りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

「橋」がつなぐ/オザケンの宇宙論(5)

2019-12-17 03:55:44 |  音 楽 

 

「高い塔」は、ある「幻」から歌いはじめる。

「時間軸を曲げて」で「我ら」を撃つ「幻」という言葉は、

「神秘的」で何度も繰り返されることになるフレーズ。

 

「神秘的」では、「幻?」に「イスラム教の詩のように」「キリスト教の詩のように」

そして「台所の音とともに」時を刻み、愛を讃う、日々の風景や日々の営みに

「祈り」を見る態度が示されているようなのだけど、

次の「高い塔」へのつながり方にハッとする。

「高い塔」では塔から放たれて天上へと昇る「その光線」を「幻」としている。

この「幻」が直線的に、抽象的に天上を昇っていく、

いわば「垂直的」な「祈り」であるならば、

「高い塔」が神殿のように見えても不思議はない。

 

「ねずみ小僧」が住んでいたという「橋」のあたりは、

きっと日本橋には違いないのだが、「ねずみ小僧」登場のおかげで、

暗闇の中、今度はものすごいスピードにまで意識が加速され、

街道を一気に下って、海を越え、あっという間に列島をつなげていく。

「ねずみ小僧」はいわば夜に展開する「水平的」な運動というわけだ。

ところで、この歌を聴いて僕ははじめて意識したのだけど、

江戸時代から令和の現代にいたるまで、

日本の道の始点とも、基準点とも呼ぶべき場所が「橋」という、

向こうとあちらをつなぐ場にあるという事実。

ほとんど宙に浮いていると言いきれる抽象的な場が中心であることは、

なんとも日本的な事実ではないか?

 

およそ「茶事」なり「茶懐石」のことをファンク・ビートで歌ったポップスなんて、

いまだかつて存在しただろうか?

少なくとも、「小さな箸」で「全宇宙をとりわける」その作法の美しさならば、凄絶と呼べる。

ところで、ここに登場した「箸」=「ハシ」が、僕らをなにとつなげているのか?

については正しく問われるべきである。

「箸」が僕らに何を受け渡しているのか?

「箸」を介して、僕らは何を受け取っているのか?

「箸」をつかって、僕らはどういう風に宇宙にアクセスしているのか?

箸があまりにも日常的であるが故に僕だってその美しさにはだいぶ無自覚。

これで毎日つかっている箸には結構こだわっている方だと思うのだけど。。。

それにしたって、日々の生活で「あなたは全宇宙をとりわけているのだ」

と指摘されれば、思わず身震いしてしまう。

 

「七色の橋」は、本当の虹に違いない。

歌と直接に関係することではないかもしれないけど、

リリースのタイミングがあまりにもシンクロしていたので、

先の即位礼正殿の儀のその日に、

雨上がりの東京の空に架かった虹のことをついつい思い出してしまう。

のだが、虹にはいろんな意味合いが「約束」されているものだから、

その「約束」の上から飛び立つ「カラス」のことだって気になって仕方ない。

虹は「架橋(かけはし)」であり、「梯(かけはし)」でもあるけれど、

いまは虹を「七色の橋」と呼んだことの方に注目したい。

「高い塔」という歌にあっては、「橋」は極めて重要な概念だから。

 

「橋」の重要さはさらに強調される。

天から「star dust」が「森に 海に 橋に」と落ちてくる。

「この掌の上に」も。

「star dust」は「祈り」への「こたえ」か?

宇宙からの応答か?

それとももっと大きな(あるいはもっとささやかな)、別の何か?

わかりやすい答えはここにはないのだけど、

それでも宇宙からの贈り物を「この掌の上」で日々受けと止めているのだ

ということは歌われていて、それが「橋に」も落ちてくるのは確かなことらしい。

 

「LIFE」での「東京タワー」のイメージが強烈で、

オザワくんの歌う東京には、いつもついてまわっている感じがしたものだけど、

「東京の街に孤独を捧げている」と擬人化された「高い塔」が

ぽつんと「ひとつ」ある様子が歌われているのを聴けば、

それはもはや「東京タワー」ではないのだろうか?

