レベッカ
2010.6.11.13:30 梅田芸術劇場メインホール
女性の強さ、生命力にあらためて驚く。レベッカとダンヴァース夫人はむろんだが「わたし」そしてヴァン・ホッパー夫人も、たくましさでは引けを取らない。それに引き換え、夫のマキシムや彼の親友フランク、事件担当の判事ジュリアン大佐、証言を求められる知的障害者ベンらのやさしさともろさが対照的。レベッカのいとこジャック・ファブエルは男性陣で唯一悪人なので強がるが、ツメの甘さが憎めない。氷の笑みを湛え死んだレベッカの確信犯な根性に、はるか及ぶべくもない。
原作はダフネ・デュ・モーリア(翻訳:茅野美ど里、新潮文庫)、ヒッチコック監督の映画で有名だが(40年、DVDで発売)、映画と小説はかなり異なっており、ミュージカル版(脚本・歌詞:ミヒェエル・クンツェ、音楽:シルヴェスター・リーヴァイ、翻訳・訳詞:竜真知子、演出:山田和也)は映画の設定を取り入れながらも、より原作に近い。小説は余韻を残す終わり方だが、舞台はクライマックスで派手に屋台崩し、ダンヴァース夫人もかなり若いが。
2年前の日本初演は、約600席のシアタークリエだったが、今回の再演は中日劇場、帝国劇場そして梅田芸術劇場メインホールと約3倍のキャパに。舞台装置は一新され、マキシムが「わたし」に惹かれる1曲も加わる。が、何と言っても大きな違いは、ダンヴァース夫人役が初演から続投のシルビア・グラブだけでなく、涼風真世の参加でWキャストになったことだ。
役作りの造形は対照的で、シルビアは感情を押し殺す表情が仮面のように冷たい。涼風も表情は変えないが、目から燃え上がる憎悪が熱い。タイプはまったく違うが、怖さは共通。レベッカへの狂信は、死者に取りつかれあやつられているかのよう。
ゴシックロマンと謳われる原作はミステリーやホラー、心理サスペンス、ラブロマンスの要素がミックス。最大の山場はレベッカの死の謎解きだが、少女「わたし」の成長譚と見る方がより興味深い。無垢で傷つきやすい少女から、母性愛あふれる大人の女へ、さなぎは脱皮し蝶が羽ばたくように「わたし」は突然生まれ変わるのだ。
もう戻ることはない、あの少女だった日々。本作が回想で語られるのは必然だ。広大なマンダレーの屋敷はもはやない。朽ち果てた屋敷跡の夢から物語は紡ぎ始められ、何十年か後の現実に舞い戻り、目覚める。苦く甘酸っぱい思い出、もう帰らない失われた時間、それが本当の主役だ。ダンヴァース夫人にとって、亡きレベッカこそが永遠かつすべてであったように。
【以下はネタバレゆえ、原作や映画、ミュージカルを未見の方は、まずそちらをご覧いただくようお薦めします】
身寄りのない21歳の「わたし」(大塚ちひろ)は、裕福なアメリカ人ヴァン・ホッパー夫人(寿ひずる)の話し相手兼付き人。夫人がモンテカルロのホテルに滞在中、イギリスはマンダレーの名士マキシム(山口祐一郎)と知りあう。マキシムは先年妻のレベッカを亡くしたばかり、人を寄せつけない彼が、なぜか「わたし」をドライブに誘う。たまたま夫人が発熱してホテルで伏せったのを幸い「わたし」は連日彼と外出する。彼を愛した自分に驚くが、むろん身分違いは承知、叶わぬ恋をかみしめる。
けれど、ヴァン・ホッパー夫人のアメリカ帰国の日、マキシムが切り出したのは「夫人ではなく私と共にマンダレーへ」の申し出。付き人や秘書ではなく、なんと妻としてとの驚くべきプロポーズ。とまどいながらも二つ返事で承知する「わたし」。愛は奇跡を呼ぶかに見えたが「マンダレーの女主人の役は無理」と見抜く夫人の予想は不幸にも的中する。
