くろねこさんの話によれば

くろねこが思ったこと、考えたことを記すだけの日記なのだと思う。たぶん。

頼ろう

2016年11月17日 21時50分40秒 | 比較的短文ではない文章
自分の力だけで生きたいと思っていた。誰にも頼らず、強く独立していたかった。それが自立だと思っていた。

幸せな高校時代だったとは言えない。部活だけが僕を支えていた。それだけが極端に幸せで、楽しくて、全てだった。ほかは何もいらなかった。もし可能だったなら、僕は学校なんて休んで、たくさん眠って、一人で勉強して大学に行ったことだろう。授業なんてほとんど聞いちゃいなかったから。僕はほとんどの授業を眠って過ごした。だから何も残ってはいない。

大学に進んで、僕は周りが敵ばかりのような気がしていた。病んでいたのだろう。あるいは青年期の棘が自分を傷つけていたのか。競争とか見栄とか、そういった周囲の言動が嫌で嫌でたまらなかった。夜中によく散歩をした。よく走った。よく本を読んだ。映画もたくさん観た。通った道は、全て体に確かな感触として残っている。冬を前にした寂しさ。落ち葉を踏む時のカサカサという音。夏のせせらぎ。カモの群れ。朝焼け、鉄塔、そう僕は朝焼けの中を何度も歩いた。

生きていけないと思っていた。生きるための道を探していた。辛くて張り裂けそうで、叫び出したい衝動にいつも襲われていた。休日の朝に目覚めた時の、無限とも思えるほどの空白。深い深い雪に閉ざされた世界。太陽の光が空虚に注ぎ込んで、僕は破裂しそうになる。哲学に傾倒して、まっさらで悲痛に満ちた地平を見た。

一人で立たなくてはと思っていた。誰にも負けてはいけないのだと、何かに負けてはいけないのだと。その思いが体を縛った。

法律事務所で働き始めて、僕は職場を憎んだ。希望と理想からかけ離れた職員の態度が堪らなく嫌で、受け入れたくなくて、みんないなくなればいいと思った。そうして孤立した。でも、目をかけてくれる人はいたのだ。僕は彼女たちに何も返すことができず退職した。生きていくことは、改めてできないのだと思った。

実家で何もせずに過ごす時間が増えた。それは10カ月に及んだ。生きていけないのかもしれないと思った。強く思った。なんとかしたくて、僕はルーティンワークにすがった。それしかできなかった。世界と隔絶して。毎日、英語の勉強をして、体を鍛えて、夜9時に外を走る。インターネットでダウンロードしておいた好きなラジオ番組を聴きながら走った。それから農道に寝転んで空を眺めた。その瞬間だけは、ゼロに戻ることができた。世界は厳しくも優しくもなく、ただまっさらにそこにあった。流れ星の数をかぞえて過ごした。

そうこうしているうちに、僕の家に、いま働いている会社の部長が訪ねてきた。そうして仕事のことをひとしきり話し、最後に言った。

「やってみる?」

「はい」と僕は言った。それから7年が過ぎた。

職に就いてから、僕は一人暮らしを始めた。2011年9月のことだ。それから間も無くして、ある女性と出会った。

自尊感情が低かったのだ。あるいは今でも低いのだけれど、そうした中でも、僕は彼女との関わりをとても大切なものだと感じるようになっていった。現在放送中のドラマ「逃げるは恥だが〜」のツザキが、少しだけ自分に重なる。性格は違えど、距離の取り方は近いのかもしれない。

僕はずっとずっと、どうすれば心が楽になるのか、にっちもさっちもいかない自分をどうすればいいのか、考え続けてきた。そうした中で、僕は「自分を受け入れる」ことに心を砕いてきた。それが大切なのだと、彼女にも伝えた。でも、果たしてそれはできていたのだろうか?実を言うと、まったく自信がない。

「自分の力だけで生きたい」という思いは、自分を受け入れるということと、矛盾するのではないか。「誰にも頼らない」ということは、自分を受け入れないことに結びつくのではないか。

きっと答えはイエスだ。

だから、それでは駄目なのだ。

そう思った。

駄目なところなんて、たくさんあるに決まっているじゃないか。出来ないことなんて、たくさんあるに決まっているじゃないか。僕は完璧ではない。理想を目指すのはいいけれど、ほどほどにしないと、理想から外れた自分は、自分ではなくなってしまう。それは受け入れがたい、受け入れられない自分だ。

だから、僕は頼ろうと思う。たくさんの人に頼ろうと思う。そもそも一人では生きられないのだ。だから、頼る。それは自分の弱さを明かす行為だ。そして、自分を受け入れなければできない行為だ。だから、ちゃんと頼っていこうと思う。

そうして、それが何かに繋がってほしいと思っている。