もし、映像でリアルに近いものを示せと言うなら、

直感的にはオノ・ヨーコ氏のイマジン・ピース・タワーのような有り様が

近いんじゃないか?とか、とりあえずは思う。

それだって、敢えて言えばだけど。

だいたい、あの光に「色彩」の「透明な響き」はない。

 

現代の東京で「高い塔」と言うなら、それは「東京スカイツリー」ということに、

いちおうはなるのかもしれない。しかしながら、曲が終わった後に

僕に思い浮かんでいる「高い塔」は少なくとも「東京スカイツリー」ではないし、

オザワくんはその名前では呼んでいない。

「高い塔」とだけ言う。

 

「塔」というモチーフ、「塔」のイメージはオザワくんの音楽ではあまりにもなじみ深い。

「ヘッド博士の世界塔」での正体不明な「世界塔」、

『「東京タワー」から続いてく道』『「東京タワー」を過ぎる急カーブ』と、

何気ないけど大事な青春の1シーンに織り込まれている「東京タワー」の象徴的なイメージ。

この「高い塔」はそのいずれとも違っていて、どこまでも「直線的」で「抽象的」で、

なにより垂直的。「天上」へと昇っていく「塔」と「その延長(光線)」か?

 

いや!時代を超えてきた象徴的な「神殿」、これが放つ「色彩」が

「昭和平成」を越えてきた。その「色彩」がより透明な「響き」を放っているのだ。

う〜ん。。。これってやっぱり「東京タワー」なんじゃ。。。?

 

だけど、オザワくんは「高い塔」とだけ言う。

 

そうか。。。わかった。O.K.

そうであるなら、「高い塔」は「高い塔」であり、「ひとつ」は「ひとつ」なのだ。

ただし、それは「曼荼羅」のようだと。

 

「So kakkoii 宇宙」には、「虹」がいっぱい出てくる。

「いちごが染まる」で歌う「虹色の瞳」が「確かに見てる」というのが、

前々から気になっていた。

「アルペジオ」では日比谷公園の噴水が春の空気に「虹」をかけ、

「高い塔」の七色の「虹」からは「烏」が飛び立つし、

「薫る」では「どしゃぶりの雨」が「未来の虹」をかける。

 

この「虹」はいつから登場しはじめたんだろう?と考えてみたんだけど、

ふと思いついた先は「時間軸を曲げて」だった。

そう思ったら、聴きなおすしかない。

どうして新しいアルバムに入らなかったんだろう?と思っていたこの曲を

何度も聴きなおしてみる。ここに登場する「虹」はなんというか、

とても力強い。そして心強い。

我らを撃つのは、「嵐の空を襲う」「優雅な虹の弧」のような

「物狂おしい日に見た」「幻」。。。

「虹」と「幻」は、不可分な「ひとつ」の現象として歌われている、

ように僕には聞こえてくる。

 

「時間軸を曲げて」に満ちている決意にも似た思いが、

「So kakkoii 宇宙」においてストレートに結実しているように僕には聞こえるのだが、

ひとつひとつの言葉が横断的に、あちこちでキラキラと響き合っているので、

例えば「虹」や「幻」などの言葉も自律的な運動をしているかのような、

揺らぎながら瞬いているかのような、そんなイメージを投げかけてくる。

 

羽田上空から眺めたであろう夜の東京、高速道路を走るクルマから見える夜の東京、

夜の森とチョレートのスープ、上に開けた夜空、

カボチャの中にロウソクが灯され、都市の明かりが生み出す闇に隠れた何かを語りだす。。。

このアルバムでオザワくんが「夜」をこれほどたたみかけてきたのには

なにか訳があるのだと思うけれど、明確になにか言える訳はずもないのに、

その「夜」をあたりまえのように、不思議なほど違和感なく受け止めている僕自身がいて、

それが僕にとってはこのアルバムを聴いているときに感じる「近さ」の理由のひとつなのだと思う。

 

この夜の暗さにあって、「高い塔」から放たれる「幻」は「透明な色彩」の「響き」の、

さながら「曼荼羅」のような有り様を見せているのだけど、

曲中、別に「色彩」が表れるのは「七色の橋」から「烏」が飛び立つシーンだ。

それは言ってみれば白昼に見る「幻」に等しい。。。

「時間軸を曲げて」で予感されていたような。

すくなくとも、夜と昼の「幻」には対称的な意味の釣り合いを見ることができそう。

だとするなら、もはや「幻」は「虹」とは切り離せない。

「虹」は七色の「橋」であり、「橋」は「幻」のような有り様さえ見せる。

「その光線」は「幻」であり、人が地上から天上へとかける夜の「虹」であり、

直線的で抽象的な「橋」であると。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オザケンの宇宙論

「高い塔」に吼える?/オザケンの宇宙論(2)

「フクロウの声」と「大きな魚の水音」から「宇宙の力」へ/オザケンの宇宙論(3)

言葉と音の匂い/オザケンの宇宙論(4)

「橋」がつなぐ/オザケンの宇宙論(5)

連想を呼ぶ/オザケンの宇宙論(6) 

 

 

 

 

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