城もしくは館のように広大なマンダレーの屋敷。大勢の召使の采配など苦手な新妻に代わり、すべてを仕切るのはダンヴァース夫人(シルビア/涼風)だ。元々レベッカの乳母だった彼女は、嫁入りするレベッカに付き従い、女主人亡き後も家政婦頭として君臨する。夫人は上流社会に不慣れな若い「わたし」を軽蔑し、レベッカ崇拝を隠さない。
マキシムの愛がなければ耐えられない状況だが、マンダレーの管理人フランク(石川禅)や実家に立ち寄るマキシムの姉ベアトリス夫婦(伊東弘美、KENTARO)は「わたし」に好意的。けれど、無断で屋敷内に出入りするレベッカのいとこジャック・ファヴェル(吉野圭吾)はうさんくさく、海岸のボートハウス付近に住むベン(tekkan)はなにか秘密を知っている様子だ。ボートハウスはレベッカ専用、彼女は嵐の夜にひとりヨットを漕ぎだし事故死したのだ。
新妻お披露目を兼ねた仮装舞踏会に登場した「わたし」は、ダンヴァース夫人の親切と見せかけた罠にまんまとはまる。社交界一と噂された美人レベッカに到底及ばないことを満座の前で暴かれたのだ。が、それ以上のショックは、マキシムが未だレベッカを忘れられない事実。完璧だった先妻と比較される屈辱、自分の無力に「わたし」は動揺を隠せない。追い打ちをかける夫人は「わたし」に自死をそそのかす。
絶体絶命の次の瞬間、救助信号弾が鳴り響き「わたし」は自分を取り戻す。信号は船の座礁の合図。物語はここで大きく転換する。船の救助中に、思いがけず先年沈んだヨットも見つかり、海底から引き上げられる。中にはレベッカの死体、そして船底には開けられた穴が。事故は事件へと発展、自殺か他殺かが問われる。他殺なら真っ先に疑われるのは夫マキシムだ。
レベッカの性格は自殺から最も遠い。ジャックが証言「彼女が死んだ夜、ボートハウスで密会したいと手紙をもらっていた。が、多忙で行けなかった」。彼はレベッカの数多い愛人のひとりだったのだ。そして当日、死の直前のレベッカはロンドンの婦人科医を訪れていたことが判明する。
これより早く、観客には真相が明かされている。マキシムは「わたし」にすべてを告白。ボートハウスで、レベッカはマキシムに不倫相手との妊娠を告白「マキシムの血が流れない子がマンダレーを継ぐのよ」とあざ笑う。怒ったマキシムに突き飛ばされ、打ち所の悪かったレベッカは死ぬ。マキシムはヨットにレベッカの遺体を乗せ、沖で沈めて犯行を隠す。数ヵ月後に発見された別の遺体が損傷で判別がつかぬを幸い、レベッカの遺体と偽証していたのだ。
注目すべきは、夫の告白を受けた「わたし」の劇的な変化だ。レベッカへの劣等感と嫉妬に苦しんでいた「わたし」は、夫の愛がレベッカへではなく自分にあることを知って歓喜する。夫が殺人犯だった事実などささいなこと、愛はすべてを凌駕するのだ。
ナイスミドルの再婚男とメイドのように若い新妻。愛ゆえに身分違いの結婚に踏み切り苦労を重ねてきた「わたし」。おどおどして自信のない少女はこの瞬間、庇護者から母親そして共犯者に変身する。「わたし」の役目は、不利な証言を阻む側面援助。マキシムが激高し心証を悪くしそうと見れば、気絶して審問会を中断させる。当日ヨットを目撃したはずのベンが証言する際は、そっと近寄って黙秘を促す。レベッカにいじめられていたベンはやさしい新妻の味方だ。
ダンヴァース夫人とジャック以外はみなマキシムと「わたし」に組する。けれど、受診は妊娠を推測させ、他殺説があらためて有力となる。新しい命を宿したレベッカに自殺の理由がないと。けれど、医師の証言は予想をくつがえす。ロンドンからその連絡を盗み聞くダンヴァース夫人はショックで崩れ落ちる、レベッカの身に起こった異変を知って。
そう、死んでなおダンヴァース夫人を含む誰をもあざむき、支配していた女レベッカ。その呪いが、今の今までマキシムとマンダレーにかけられていた。登場することのないタイトルロールは、まさに物語のキーパーソンだったのだ。
