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キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ(1897ー1930)

2017-03-30 22:53:36 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、2

◆、略歴

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ(1897ー1930)

 聖リカルド・パンプーリは、1897年、北イタリアのトルブールシオ村に,11人兄弟の10番目に生まれた。

 かれは、パビア大学で医学を勉強中兵役のため、一時勉学を中止し、最前線で衛生兵をつとめた。兵役をとかれてのち、1922年に医者の免許を得て開業していたが、貧しい人には愛の奉仕を行い、困っている入々には援助の手をさしのべた。また、この時期に、若者たちの霊的生活を考えて、種々の活動を起し、みずから指導の任務をひきうけた。ほんとうは、宣教師になることを望んでいたが、健康上の理由で実現できなかった。

 三年間、祈りのうちによく考えたすえ、1927年、30才のときに、聖ヨハネ病院修道会に入会した。ブレシア市の病院では歯科部長をつとめたが、訪れる労働者や貧しい入々に労をおしまずにつくした。

 1928年10月に初誓願をたてたが、そのうちまもなく、兵役時代の膜肺炎が災いして、わずらっていた上膜炎が悪化し、1930年5月1日33才で帰天した。
 1981年11月4日に列福され、また、1989年11月1日に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。


聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆1、その生い立ち

2017-03-30 22:47:01 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、3

◆1、その生い立ち

 リカルド・パンプーリ。これはこの聖人の修道名です。かれは、一八九七年八月二日、北部イタリアのパビヤ南から十キロ離れたトリボールシオという小さな村にインノチェンテ・パンプーリと、アンシェラ・カンパーリの間に生まれました。かれは、男九人、女二人の十一人兄弟の中で十番目でした。

 生まれたその翌日洗礼を受けました。霊名は、エルミニオ・エミリオ・アントニオの三つの名でしたが、ふつうエルミニオの名で呼ばれるようになりました。この日に、小さな村の教会の鐘の塔にはじめて新しい鐘のコンサートがありました。パビア市の大聖堂にあったような八つの鐘からできていました。この子の洗礼式のために、はじめてこの鐘が鳴らされたのは、特別な意味があるのではないかと村人たちは考えていました。

 かれが生まれたその家は今はもう存在していませんが、家に面していた道は医者パンプーリ通りと呼ばれるようになりました。

 医者といえば、その当時、わずかの例外を別にして、無神論者、反聖職者、フリーメーソン、あるいは、社会主義者と同じ意昧のことばとなっていました。しかし、医者パンプーリの場合は、まさにその例外でした。

 エルミニオが三才のとき、ちょうど一九〇〇年に母のアンジェラはまだ四十四才の若さで肺病で帰天しました。そのため三才のエルミニオは母方の叔父ジョバンニ・カンパーリの家にあずけられました。

 父の話はあまり出ていませんが、職業はブドー酒小売店で、飲みすぎて妻を乱暴にとり扱うこともありました。そのために商売がうまくいかないで家族は経済的に困っていました。

 一九〇七年に父はミラノに移り住み、そこで交通事故にあって死にました。兄弟たちのうち五名は割に早く死に、ひとりは二十才で戦死、ひとりだけが結婚しました。生き残った二人の姉妹のうち、ひとりはシスターになり、もうひとりは結婚しないで医者になった兄の手伝いをするようになりました。

 シスターになった姉は、聖母マリアの汚れないみ心のフランシスコ会宣教修道女会に属し、名をマリア・ロンジーナと呼ばれました。問もなくエジプトに派遣され、しばしば家に手紙を書き送っていました。小さなエルミニオに、ずっとこの姉さんの霊的生活に魅せられていました。それで、かれの方からもこのエジプトの姉さんに手紙を書いていました。六十六通の手紙が今も残っています。最後の手紙は、一九三〇年三月二十九日、エルミニオが亡くなる一か月前でした。姉の方はずっと長生きし、一九七七年にエジプトのカイロ市で亡くなりました。かの女も模範的な修道女だったといわれています。

