engram 記憶の痕跡

日本の正しいお辞儀 反日左翼や似非日本人の撲滅 間接侵略の手先マスごみ糾弾

【訃報】小野田寛郎氏が死去 91歳【動画】小野田寛郎氏、靖国神社で小泉首相を痛烈に批判!

2014-01-18 | その他
【天児都】軍医の父を誰が慰安婦強制連行責任者に仕立て上げたのか?[桜H26/6/16]
https://www.youtube.com/watch?v=ahIU5D8Vtlk

2014/01/25【追悼番組】渡部昇一&小野田寛郎、大東亜戦争と戦後日本を語る[桜H26/1/25]


https://youtu.be/CVOTxN4awg0
(平成18年8月23日 放送 渡部昇一 小野田寛郎)
…………Youtubeコメント欄より(3320kwさんのコメント)…………
>小学生の頃でしたが、学校で南京大虐殺の話を聞き、戦時中に憲兵として大陸にいた叔父を非難した事がありましたが、そのとき叔父は大笑いして「世界一軍律の厳しい日本軍が、そんな馬鹿な事する訳ないだろう。俺は当時南京にいたが、たしかにゲリラが一部処刑された事はあったかもしれないが、それは戦時の常識で何ら違反行為でもない。むしろ救護所を作ったり医療行為で現地の人達を随分助けたんだぞ」さらに「たしかに戦さはしないに超した事はない。しかし、どうしても戦さをしなければならなくなったら、絶対に勝たなければ駄目だ。戦さに負けるという事は国が滅びるのと同じ事で、全て戦勝国の言いなりにされてしまうんだ」とも言ってました。東京裁判についても、あれは裁判などと言うものではなくて、日本に対するただの復讐だと吐き捨てる様につぶやいたのを憶えています。その時以来、私は戦後の自虐史観に基づく学校教育には、それを伝える教師も含め眉唾と断じ、学生時代も一切の運動に参加しない少数派で通しましたが、その判断に間違いがなかったのを再確認する昨今です
………………………………………………………………………………
(2018-11-07追記)★(chaos1024 ブログ主)我が家には、私の母方の祖父の若い頃の写真があります。軍服姿ですが仲間たちとの和やかな表情の記念写真です。写真の裏には「南京にて」とあります。


■小野田寛郎氏、靖国神社で小泉首相を痛烈に批判!

http://youtu.be/4R9JavyavG8
(小野田寛郎氏、小泉純一郎を叱る)

■大東亜戦争 開戦の詔勅
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm

■平成23年8/15戦歿者追悼中央集会(小野田寛郎氏)

http://youtu.be/TEAez31LoQQ

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◎小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - 2014年(平成26年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。 平成26年1月16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去。情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。
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【必見】まだ太平洋戦争と呼びますか?
【大東亜戦争に込められた想い】

視聴可能https://www.youtube.com/watch?v=WVISBu1wUkw

https://www.youtube.com/watch?v=PzymgZVDPAM
※「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に従わなかった海軍・山本五十六

【田母神俊雄】日本人が知らなければならない太平洋戦争の真実 【日本人よ目覚めよう】

http://youtu.be/lS0u6as6KAM
・コミンテルン・ヴェノナファイル・・・・

【必見】日本人が知っておきたい戦争の真実Part.1

http://youtu.be/NJGeizNJMBU


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【追悼番組】小野田寛郎、フィリピン・ルバング島での「30年戦争」を語る[桜H26/1/21]
★ニコニコ動画(視聴可能)https://www.nicovideo.jp/watch/so22710426

http://www.youtube.com/watch?v=VJRHNqxV_Js

【追悼番組】小野田寛郎、帰国してからの「戦い」を振り返る[桜H26/1/22]
http://www.youtube.com/watch?v=9xq9BReBqAk

*国体学

公開日: 2014/01/20
★平成21年6月29日 放送★
理不尽な更迭劇、そして政界、
メディア総がかりの批判の嵐に敢然と立ち向かい、
貫き通­した国防の信念。
本物の武人・田母神俊雄(元航空幕僚長)が塾長をつとめ、
ユーモア溢­れる軽妙な語りや多彩なゲストとのトークを交え、
深刻な日本の安全保障状況を徹底分析­、解説します。
塾生は桜でおなじみのsaya。
「誇りなければ国は守れず」の真実と現­実に目からウロコです。

