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東方閃電はどこに由来するのか

「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

中国共産党政府と宗教界の噂を信じるという問題の性質は何ですか。

2019-08-07 09:58:41 | 文章

関連する神の言葉

「真理を理解しない者はいつでも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言うと、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人がこれは悪霊の仕業だと言うと、あなたもまた、疑惑を持つか、あるいは、それは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつでも他人の言葉を物真似して繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることができない。それは、自分でものごとを区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。そうした人々は、いつでも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日にか、誰かがこれは聖霊の働きではなくて、人間の仕業に過ぎないと言う。しかし、あなたはそれを自分で見極める事ができず、他人がそう言うのを聞くと、同じことをて言う。実際は聖霊の働きであるものを、人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者たちの一人となったのではないか。これは、物事の判断がつけられなくて神に敵対しているのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、『これは悪霊のしわざだ』と言うと、それを聞いたあなたは途方にくれて、またもや他人の言うことに縛られてしまうかもしれない。誰かが混乱を引き起こすようなことを言うたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それは、真理を把握していないからだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」よ

「真理を聞いた時に首を横に振り、死の言葉を聞いた時に満面の笑みを浮かべる者は、サタンの子孫であり、そうした者は全て排除対象となる。教会には識見の無い者が多数居て、何かしら偽りの出来事があると、そうした者はサタンに味方をする。こうした者は、自分がサタンの僕と呼ばれると、不当な扱いを受けたと感じる。こうした者は全く識見が無いと言う者もいるが、こうした者は常に真理の無い側に味方する。重要な時期に、こうした者が真理の味方をしたことや、真理のために立ち上がって議論をしたことは一度も無いが、こうした者は本当に識見が無いのであろうか。こうした者が常にサタンの味方をするのは、何故だろうか。何故、こうした者は真理について正当な言葉も合理的な言葉も決して述べないのだろうか。こうした状況は、本当に一時的な混乱から生まれるのだろうか。ある者の識見が少なければ少ないほど、その者が真理の味方をする能力も低くなる。それは何を示すであろうか。それは、識見の無い者が邪悪を愛していることを示して居るのではなかろうか。それは、識見の無い者がサタンの忠実な子孫であることを示して居るのではなかろうか。こうした者が常にサタンの味方をし、サタンと同じ言葉を述べることが出来るのは何故だろうか。こうした者のあらゆる行動、言動、表現は、こうした者が決して真理を愛する者ではなく、むしろ真理を忌み嫌う者であることを十分に示している。こうした者がサタンの味方をすることが出来ることは、こうしたサタンのために一生涯を通して戦う小悪魔をサタンが真に愛していることを十分に示している。こうした事実は、全て十分に明白ではなかろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

「たとえば、神に関する噂や悪口を人間が聞いた時の最初の反応は、どのようなものであろうか。最初の反応は、その噂の真偽を知らないし、実在するかどうかも分からないので、様子を見よう、というようなものであろう。その後、人間は、それを確かめることは出来ないが、それは存在するのだろうか、その噂は本当だろうか、と考える。この者は、そのような思いを表に出さないが、その者の心には既に疑念が生じ、神を否定し始めている。こうした姿勢や観点の本質は、何であろうか。それは裏切りではなかろうか。人間がそうした問題に遭遇する以前は、その者の観点を知ることは出来ず、その者は神と敵対しておらず、神を敵とみなしていないように思われる。しかし、その者が、その問題に直面するとすぐに、人間はサタンの味方をして、神と敵対する。このことにより示されている事は、何であろうか。それは、人間と神が敵対していることを示している。それは、神が人間を敵として扱っているのではなく、人間の本質自体が神に敵対するものだからである。どれ位の期間神に付き従っているか、どの程度の代償を支払うか、どの程度神を称えるか、どう神を拒否せずにいるか、それだけでなく自らに対して神を愛すよう促しているかを問わず、人間は決して神を神として扱うことができない。それは人間の本質により決定されることではなかろうか。あなたが神を神として扱い、神が神であることを心から信じている場合、あなたは依然として神に対して疑念を抱くであろうか。自分の心の中の神に対して疑問があり得るであろうか、というと、それは有り得ない。この世の傾向は極めて邪悪であり、人類も極めて邪悪である。こうした人間に関して、あなたが何も認識していないのは、何故だろうか。あなた自身、極めて邪悪である。あなたにはその認識が無いのは、何故だろうか。しかし、一部の噂や悪口には、神に関する極めて大きな概念を生み出し、極めて大量の考えを生み出すものもあり、それにより、あなたの背丈がどれほど未熟であるかが示されている。何匹かの蚊や煩わしい蝿の『羽音』だけで、あなたを欺くには十分であろうか。これはどのような種類の者であろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より

