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ヘイトにつながる表現はあらためて!!

2021-04-21 13:06:25 | 日記

4月19日(月)9時半、NHK岡山放送局・滝沢昌弘局長に劉勝徳会長が面会を求め、先週末玉野市八浜町で発生した、国際結婚で来日した同胞が夫の母を包丁で刺し怪我をさせた事案についてこちらの見解を述べた。

玉野警察署発表の記事を、各報道機関がそれぞれ報道を行ったが、NHKは当日昼のニュースで「中国人の女」と赤字で強調して報道した。

我々も、事件については同胞のサポートが出来ていなく反省する所ではあるが、ヘイトスピーチにつながる「中国の女」と強調する事は如何なものか!?と考える。

他の報道機関では、記者から上がって来た内容について配慮をした報道機関もある事を滝沢局長にお伝えし、今後注意していただく事を約束した。


私から見る祖国(中国)

2021-04-14 11:41:27 | 日記

          華僑運動をなぜ65年間も継続出来たのか!?

私の両親は、90年前祖国福建省福清県高山市後地村から、生きる為、先輩を頼りに日本・島根県出雲市へやって来た。

先輩に資金・行商の方法の指導を受け、自転車に京都から仕入れた反物を積み、中国山脈の山中の家を一軒一軒回り行商を行い、反物の注文を受け、故郷から呼び寄せた妻が注文品を縫い、1ヶ月から2か月かけて商品を完成させ、注文宅へ届けた。お金又はお米などの報酬を受け取り、財産を築き出雲で独立。島根の華僑は、東部では大東町から松江・出雲で独立。西部では、温泉津から浜田で独立。

少し生活が安定すると子供に恵まれ、にぎやかな世帯があちこちに・・・。一世の親たちは、字が書けない読めない同胞がほとんど。台湾から来日していた留学生を招いて寺小屋のような民族学校を開き、祖国の言葉を子供たちに学ばせた。しかし、財政が不足したため、学校は数年で閉鎖。

中日戦争が拡大すると同時に、在日同胞への差別もひどくなり、生きる為家族の為に行商を行う一世に対して日本の警察は監視を強化し、スパイ事件のでっち上げも発生。警察署で拷問により、死んでいった同胞もいた。私も、父親から行商中の出来事を聞かされた。警察官から呼び止められ、「あいうえお」を言えと強要された。警察官のいう言葉も理解できないので、戸惑っていると、「お前シナ人か!」と同時に猛烈なビンタをくらった事など・・・。

 ニクソン米国大統領がベトナムへの絨毯爆撃を続けていた時、父親は新聞に載っていた

 ニクソンと日本の佐藤総理の写真を、怒りを込めて強く指でつつく様子を何度も見ていた。

 私は、日本の学校へ行き、小学校・中学校では全員名札をつけねばならず、苗字が「劉」「李」「王」の中国人の子供は皆いじめ対象で、『シナ人!なぜ日本の学校へ来るのか!!』と罵声を浴びたり、石を投げられたり、重たいものを敢えて持たされたりのいじめを受けていた。私はある日いじめが酷くて、家を出たが学校へは行かず、斐伊川土手で授業が終わるまで過ごした事もあった。それが1週間続いていた時、担任が欠席している事を不思議に思い、家庭訪問をした。学校に行っていない原因が、いじめと差別である事を知ることになり翌日、教室で一応担任からの注意はあったが、より陰湿になっていった。

 当時は、日本と台湾政府の国交があり、日本各地は台湾系の華僑総会一色。島根でも台湾の金持ちが万年会長になっていた。選挙もしない島根華僑総会の会長に対し、私たちはまず、福建省出身の青年たちに呼びかけ「島根福建青年会」を結成。その後、他の出身省の青年に呼びかけ「島根華僑青年会」と改めた。その青年たちが島根全体の華僑の同胞に呼びかけ、大人の組織「島根華僑総会」の会長を民主的に選ぼうと呼びかけ、正式な選挙を実施した。福建省出身の郭家章先生を会長に選出した。

 祖国・中華人民共和国の国連復帰の慶祝大会を島根でも企画し、当時のLT貿易代表団の祖国代表・王作田先生と東京華僑総会副会長・博仁先生を招き、出雲商工会議所で、直良出雲市長はじめ来賓と、愛国華僑の祝賀会を盛大に行った。

 島根県の各界の皆様に、社会主義祖国を理解していただく為「島根中華書店」を、東京の中華書店代表・陳先生の支援で開店、人民中国・中国画報・北京週報の三誌を扱った。北京から珍しい貴重な切手が貼られて届くので、愛読者が増え、島根の三誌愛読者の契約数が日本で1位になった。