【田母神塾 第8回】
 塾長:田母神俊雄(元航空幕僚長)
 塾生:saya(シンガー)
 ゲスト:小野田寛郎(元陸軍少尉・財団法人 小野田自然塾 理事長)


■小野田寛郎さん職業慰安婦を語る
小野田寛郎さんが語る『従軍慰安婦』の真実【拡散希望】


http://www.youtube.com/watch?v=dnJEBlCS1NQ
公開日: 2012/03/22
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産経新聞 2014.1.18
帰国直後の様子を写真集として出版「年月経ても色あせない方だった」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140118/trd14011801090004-n1.htm

◎貫いた誇りと「不撓不屈」 
40年前の取材キャップが見た小野田寛郎さん
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011719390017-n1.htm
2014.1.17 産経新聞
小野田さんの戦いは終わった。91歳の生涯を貫いたのは「誇り」と「不撓不屈(ふとうふくつ)」だった。
40年前のあの衝撃は、いまも鮮明に記憶している。ルバング島での初めての会見は、私たち報道陣への敬礼で始まった。質問にはひとり一人と正対し、よどみなく答えていった。手製の軍服は繕われ、ボタンもしっかりついていた。
毅然(きぜん)とした立ち振る舞いは何なのか。謎が解けたのは、28年後。再会した小野田さんは「大切なことは“らしさ”です。“らしさ”とは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行すること」と話した。孤独な戦いを続けながら「日本人の誇り」に通じる“らしさ”を磨き、表現したものだった。
帰還後、小野田さんはブラジルへ渡り、成田空港よりも広い牧場経営に成功した。なぜ、そこまで戦い続けるのか。
「自然が好きなんですよ。その気になればどこでも食っていけますから」
あの牧場は、小野田さんの意地の証ではないか。「自分は戦争屋じゃない」との思いもあっただろう。
あの日と同じように、背筋を伸ばし、謙虚でつつましく歩み続けてきた小野田さん。風化しない生粋の人間を、また一人、失ってしまった。
(当時の取材キャップ・産経新聞元常務 山下幸秀)

◎ルバング島で潜伏29年、小野田寛郎さんが死去
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140117-OYT1T00509.htm?from=navr
第2次世界大戦中にフィリピン・ルバング島に派兵され、終戦後も約29年間、ジャングルで潜伏生活を続けた元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日、東京都内の病院で死去した。
91歳。告別式は近親者で行う予定。喪主は妻、町枝さん。
小野田さんは和歌山県出身。1944年12月に情報員として、ルバング島に派遣され、終戦後もジャングルに身を隠し続けた。現地警察との銃撃戦で生存していたことが判明し、74年3月、元上官の説得で帰国を決意。約30年ぶりに母国の土を踏んだ。終戦から27年間にわたってグアム島に隠れ続け、72年に帰国した横井庄一さんに次ぐ、旧日本兵の帰還となった。
帰国後、兄のいるブラジルに移住したが、84年からは、キャンプを通じてたくましい青少年の育成を目指す「自然塾」を全国各地で開くようになった。89年には私財を投じて財団法人を設立。この功績で2005年に藍綬褒章を受章した。
最近は全国の小中学校などで講演をし、戦争体験を語る活動をしてきた。親族によると、3年ほど前に膵臓がんなどを患い、今年1月から入院していたという。
(2014年1月17日11時40分 読売新聞)

◎死去の小野田氏「日本で死にたい」
 ブラジル移住、牧場経営「苦ではない」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011714000012-n1.htm
2014.1.17 13:55
「日本で死にたい」。16日死去した小野田寛郎さんは2012年2月、経営していたブラジルの牧場で共同通信の取材にそう話していた。
フィリピン・ルバング島から帰国後、親族を頼って1975年にブラジルに移住。晩年は東京都内で暮らしていたが、中西部カンポグランデ郊外に設立した「小野田牧場」に毎年通っていた。
小野田さんは「牧場が軌道に乗るまで10年かかったが、ルバング島での苦労を思えば全く苦ではなかった」と語り、「密林暮らしが長かったので暑い方が好き」と夏場にブラジルに通ってきた理由を話した。
一時は体調が悪化し、12年以降はブラジルに来ていなかった。取材では「人に迷惑を掛けず、家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい」と語っていた。(共同)
2014.1.17 産経新聞
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余談ですが・・・
「奥さま・・それ、コンスです・・・。」
画像:小野田町枝氏(小野田夫人)







この年代の方の手重ねポーズは、
きっと美智子皇后の影響かな?

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コメント (2)
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