踊りは、その人の内にあるものことごとくを映し出すのではないか。そんな気がしてならないです。
稽古をすればするほど、中が透けてきます。舞台を重ねるほどに本性が あらわ になってゆく感じもあります。実感です。
踊りをみているとき、体の中に染み込んだものや住まうもの、そしてその体が孕んでいる言の葉のすべてが運動によって視覚化されてゆく。蠢いている体の後ろにある何か、あるいはその体を動かしている何か、を見ているのか、などと思うこともあります。
その人の歩いてきた道、その人のかつて居たところ、その人が関わってきたさまざま、関わり損ねたさまざま。そして、その人の心の根。それらが、語らずとも聴こえる無音の言葉として、踊っている身体から滲みでてくるように感じてならないです。だから、踊りで嘘をつくことはなかなか出来ないのでは、とも思います。
こんな記憶があります。
もう何十年もたっていますが、土方巽さんが「舞踏懺悔録集成」という題名の週間を企画されて通い観たときのことを、まだ覚えています。「懺悔」という言葉が、ツッと心を刺したのです。それは、いまの世情とは違う、奇妙に浮かれた街の雰囲気の中に投げられた石礫のようでもありました。嘘くさい繁栄のなかに、なにか肉の蠢きだとか自我の葛藤するような真剣な雰囲気がパッと投げられたように感じたのでした。
僕自身の個人的な気持ちにも、そのころすでに強い原罪意識があり、ここまで生きてきたことそして今ここにいることに対する懺悔のような感情が、僕の場合はどうしてもあって、そこに何か心情的な関係力が出たのかもしれません。
発せずにいられない心境と環境の中で発せられたのであろう「懺悔」という一言に惹かれ心射られたことそのものを噛み締めるような思いで、劇場に通い、土方氏に関わる様々な人が紡ぎ出す踊りの瞬間瞬間を見つめました。
土方氏ご自身は舞台に立たなくなっていられたのですが、それでも、その存在を感じるとき、どこか事件めいた匂いがするようでした。
当時、土方氏が企画する会や、氏が直接に演出する舞台がたびたびあり、それらを見に行くたび、共感と違和感が混ぜこぜになったような、かき回されているような心地でした。そして、それゆえに、何年経っても忘れず、むしろ、あの空気感の奥に何があったのかと考えたり想像したりすることが増えました。
僕は、踊りを通じて、言葉というものが身体に及ぼす力の重大さを、感じてきたけれど、そのきっかけになった一つが、この、土方巽の「懺悔」という一言とそこに連なる幾つもの踊りの舞台だったかもしれない、と、このごろ思うようになっています。
土方巽の「懺悔」。あの一言の奥の奥に、いったい、いかなる、、、。
言葉は非常に切実な踊りです。言葉と人の生は互いに深く絡みあって光と闇を生み出しているに違いないと思います。
どのような言葉を思い、どのような言葉を語り話し喋り書くか。それは、その人の生き方や人間関係まで作ってしまうのだから、大事の大事であるのだと思うのです。
言葉と肉体との不可分は当然、とも思います。
踊りと言葉との関わりは単純に論じられないほど複雑なのでしょうけれど、そこには非常に大切なものがあるのではないかと僕は考えています。
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