CULTURE CRITIC CLIP

舞台評
OMSの遺志を引継ぐ批評者たちによる、関西圏のアートシーンを対象とした舞台批評

神様とその他の変種 NYLON100℃

2009-06-08 13:39:00 | 西尾雅
2009.5.23.18:00 シアターBRAVA!

幕前にいきなり登場する自称神様(廣川三憲)が本作を象徴する。うす汚れたどう見てもホームレスの立ち小便男が「自分は神様」だと名乗り、物語の開始を告げて狂言回しを務める。そのうさんくささに自ら言及してシュール感はさらに増す。

ひと筋縄ではいかぬ印象をのっけから抱かされ、観客は驚くしかない。つまり、演劇がそもそも虚構であること、現実もまたさまざまな二重性に満ちていること、その事実を冒頭であっけらかんと開示されたことにだ。あっけに取られた観客は、否応もなく屈折した笑いとシリアスなテーマが入れ乱れる物語に引きずり込まれる。

自称神様は「ゴドーを待ちながら」で、ついに来ることのないゴドー=神をいきなり登場させるケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ:作・演出)なりのパロディにも思える。笑いと恐怖が複雑に交わるブラックコメディの要素が本作は色濃いが、コントやミステリなど今までの戯曲の集大成、あるいはそれらを織りあげたコラージュのようでもある。神/ホームレスに象徴される二重性、自分自身をも笑い飛ばすおおらかな批評性がケラ最大の持ち味といえる。

家庭教師募集の張り紙を見て応募するべく、初めてこの家=サトウ家を訪れた元教諭(水野美紀)。けれどもこの家に関係した者は前任の家庭教師を含め何人も行方不明になる怪事が続出している。が、記憶をなくし失職中の彼女は、何も知らず週2回の家庭教師を引き受ける。

教える相手は学校でイジメを受け登校拒否中のケンタロウ(みのすけ)。学校には友達がいないが、隣の動物園に収容されている動物たちと会話出来る能力を持つ。そのせいかサトウ家に入り浸る飼育係(大倉孝二)がケンタロウの唯一の人間の友達だ。

この家の異常さは息子を極端に溺愛、監視し、邪魔者を排除する母親(峯村リエ)に一因がある。行方不明者は、すべて彼女が淹れた紅茶を飲んだ直後に姿を消しているのだ。奇妙なことに動物園の動物たちも何者かの入れた毒エサを食べ、次々に死んで行く。周囲の状況にうろたえるケンタロウの父(山内圭哉)もどこかあやしい。

ケンタロウの同級生の両親=スズキ夫妻(山崎一、犬山イヌコ)が訪れる。イジメられっ子とばかり思っていたケンタロウが反撃し、彼らの息子に怪我させた事に抗議に来たのだ。過剰防衛を聞かされたサトウ母はそれを信じず、はねのける。氷の表情の裏にエキセントリックな感情を抱くこの母が、行方不明者や動物の死に関わっているのだろうか?隣の動物園から断末魔の動物の咆哮が響き、不気味にこの家を震わす。

いっぽう、家庭教師の過去がしだいに明らかになる。記憶をなくしている彼女は平気だったが、かつて不倫の関係だったスズキ父は思わぬ元恋人との再会にあわてる。彼は、薬害訴訟で訴えられた製薬会社の弁護士を務め、息子の怪我の心配より薬害の事実をもみ消すことに気もそぞろ、サトウ家への抗議より業務連絡の携帯に夢中だ。

元教諭=家庭教師が記憶をなくした衝撃の重さが語られる。教諭担任のクラスの少女がイジメに遭い、階段から突き落とされ片腕切断の重傷を負う。裁判で弁護を担当したのが二人の出会い。けれど、裁判で明らかにされた真相が彼女を打ちのめす。イジメの事実はなく、すべては自分をかまって欲しい少女の自作自演、突き落とされたのではなく自分で飛び降りたのだった。

サトウ母が誰も殺していないこともわかる。彼女に殺意はあったものの(睡眠薬入りの紅茶で眠らせ、後の処理を夫に頼んでいたのだろう)、妻に逆えない夫は、けれど殺すことが出来ず、被害者に金を渡し、姿を隠すよう依頼していたのだ。夫の不興は、借金工面の苦悩だったのだ。

そして動物の死も、園内の猿の仕業とわかる。人間ばかりではなく、賢い動物もまた嫉妬し、他の動物に殺意を抱く。人間もまだまだ神よりはこの猿によほど近いのだろう。神様を自称したホームレスの正体もただのストーカーの下着泥棒、最後には逮捕されるのだから。

ラストでケンタロウは、イジメを受ける=仕返しするの負のスパイラルから脱け出し、母の庇護下を離れ、自立をめざす。けれど、その時動物たちの声を理解することがもはや出来なくなった自分に気づく。

サトウ母が殺人鬼と思わせてひっくり返す。記憶をなくした家庭教師の謎解きや園内動物連続死の犯人探しのサスペンスが観客を引っ張る。散りばめられたシュールなコントに頬がゆるむ。重いテーマを感じさせない軽妙な語り口は手練の技だ。

人は誰しも二面性を持つ。イジメを偽装する少女、その衝撃に不倫に走る教諭。いっけん家庭的で子煩悩に見えるが、実は不倫を隠し社会悪を擁護する弁護士も世間にはざらにいよう。どちらがその人の真実か。それはホームレスが神か、そうでないのか問うのと同じようなもの。

動物と会話出来るケンタロウの能力は、すべての動物の声を聞きわけたというソロモン王の伝説を思い起こさせる。皮肉にも彼の特殊な力は評価されず、現代ではイジメられるだけ。彼こそが神に近い存在であったはずなのに。彼が人間社会に溶け込めるのは、その力が失われた時。何かを得れば何かを失う、それが人の宿命なのだ。

家庭教師も記憶を取り戻すが、それは悲劇の悲しみも同時に蘇るということ。あるいは記憶をなくしたままの方が彼女は幸せだったのではないだろうか。確信犯のサトウ母も、殺したはずの憎い人々がまだ生きていると知るのは複雑な気分だろう。立場上エサに毒を入れた容疑者と見なされた飼育係も、疑いが晴れたことより可愛がっていた猿が犯人と知った方がショックなはず。

何かを得ても、それで済まされることはない。幸福と不幸はしょせん合わせ鏡に過ぎない。言い換えれば、誰もが納得出来るハッピーエンドなどあり得ない。矛盾と苦悩だけがエンドレスで続く。作品がシュールなコントで彩られるのは、せめてその現実を覆うためでもある。

人は(動物も)みな罪を犯す。元教諭や弁護士も小さな悪事を重ねる。被害者のケンタロウも加害者の一面を持ち、イジメを偽装した少女もまた罪人だ。殺人未遂のサトウ母の罪が最も軽いのは皮肉だが。自称神様のホームレスが破廉恥罪で捕われたのは、創造主たる神がこの世界を不完全に造りたもうた報い。ケラの世界では神もまた罪から逃れられない。

本作には英訳タイトルが付き「GODS AND FREAKES」とこれまたケラらしい皮肉が効く。神も奇人(変人)も複数形で、世の中にたくさんいるとわかる。完全に中立、真っ当な人間など誰もおるまい。私たちは、どちらかに片寄った存在。神と奇人、極端な両者の狭間に私たちは漂っているのだ。


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