『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ

2017-03-29 23:37:53 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ

◆、序

 偉人の生涯を述べるのは、たやすいことではありませんが、聖人の伝記となると、なおさらむずかしくなります。それは、聖人の生涯には自然的なことと超自然的なことが密接にまじりあっているからです。

 聖人たちは、わたしたちよりすぐれた生活をし、わたしたちを超越しているだけではありません。もし、それだけでしたら、世間一般の偉人のように「偉いなあ」と考えるだけですみます。

 本当をいいますと、かれら聖人たちも、わたしたちと同じような生活を送ったのです。一般の人が出会うようないざないや困難にも出会ったのです。それにしてもかれらは、そのいざないや困難に負けないで、神の恵みに支えられて模範的な英雄的な生活を送ってきたのです。この点において、わたしたちは、"かなわないなあ"と考えがちです。ところが聖人たちは、こんな考え方をゆるさないで、わたしたちを叱貴したり、励ましたりします。

 あの有名な大聖人アウグスティヌは、はじめは迷った生活をしていましたが、聖人たちのことを考えて、「この男性たちとこの女性たちにできたのなら、どうしてわたしにできないことがあろうか?」と自問していたのです。

 それぞれ異なる時代や民族、文化に属する聖人たちは、いろいろな環境の中にあって違った姿をみせています。しかし、みな同じ精神に生かされたのです。それは、キリストに対する愛です。この愛にもえて、ある人は若いときから、ある人は大人になってから、またある人は罪に流れた生活をやめて立ちなおりすばらしい手本をみせるようになりました。

 最近は教会の危機で、聖人たちの伝記を時代おくれと考える人がいます。この人たちの態度には、一つの間違った考え方がひそんでいます。

 すなわち、キリストはご自分に従うように呼びかけておられますが、キリストに従う道は十字架の道であるから、楽で、気ままな生活をしたいと思っている現代人にとって、それは不可能だという考えです。それで聖人たちは、かれらにとって"不便な人"であって、その伝記も読みたくないのです。それにしても、この"不便な人"はこの世の暗闇に輝くともし火となっていて、自分たちといっしょにキリストに従うようにと呼びかけつづけています。

 ここに紹介するのは、中世紀の聖人ではなく、現代の聖人です。その名をリカルド・パンプーリと呼びます。

 かれは医者として、体の病気を献身的に治療しましたが、より親密にキリストに従うために、聖ヨハネ病院修道会の修道士となり、キリストと同じ年令三十三才で帰天しました。こうしてかれは、肉体の医者であるよりも魂の医者であることを望んで、天国からこの治療を今もなお続けています。

 これから述べる伝記は、日本の教会にもその手本を紹介するためです。かれは特に若い人のためにりっぱな手本となっています。わずか三十三年間の生涯でしたが、高校時代にも大学時代にも皆の励ましとなり、学生たちを善の道に導いたのです。

 かれが属する病院修道会は渡来し、神戸市に社会福祉施設を開設し、恵まれない人々のために献身的に働いています。この聖人の手本に魅せられて、多くの若い人々が同じ献身的な道をたどりながら、キリストに従うことをわたしは祈ってやみません。

本書を編さんするために利用した史料。
1.33 anni con Dio「神と共に33年間」、アンジェロ・モントナティ著、ローマ1982年発行
2.San Riccardo Pamppuri「聖リカルド・パンプーリ伝」。
3.Un medico innamorato di Dio「神の熱愛省である医者」。
4.Testimonianze vive「生きた証言」
5.Frammenti di speranza「希望の光線」、聖リカルド・パンプーリの手紙と霊的日記からの抜粋、一年の毎日のため。
6.Osservatore Romano ヴァティカンの新聞、1989年10月29日の、カルディナル・ピロニオの記事