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キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆2、第一次世界大戦のとき 

2017-04-01 23:40:00 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、8

◆2、第一次世界大戦のとき

 一九一七年四月一日、若いパンプーリも、第一次世界大戦のために召集されました。医学生だったため衛生隊に入隊させられて前線に送られました。

 かれが同じ年の九月一日にシスターである姉に送った手紙が今も残っていて次のように書かれています。

 「二週間前からわたしは野戦病院の治療室で働いています。なんとかわいそうな人たちーその肉体はひどい傷におおわれ、めちゃめちゃになっています。この災難が神のおんあわれみによって、一刻も早く終わることを願っています」と。

 この経験によって、かれは苦しんでいる兄弟たちのために生涯を捧げる決心をかためたといってもよいでしょう。

 兵役に呼ばれた人たちは、単なる番号でしかありませんでした。かれらは、戦争が終わって無事に家に帰ることだけを考え、慰めとして、道徳的に悪い方に流れることもよくありました。それで、若いパンプーリは、悪い手本となっている戦友の仲間になることなく、よい戦友と一致して、善の道を励ましていました。

 前線にいてもかれは、福音書と聖パウロの手紙を、また、「キリストにならう」という本をもち、休み時間にこれを使って、よく黙想していました。また苦しんでいる兵士たちに信仰の慰めを与え、戦友にも信仰のメッセージを伝えていました。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ 大学時代

2017-04-01 23:26:10 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、7

◆、その生い立ち(5)

 当時は大学生の鉱的道徹の餐成のために当市の司敏が大学飽サークルをはじめていましたので、エミリオは喜んでこれに参加するようになりました。その当時の大学の環境では、信仰を失なった大学生がカトリックの大学生を攻撃し暴力を使ってまで信仰を捨てさせようとしていました。そのためカトリックの大学生も団結して自分の立場を守るために戦う覚悟と訓練が必要になりました。当市の司教がサークルをはじめたのは、そのためだったのです。

 このサークルには、尊者ヴィコ・ネツキ、福者コンタルド・フェリー二、のちに枢機卿となった学者ピエトロ・マッフィ、のちにクレモナの大司教となったヨハネ.カザニなどのような人物が活発に活躍していました。

 若いパンプーリは、当時大学で流行していた実証主義的で唯物主義的な傾向のあった大学の教授たちに反対し、キリスト教の真理で学友たちを指導するのに全力をつくしていました。かれは学問においてすぐれ、その生活は申し分なく、他の人々の手本となり、励ましとなっていました。はじめはカトリックの大学生のサークルは少なかったが、若いパンプーリのおかげで、その人数もふえてきました。

 またはじめの頃は、嘆かわしいエピソードがあって、学生デモで二人の大学生が殺されましたが、誰もそのそばに近づく勇気がなかったとき、パンプーリは亡くなった二人の学生のそばに行ってひざまずき、その人たちのために祈りました。でも殺した人たちは、反対しませんでした。

『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、6

2017-03-31 01:05:02 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、6

◆、その生い立ち(4)

 この同じ町で高等学校まで進学しましたが、高校生のとき休みに叔父の家に帰ったときには、喜んで村の子どもたちに公教要理を教えました。もし初聖体の準備でもまかせられると、なおさら熱心でした。

 当時は、イタリアでは若い人のためにカトリック運動が盛んになっていましたが、エミリオは、主任司祭と相談してカトリック運動のグループと、サークル「ドン・ボスコ」を設立しました。学友のなかで、いちばん善良なものを選んでこのグループをつくり、みんないっしょに毎晩聖体訪問をしていました。またかれは、しばしば黙想していましたが、高校生の時には,エジプトの布倣地にいた姉にこんな手紙を書いたことがあります。

 「わたしも、あなたといっしょにあの有名なピラミッドを見たい。それは作られてからなん千年が過ぎても、あの当時のファラオたちの勢力を知らせてくれます。あの王たちは、非常にごうまんで、自分たちのことを"太陽の子"と呼ばせていて、イスラエルの神の命令に従いませんでした。神がモイゼの口を通じてイスラエル民族を解放するように命じられたあの時です」と。

