ML広場に、聞き取りチームさんがUPして下さった、昨年11月の重田兄sigeta-keiのメッセージを、ここに抜粋させていただきます。(抜粋というには長すぎですね・・(^^ゞ 赤文字は自分のためです。)</font>
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詩篇19篇13節・14節
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが
御前に、受け入れられますように。
わが岩、わが贖い主、主よ。
・・・・・・・・・・・・この詩篇の箇所、私にとって大変痛いみことばでもあるんですねー。・・・・・・・・・・・それら(ベック兄のリバイバルに関する一連)のメッセージの中に、信者の犯しやすい多くの罪の一つとして、傲慢の罪が挙げられておりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは普通威張っている人、自分を誇ってはばからない人、あるいは自惚れの強い人、横柄な態度の人、人を見下したり、軽蔑するような態度の人などを指しまして、あの人は傲慢な人だ。あの人は高ぶっている。というように批判いたします。そのように私たちは「傲慢」というものを、その人の外に現われる言葉とか態度によって判断しております。しかしながら、傲慢な言葉や傲慢な態度がもし私たちから見えなければですねー、私たちはその人が傲慢な人間かどうかということを知ることはできないんですねー。
けれども表には傲慢な振る舞いを出さなくても、もし心の中で高ぶって、密かに自分を誇ったり、人を見下したり、さばいたりすればそれは同じように傲慢な人間であります。<font color=red>人の心の中まで見通される神さまの御前には、表に現われた傲慢であっても、表に現われない心の中に持っている傲慢であってもそれはすべて同じ傲慢なのであります。</font>しかしながら傲慢はなぜ罪なのでありましょうか。このことは神さまのみことばであるところの聖書によってのみ知ることができます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イエスさまはご自分が神の御子として私たち人間に仕えられる立場のお方でありながら、神さまにそむき、おごり高ぶって、自分の思いを正しいとして生きている傲慢な私たち人間の罪の代価をご自分のいのちをもって支払ってくださるために、身を低くして、私たちに仕えるお姿となって、この汚れた世においでになったのであります。これこそ傲慢の対極にある謙
遜の極みであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この方、すなわち、神のことばとして世に来られて御子イエスさまを受け入れた人々は、人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・では、イエスさまを信じる信仰によってこの神さまの大きな恵みとして神の子どもとされる特権を与えられた私たち信者、キリスト者はもう、傲慢な思いやおごり高ぶる思いを持つことはなくなったかと言えば、ね、悲しいことにそうではないのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<font color=red>キリスト者はイエスさまが十字架の上で流された聖い血潮によって霊はその瞬間に聖められますけれども、この世におかれている、私たちがこの世におかれている間は、私たちはまだ不完全な肉の衣をまとっておりますから、その肉の衣のゆえにですねー、肉の思いである自我というものが完全に砕かれきっていない</font>からであります。ですから<font color=red>恵みによって神の子どもとされていながら、しばしばこの肉に属する思いというのが顔を出して、そのために傲慢な思いや態度が起こってきてしまう</font>のであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちが自分自身を振り返って、顧みたときですね、自分の信仰をですね、主にある兄弟姉妹と比べてみて、密かに自分の信仰は立派だと。自分の信仰のほうが優れてるというふうに誇ったりですね、あるいは、それによって兄弟姉妹をさばくというような傲慢の罪を犯してはいないでありましょうか。心の中まで見通される主の前で、そんなことは決して今まで一度もしなかった。と私たちは言い切れるでありましょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・また私たちは、福音を伝えた方が心を開いてイエスさまを信じられたときにですね、密かに、自分の信仰によって、自分の信仰の力によって、その方を導くことができたというようなですね、自分を誇る、傲慢の罪を犯してはいないでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イザヤ書には次のようなみことばがあります。イザヤ書10章15節。
10:15 斧は、それを使って切る人に向かって
高ぶることができようか。
のこぎりは、それをひく人にむかって
おごることができようか。
それは棒が、それを振り上げる人を動かし、
杖が、木でない人を
持ち上げるようなものではないか。
このみことばは、私たち信者は主の道具であるところの斧やのこぎりのようなものにすぎない。だから、私たちが福音を伝えた方がイエスさまを信じ、受け入れたのは私たちの努力や知恵の結果ではなくてですね、私たちという道具を用いて主が御霊の力が働かれた結果であるからどうして、ね、道具である私たちが主に対しておごり高ぶることができようかということをこのみことばはですね、言っているのであります。私たちは主の道具にすぎない。
道具が道具を使う者に対しておごり高ぶることなんてできるはずがないのであります。