 


嘘に惑わされないようにするためには、どのように真理を追求することができますか。実践の原則とは何ですか?(1)

2019-08-05 14:17:43 | 文章

嘘に惑わされないようにするためには、どのように真理を追求することができますか。実践の原則とは何ですか?(1)

関連する神の言葉

「わたしの言葉はわたし自身を表している。これを覚えておきなさい。疑いを抱いてはならない。あなたは絶対に確信していなければならない。これは生と死の問題である。これは恐ろしいことである。わたしの言葉が話されるやいなや、わたしがしようとすることが実現する。」

『言葉は肉において現れる』の「第七十七章」より

「現時点では、聖霊が歩む道とは、神の現在の言葉である。したがって、その道を歩むには、人は受肉した神の現在の言葉に従い、それを食べて飲まなければならない。神は言葉の業を行っており、全てが神の言葉から語られ、あらゆることが神の言葉、すなわち神の現在の言葉により建て上げられている。それが、肉となった神について全く疑念がなくなることであれ、神を知ることであれ、人は神の言葉に多くの努力を注がなければならない。さもなければ、何一つ成し遂げることができず、その人には何も残らないだろう。神の言葉を食べ飲むことに基礎を置いて、神を知り、神を満足させることによってのみ、人は徐々に神との正しい関係を確立できる。神の言葉を食べて、飲み、実行に移すことは、神との最善の協力であり、神の選民のひとりとして証しするための最も優れた実践である。人が神の現在の言葉の本質を理解し、それに従うことができる時、その人は聖霊により導かれる道によって生活しており、神が人間を完全にする正しい道に入っているのだ。人々はかつて恵みを求め、また平安と喜びを求め、やがて神の業を得ることができた。現在はそうではない。肉となった神の言葉がなく、それらの言葉の現実性がない場合、人間は神の承認を得られず、神によって取り除かれる。」

『言葉は肉において現れる』の「性質が変化した者たちとは神の言葉の現実の中へ入った人々である」より

「あなたたちは神の働きのビジョンを知り、神の働きの一般的方向を把握しなければいけない。これが前向きにいのちに入ることである。ひとたびビジョンの真理を正確に理解したなら、あなたの入りは確かである。神の働きがどのように変化しようと、あなたの心は堅固で、ビジョンについて明確であり、入りと追求の目標を持つことになる。そのようにして、あなたの内の経験と認識のすべてがより深くなり、さらに練られる。ひとたびこの全体像を完全に把握すれば、あなたは、いのちにおいて何も失わず、途方に暮れることがない。こうした働きの歩みを知らないでいれば、あなたはその一つひとつにおいて損失を被る。あなたはほんの数日だけで方向転換することはできない。たとえ数週間経っても正しい軌道に乗ることはできない。それは、後退することではないのか。あなたたちが身につけるべき、肯定的な入りやそのような実践はたくさんある。だから、神の働きのビジョンについて次のような幾つかの点を把握していなければならない。即ち、神の征服の働きの意義、将来完全にされるための道、試練や患難を経験することによって達成されるべきこと、裁きと刑罰の意義、聖霊の働きの原則、完全になることと征服の原則などである。こうしたことはみな、ビジョンの真理である。その他のことは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代の働きの三段階であり、将来の証しである。これらもまた、ビジョンに関する真理であり、最も基本的であるとともに、最も大事なことである。」

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

「あなたはビジョンの側面の真理を理解し、実践に関する真理については、それを理解した後に適切な実践の道を見いだす必要がある。あなたは言葉に従って実践し、自分の状況に従って成長する必要がある。ビジョンは基礎であり、あなたがその基礎に全く留意しなかったならば、あなたは最後まで付き従うことが出来ないであろう。あなたがそのようにして実践すると、道を逸れるか、躓いて失敗するであろう。成功は一切有り得ない。大いなるビジョンを基礎として身に付けて居ない者は成功せず、失敗するだけであろう。あなたは揺るぎなく立つことが出来ない。……

