インターネットの新保守主義を分析する

以前から興味のあった2chニュース速報の大多数派となったネット右翼と呼ばれる人々の思想の源流と現在の考えを分析します。

民主党政権の誕生とネット右翼の崩壊

2009年09月29日 | 筆者雑感
久しぶりに更新する。

その間に世間ではいろいろな変化があった。一番の変化は政権が交代したことだろう。そしてこのブログを書き始めた頃にはネットでは保守派・ネット右翼が主流であったのに、今ではネトウヨと蔑ずまれ嘲笑される存在に凋落してしまったことだ。

私もこのブログを更新するのが嫌になったのも、あるときを境にネット右翼と呼ばれる人たちに違和感を感じてきたからだ。
あまりにも主張が先鋭化というか極端な方向に進みがちになり情報源の重要性や現実志向、歴史の客観性に立つという初期の我々が好んできた概念がまったく失われてしまったことでついていけなくなってしまった。

私以外の多くの人も同じであろうと思う。
最近のyoutubeやニコニコ動画等の動画サイトにアップロードされる活動的な方々の恥知らずな振る舞いをみているとネットでのこの運動はもう終わりだなと感じるまでになった。

だから、知らない間にこのブログも閉鎖しようかと考えたが、私たちが追い求めてきた現実志向や歴史の客観性という概念はこれからも残していかなければいけないと考えている。そしてそれが失われつつある今、私は日頃の出来事をそういった視線で語ってみるのも面白いと思った。

ので久方ぶりではあるがまたブログの更新を再開していきたいと思う。

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働きアリの三割の論理

2009年02月04日 | 筆者雑感
昔、授業でこんな話を先生に聞いた。働きアリを観察すると熱心に働く働きアリが七割で怠ける働き?アリが三割であるという、実験で怠け者のアリさんを取り除き、働き者のアリさんだけにすると、なんと働き者のアリさんの中の三割が怠け者のアリに変化してしまったという。

社会主義社会では労働時間が平等に与えられる。
しかし、同じ労働時間であっても勤労者と怠業者にわけられる。

社会主義型国家の多くでは怠業者は弾劾され強制収容所に入れられ、強制労働に従事させられる。つまり国家暴力によって強制的に労働させられるのである。

資本主義国家では怠業者は資本の有無によって区別させられる。富裕であれば怠業が許される。しかし、富を持たない者であれば怠業は自然の法則に従い餓死に繋がる。

怠業が罪かと問われれば、社会主義国家では怠業は罪である。しかし、資本主義国家では怠業は罪ではない。

共産主義国家では生活品が必要に応じて国家から与えられる。共産主義国家では労働が必要に応じて課せられる。これがそれぞれの主義による理想であると思う。資本主義国家では富が十分で労働の必要でない者はなるべく労働はせずに、単なる消費者になってもらったほうがありがたい。

日本共産党について

2007年06月12日 | 筆者雑感
夏の全国参議院選挙は与党にとって、想像以上の悲惨な結果になるであろうと筆者は考えている。年金不払い問題、格差社会、閣僚の自殺など安倍には逆風ばかりである。

アメリカで共和党が力を落とし、民主党が伸びてるのにも日本国民の心理に影響があるだろう。日本の国政選挙は国際情勢にも影響されやすい。とくにバブル崩壊以降、アメリカのクリントン政権によって苦しめられ大不況を味わった日本の経済人には、アメリカに追随しないとならないという心理的圧力があるように感じる。

さて国内の野党で民主党が議席を増やすと思うが、伸び率では共産党が躍進しそうな気がする。たしかに日本共産党は地方で汚職、改革にかなりの効果を挙げていて、政党助成金も受け取らずにクリーンなイメージを保っている。
55年体制崩壊以降もどの党とも連携をせず、年金問題、格差社会を一貫して批判してきたのも共産党のみである。

