くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

自転車おじさん

2016年11月20日 23時24分57秒 | 比較的短文ではない文章
アメリカ大統領選挙で、ポリティカルコネクトネスという言葉が注目されましたね。要は、政治的正しさのことです。ドナルドトランプ氏は、ポリティカルコネクトネスな言葉に縛られなかったのだ、と。

このポリティカルコネクトネスについて考える時、僕はことしの夏ごろに見たワイドショー映像を思い出します。

それは中国の大きな幹線道路だったと思いますが、そこをリヤカーをつけた自転車が走っていた。リヤカーにはたくさんの雛鳥。要するにトンデモ映像として紹介されていたわけです。なんだこれはと、遅れているなと、笑いましょうということです。

でも、少し立ち止まって考える必要があります。ワイドショーに乗せられてはいけない。公平な目を持ちましょう。

自転車に乗っていたのはおじさんだったと思いますが、この「自転車おじさん」の立場で考えれば(彼が本当にそう考えていたかは別にして)、いままで通っていた道に、突然大きな舗装道路ができただけなのかもしれない。「通りやすくなったなぁ。でも自動車が多いなぁ」くらいのものかもしれない。「どうしてリヤカーをひいてはいけないんだ。そんなルールを勝手に押し付けるな」と言いたいかもしれない。

日本人はその映像を見て笑うかもしれないけれど、それはルールの側にいる人間だからですよね。反対側から見れば、勝手にルールを押し付けてバカにしているようにも感じる。

僕は思うのだけど、本当のポリティカルコネクトネスとは、このように引いて物事を見て、客観的に落とし所を決めることです。決してどちらかに偏ることではない。だって、正しさは時に相対的なんだもの。

一方で、アメリカのポリティカルコネクトネスは、多分にルール側的にすぎる。自動車おじさんの側にはない。そうは思いませんか?

人権を守る、人種の壁を作らない、自由を守る、男女平等、動物を愛護する、正義、正義、正義、正義…。

守らなければならないものは、確かにある。でも、その中に形骸化したものはないだろうか。形にとらわれて、自転車おじさんの存在を忘れたものはないだろうか、ということです。自由の国アメリカで、政治家の発言は常にそういったコネクトネスを求められます。縛られます。

ルール側のことを考える時、僕は洗練ということを思います。ルールの方に、大多数の方に合わせて、物事がスムーズになるように余計なものを切り捨てていくこと。自転車おじさんを排除することです。

トレンディですね。実に。

全ての国は、発展の過程でそういった洗練を経ていきます。世界に冠たるアメリカは、特にその傾向が強いのでしょう。世界でもっとも洗練された政治、社会、国民になりましょう、と。

だから、中国だってきっと洗練を経ていくのです。自転車おじさんは、いつの日かきっといなくなるでしょう。国民性は多かれ少なかれ残るとしても。

でも、自転車おじさんを笑えない。それが真のポリティカルコネクトネスだと僕は思うのです。

そもそも、トレンディなくろねこに言わせれば、銃社会のアメリカは自転車おじさんです。いやはや、全くトレンディじゃないね。遅れている、前時代的、スマートじゃないんだ。

なんてことを考えるのはルール側であって、社会の成り立ちと風習を理解した上で、両極に思いを馳せながら語るのが、ポリティカルコネクトネスというものなのですよ。

ねぇ、トレンディでしょう?