櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

真冬の空に踊る 《ダンス白州=空の節》参加報告

2010-02-23 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
2月12日から3日間《ダンス白州・四つの節会~空の節》に参加、最終日におよそ50分にわたる野外ソロを踊った。

白州の冬。空気そのものが生き物みたく表情をたたえ、ひとときも留まらない。温度も湿り気も光も風も変化を繰り返しながら、肌をダイレクトに刺激する。やはり人は小さく感じる。眼を奪われるようなアルプス風景に拮抗して「立つ」のはダンサーとして力量を試される。おのれの器と正面に向き合うこと。それを課題にしているが、言うは易し、行うは難し。踊りはたやすく降りてきてくれない。

「からだの感情と出逢い直している。」

現地メモにそう書いている。そう、僕が好むと好まざるとに関わらず、この身体(受け継ぎ、受け渡されてゆく血や肉や骨)が内包している感情が、たしかにあるのではないか。このフェスティバルに参加するたび、そこにいく。僕は僕自身の根っこを確かめようとしているのかもしれない。あるいは、素裸の舞踊衝動というものに立ち返ろうとしているのかもしれない。

踊るときは、普段よりもかなり感覚が敏感になる。言葉も音も空気の湿度も温度も、時の流れと溶け合いながら、複雑なリズムを奏でている。肌に触れる。骨まで染み通る。集中するほどに、消尽するほどに、自然の精気が人の体を通り抜ける、魂も入れ替わりゆく。人ならぬ力を受けて、けがれを払うこと。そんなことに、改めて気持ちが触れた。

ここでは、誰もが何かしらに挑戦している。その姿が何よりもすがすがしい。
踊りは絶えざる心の入れ替わり。踊る者にとっても立ち会う者にとっても、命のリセットだ。全てのプログラムとプロセスに、その事が通底している。

上の写真は2日目の夜に開催された「奥三河の花祭り」。
素晴らしい祭りだ。地を鎮め空を讃え参会者みなを巻き込む踊りの輪を紡いで生を寿ぎあう。祈りとはかくも華やかで陶酔的なものか、と驚く。踊りを分かち合うことが、ひとりひとりの思いをこえて、過ぎ行く日々と新たに来る日々の希望をつないでゆく、生命の循環のただなかにイマあることを感じ合う。

この感情はフェスティバル最後を飾った「空劇」においてさらに加速した。
身を切るような寒さのなか、夜空が深く黒い。田中泯さんの演出は息をのむばかりのダイナミズム。巨大な風船のなかで展開するパーカッションとダンスによる幕開けは、現代の巫女舞。シーンは流れ、田中泯さん自身の圧倒的なソロ。そして、さまざまな人が個々の「そら」をパフォーミングする。そのなかで身体気象農場メンバーのSさんが種を空に蒔いた。この静かなシーンに僕は感極まった。力みなく、作為もなく、淡々とのびやかな笑顔で種を空に放ってゆくこの行為に思い重なる人は多かったのではないかしら。やがてクレーン車が登場し、踊る人や自転車こぐ人を夜空に高く舞い上げてゆく。巨大なスクリーンを空中高く舞い上げる。そこに映し出されるのは突き抜けるような青空。凍りつく気温の夜空に踊る青い空を見つめながら、僕は心の中に新しい光が差し込んでくるように感じた。

2009年から2010年にかけて、四季4回にわたって開かれた祭り。寝食ふくめ、すべて手作りのフェスティバル。皆が暑さ寒さを共にし泥んこになって野に投げ放たれる。垣根をこわしてゆく。確かめる人、挑戦する人、思い馳せる人。ひとりひとりが個に帰してゆく。いつも、清いと感じていた。こんな場所を他に知らない。全回連続参加を通じて、その一回一回に踊り手として生身の人間として、問いを重ねた。そうさせてくれる気迫と場が、常にあった。人間を感じる四季節会となった。そして次の課題が沸き上がっている。心から、新たな節会を願っている。
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