しかし、日本民主党、日本共産党という組織がどういう団体か考えたほうがいい。

セカチューの『喪失感』

2007年05月07日 | 筆者雑感
かなり古いが知り合いから『世界の中心で愛をさけぶ』という本をもらった。
ひどい本だから読むと別の意味で楽しいということでGWに読書した。

内容は一昨年くらいにテレビ等で筆者はだいたい聞いた。
恋人を白血病で失うという話だ。文章はすらすら読みやすく昔、中学生の頃に読んだ超訳を思い出した。こんなに読みやすい小説は久しぶりだった。
筆者は社会人になってからは、海外の短編小説が中心でこの年で中篇くらいの小説を軽く読むのは心地よかった。
ただ読み終わって内容の薄さで読みやすかったのだと気づいた。
あとどこかで読んだようなプロット・・・

これは村上の『ノルウェイの森』の2番煎じだったのだ。
ただ完全にテーマが同じというわけではない。
テーマは『ノルウェイ』を誤読したとしか考えられないくらい稚拙だった。
セカチューの著者は純文学をわかっているのだろうか?

セカチューにはたびたび喪失感という言葉が出てくる。
しかし、これは村上春樹の喪失感とはちがう。
セカチューでは主人公の朔太郎は喪失していないのだ愛を(笑)。

村上文学のいう恋愛での喪失感とは、恋人を失うと恋人が同棲していた部屋から私物を持ち去ってしまうかのように心の中の恋人への愛情も持ち去ってしまう。その持ち去られ心に空いた隙間ができることの苦痛が表現されている。この隙間を癒していく過程が再生なのだ。『ノルウェイ』では恋人が主人公の思春期と一緒に愛情を持ち去っていくという認識を主人公は感じていた。

しかし、セカチューでは死んでも愛は残り隙間はできない。喪失とはどこにできる喪失なのだろうか?いまいちわかりづらい。筆者がもしあまり本を読んでいなければなんとなく喪失感という単語で理解できたかもしれない。

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石原氏が再選した理由

2007年04月09日 | 筆者雑感
石原慎太郎都知事が都知事選で当選した。

別に驚くことではない。誰もがこうなるだろうと考えていただろう。一部の狂信的で自分たちが正義と考えている視界狭窄なサヨクの人たち以外は・・・

石原支持者は人格で選んだと世論ではでているが、ネット右翼たちが石原を支持した理由はおもしろいからと必死になって石原氏を追い出そうとしているサヨクをがっかりさせたかったからである。

石原氏が都知事になって何か変わったかは筆者自身の日ごろの実感では歓楽街が安全になったということだった。新宿では呼び込みが深夜12時以降はいなくなった。しかし、これは全国の歓楽街では今は当たり前のようになっていて特に石原氏の功績ではないということを最近になって知った。
それ以外のカジノ構想、中小企業の金融市場、新銀行東京などは実際は計画だけでパッとしないものばかりだ。
しかし、さまざまな発言がいつもマスコミを賑わせ楽しい人なのは事実だ。
この点は小泉前総理も同じだった。
今は面白い奴と思わせるような人でないと政治家でも成功はしないのだろう。
その点、安倍氏はそういった人間的魅力には欠けていると思う。

石原氏はさまざまな舌禍を起こしているとマスコミはいうが、ネットではそれはいつも正論として判断される。むしろ浅野氏を支持した勢力の発言のほうが異常だと考えられている。

今回の選挙では反石原勢力はネガティブキャンペーンしかやってこなかった。こうしたサヨクの必死さが、陰気で粘着質で人の揚げ足ばかりとるサヨク主義者の気味の悪い性質を都民にさらけだしただけであった。
こうした勢力に担ぎ上げられピエロになってしまった浅野氏にはかわいそうというしかない。

