CULTURE CRITIC CLIP

舞台評
OMSの遺志を引継ぐ批評者たちによる、関西圏のアートシーンを対象とした舞台批評

「サラサーテの盤 」くじら企画

2010-11-26 11:56:58 | 松岡永子
2010.8.28(土)19:00 精華小劇場

 カラン、コロン、カラカラカラカラカラ…
 屋根に小石が落ちて、それが転がっていく音がする。なぜ、屋根に小石が落ちたのか。小石はどこから来たのか。それに、小石が地面に落ちる音はしなかった気がする。小石はどこに行ったのか。
 そんな台詞には、たとえばどこから来てどこへ行くのかわからない人生の寓意をよむことも可能だ。でもそんなのはつまらない。ここにある世界は宙吊りで、収まりが悪いがなぜだか惹かれる、内田百聞の宇宙なのだ。

 大竹野作品にはおおまかにいって「事件」系と「作家」系がある。
 事件系は実際に起こった事件(たいていは犯罪)を軸に書かれたもの。作家系は、作家を軸にその作品を使って書かれている。
 内田百聞の他には、深沢七郎、色川武大などの作家を取り上げていた。単に無頼というのとはややニュアンスの違う超俗の作家(あくまでわたしのイメージです)を選ぶあたりに好みが出ている気がする。皆、なんとなく生活破綻の匂いがするところも共通しているかもしれない(大竹野さん自身はちゃんと生活を維持していたが)。
 ただ舞台を見ていると、取り上げられたそれぞれの作家よりもそれを選んだ大竹野さんを感じる。大竹野さんが作家の言葉を自分の言葉に聞きなしているからだろう。
 特にこの「サラサーテの盤」には、独特の印象的な聞きなしが出てくる。冒頭の小石の音(台詞ではこの通りに「言わ」れる)。そしてサラサーテの声だ。「ハラヘリシイタケイッポンダケ」とそれをユーモラスに聞きなしたのは、百聞ではなく大竹野さんだったと思う。

 百聞の小説と同じように、明確なストーリーはない(というか、それには意味はない)。夢と思い出、現実の境界も、生者と死者の境界も判然としない。浮遊感の世界の中で人々がうろうろしている。
 題名になっている「サラサーテの盤」の話のとおり、死んだ友だちの妻が毎夜やってきては、夫が死ぬ前に貸した本やレコードを返してくれと言う。夫の遺品をひとつひとつ持って帰るのは、夫のことを忘れさせないためだ。自分は後妻であり、死んだ夫は亡き先妻のところへ行ってしまった。人は忘れられたときほんとうに死ぬ。彼女は夫を絶対死なせない気なのだろう。

 友だちから借りたサラサーテのレコード盤には、録音時のミスだろう、声が入っている。友だちはそれをサラサーテ自身の声だといった。
 不明瞭で何を言っているのかはわからない。ただ、ずっと昔に死んでいるサラサーテの声が今こんなふうに聞けるということには、もう存在しない恒星の光がいま届いているような、不思議な感慨がある。

 追悼公演第一夜がこの作品なのは象徴的な気がする。選ばれた理由は作品内容だけではないのだろうが。くじら企画の場合は、役者が出演できるかどうかが要素としては大きい。
 書きたいテーマがあると役者を集め、稽古を重ねながら書いていく。そんなふうにして作られた大竹野さんの作品は、脚本だけが独立してあるという気がしない。それを演じた役者と一緒に思い出される舞台だ。
 「サラサーテの盤」が再演されたのも(今回は三演)、もともと書かれるはずの新作ができあがらなかった代わりだった。今回のために資料を整理していたら、その原稿が大量に出てきた、と聞いた。
 器用な作家なら適当にまとめ上げて公演に間に合わせただろう。そういう意味では大竹野さんは職業作家ではなかった。納得いくものに仕上げることへのこだわりは、文士という呼び方がふさわしい気がする。
 大竹野さんと、取り上げている百聞やその他の作家との共通点を上げるとすれば文士の風貌、だろうか。


注・内田百ケンの「ケン」の字(もんがまえに月)が変換できないので「聞」で置き換えてあります

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