写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

めく

2019年03月03日 | 随想

めっきり春めいてきた。ところで、「めく」って何?と思って調べてみたら、「めく」~名詞や副詞、形容詞や形容動詞の語幹に付いて、…のような状態になる、…らしいなどの意を表す、となっている。

使い方の例として、「夏めく」「なまめく」「時めく」「ひしめく」「ざわめく」等がある、と出ているが、ここで出てくる「時めく」というのは、「よい時機にめぐり合う」というような意味で「今を時めく」などという使い方をされる。胸が「ときめく」という言葉とは別のようだ。「めくるめく【目眩く】」というのも、「めく」で終わるが、上記のたぐいではない。

「めく」で終わる語」には、その他にも、「うろめく」「よろめく」「犇めく(ひしめく)」などがある。牛、牛、牛で「ひしめく」ってのは牧場を連想したりして、いいょなぁ。

などと感傷に耽っていたら、どうも「めっきり」という言葉は、どちらかと言えば悪い状態になる場合に用いることが多い、とのこと。(「きょうのことばメモ」、ことばの話928「めっきり」

まぁ、使わないでもない、とのことなので間違った用法ではないようだが、ここは「すっかり」のほうが適切なのかもしれぬ、ということでケリをつけておこう・・・・って、またまた、になるが、はてさて、つける「ケリ」って何じゃい?

っと、これは和歌や短歌などで「◯◯けり」と、助動詞「けり」で締めていたことから、物事の終わりを「けりをつける」と表すようになったとのこと。「かたをつける」のとはちょっと違うようではある。ゃやこしゃ、ゃやこしゃ・・・。

 

太陽も、冬期間はただ光を与えてくれていただけの感じだったが、その光にも少しずつ暖かさがにじんできた。

2月中旬には薬師岳の北稜線から昇ってきた朝日も、3月に入っていよいよ鍬崎山から、6時40分頃には昇ってくるようになった。(まだ花曇りにはちと早いが、春霞のせいか、2月下旬からの大気は立山連峰の稜線を朧気にしか見せてくれない・・・・)

 

着実に、早く、そしてどんどんと北のほうから昇ってくるようになってきており、もう2週間ほどで、立山からの旭日、春分の日には大日岳から太陽が昇ることとなる。例年どおり変わらぬ、立山連峰からの日の出が楽しみな季節となってきた。

・・・・毎年変わらぬ自然風景を詠んだ句として「年年歳歳花相似たり」という句が有名だが(人間の生命のはかなさを対峙させているところが奥深い。)、大自然の悠久さを語るのに「」を持ち出してくるようではたかが数百年程度のスパンであり、7万年分のカレンダーと呼ばれる福井県は三方五湖の1つ、水月湖の年縞博物館によるアリバイでは、約12,000年前のヴュルム氷期が終わる頃に対馬暖流が日本海に流れ込むようになって、日本海沿岸は「花」どころか、気候も植生も大きく変わった、という時間の幅を考えさせてくれる。

まぁ、おかげで北陸が豪雪地帯となったようだが、これが数万年というスパン。(「年縞」については、以前、ここでも少し触れた。)

1億年というスパンとなれば、これはもう大陸が水面の泡よろしくフワフワと地球の表面を漂う世界だし、数10億年となれば、地球や太陽がようやく生まれたというような時間。

自然の悠久とは、数10年の命しかない人間の目から見たときの感覚であり、変化こそが常である。

・・・・「土に還る」というのも、せいぜいが数年から100数十年くらいの時間の長さでの感傷であり、リンク先の最後に述べていたように、人の「死」というのも、元の「宇宙」という場所に還るだけのことなのである。宗教でも唯物論でもペシミズムでもなく、敢えて言えば達観とでもいうものかもしれない。