またペテロが生まれつき足の汚い人に次のように言って、歩くことができるようになったんですね。使徒の働き3章6節。ペテロはこう言いました。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」こう言われた足なえと言いますか、生まれつき歩けない人が歩けるようになりました。そのときにですね、それを見て驚いて集まって来た群衆に向かって、彼はその奇跡が自分の信仰の力によって起こったのではなくてですね、イエス・キリストの名によってですね、すなわち、自分を通して働かれたイエスさまの御霊の力によって、主ご自身が栄光を現わされたみわざであるという
ことを強調いたしました。
ペテロはご存知のように、大変砕かれた人でありました。主を三度、「私は知らない」と否んだ結果ですね、ホントに彼はその、それをすぐ側で主が見ておられたんですね。それで激しく泣いたと聖書になります。そのように自分がホントに自分の力で主に従って、死にまでも従います。なんて口先では言ったけれども、実際には主を裏切ってしまった結果ですね、彼は心からそれを悔い改めたんですねー。悔い砕かれたんです。主の御前に彼は心が砕かれて、そしてひたすら主のみこころに従うことだけを願っていたんですね。そのために彼はこのような奇跡を行なうことができても、主にのみご栄光を帰して、彼は傲慢の罪をこのとき犯すことはありませんでした。
けれどもイエスさまを信じる私たちがですね、一体なぜ、傲慢を大きな問題として見なければいけないのでありましょうか。キリスト者はイエスさまのかおりである。というようにパウロは言っております。第二コリント2章15節。
2:15 私たち(私たちとは言う間でもなく、キリスト者)
(私たちキリスト者)は、救われる人々の中でも、
滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしい
キリストのかおりなのです。
イエスさまのかおりとは、イエスさまのご性質から放たれるかおりであります。そしてそれは、御霊の実と呼ばれるかおりなのであります。<font color=red>御霊の実というのは・・・・・・・・・愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制</font>です。とあります。このようなですね、いわゆる<font color=red>御霊の実というのは、生まれつきの人間はだれひとり持っておりません。持つことはできない。イエスさまご自身のご性質なんです。</font>
イエスさまを信じる者の中には、恵みとして御霊が、イエスさまの御霊が住んでいてくださいます。・・・・・・・・第二コリント4章7節。
4:7 私たちは、この宝を、(イエスさまの御霊を、)
土の器に中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、
私たちから出たものでないことが
明らかにされるためです。
イエスさまを信じる私たちが、自分の中に住んでくださっている御霊におゆだねし、導かれていれば、その心は主のみこころとひとつにされますので、イエスさまの御霊は、私たちという欠け多き土の器を通してご自身のかおりを放ってくださり、イエスさまご自身のご栄光が現わされるのであります。
<font color=red>私たちは自分の中から出て来る力では決して御霊のかおりを、イエスさまのかおりを放つことはできない者であり、また、自分の力では決して御霊の実を結ぶことはできない</font>・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・パウロは、私たち信者に対しても次のように勧告しております。第一コリント6章の19節、20節。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、
知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現わしなさい。
自分のからだをもって、ということは、自分のからだをただ主のみこころを通す管としてですね、用いていただいて、ということであります。しかしながら、この<font color=red>御霊のお働きを妨げる大きな要因</font>があります。それが御霊をお入れしている器に、さっきも申し上げましたように、<font color=red>なお砕かれずに残っているところの、自分を誇り、また、人をさばくという傲慢な罪なのであります</font>。
キリスト者の傲慢は・・・・・・・・・イエスさまのかおりを放つどころか、 それとは反対に、つまずきを与えてしまう大きな罪であります。ですから、・・・・・・・通り良き管どころかですね、その管に傲慢の罪が詰まってしまっているわけですから、主がお用いになれな
いのは当然であります。
また傲慢は、信者の信仰の成長を妨げます。・・・・・・・・・・・・・・・・第一コリントの3章の1節から3節。
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには
話すことができないで、肉に属する人、
キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、
堅い食物を与えませんでした。
あなたがたには、まだ無理だったからです。
実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。
あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、
あなたがたは肉に属しているのではありませんか。
そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ローマの8章の13節。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、
あなたがたは生きるのです。