ある者がビジョンを備えて居るのであれば、その者は基礎を備えて居る。あなたがそれを基礎として実践するならば、成長するのが格段に容易となるであろう。そうすることで、あなたは成長することの基礎に関して何ら不安を感じず、また成長することが自分にとって容易なものとなるであろう。ビジョンを理解する、業を理解するというこの側面が重要である。あなたがたは、この側面を備える必要がある。あなたが、真理のこの側面を備えずに実践の道だけを語るのであれば、それは重大な欠陥である。あなたがたのうち多くの者が、その側面を強調していないことをわたしは知っている。またあなたがたがその真理の側面に関する話を聞く時、あたかも教義の話を聞いているようである。あなたは、いつか失敗するであろう。現在あなたが理解して吸収していない言葉もある。そうした場合、あなたは忍耐強く求める必要がある。そうすれば、いつか理解する日が来るであろう。少しずつ身に付ける必要がある。あなたが霊的な教義を少ししか理解していなかったとしても、それは霊的教義に全く注意しないよりは良い。それは全く理解していないよりは良い。そうした状態はあなたの成長にすべて役立ち、あなたの疑念を払拭するであろう。そうした状態は、観念で満たされた状態よりも良い。そうした基礎としてのビジョンを備えて居る方が格段に良い。懸念等が一切無ければ、胸を張って闊歩して成長することが出来る。どうして常に疑わしい方法で、混乱したまま付き従う必要があるだろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは業を理解する必要がある。訳の分からないまま付き従ってはならない」より

「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなた方に対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある──その背後にはすべて戦いがある。……神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。」

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

 

 


真の道を考察するには、神の声だけに耳を傾けなさい。絶対にサタンの噂を信じてはいけません。

2019-08-02 18:24:14 | 文章

真の道を考察するには、神の声だけに耳を傾けなさい。絶対にサタンの噂を信じてはいけません。

参照聖書箇所

「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ人への手紙10:17)

「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。」(ホセア書4:6)

「愚かな者は知恵がなくて死ぬ。」(箴言10:21)

関連する神の言葉

「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より

「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。」

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

「真理を理解しない者はいつでも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言うと、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人がこれは悪霊の仕業だと言うと、あなたもまた、疑惑を持つか、あるいは、それは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつでも他人の言葉を物真似して繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることができない。それは、自分でものごとを区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。そうした人々は、いつでも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日にか、誰かがこれは聖霊の働きではなくて、人間の仕業に過ぎないと言う。しかし、あなたはそれを自分で見極める事ができず、他人がそう言うのを聞くと、同じことを繰り返して言う。実際は聖霊の働きであるものを、人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者たちの一人となったのではないか。これは、物事の判断がつけられなくて神に敵対しているのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、『これは悪霊のしわざだ』と言うと、それを聞いたあなたは途方にくれて、またもや他人の言うことに縛られてしまうかもしれない。誰かが混乱を引き起こすようなことを言うたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それは、真理を把握していないからだ。神を信じ、神に関する認識を追求するのは、容易なことではない。それは、ただ寄り集まって説教を聞くだけでは達成されないし、熱情だけでは完全になれない。あなたは、経験し、知り、原則に基づいて行動し、聖霊の働きを獲得しなければいけない。経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。神の働きを知ることは単純なことではない。あなたは、基準と目標をもって探究しなければいけない。あなたは、どのようにして真の道を求めるか、何を基準にしてそれが真の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の業であるかどうか、ということを知らなければならない。真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方の将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、もうひとつ別の新時代の業が将来現れると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方が、今ある道が真の道であると確信でき、今日の業をただ半信半疑で信じ、その業について不確かで見通すことができないようなことのないようにするためである。自分では確信を持ってはいても、まだ惑いの道を辿っている人々さえいる。そのような確信は信条に基づいたものではないから、彼らは遅かれ早かれ、除かれなければならない。とりわけ熱心に従っている者たちでさえ三割は確かだが、五割は不確かである。このことは、その人たちには基礎がないことを示している。あなた方の能力はあまりに貧弱であなた方の基礎が浅すぎるために、区別することがわかっていないのだ。神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。あなた方は長年神を信じてきたが、それでも真の道と偽りの道との違いを判別し、真の道を探求するための原則についてほんの僅かの知識さえない。ほとんどの人々は、こうした事がらに興味を持ちさえしない。そういう人々は、ただ大多数が行く方へ行き、多数派の言うことを繰り返しているだけだ。どうしてこれが真の道を探している者だと言えようか。どうして、そうした人々が真の道を見いだせよう。もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。」

