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鼓曲萬来

Rock'n Roll My Way ⑧ ハルヲフォン3

1976
COME ON LET'S GO 

一枚目のCOME ON LET'S GOは失われていた初期のレパートリーが
(ファンキーダッコ以前の)リニューアルされて発表されたものである。
(勿論サウンドは大きく変化したが)

さて、スタジオで近田が
「恒田よー、なんかテーマになるような曲ねえかな?変拍子がはいってさ」
そう聞いてきたので俺はとっさに「COME ON LET'S GOなんてどうかな」そう答えた。
 
勿論その時、このアルバムへの近田のアプローチや
音楽的に考えている事等は深くあまり知らなかったのだが、
もともと、あまりそういう事(コンセプトとか、難しい事とか)は
話し合ったりしないのが俺達流のやり方でもあった、
ひょうたんから駒という事もあるし>時には大きな誤解も生じて楽しいしね。

何故そう言ったかというと、俺は60年代のアメリカンバンド、
『McCOYS』が大好きだったからだ、
得にドラムの奴が椅子に座らないでいつも立って演奏しているのがカッコ良くて、
キースムーンと同じ位好きだった。
McCOYSのHANG ON SLOOPYはLIVEでよく演奏してたんだ。
 
近田は「オーッいいじゃん!知ってる知ってる!それにしようぜ!」と即決になって、
友達の家へシングル盤を借りに行き、その場でコピー、アレンジして、
その日の内にキングのスタジオでRECORDINGしたんだ。
 
COME ON LET'S GOは後年『ロックおもしロック』のテーマソングになった、
案外此の曲を知っている当時の中高生は多いはずさ、
ハルヲフォンの隠れたヒット曲でもあるのだ。
 
他の曲は全て近田のオリジナルである。
 
此の時の奴のアプローチ、狙ってたコンセプト等は彼が色々と語っているのでそれを参考にしてくれ...、。
 
内容自体は俺はよく理解出来ていたか?どうかは別として、
奴は俺等によく「ROCK'N ROLLは無意味な変拍子が大切である」、と言っていた、
おそらくそれは前に一緒に演奏していたアランメリルからの影響なんだと思うよ。
 
又「魚の出て来た日」という映画も盛んに最後のシーンを見てくれと俺達に薦めていた、
絶望感、プラスチツク感覚それは此の頃の奴の口癖でもあった。
 
とにかくソリーナやクラヴィネットまで駆使して俺達の1STアルバムは完成したんだ。
 
完成して喜んでいたら、スーパーマーケットのコッペとスーザンが
「ハルヲフォンのサウンドって、
なんか、う~ん、どっかの村祭りみたい~!」とぬかしやがったんだ!。
 
ところでジャケットの外人風の女の顔、
此れスーザンなのかな?モンローじゃないしな。
 
総合PRODUCE BY YUYA UCHIDAのクレジットがあるが、
祐也さんはRECORDINGに直接関わった訳ではないが、
その後色々と面倒を見てくれたんだ。
バックバンドに使ってくれたり、キャロルとのTOUR,ワールドロックフェステイヴァル、
数々のROCK EVENT、徐々にではあるが
ハルヲフォンの露出はそれによって増えていったんだ。
 

Come On Let's Go

 
ワールドロックフェス
ワールドロックフェスで近田はニューヨークドールズのデヴィット ヨハンセンや
シルヴェインと仲良くなって一緒に浅草に行ったり、
青いジャンプスーツなんか貰ってたようだな..
それからしばらくの間、その青いスーツをステージでよく着ていたよ。
 
又クリエイションの竹田から聞いたんだけど、
ジェフベックのボーヤ達が「あいつはおかま...」と噂していたので>>
「実はああ見えても彼は空手の大マスターなんだ」と嘘ついたそうなんだ..
それからの彼等の態度たるや、
近田も俺に「あいつら、何故か俺を尊敬して恐れているみたいなんだ..
なんでだろう?」と言っていたよ。
 