・・・・・・・・・これはどういうことかと言いますと、肉の思いに従って生きるならば、御霊が働くことができないから、そのような信者の霊は死んだも同様であるということであります。私たちは死んだような信者にはなりたくありません。イエスさまのために生きたい。イエスさまのために働きたいと心から願う者であります。けれどもそのためには御霊によってからだの行ないを殺さなければ、すなわち、私たちの
傲慢な性質をですね、意識して捨てることができるようにいつも自分の思いを主に明け渡して<font color=red><b><i>祈り願わなければ</font></b></i>ならないのであります。
なぜなら、このような<font color=red>生まれながらの罪の性質は自分の力では到底変えることはできない</font>んですね。イエスさまによって変えていただく以外には方法がないからであります。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・イエスさまは信者をご自分のしもべとして、ご自分の器として用いようとなさるときにはですね、高ぶることのないように、神さまの御前に無に等しい者であるということを悟らせるために様々な試練をお与えになって、自我をお砕きになるのであります。自我が砕かれるというのは私たちの肉にとっては大変な苦痛であります。
けれどもイエスさまはそれが主のしもべとしての器に整えられるために必要であると同時に、より深く主のみこころを知り、より主に親しく交わることができるように、その試練をお与えになるんですね。それを通して、試練を通して、私たちに主のみこころを示してくださるのであります。第一ペテロの1章の7節。
1:7 信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお
朽ちて行く金よりも尊いのであって、
イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と
栄誉に至るものであることがわかります。
・・・・・・・・今日は、キリスト者が犯しやすい傲慢の罪についてご一緒に今、考えてまいりました。・・・・・・・・・・・<font color=red>主に心の中を調べていただいて、傲慢が砕かれて、自分を主に明け渡すことができるように</font>、始めに読んでいただいた詩篇の19篇のダビデのようにですね、あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。というふうにですね、主の御前にへりくだって、心から祈りながら信仰の歩みをすすめていきたいと切に願う次第であります。最後にみことばをお読みして終わります。イザヤ書の66章2節。
66:2 わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。
どうもありがとうございました。
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詩篇19篇13節・14節
19:13 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。
それらが私を支配しませんように。
そうすれば、私は全き者となり、
大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。
19:14 私の口のことばと、私の心の思いとが
御前に、受け入れられますように。
わが岩、わが贖い主、主よ。
・・・・・・・・・・・・この詩篇の箇所、私にとって大変痛いみことばでもあるんですねー。・・・・・・・・・・・それら(ベック兄のリバイバルに関する一連)のメッセージの中に、信者の犯しやすい多くの罪の一つとして、傲慢の罪が挙げられておりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちは普通威張っている人、自分を誇ってはばからない人、あるいは自惚れの強い人、横柄な態度の人、人を見下したり、軽蔑するような態度の人などを指しまして、あの人は傲慢な人だ。あの人は高ぶっている。というように批判いたします。そのように私たちは「傲慢」というものを、その人の外に現われる言葉とか態度によって判断しております。しかしながら、傲慢な言葉や傲慢な態度がもし私たちから見えなければですねー、私たちはその人が傲慢な人間かどうかということを知ることはできないんですねー。
けれども表には傲慢な振る舞いを出さなくても、もし心の中で高ぶって、密かに自分を誇ったり、人を見下したり、さばいたりすればそれは同じように傲慢な人間であります。<font color=red>人の心の中まで見通される神さまの御前には、表に現われた傲慢であっても、表に現われない心の中に持っている傲慢であってもそれはすべて同じ傲慢なのであります。</font>しかしながら傲慢はなぜ罪なのでありましょうか。このことは神さまのみことばであるところの聖書によってのみ知ることができます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イエスさまはご自分が神の御子として私たち人間に仕えられる立場のお方でありながら、神さまにそむき、おごり高ぶって、自分の思いを正しいとして生きている傲慢な私たち人間の罪の代価をご自分のいのちをもって支払ってくださるために、身を低くして、私たちに仕えるお姿となって、この汚れた世においでになったのであります。これこそ傲慢の対極にある謙