けれど、それだけで終わらない。ロンドンから戻った「わたし」そして駅まで出迎えたマキシムの2人は帰宅途中、夜中のマンダレーが夜明けのように赤く染まるのを望見する。実は屋敷が火事、もはや手がつけられない。そこではダンヴァース夫人の哄笑が闇夜の中、炎となって立ちのぼっていた。
楽曲はどれもドラマチックで耳に残る。あえて1曲あげるなら「こんな夜こそ」と「夜をこえて」。同じメロディを前半と後半で歌詞を変え、真逆の意味に転換する。秘密を打ち明けないマキシムに絶望し、結婚生活の失敗におびえる前半の2人。レベッカの罠と2人して戦い、ついに解放された後半。愛のむなしさと強さ、矛盾する感情は実は紙一重。旋律が繰り返されることで、心中のうねりが実感される。
ちなみに「エリザベート」の「あなたが側にいれば」と「夜のボート」もまったく同じ構造、2人なら何も怖くないと告げるプロポーズの曲が、生涯すれ違ったままで終わる2人の孤独に変奏される。「レベッカ」ではハッピーエンド、そして「エリザベート」の終わりは苦く。同じ旋律を変調し、情感をゆさぶる手法にいつも驚かされる。
マキシムがまだレベッカを愛していると誤解した「わたし」。嫉妬と劣等感で絶望する姿がいじらしい。そして、ついに対等のパートナーとなり得た喜び。その代償として失う若さ。戻らない時間の何と甘酸っぱく、切ないことか。物語はすべて回想の中。マンダレーはもはや失われている。あの日の「わたし」やマキシムはもういない。老いた2人は今静かに余生を過ごすが、失なわれた日々に思いを馳せない日はない。
それはダンヴァース夫人のレベッカ亡き後のむなしさと不思議にリンクする。崇拝するレベッカに仕えた日はもう戻らない。失われた時間への執着は人を変える。遡ることの出来ない時間は、人を駆り立てる魔物のよう。巻き戻せない時間こそ、人が逆らうことの出来ない真の主役なのだ。
2010.6.11.13:30 梅田芸術劇場メインホール
女性の強さ、生命力にあらためて驚く。レベッカとダンヴァース夫人はむろんだが「わたし」そしてヴァン・ホッパー夫人も、たくましさでは引けを取らない。それに引き換え、夫のマキシムや彼の親友フランク、事件担当の判事ジュリアン大佐、証言を求められる知的障害者ベンらのやさしさともろさが対照的。レベッカのいとこジャック・ファブエルは男性陣で唯一悪人なので強がるが、ツメの甘さが憎めない。氷の笑みを湛え死んだレベッカの確信犯な根性に、はるか及ぶべくもない。
原作はダフネ・デュ・モーリア(翻訳:茅野美ど里、新潮文庫)、ヒッチコック監督の映画で有名だが(40年、DVDで発売)、映画と小説はかなり異なっており、ミュージカル版(脚本・歌詞:ミヒェエル・クンツェ、音楽:シルヴェスター・リーヴァイ、翻訳・訳詞:竜真知子、演出:山田和也)は映画の設定を取り入れながらも、より原作に近い。小説は余韻を残す終わり方だが、舞台はクライマックスで派手に屋台崩し、ダンヴァース夫人もかなり若いが。
2年前の日本初演は、約600席のシアタークリエだったが、今回の再演は中日劇場、帝国劇場そして梅田芸術劇場メインホールと約3倍のキャパに。舞台装置は一新され、マキシムが「わたし」に惹かれる1曲も加わる。が、何と言っても大きな違いは、ダンヴァース夫人役が初演から続投のシルビア・グラブだけでなく、涼風真世の参加でWキャストになったことだ。
役作りの造形は対照的で、シルビアは感情を押し殺す表情が仮面のように冷たい。涼風も表情は変えないが、目から燃え上がる憎悪が熱い。タイプはまったく違うが、怖さは共通。レベッカへの狂信は、死者に取りつかれあやつられているかのよう。
