期待が文明とすれば、散らばるまま実現されぬままの多様な夢や期待や希望や祈りのさざめきが文化なのかな、とも思う。文明は必ずしも文化を反映しないようにも感じる。
しかし、、、。文化を大切にしなくなると、心が荒れる。そして暮しは荒れる。やがて世の中も荒れる。これは確かだ。文化を大切にしないというのは、一人一人の心を雑に扱うことだと思う。
だから文化を大切にしないと、弾圧や戦争が起きる土壌を作るのではないか。多様さや曖昧さを許さない、一方向への矢印。
毛沢東も、スターリンも、ポル・ポトも、ヒトラーも、文化を潰すことから破局を招いたが、これからは、独裁者がいなくても同じようなことが起きるのではと、漠と思う。
景気が悪くなり、長い。このまま日々に不安が広がると、僕たちはたぶん今日明日の暮しに縛られ始める。働かねば、働かねば、と思い始める。明日は今日より楽になりたい、そういう思いが心をかき乱す。そこに付け入る小さな独裁者があちこちに現れ、迷う心を占領してゆくのではないか。そんな、漠たる予感が湧く最近。
働いては眠る。起きては働く。それが当たり前になった時、遊びや趣味が入り込む時間が無くなってゆく。哲学は高尚なものだと片付けられる。小さな音の響きは大音量の行進曲に掻き消される。
「アルバイト・マハト・フライ」
(働け、そうすれば自由になる)
とは、アウシュビッツ収容所の門に書かれていた言葉。
生と死の境界となった門。
初めて訪れた時に目に飛び込んだあの文字列から訪れた心底震えるような悪寒を、時折思い出す。
何に愛おしみを思うか。それが個人個人の文化なのではと思う。
国の文化、民族の文化、文化にも色々あるが、とりわけ、一人一人の個人の文化を大切にしなければと、例えば僕なら僕自身の文化や周りに知り合っている人一人の文化を、大切に出来ているかなぁと、自省することがある。同時に、大切にしたくなる文化を生成しているかなぁ、とも思う。
世界は一つだが、その中には沢山の一人一人が生きていて、その一人の中にもまた一つ一つの世界があるのだから。
舞場で踊る。稽古場で踊りに立ち会う。観客と向き合う。自ら観客になる。踊り手を教え、自らも踊る。そんな状況に懸命になりながら、ハッと気づくのは、身体や存在や場や時に対する処し方として自分の視点がどんな広さに辿りつき得ているか、ということだったりする。これこそが正しい、なんていう視点に立っているとすれば、僕は小さなファシストにすぎない。驚き得る心、気づき得る心、対話し溶け合うことを楽しめる心。そんな心で、様々な、さまざまの豊かさと、触れ合い、振れ合いたい。
そう、つとに思いつつ年が暮れる。
僕は酷い近眼で治らないのだが、魂まで近眼になりたくない。加えて最近は強度の乱視と老眼に悩まされる。もはや肉の眼は残念としか思えない状況だけに、魂の眼に期待が増す。
文化を味わい、文化について真面目に考える
時間を、意識的に作らなければと思う。生活の杖が文明ならば、存在の杖が文化なのではないか。経済の杖が文明なら、幸福の杖が文化なのではないか。とも思う。
バブル、NY9.11、オーム、イラク、チベット、フクシマ、パリ、、、。深刻に捉えざるを得ない、世界と私の距離を左右するような出来事。それらを書き出すと、むしろそれら意識することで欠落してゆく無数の点を同時に想像してしまう。
特別な何か、に属さないけれど大切な出来事は沢山ある。皆には深刻でないかもしれない、しかし忘れたくない何かの連続に、個々それぞれの文化は息づいているように思う。
小さな、書き出すことさえ困難になるほど様々な出来事。僕たち一人一人の文化。政治や経済や生活や、つまりは文明なるものの背後にある、潜在する何か。
統合され実現されゆく夢や期待が文明とすれば、散らばるまま実現されぬままの多様な夢や期待や希望や祈りのさざめきが文化なのかな、とも思う。文明は必ずしも文化を反映しないようにも感じる。
しかし、、、。文化を大切にしなくなると、心が荒れる。そして暮しは荒れる。やがて世の中も荒れる。これは確かだ。文化を大切にしないというのは、一人一人の心を雑に扱うことだと思う。
だから文化を大切にしないと、弾圧や戦争が起きる土壌を作るのではないか。多様さや曖昧さを許さない、一方向への矢印。
毛沢東も、スターリンも、ポル・ポトも、ヒトラーも、文化を潰すことから破局を招いたが、これからは、独裁者がいなくても同じようなことが起きるのではと、漠と思う。
景気が悪くなり、長い。このまま日々に不安が広がると、僕たちはたぶん今日明日の暮しに縛られ始める。働かねば、働かねば、と思い始める。明日は今日より楽になりたい、そういう思いが心をかき乱す。そこに付け入る小さな独裁者があちこちに現れ、迷う心を占領してゆくのではないか。そんな、漠たる予感が湧く最近。
働いては眠る。起きては働く。それが当たり前になった時、遊びや趣味が入り込む時間が無くなってゆく。哲学は高尚なものだと片付けられる。小さな音の響きは大音量の行進曲に掻き消される。
「アルバイト・マハト・フライ」
(働け、そうすれば自由になる)
とは、アウシュビッツ収容所の門に書かれていた言葉。
生と死の境界となった門。
初めて訪れた時に目に飛び込んだあの文字列から訪れた心底震えるような悪寒を、時折思い出す。