遜の極みであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この方、すなわち、神のことばとして世に来られて御子イエスさまを受け入れた人々は、人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・では、イエスさまを信じる信仰によってこの神さまの大きな恵みとして神の子どもとされる特権を与えられた私たち信者、キリスト者はもう、傲慢な思いやおごり高ぶる思いを持つことはなくなったかと言えば、ね、悲しいことにそうではないのであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<font color=red>キリスト者はイエスさまが十字架の上で流された聖い血潮によって霊はその瞬間に聖められますけれども、この世におかれている、私たちがこの世におかれている間は、私たちはまだ不完全な肉の衣をまとっておりますから、その肉の衣のゆえにですねー、肉の思いである自我というものが完全に砕かれきっていない</font>からであります。ですから<font color=red>恵みによって神の子どもとされていながら、しばしばこの肉に属する思いというのが顔を出して、そのために傲慢な思いや態度が起こってきてしまう</font>のであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちが自分自身を振り返って、顧みたときですね、自分の信仰をですね、主にある兄弟姉妹と比べてみて、密かに自分の信仰は立派だと。自分の信仰のほうが優れてるというふうに誇ったりですね、あるいは、それによって兄弟姉妹をさばくというような傲慢の罪を犯してはいないでありましょうか。心の中まで見通される主の前で、そんなことは決して今まで一度もしなかった。と私たちは言い切れるでありましょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・また私たちは、福音を伝えた方が心を開いてイエスさまを信じられたときにですね、密かに、自分の信仰によって、自分の信仰の力によって、その方を導くことができたというようなですね、自分を誇る、傲慢の罪を犯してはいないでしょうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イザヤ書には次のようなみことばがあります。イザヤ書10章15節。
10:15 斧は、それを使って切る人に向かって
高ぶることができようか。
のこぎりは、それをひく人にむかって
おごることができようか。
それは棒が、それを振り上げる人を動かし、
杖が、木でない人を
持ち上げるようなものではないか。
このみことばは、私たち信者は主の道具であるところの斧やのこぎりのようなものにすぎない。だから、私たちが福音を伝えた方がイエスさまを信じ、受け入れたのは私たちの努力や知恵の結果ではなくてですね、私たちという道具を用いて主が御霊の力が働かれた結果であるからどうして、ね、道具である私たちが主に対しておごり高ぶることができようかということをこのみことばはですね、言っているのであります。私たちは主の道具にすぎない。
道具が道具を使う者に対しておごり高ぶることなんてできるはずがないのであります。
またペテロが生まれつき足の汚い人に次のように言って、歩くことができるようになったんですね。使徒の働き3章6節。ペテロはこう言いました。「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」こう言われた足なえと言いますか、生まれつき歩けない人が歩けるようになりました。そのときにですね、それを見て驚いて集まって来た群衆に向かって、彼はその奇跡が自分の信仰の力によって起こったのではなくてですね、イエス・キリストの名によってですね、すなわち、自分を通して働かれたイエスさまの御霊の力によって、主ご自身が栄光を現わされたみわざであるという
ことを強調いたしました。
ペテロはご存知のように、大変砕かれた人でありました。主を三度、「私は知らない」と否んだ結果ですね、ホントに彼はその、それをすぐ側で主が見ておられたんですね。それで激しく泣いたと聖書になります。そのように自分がホントに自分の力で主に従って、死にまでも従います。なんて口先では言ったけれども、実際には主を裏切ってしまった結果ですね、彼は心からそれを悔い改めたんですねー。悔い砕かれたんです。主の御前に彼は心が砕かれて、そしてひたすら主のみこころに従うことだけを願っていたんですね。そのために彼はこのような奇跡を行なうことができても、主にのみご栄光を帰して、彼は傲慢の罪をこのとき犯すことはありませんでした。
けれどもイエスさまを信じる私たちがですね、一体なぜ、傲慢を大きな問題として見なければいけないのでありましょうか。キリスト者はイエスさまのかおりである。というようにパウロは言っております。第二コリント2章15節。
2:15 私たち(私たちとは言う間でもなく、キリスト者)
(私たちキリスト者)は、救われる人々の中でも、
滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしい
キリストのかおりなのです。
イエスさまのかおりとは、イエスさまのご性質から放たれるかおりであります。そしてそれは、御霊の実と呼ばれるかおりなのであります。<font color=red>御霊の実というのは・・・・・・・・・愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制</font>です。とあります。このようなですね、いわゆる<font color=red>御霊の実というのは、生まれつきの人間はだれひとり持っておりません。持つことはできない。イエスさまご自身のご性質なんです。</font>
イエスさまを信じる者の中には、恵みとして御霊が、イエスさまの御霊が住んでいてくださいます。・・・・・・・・第二コリント4章7節。
4:7 私たちは、この宝を、(イエスさまの御霊を、)
土の器に中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、
私たちから出たものでないことが
明らかにされるためです。
イエスさまを信じる私たちが、自分の中に住んでくださっている御霊におゆだねし、導かれていれば、その心は主のみこころとひとつにされますので、イエスさまの御霊は、私たちという欠け多き土の器を通してご自身のかおりを放ってくださり、イエスさまご自身のご栄光が現わされるのであります。