ゴシックロマンと謳われる原作はミステリーやホラー、心理サスペンス、ラブロマンスの要素がミックス。最大の山場はレベッカの死の謎解きだが、少女「わたし」の成長譚と見る方がより興味深い。無垢で傷つきやすい少女から、母性愛あふれる大人の女へ、さなぎは脱皮し蝶が羽ばたくように「わたし」は突然生まれ変わるのだ。
もう戻ることはない、あの少女だった日々。本作が回想で語られるのは必然だ。広大なマンダレーの屋敷はもはやない。朽ち果てた屋敷跡の夢から物語は紡ぎ始められ、何十年か後の現実に舞い戻り、目覚める。苦く甘酸っぱい思い出、もう帰らない失われた時間、それが本当の主役だ。ダンヴァース夫人にとって、亡きレベッカこそが永遠かつすべてであったように。
【以下はネタバレゆえ、原作や映画、ミュージカルを未見の方は、まずそちらをご覧いただくようお薦めします】
身寄りのない21歳の「わたし」(大塚ちひろ)は、裕福なアメリカ人ヴァン・ホッパー夫人(寿ひずる)の話し相手兼付き人。夫人がモンテカルロのホテルに滞在中、イギリスはマンダレーの名士マキシム(山口祐一郎)と知りあう。マキシムは先年妻のレベッカを亡くしたばかり、人を寄せつけない彼が、なぜか「わたし」をドライブに誘う。たまたま夫人が発熱してホテルで伏せったのを幸い「わたし」は連日彼と外出する。彼を愛した自分に驚くが、むろん身分違いは承知、叶わぬ恋をかみしめる。
けれど、ヴァン・ホッパー夫人のアメリカ帰国の日、マキシムが切り出したのは「夫人ではなく私と共にマンダレーへ」の申し出。付き人や秘書ではなく、なんと妻としてとの驚くべきプロポーズ。とまどいながらも二つ返事で承知する「わたし」。愛は奇跡を呼ぶかに見えたが「マンダレーの女主人の役は無理」と見抜く夫人の予想は不幸にも的中する。
城もしくは館のように広大なマンダレーの屋敷。大勢の召使の采配など苦手な新妻に代わり、すべてを仕切るのはダンヴァース夫人(シルビア/涼風)だ。元々レベッカの乳母だった彼女は、嫁入りするレベッカに付き従い、女主人亡き後も家政婦頭として君臨する。夫人は上流社会に不慣れな若い「わたし」を軽蔑し、レベッカ崇拝を隠さない。
マキシムの愛がなければ耐えられない状況だが、マンダレーの管理人フランク(石川禅)や実家に立ち寄るマキシムの姉ベアトリス夫婦(伊東弘美、KENTARO)は「わたし」に好意的。けれど、無断で屋敷内に出入りするレベッカのいとこジャック・ファヴェル(吉野圭吾)はうさんくさく、海岸のボートハウス付近に住むベン(tekkan)はなにか秘密を知っている様子だ。ボートハウスはレベッカ専用、彼女は嵐の夜にひとりヨットを漕ぎだし事故死したのだ。
新妻お披露目を兼ねた仮装舞踏会に登場した「わたし」は、ダンヴァース夫人の親切と見せかけた罠にまんまとはまる。社交界一と噂された美人レベッカに到底及ばないことを満座の前で暴かれたのだ。が、それ以上のショックは、マキシムが未だレベッカを忘れられない事実。完璧だった先妻と比較される屈辱、自分の無力に「わたし」は動揺を隠せない。追い打ちをかける夫人は「わたし」に自死をそそのかす。
絶体絶命の次の瞬間、救助信号弾が鳴り響き「わたし」は自分を取り戻す。信号は船の座礁の合図。物語はここで大きく転換する。船の救助中に、思いがけず先年沈んだヨットも見つかり、海底から引き上げられる。中にはレベッカの死体、そして船底には開けられた穴が。事故は事件へと発展、自殺か他殺かが問われる。他殺なら真っ先に疑われるのは夫マキシムだ。
レベッカの性格は自殺から最も遠い。ジャックが証言「彼女が死んだ夜、ボートハウスで密会したいと手紙をもらっていた。が、多忙で行けなかった」。彼はレベッカの数多い愛人のひとりだったのだ。そして当日、死の直前のレベッカはロンドンの婦人科医を訪れていたことが判明する。