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

 

 


携挙は神の言葉に基づかねばならず、人間の概念や想像に基づいてはならない。

2019-07-16 07:17:32 | 文章

携挙は神の言葉に基づかねばならず、人間の概念や想像に基づいてはならない。
参照聖書箇所

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6:9-10)

「また、聖なる都、新しいエルサレムが、…天から下って来るのを見た。…見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、」(ヨハネの黙示録 21:2-3)

「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。(ヨハネの黙示録 11:15)

「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」(ヨハネによる福音書 3:13)

携挙
関連する神の言葉

「…人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされてしまったこと、人類に関する神の仕事が全部終わってしまったことを意味する。神はもはや人類の間で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神は彼のもとの位置に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。…人が安息に入るとは、それは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、しかも正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダム、エバの生活に復する。これが、神と人が安息の中に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が彼の全経営計画を終えた後に安息に入ることと人が完全に救済され安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。…神と人が安息の中に入った後、サタンはもはや存在せず、サタンと同様な不道徳者も、もはや存在しない。神と人が安息の中に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある不道徳者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような不道徳者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、その後神の仕事が完全に終わる。これは神と人が安息の中に入る前提である。」

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

「神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類に罪の捧げものとして使えた。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を徹底的に救い出し、人に本来の似姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた仕事であり、そしてこの仕事を通じて、人を彼の元のイメージへ回復し元の似姿へ回復させようとしている。彼は彼の国を打ち立てようとし、人に本来の似姿を回復させようとする。つまり彼は地上における彼の権威を回復し、あらゆる被造物の間における彼の権威を回復しようとする。…人類がみな最初の形を回復し、それぞれ自分の職責を尽くし、自分の本分を守り、神のすべての按配に従うことができたら、神が地上で一団の、彼を礼拝する人を得、また彼を礼拝する国を打ち立てたことになる彼が地上で永遠に勝利を得、彼に敵対する者たちが永遠に滅びれば、彼が最初人を造った時の心意を回復し、彼が万物を造った時の心意を回復し、地上での彼の権威、万物の中での彼の権威、敵の間での彼の権威をも回復したことになり、これは彼が完全に勝利を得たことのしるしである。それから、人類は安息の中に入り、正しい軌道に乗った人類の生活に入り、神も人と一緒に永遠の安息の中に入り、永遠の神と人の生活に入る。地上の汚れと不従順が見えなくなり、地上の哀号が見えなくなり、地上の、神に敵対するあらゆるものもなくなり、神と神に救われた人たちだけが存在し、彼に造られた万物だけが存在する。」

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

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聖書映画「戸をたたく」どのように主イエスによって天国へ携挙されるのか 予告編


霊の慢性疾患たる嫉妬

2019-07-14 19:25:30 | 文章

霊の慢性疾患たる嫉妬

私は、姉妹の1人と一緒に文章の校正を行いまいた。私達が会う時、歌も踊りも神の言葉を授かることも、真理に関して話すことも、その姉妹は、あらゆる面で私よりも優れていました。ホストファミリーの兄弟姉妹は皆、その姉妹を好み、その姉妹と話をしたがりました。そのため、私の心は全く落ち着かず、冷たくあしらわれているように感じ、彼女がそこにいる限り、私の居場所はないと感じるほどでした。心の中では、彼女に苛立ちを感じるようになり、彼女と組になって本分を尽くすことが嫌になってきました。彼女が去り、兄弟姉妹が私を好み、高く評価するようになることを、私は願っていました。