それからもう一つ、奴は野球はからきしダメなんだ...
後楽園野球場のバックネット集合の時、
ずっと誰も来ないスコアボードの下で待ってたくらいだ、
「何で皆来ないんだよ!」なんて怒っていたよ。
 
下北の地回り
 
という訳で..今回は下北沢でございますな...
下北沢...まあ..あまり馴染みが無い訳で..
どうしても我々の世代となりますと..話は同じ話が多くなって来る訳ですが..。

あれは70年代の初期の頃でしたか...
日本でワールドロックフェスなんてのが開かれまして、
まだ外国のバンドの公演自体珍しかった訳で..
それにそのフェスは最後にあのクリームのプロデューサー、
そしてマウンテンなんていうバンドのBASSIST、
フェリックスパパラルディとの共演なんて言う企画が
「もの凄い事」として扱われていた時代の事でした。

他にジェフベックそしてニューヨークドールスでしたか..
で、私のいたハルヲフォンも大二の四人囃子も出演致しまして..
(後楽園球場でしたか)..ROCK創世の時代でしたな...。

そして最後にワールドロックフェスバンドというのが
前述のフェリックスパパラルディを中心に結成されまして..
そこに近田春夫と四人囃子の森園勝敏も選ばれて加わった訳でございます..。

で、話は下北沢になる訳でして...(前置きが長いんですが)

或日その近田と森園がリハを終えて下北沢を歩いていた時..
運悪く地元の「不良」と身体がぶっかってしまいまして..
当然因縁という..運が悪いですな...。

で、その時の近田の話が今でも下北沢伝説として残っている訳でございます..。


男「おう!このやろ~!どうおとしまえつけるんだ!」
二人「すみません..」
男「すみませんで..すむかよ!どうしてくれんだよ~!」

そのときの近田の啖呵が凄いんです!

近田春夫「何だよ~!俺はな~!
フェリックスパパラルディと一緒にやってるんだぞ~!」
男「うん?..????」


まあ...ちょっとそいつもこいつはなんか変だし相手に出来ないと思ったんでしょう..
出た言葉の人物が欧米ですし(笑)
 
そのフェリックスパパラルディなる者が一体何処の誰で、何を生業としているのか、
そしてどこの組織の何物なのか理解出来なかったでしょうし..
これだけ啖呵を切る以上かなりの力を持った人物とでも思ったんでしょうな..
 
一瞬ひるんで..?マークを出し..多少びびりながら
その場を立ち去っていったそうです
(森園談)。


 
リングサイドMC VS スーパードーベンバンド

COME ON LET'S GOの頃はハルヲフォンとしての活動と並行して、
近田は谷啓とスーパーマーケットや
ケントスのダーテイ30’Sなんかの活動をしていた、
俺は俺で営業セッション用のリバプールOLDIESバンドを持っていて、
よく青山や麻布のLIVE HOUSEクラブで営業してたんだ、その時のメンバーは......
 
LEAD VOCAL  恒田義見
VOCAL 大貫憲章(評論家)
GUITAR 小林克己
GUITAR 佐久間正英(四人囃子)
PIANO&SAX  中村哲(安全BAND)
BASS 高木英一
DRUMS 岡井大二(四人囃子)
解説評論(GUEST) 近田春夫 
という大所帯でね、解説評論ていうのはよくわからんだろう?
これは画期的だったな。
 

つまり俺達が演奏しているのと同時に、近田がマイクで色々説明する訳だ。
 
「あっ!今、小林がメモリアンプのですね、4から5に上げましたね...どうでしょうか?
今日はECHOチェンバーのかかりもいまいちですが...さあどうする、
あっ!Amから転調だ!まいった!トレモロアームです!決まった~!」
こんな調子でリングサイドアナのように随時演奏を説明するというポジションなんだ、
これは当時では理解できないよね、
客から「ウルセーナ!」って罵声を浴びていたよ。