 また、祖国の「農業は大寨に学び、工業は大慶に学ぶ」の影響を受け、我々華僑青年は学校を終えると、農繁期の土日に出雲市郊外に自転車で出かけ、人数が少ない農家の田植え・収穫の時期に農民の中に飛び込んで農作業を手伝った。農家の人はびっくりされ、「あんたは農業高校の生徒さん?」と不思議がられ、中国青年とわかるとさらにびっくりされた。「自分の子供は手伝わないのに・・・・・。」

手伝いが終了したら、あぜ道で「我愛北京天安門」の歌と踊りを披露した。祖国の青年に負けない様「人民に奉仕する」「愚行山を移す」「愛国主義と国際主義」の精神が載っている老三編を学習し、島根の青年の行動に対し、東京をはじめとする各地の愛国青年から「島根精神に学ぼう」という運動に広がっていった。

 島根の同胞一世二世30名で、初めての祖国訪問団を結成。香港経由で福建省への祖国訪問を行った。

 東京華聯旅行社を利用しないで、自分たちが直接広東省中國旅行社と直接交渉し、「団」を実現したことに東京華僑総会の華聯旅行社は怒った。東京から、島根華僑総会当時の葉会長に抗議の横やりが入ったが、同胞は我々青年を信頼し、祖国訪問が実現。

 さらに、島根各界県民に対し、中四国初の島根県民の友好の翼120名の訪問をサポートし、実現。

当時の祖国政府としては、島根県知事の姿勢が最重要で、島根県議会での発言を重視していた。自由民主党島根県議会議員・宇津徹男氏(のちの浜田市長)と協力し、島根県知事・常松制治氏の「覇権事項」に対する考えを大使館へ報告し、実現した。

 33年間の島根生活から1979年岡山へ。

 神戸の愛国華僑・盧徳財先生の会社の一つである、中国料理「岡山八仙閣」の支配人として働く事になる。

 島根時代、中四国地方の愛国組織を拡大する為、郭矗領事の指示で、中国四国地方のブロック組織を作った。当時岡山には愛国組織はなく鄭宝全先生一人で「聯絡処」として活躍されていた。祖国洛陽市と岡山市の都市縁組の機運が持ちあがり、岡山華僑総会を構築するのに280名の同胞宅を、3年間かけて一軒一軒回り意識調査を行い、同胞の熱意で組織を作り「祖国代表団を迎えよう」との合言葉で岡山華僑総会を1981年結成(津山・東姫楼於)。

初代会長に、広東省出身の鄭宝全先生、2代目会長に山東省出身の由三民先生、3代目会長に福建省出身の劉道雄先生、4代目会長に私がなり、現在1万名の同胞のサポートを行っている。

 祖国とのつながりは、大使館・総領事館であるが、島根時代に初めて東京に大使館が設置。1972年9月29日の中日国交正常化以後、外交官の歴代の方々と交流がある。

岡山と四国を結ぶ瀬戸大橋が完成した33年前には、祖国の指導者が岡山にやって来た。当時私が会長をしていた縁で、普通なら会うことの出来ない多くの方々にお会いできた。

岡山空港では、李鵬首相・江沢民首相・JR岡山駅で、朱鎔基首相とお会いした。特に朱首相は、岡山駅の中国人による熱烈歓迎の前を通り過ぎてから再び戻って来られ、私の前で『老劉!!』と声を張り上げ、手を強く握り大きく手を振って頂いた事は今でも忘れられない思い出である(通訳の熊波氏の口添えで実現)。

 ある総領事の岡山県内訪問地での挨拶文のチェック依頼があり、FAXでやり取りを行い、当時の秘書の仕事を代わりにしたこともある。

 中文を日本語に翻訳する際、堅くるしい翻訳は読む人に理解してもらえず、心に響く文章にしなくてはいけない。

 我々華僑にとり、大使館・総領事館との太いパイプが必要。

 外交官は、共通する目的(愛国・団結、中日友好、祖国統一)に向かって華僑のリーダーと組織を強化する為、奮闘していただきたい。各地の実情を知ることが第一! 古い友人を大切にする事、地道に活躍している仲間を大事に。

 中国共産党の100年の歴史。今や祖国は巨大になっている。巨大になっても謙虚に・・・。

世界のリーダーとしての自覚・責任も強調したい。

 世界中に在住する華僑華人の一人として、心は祖国に目は世界に向け人民に奉仕する精神で奮闘する日々である。