これより早く、観客には真相が明かされている。マキシムは「わたし」にすべてを告白。ボートハウスで、レベッカはマキシムに不倫相手との妊娠を告白「マキシムの血が流れない子がマンダレーを継ぐのよ」とあざ笑う。怒ったマキシムに突き飛ばされ、打ち所の悪かったレベッカは死ぬ。マキシムはヨットにレベッカの遺体を乗せ、沖で沈めて犯行を隠す。数ヵ月後に発見された別の遺体が損傷で判別がつかぬを幸い、レベッカの遺体と偽証していたのだ。
注目すべきは、夫の告白を受けた「わたし」の劇的な変化だ。レベッカへの劣等感と嫉妬に苦しんでいた「わたし」は、夫の愛がレベッカへではなく自分にあることを知って歓喜する。夫が殺人犯だった事実などささいなこと、愛はすべてを凌駕するのだ。
ナイスミドルの再婚男とメイドのように若い新妻。愛ゆえに身分違いの結婚に踏み切り苦労を重ねてきた「わたし」。おどおどして自信のない少女はこの瞬間、庇護者から母親そして共犯者に変身する。「わたし」の役目は、不利な証言を阻む側面援助。マキシムが激高し心証を悪くしそうと見れば、気絶して審問会を中断させる。当日ヨットを目撃したはずのベンが証言する際は、そっと近寄って黙秘を促す。レベッカにいじめられていたベンはやさしい新妻の味方だ。
ダンヴァース夫人とジャック以外はみなマキシムと「わたし」に組する。けれど、受診は妊娠を推測させ、他殺説があらためて有力となる。新しい命を宿したレベッカに自殺の理由がないと。けれど、医師の証言は予想をくつがえす。ロンドンからその連絡を盗み聞くダンヴァース夫人はショックで崩れ落ちる、レベッカの身に起こった異変を知って。
そう、死んでなおダンヴァース夫人を含む誰をもあざむき、支配していた女レベッカ。その呪いが、今の今までマキシムとマンダレーにかけられていた。登場することのないタイトルロールは、まさに物語のキーパーソンだったのだ。
けれど、それだけで終わらない。ロンドンから戻った「わたし」そして駅まで出迎えたマキシムの2人は帰宅途中、夜中のマンダレーが夜明けのように赤く染まるのを望見する。実は屋敷が火事、もはや手がつけられない。そこではダンヴァース夫人の哄笑が闇夜の中、炎となって立ちのぼっていた。
楽曲はどれもドラマチックで耳に残る。あえて1曲あげるなら「こんな夜こそ」と「夜をこえて」。同じメロディを前半と後半で歌詞を変え、真逆の意味に転換する。秘密を打ち明けないマキシムに絶望し、結婚生活の失敗におびえる前半の2人。レベッカの罠と2人して戦い、ついに解放された後半。愛のむなしさと強さ、矛盾する感情は実は紙一重。旋律が繰り返されることで、心中のうねりが実感される。
ちなみに「エリザベート」の「あなたが側にいれば」と「夜のボート」もまったく同じ構造、2人なら何も怖くないと告げるプロポーズの曲が、生涯すれ違ったままで終わる2人の孤独に変奏される。「レベッカ」ではハッピーエンド、そして「エリザベート」の終わりは苦く。同じ旋律を変調し、情感をゆさぶる手法にいつも驚かされる。
マキシムがまだレベッカを愛していると誤解した「わたし」。嫉妬と劣等感で絶望する姿がいじらしい。そして、ついに対等のパートナーとなり得た喜び。その代償として失う若さ。戻らない時間の何と甘酸っぱく、切ないことか。物語はすべて回想の中。マンダレーはもはや失われている。あの日の「わたし」やマキシムはもういない。老いた2人は今静かに余生を過ごすが、失なわれた日々に思いを馳せない日はない。
それはダンヴァース夫人のレベッカ亡き後のむなしさと不思議にリンクする。崇拝するレベッカに仕えた日はもう戻らない。失われた時間への執着は人を変える。遡ることの出来ない時間は、人を駆り立てる魔物のよう。巻き戻せない時間こそ、人が逆らうことの出来ない真の主役なのだ。