今やったらかなり受けるんだろうけど、早すぎたよ近田。 
結構客入ってたからな~、これ実際に見た人いますか?。
 
それから、その時メンバーに入れて貰った大貫はこう言っていたよ..
「つねやんさー、やっぱり此処に居る人達って本物のPROなんだよな、
PROって凄えなー!信じられねえよ、
だってさ俺が何回もリハーサルして曲覚えるじゃん、
なのになんで打ち合わせも練習もしないで
全員でやった事も無い曲すぐステージでできる訳?
どういう風になってるの?俺さ、自信無くしたよ、もうPROに失礼だからさ、
評論で生意気な事、もう言わないよ」。

いやいや大貫よ、此処に居る人達は特に生っ粋の職人さんなんだよ、
だけどORIGINAL等を作る時は普通はこうは行かないんだ。


 
悲願のBOOKER T 
此の頃もう一枚キングから企画物のアルバムを出しているんだ。
タイトルは「マイルドメンソール&シガレットカンパニー」という奴で
近田の悲願、偽BOOKER Tものだ。
確か近田はBOOKER Tが日本に来た時、
このアルバムを彼に渡しているはずなんだけど、
まあ一種のラブレターみたいなものだよ、どうだった?なんて聞いても、
奴にしては珍しくお茶を濁していたから、まあ失恋に終わったんだろうな。
 
マイルドメンソール&シガレットカンパニー
HAMONDO B-3 ブッカーC
TELECASTERステイーブ プリッパー
FENDER BASSドナルドダックタマ
DRUMS アル ベンチャン ジュニア
収録曲
VOL1
M1 LAWDY MISS CLOWDY
M2 RUNAWAY
M3 SEE YOU IN SEPTEMBER
M4 LOVE PORTION No9
M5 BE BOP LULA
M6 I FEEL GOOD
M7 WHEN A MAN LOVES A WOME
M8 TIME WON'T LET ME
M9 DIANNA
M10 TROUBLE
M11 LOVE LETTER IN THE SAND
VOL2
M1 BEATLES MEDLEY
MY BONNIE~TWIST &SHOUT~FROM ME TO YOU~I SAW HER STANDING THERE~YESTERDAY~OB LADI OB LA DA~IN MY LIFE~LUCY IN THE SKY WITH DIAMOND~LADY MADONNNA
M2 BABY IT'S YOU
M3 HOLD ON I'M COMIN'
M4 VACATION
M5 OH CAROL
M6 BIG HUNK OF LOVE
M7 MY GIRL
以上、全曲インスト一発録り!
しかし今更のように思うけど..
こんなハルヲフォンはリアルタイムでも想像付かないだろうな

本当に好きだったのよ..MEMPHIS SOUL!..そんで近田のハモンドオルガン!

泣けるぜ..、あっ、とこんな音源、もう時効って事で..
アナログからだから多少針の音とかも、それも又、粋な訳さ。
 
NHKのオーディション

NHKのオーディションは一回で合格した、それは本当の話さ、
一緒に受けたのは、ピンクレディー(時代だね)、ゴダイゴといった連中さ...
何故受かったのか?ハッキリ言えば此れは演奏力とか歌唱力の問題ではなく、
ひとえに近田のMCが審査員に受けたからだろうと俺は思うんだ。

だってガチガチにあがっている新人達を何人も何組も審査して、
緊張感の中、審査員だって相当飽きてるはずなんだよ、
そんな時、こんな話しがうまくて、面白くて、場慣れした、慇懃に腰の低い奴見たら、
合格にしちゃうに決まってるだろう、
藤山一郎先生だってニコニコしてたのを覚えているよ。

ちなみにその時、俺は近田に
「あの今のピンクレディーみてえのは必ず売れるんだろうな。」って言ったら、
近田は合格したという自信と勢いで
「あんな、.....な姉ちゃん達、絶対売れる訳ねえじゃん、関係ねえよ」って言ってたよ。
近田はあんまりピンクレディーに関しては多くは語れんだろう。
 