多くの都民が石原氏より邪魔だと思っていたのは、そういった気味の悪い連中なのだ。

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チップの文化のない日本

2007年01月22日 | 筆者雑感
毎回、米国に行って思うのは、飲食店の給仕のサービスの良さだ。
日本ではメイド喫茶が人気?であるそうだが、これは日本には給仕という文化が大衆レベルではないためだろう。お座敷に呼んだ芸者等にはチップのようなものはあるかもしれない。しかし、普通の飲食店でウェイトレスにチップを払うということはまずない。
すこし高級なレストランに行くと会計時にサービス料が代金として含まれていることがあるが、これだと少し損した気分になってしまう。
以前、何かのアンケートで日本も欧米のようにチップの文化が必要かどうかを聞いたのを見た。正確な結果は忘れてしまったが、圧倒的な多数はチップの文化は必要ないと答えていた。日本で導入すると必ずしも払わなければならなくなってしまうようになるのではとの恐れから多くの人が反対しているのだろう。
アジア人はサービスを無償や安価で提供する人に対しての感謝で報酬を与えるということは少ないと思う。むしろそういったサービスに従事する人は一つ下に見られている。日本はアジアの中ではそういうった蔑視は少ない方だと思うが、だが少しは儒教の礼とか序列の教えが残っているのだろう。
サービス業は客は神様だというが客とサービス提供者は同じ人間であると理解していなければならない。そして良いサービスというものは誰にでもできるものではないということも知らなければならない。
インターネットでも質の良いフリーソフトを提供している人たちがいるが、海外だとそういうフリーソフトの開発でもユーザー等は寄付をおこなうという。そのソフトで便利という恩恵を受けているユーザーは開発者を援助し開発意欲を奮い起こすことで、よりそのソフトの機能を充実させ、さらなる便利という恩恵を受けられるのである。
消費者の中には従業員のサービスよりも価格が第一という人も存在する。消費者の多くがそのように考えていると思う。最近はメーカーも価格競争こそがすべてと考えてると思う。膨大な利益を貪ってい分を減らして消費者に還元するという意味での価格ダウンは当たり前のことであるが、ただ今、おこなわれている価格競争とはコストを下げることであり、それは質の低下につながりあまり消費者にとって有益だとは思えない。
話はチップに戻るが、欧米人はチップを払うことの目的はサービスの向上だと考えている。それは自分たちに返ってくると考えている。これは奉仕の精神だといえよう。欧米で大学や福祉団体等への寄付が多いのもキリスト教的奉仕精神だと思う。
日本人ではどちらかというとチップを払う理由があるとすれば、仏教的な考えの『徳』を積むためであるという感覚なのではと筆者は考える。いい買い物をしたときにチップを払えば、顔を覚えてもらえる。相手から好意を得ることができる。それが日本人がたまにチップを払う理由である。

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ネット右翼は安倍政権には外交のみを望んでいた

2007年01月06日 | 筆者雑感
安倍内閣の支持率が大幅に落ちている模様だ。巷の予想では今年の夏まで持たないかもしれないといわれている。

安倍晋三といえば保守の旗手として期待されていた政治家だ。しかし、ネット右翼たちは安倍が政権を追われることは今は大歓迎だと考えている。

なぜだろうか?

簡単に外交がまったくネット右翼が期待していたものと違ったのだ。そして期待していなかった内政に大きく手をつけようとしていることがネット右翼の反感を買っている。

当初、ネット右翼たちが安倍氏に期待したのは、特定アジアと呼ばれる国に対して厳しく対応できると考えていたからだ。その中でも特に北朝鮮と日本国内の北朝鮮シンパ団体等への締め付けが望まれていた。多くのネット右翼は安倍政権には国内の改革については何も望んではいなかった。安倍氏の能力や実績的には無理だとちゃんとわかっていたのだ。安倍氏は北朝鮮だけやってればよかったのである。