<font color=red>私たちは自分の中から出て来る力では決して御霊のかおりを、イエスさまのかおりを放つことはできない者であり、また、自分の力では決して御霊の実を結ぶことはできない</font>・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・パウロは、私たち信者に対しても次のように勧告しております。第一コリント6章の19節、20節。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、
神から受けた聖霊の宮であり、
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、
知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、
神の栄光を現わしなさい。
自分のからだをもって、ということは、自分のからだをただ主のみこころを通す管としてですね、用いていただいて、ということであります。しかしながら、この<font color=red>御霊のお働きを妨げる大きな要因</font>があります。それが御霊をお入れしている器に、さっきも申し上げましたように、<font color=red>なお砕かれずに残っているところの、自分を誇り、また、人をさばくという傲慢な罪なのであります</font>。
キリスト者の傲慢は・・・・・・・・・イエスさまのかおりを放つどころか、 それとは反対に、つまずきを与えてしまう大きな罪であります。ですから、・・・・・・・通り良き管どころかですね、その管に傲慢の罪が詰まってしまっているわけですから、主がお用いになれな
いのは当然であります。
また傲慢は、信者の信仰の成長を妨げます。・・・・・・・・・・・・・・・・第一コリントの3章の1節から3節。
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、
御霊に属する人に対するようには
話すことができないで、肉に属する人、
キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、
堅い食物を与えませんでした。
あなたがたには、まだ無理だったからです。
実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。
あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、
あなたがたは肉に属しているのではありませんか。
そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ローマの8章の13節。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、
あなたがたは生きるのです。
・・・・・・・・・これはどういうことかと言いますと、肉の思いに従って生きるならば、御霊が働くことができないから、そのような信者の霊は死んだも同様であるということであります。私たちは死んだような信者にはなりたくありません。イエスさまのために生きたい。イエスさまのために働きたいと心から願う者であります。けれどもそのためには御霊によってからだの行ないを殺さなければ、すなわち、私たちの
傲慢な性質をですね、意識して捨てることができるようにいつも自分の思いを主に明け渡して<font color=red><b><i>祈り願わなければ</font></b></i>ならないのであります。
なぜなら、このような<font color=red>生まれながらの罪の性質は自分の力では到底変えることはできない</font>んですね。イエスさまによって変えていただく以外には方法がないからであります。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・イエスさまは信者をご自分のしもべとして、ご自分の器として用いようとなさるときにはですね、高ぶることのないように、神さまの御前に無に等しい者であるということを悟らせるために様々な試練をお与えになって、自我をお砕きになるのであります。自我が砕かれるというのは私たちの肉にとっては大変な苦痛であります。
けれどもイエスさまはそれが主のしもべとしての器に整えられるために必要であると同時に、より深く主のみこころを知り、より主に親しく交わることができるように、その試練をお与えになるんですね。それを通して、試練を通して、私たちに主のみこころを示してくださるのであります。第一ペテロの1章の7節。
1:7 信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお
朽ちて行く金よりも尊いのであって、
イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と
栄誉に至るものであることがわかります。
・・・・・・・・今日は、キリスト者が犯しやすい傲慢の罪についてご一緒に今、考えてまいりました。・・・・・・・・・・・<font color=red>主に心の中を調べていただいて、傲慢が砕かれて、自分を主に明け渡すことができるように</font>、始めに読んでいただいた詩篇の19篇のダビデのようにですね、あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。というふうにですね、主の御前にへりくだって、心から祈りながら信仰の歩みをすすめていきたいと切に願う次第であります。最後にみことばをお読みして終わります。イザヤ書の66章2節。
66:2 わたしが目を留める者は、
へりくだって心砕かれ、
わたしのことばにおののく者だ。
どうもありがとうございました。
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