ギンザNOW
ハルヲフォンのメディアへの登場は、
毎週火曜日TBSの「ギンザNOW」へのレギュラー出演を経機に
一気にその様相を変化させて行ったんだ。
 
それまでの客層はせいぜい東京周辺のROCK少年達が
俺達の手元をじっと見ているそんな状況だったんだが...
出演してからは一気に若い女の子達が増えて来た。
 
俺達ROCK BANDみたいなコアな感じのステージの雰囲気から、
「ハルオチャーン!」「タマチャーン!」「ヨシミサーン!」「プリー!」なんて
キャピキャピ、グンギンな感じに変わって行ったんだ、
勿論そっちの方が派手でいいに決まってる、
ただ、演奏の内容だけは一切変化はさせなかった。
いやむしろ彼女達を巻き込んで更に複雑な状況になってきちまったんだ、
 
いきなりフォーフレッシュメンのようなオープンハーモニーから
グリッサンド付きポルタメントコーラスなんてあの子達に理解出来る訳ないだろ、
アーッ間違えた!が関の山さ、
それに彼女達が生まれる前の、このかた聞いた事も無いような古臭いGSの曲や、
60年代のPOPSやR&B,、
其処に来ている誰も知らないようなレトロなしぶい曲ばかりでさ、
おまけにオリジナルのロックンロールはどこかにこっそりわからないように
変拍子がくっ付いてるんだからね..
手拍子やポンポンは途中で必ずずれてくるに決まっているんだ、
それでも俺達のステージアクションやMCで結構盛り上がってたよ。
それがハルヲフォン、イコール、コミックバンドの
誤解を産む原因だったのかもしれないな。
 
俺達もその様子を楽しんでいたけど、勿論、そんな若い女の子の中に混じって、
こっそり隠れハルヲフォンフアンもいてね、
肩身の狭い思いで座っていたんだろうな、
ポツリポツリと見かけてはいたんだ、そういう奴、
 
そして忌野キヨシローなんかはRCで丁度デビューするかしないかの時期でね、
よく見に来ていた気がするよ、
ユーミンは(まだ荒井由実)もともとモップスのフアンだったんだろう..
俺達が「朝まで待てない」をサイケデリックアクション入りでやってたから、
ステージまで花束持って駆け寄って来てくれたりしてたんだ、
(まあ、近田が仕込んだのかもしれないな、
効果としては普通の格好だから誰もそれが本人とは気付か無いだろうけどね)。
 
恋のTPO

そんな調子でやっていたんだが、或日、
確か六本木ケントスの営業の日だったと思う、
それまでおかっぱ頭だった近田がいきなりあのツンツンパンク頭で現れたんだ。

みんなびっくりしてね....それで始まったんだ...
「もうピストルズしかないぜ!俺はT.REX以来久しぶりに音楽的に感動してるんだ!
もうこれっきゃねえ!聞いてくれ!MY WAY !」
あの口調でまくしたてたんだ。

そしてもう一方で、カメラマンの
小暮さん(ハルヲフォンレコードのジャケ写撮った人)の影響かな..
ちょくちょくアトリエへ遊びに往って、歌謡曲に啓蒙されて、
郷ヒロミ、平山みきの方向にもかなり奴は傾倒していたんだ。
 
その二つの方向が微妙に重なりあって、
安全ピンの代わりに、せんたくばさみといった方向に
ベクトルが向かったんじゃないだろうかな?
まずそれの始まりが2枚目のシングル「恋のTPO」の時、
少しずつサウンドが変化して行ったんだ。
 
此のレコーデイング(シングル)の時のドラムは金沢じゅんがやってる、
俺はコーラスで演奏はしてない。
それまでは>『外国人から見た東京』にこだわってたんだが、
その頃を境に世界観はちょっと変わって行ったんだ。
 

 

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