スティーヴン・イッサーリスの無伴奏がリリースされた。あのイッサーリスがバッハの無伴奏をどう演奏するか。聴かないわけにはいかない。三鷹のコンサートで美しい音色に接してから期待はより高まる。
早速1番から聴いていく。音色はまさしくガット弦のイッサーリスの音である。思っていたとおり繊細な演奏。ふくよかなガットの音色はまるでオリジナル楽器による演奏のようだ。だが,繊細に彫琢された宝飾品のような音楽は古楽系の演奏とは違った趣である。楽譜どおりの演奏に慣れた耳にはちょっと驚くが,置かれるべき位置に装飾音もはめ込まれる。全体的に他の演奏に比べアルマンドはより速く,サラバンドはより遅くなっているようだ。
イッサーリスの演奏は,オリジナルの手稿や成立状況を重視しつつも,モダン楽器で演奏するというものだから折衷的と言えなくもない。しかし,モダン,オリジナル双方の立場を統合し新しい道を歩むものになるかも知れない。それはオリジナルを尊重しながらも,今の時代の感覚を盛っていくという正統的な行き方である。それを極限にまで繊細にかつドラマチックに表現した演奏が今回のCDのように思える。実際,イッサーリスは解説で「これは個人的見解だが」として,この6つの組曲の背景にキリストの誕生から磔刑,復活までの秘蹟を想定している。少し驚かされるが,バッハにはあり得ないことではないではないか。実際,私も,あの最初のプレリュードを聴くと,何かしらの出現を期待する感覚,そして昇華され高みに消えていくような感じを受けてきた。単なる独奏曲としてもキリスト教との関連が断ち切れないのがバッハの音楽である。そう考えるのが合理的である。だが,バッハは黙して語らず。
CDの最後には無伴奏組曲を復活させたカザルスに敬意を表し「鳥の歌」が挿入された後,無伴奏第1番のプレリュードを現存する3種の手稿によって演奏。これは有難い。こういう配慮もイッサーリスならではだろう。リーフレットの文章はイッサーリス自身の記述。これも「Why Beethoven threw the stew」の著者らしく,大変簡潔に誰も書かなかった(書けなかった?)ことがまとめられている。数ある無伴奏の解説の中でも秀逸。
個人的には,今回のリリースはかなり異色だし,ある意味では問題盤(?)である。無伴奏の演奏史上画期的な録音であることは間違いないと思うが,私としてはシフの,あの推進力に富む演奏も素晴らしいと思っている。
(Johann Sebastian Bach: The Cello Suites, cello Steven Isserlis, recorded in 2005-6. hyperion CDA67541/2)
早速1番から聴いていく。音色はまさしくガット弦のイッサーリスの音である。思っていたとおり繊細な演奏。ふくよかなガットの音色はまるでオリジナル楽器による演奏のようだ。だが,繊細に彫琢された宝飾品のような音楽は古楽系の演奏とは違った趣である。楽譜どおりの演奏に慣れた耳にはちょっと驚くが,置かれるべき位置に装飾音もはめ込まれる。全体的に他の演奏に比べアルマンドはより速く,サラバンドはより遅くなっているようだ。
イッサーリスの演奏は,オリジナルの手稿や成立状況を重視しつつも,モダン楽器で演奏するというものだから折衷的と言えなくもない。しかし,モダン,オリジナル双方の立場を統合し新しい道を歩むものになるかも知れない。それはオリジナルを尊重しながらも,今の時代の感覚を盛っていくという正統的な行き方である。それを極限にまで繊細にかつドラマチックに表現した演奏が今回のCDのように思える。実際,イッサーリスは解説で「これは個人的見解だが」として,この6つの組曲の背景にキリストの誕生から磔刑,復活までの秘蹟を想定している。少し驚かされるが,バッハにはあり得ないことではないではないか。実際,私も,あの最初のプレリュードを聴くと,何かしらの出現を期待する感覚,そして昇華され高みに消えていくような感じを受けてきた。単なる独奏曲としてもキリスト教との関連が断ち切れないのがバッハの音楽である。そう考えるのが合理的である。だが,バッハは黙して語らず。
CDの最後には無伴奏組曲を復活させたカザルスに敬意を表し「鳥の歌」が挿入された後,無伴奏第1番のプレリュードを現存する3種の手稿によって演奏。これは有難い。こういう配慮もイッサーリスならではだろう。リーフレットの文章はイッサーリス自身の記述。これも「Why Beethoven threw the stew」の著者らしく,大変簡潔に誰も書かなかった(書けなかった?)ことがまとめられている。数ある無伴奏の解説の中でも秀逸。
個人的には,今回のリリースはかなり異色だし,ある意味では問題盤(?)である。無伴奏の演奏史上画期的な録音であることは間違いないと思うが,私としてはシフの,あの推進力に富む演奏も素晴らしいと思っている。
(Johann Sebastian Bach: The Cello Suites, cello Steven Isserlis, recorded in 2005-6. hyperion CDA67541/2)
でもまだ解説の解読には至っておりませぬ。(^^;
無伴奏に新たな命を吹き込んで復活させるような演奏でしたね。
キリストの誕生からご復活までの物語ですかあ。
そう思って聞くと深いなあ。
そういえばちょうど復活節にリリースでした。
意識しているんでしょうね。きっと。
関係ないけど今年のイースターは友人に誘われてニコライ堂の復活大祭に行きました。
すごかった・・・・・・
ああ,復活節にリリースだったわけですかあ。ひなげしさんも読みが深いなあ。。。イッサーリスも含みを持たせる性格なのですねえ,バッハと似通っていて。。。
このイッサーリスの「私見」はキリスト教国では当然の解釈なのかも知れません。私などはのほほんと自然賛美のような解釈を考えていましたが,それは農耕民族の証明なのでしょうねえ(笑)。カペルマイスターであるバッハがそのような牧歌的なことを発想するわけがありません(多分)。
バッハは無伴奏作曲時はケーテンにいたわけですけれど,基本的にバッハの念頭にある楽器はオルガン,目的は神の賛美です。新参者のチェロにオルガンの響きを求め,舞曲の形式を借りるものの,実はカンタータのようであったり受難劇の様相を帯びるのは楽長の作法としては自然な流れです。
この意味ではイッサーリスの無伴奏はヨーロッパの原点にかえった演奏なのかも(おお,大袈裟になってきた)。過去に舞曲集だ,練習曲集だと言われてきた無伴奏の本来の姿を示してくれたものかも知れません。
尤も私は練習曲集の線もあながち間違っているとは言えないのではないかとも思います。(とにかく,これだけのことを考えさせてくれるのもイッサーリスならでは,です)
ひなげしさん,すみません。ついつい長くなってしまいます。こういう疑問を残す作曲家というのは困りますねえ(笑)。でも,私としてはバッハが何のために無伴奏を書いたのかは現下の最大の問題なのであります。私がうまく天国に行けたら,バッハに面会を求め,それを真っ先に聞きたいものだと思っています。そのためにはドイツ語も勉強しないと(笑)。。。