ネット右翼たちは特定アジアの反日の根底は地域間の主導権争いであったり、時代遅れの特定アジアの民衆たちの権力者たちへ不満をそらすための策略であり、また特定アジアの人々の劣等感であるという認識をもっている。なので日本がいくらそれらの国々と関係を良好にしようと外交努力をしても無駄であるし、国益を害することだと考えている。

ネット右翼たちの多くは外交とは戦争にならないように親日国を増やすことだと理解している。だから戦前の日本が陥ったような国際的孤立というが最低の状況だと考えているし、あってはならないことだと主張する。親日国をてっとりばやく増やすよい方法とは、親日国には日本の外交待遇を良くし積極的に国家関係を良好にし、反日国に対しては良好にしようと無理に努力する必要はなく親日国と区別し日本からの恩恵を与えなければいいと考えている。

ネット右翼たちは最近のアジア外交での無理に作られた友好イメージというのには飽き飽きしているのである。特定アジア国家に対してよく日本外交でいわれる外交的配慮という言葉の裏には明らかに子供にたいしての大人の対応という意味があるのだとネット右翼たちは感じている。
しかし、ある程度、特定アジア国家の経済や国際的地位も発達してきてこの先も日本がずっと特定アジアの駄々に日本が付き合い続けて行くことは望んではいないのである。

なにより期待していた北朝鮮への制裁も効力なく、核開発を許してしまった今となってはもう安倍氏の北朝鮮問題の手腕も疑問を抱かざるを得ない。

また国内ではまったく不法を取り締まらずに、不法を合法に変えてどうにかしようと画策しているようにみえる。法律が守れない人が多いから法律のほうを変えてしまおうとはおかしな話だ。法律が守られないのは取り締まりが手ぬるいからではないだろうか?やはり安倍氏では役不足であったと感じてしまう。

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スポーツでのナショナリズム

2006年12月21日 | 筆者雑感
昨日、世間で注目のあのボクシングの世界戦をテレビで観た。
亀田くん、ひとまず勝利おめでとう。でも筆者の中ではなんとなく胸がすくような勝利ではなく、後味が悪い。
もう彼と彼の兄弟たちの試合は二度と観ないでしょう。

というかもうスポーツという世界に、日本は何かを求めるような時代ではないのかもしれない。サッカーにしてもバレーにしても完全なショーに成り下がってしまったなと思う今日この頃だ。最近はスポーツの世界戦で熱狂する人たちをみるとすごい違和感を感じる。
やくみつるさんが亀田のボクシング番組を安くさい美談といっているが、ボクシングだけではなくスポーツそのものがメディアによってそのように成り下がってしまったんだなと感じてしまう。

筆者は昔はよく深夜放送でボクシングを観ていた。どちらかというと世界戦とかの華やかなボクサーよりも、世間のどこにでもいるようなフリーターのような若者が、強さへのあこがれや世界という夢を抱いて死闘を繰り広げている日本ランカーたちに美学を感じた。そういった死闘を勝ち残り日本チャンピオンとなったボクサーが世界へ挑戦するというドラマがボクシングの魅力だと思ってた。

亀田選手は国内でそういった競争をした選手ではない。デビューから戦歴の怪しい外国人とのみ試合をして、とても短い期間で世界戦の挑戦も手にした。
筆者は同じ日本人だからという理由だけでは、応援したいとは思わなかった。

亀田選手には美学を感じないのだ。

我々がW杯で日本を応援したのは、選手が日本人だったからではないと思う。Jリーグで彼らの戦いを観てきたり、どこにでもいた日本のサッカー少年たちが競い合いながら成長しそれで選ばれた代表だったたから応援したくなったのだと思う。

もしあなたの身近に外国人のスポーツ選手がいて、その選手と寝食を共にし、試合や練習の努力を身近で観ていたとする。そしてもしその外国人選手があなたがあまり知らない日本人選手と試合をするようになったとき、あなたはどちらを熱心に応援しますか?

筆者はスポーツでは愛国心を感じない。スポーツナショナリズムというのはナンセンスだ。

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