 高等学校を卒業したとき、エミリオは、修道会に入ろうと望んで、エジプトの姉のシスターにうちあけたことがありました。でもこれまで世話をしてくれた叔父に対して義理がありました。というのは、カルロ叔父のすすめが非常に強く、医者だった叔父は甥が自分と同じ道を歩くことを望んでいたからです。叔父はエミリオをパビヤの大学医学部に入学させました。こうして一九一五年から一九二「年まで勉強し、非常に優秀な成績で卒業しました。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ  ◆、その生い立ち(3)

2017-03-31 01:01:49 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、5

◆、その生い立ち(3)

 このトリブールシオ村には、学校がありませんでした。それで六才になったエミリオは、小学三年生になるまで一キロ離れたとなり村の学校に毎日通うようになりました。この村には、小学校は三年までしかなかったので、四年と五年のためにトルリーノから四キロも離れたカゾラテ村の小学校まで毎日通うことになりました。もちろん、いつも歩いてです。当時の先生ルイジ・バルビが伝えたように、冬や天気の悪いときは、とてもつらい道でしたが、一日も欠かしたことはありません。どんなことがあっても、勤めを忠実に果すことをこうして子どもの時からよく教育されていました。

 当時の先生は、エミリオのことをこう書き残しています、「この子は、生まれながらといえるはど良い気質で、すぐ喜んで従いました。勉強にも非常に熱心で、どの面からも文句のつけようのない生徒でした。口かずは少なかったがみんなを明るいほほえみで迎えていました。その時からすでに、おちついた精神と神の恵みにみちた心のしるしを、示していたのです」と。

 エミリオは七才のとき、すなわち一九〇四年に堅信の秘跡を受け、九才のとき一九〇六年四月五日の聖木曜日に初聖体を受けました。

 一九〇九年には中学校に入学するため、ミラノにあった兄の家に移り、そこで一隼だけ過しました。なにかうまくいかないことがあって、勉強も思った通りできませんでした。

 トルリーノの叔父たちは、それに気づくと、かれをもっと近くのパビヤ市の聖アウグスティーノ学院の寮に入れることにしました。ここは良い環境に恵まれたので、精神的にも勉強においてもよく進歩しました。

 勉強については数学や幾何が得意で、学友たちが答えられないむずかしい問題も楽に解くことができました。

 精神的な面では、さらにすぐれていて、学友たちが感心するほどでした。寮の指導司祭もかれの信心深さを次のようにあかししています、「かれはたびたび告白の秘跡にあずかって心を清め、毎日聖体拝領をしていました。それで、かれのようにしていなかった学友たちは、"パンプーリ君はこの学校の聖アロイジオだ"といっていました」と。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ  ◆、その生い立ち(2)

2017-03-31 00:55:11 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、4

◆、その生い立ち(2)

 さて、母が亡くなってから三才の小さなエルミニオは、母方の叔父ジョバンニ・カンパーリ家に引きとられました。生家から約三キロメートルほど離れたトルリーノ村にある叔父の家は、立派な信者の家鷹で、叔父とその妻は、いつくしみにあふれる心をもってエルミニオを迎え入れました。この家には、割に大きな土地があったので、経済的に困ってはいませんでした。それに、叔父は トリブールシオ村の診療所の嘱託医でした。

 どういうわけか叔父はこの子の名をエルミニオではなく、エミリオと改名しました。この家族に養われたエミリオは、叔父たちが模範的な信者だったのですばらしいキリスト教的雰囲気に恵まれました。

 叔父の家では神についてよく話され、なにはばかることなく村中の人々に信仰の手本を示していました。朝夕の祈りはもちろんのこと、たびたび家族そろってロザリオをとなえたり、聖堂に行って聖体訪問をしたりしていました。子どもが育つにつれて、聖堂でする公教要理の勉強には欠かさずあずかっていました。

 このすばらしいキリスト教的雰囲気は、残念なことに現代ではイタリアでさえ大部分の家族に見られなくなっています。

 叔父たちは、経済的に割に恵まれていたので、貧しい人々をよく助けていました。このように叔父のカルロはすばらしいキリスト教生活の模範となっていたので、村人たちは、かれを聖人ではないかと考えるほどでした。