ある日、リーダーが私達の元を訪れました。その姉妹は、当時その女性が受けていた感情的精錬が原因で否定的な状態となっていることを理由として、別の任務へ異動することを希望しました。彼女がそう述べるのを聞いて、私は期待に胸が膨らみました。私は、「あなたが去るのを常に望んでいた。あなたが去れば、私は苦境を脱することができる。」と考え、すぐにリーダーがその姉妹に別の任務を割り当てるのを熱望していました。しかし、私の期待に反し、リーダーはその姉妹に新たな任務を割り当てなかっただけでなく、その姉妹と真理について粘り強く話し合い、その姉妹の状況を変えるよう支援しました。私は、それを見てとても不安になり、その姉妹が去ることを一層強く臨むようになりました。私は、「今回彼女が去らないならば、一体私はいつこの苦境から脱することができるだろう。いや、私は彼女を早く立ち去らせる方法を考えなければならない。」と考えました。結局、私は彼女がいない時に、そのリーダーに「彼女はいつも感情的精錬のために文章校正に集中できないでいます。彼女は聖霊の働きを失っているので、文章校正はできないでしょう。それが原因で、既に教会の校正編集作業に影響が出ています。彼女に新たな役割を与えた方が良いと思います。Xさんは作文力に優れているので、Xさんを抜擢して文章の校正させることができると思います。現在私が組になっている女性よりも、Xさんの方が、育成する価値が高いかも知れません。」と説明しました。私は、そう言い終わるとすぐに、「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。……自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より)という神の言葉が私の中に浮かび、私を咎めました。神の裁きの言葉に対して、あたかも神が私に面と向かって叱責しているかのように感じました。私はすぐに恐怖で震え、私が直前に述べた言葉を恐ろしく感じざるを得ませんでした。私は神の言葉の中で現されている「自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫し、差別する」という者に当てはまらないでしょうか。私が一緒に作業をしている姉妹が、あらゆる面で自分よりも優れていて、兄弟姉妹全員がその姉妹を好んでいることを知り、私は心の中で嫉妬を感じました。私は、彼女に苛立ち、彼女を差別し、自分が苦境から脱するため彼女が早く去ることを望みました。兄弟姉妹が私に注目して、私が兄弟姉妹の中に居場所があると感じられるようにするため、私はその姉妹の芳しくない状況を利用し、教会の利益を守るという名目で、リーダーにその姉妹のことを告げ口しました。リーダーを利用して彼女を去らせるという私の取り組みは、無駄に終わりました。私の行動により、私の真の姿が露呈され、私は邪悪で悪意に満ちたへびであり、私がまさに赤い大きな竜の子であることが明らかにされました。赤い大きな竜は、独裁政権を確立するため、必要とあらば、あらゆる手段を用いて反体制派を根絶します。私は、自分の兄弟姉妹の中心的存在となり、兄弟姉妹に囲まれるようにするため、自分にとって有利ではない者を奸智で排除しようとしました。赤い大きな竜は、自分自身よりも偉大な存在に嫉妬し、高貴な大志を抱く者を滅ぼします。私もまた、その姉妹があらゆる面で私よりも優れていたために、その姉妹に嫉妬し、不適切な手段により、その姉妹を排除しようとしました。赤い大きな竜は、自らの目的のために人々に対して有罪判決を下した上で殺戮を行ないます。私は自らの目的を達成するため、故意にその姉妹に関して大袈裟に話しました。私の行動は、まさに赤い大きな竜と同じです。私は明らかに過度に傲慢であり、邪悪であり、悪意に満ちていました。教会は、私達ふたりが心を1つにして優れた作業を行い、神を満足させられるよう、共同作業して互いに助け合うよう決めました。また、そう決めたのは、私達ふたりが一方の長所で他方の短所を互いに補い合い、一層多くの真理を得て、ふたりの性質を変化させられるようにするためでした。しかし、私は神の心を少しも理解していませんでした。私は、その姉妹が良くない状況にあるのを知ると、その姉妹を愛により助けなかったばかりか、自分の立場を守るために、その姉妹が早く交替させられるように待ち望んだのです。私は本当に極めて邪悪です。私の本性は極めて堕落しています。私には、正常な人間にあるべき愛がありませんでした。私は自分の目的を果たすためなら手段を選ばない程、人間性を完全に失っていました。すぐに悔い改めないならば、赤い大きな竜とともに、永遠に滅ぼされてしまうでしょう。

神よ、感謝します。神の裁きと刑罰により、私は手遅れになる前に目覚め、私の行いが赤い大きな竜と同じであること、そして私が名実共に、真に赤い大きな竜の子であることを理解することができました。これにより、私は自分の中にあるサタンの本性を忌み嫌うようになりました。今後、私は自分の中にあるサタンの本性と訣別します。私は自分のために争うことを止めます。私は、その姉妹との共同作業を向上させ、私達ふたりの本分を尽くし、神にご満足いただけるようにします。私は一層真理を求め、赤い大きな竜の毒を抜き取り、これにより神に安心していただける、真の人間として生きてゆきます。

広西省賀州市 何潔静

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