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Retro-gaming and so on

アフターバーナーII

アフターバーナーっつーのは不思議なゲームだ。
もちろん、シューティングがヘタクソな僕がこのゲームの「プレイヤビリティ」に対して云々言えるわけではない。
単に80年代後半から90年代初頭にかけてのセガを代表する人気ゲームだ、と言う事を知ってるだけだ。
なんせ、映画、「ターミネーター2」でも散々フィーチャーされている。シュワちゃんと接触する直前、液体金属型ターミネーター、T-1000に追っかけられる前までゲーセンで、ジョン・コナーがプレイしてたゲームがアフターバーナーだ(※1)。




つまり、当時のアメリカのゲーセンでも「ピカイチの」ゲームだったのだ(※2)。

そんな「かつてのセガを代表するゲーム」の1つ。
ところが、セガは、このゲームのライセンスを乱発してる。
そんな「セガを代表するゲーム」はセガの家庭用コンソールでしか遊べないようにしとけばいいだろうに、このゲームはたくさんのプラットフォームに移植されまくるのだ。
ライバル機のファミコン。
ライバル機のPCエンジン。
「敵に塩を送るが如く」気前よくライセンスが乱発される(笑)。任天堂だったら絶対そんな事はしねぇだろう。
っつーかセガのロイヤルカスタマー達はこういうセガの行動を見てなんとも思わなかったのだろうか?

もう1つ不思議なのは、「セガを代表するゲームの癖に」セガ自身がセガの家庭用マシンの為に移植した事が一回しかない、事だ。
アフターバーナーはセガ・マークIII/マスターシステム向けにセガのAM2研(アーケード版の開発部署)自らが一回だけ移植している。
しかし「その一回」だけで、しかもゲームの出来としては酷評されてるのだ。

 

 

そして他は自社の家庭用コンソール向けだろうと、最後っ屁のドリキャスになるまで開発に手を出していないのだ。

これは奇妙な構図だろ?まるで「ゲーマーには愛されてたゲームなのにセガ自身にはさほど愛されてないゲーム」に見える。

まぁ、恐らくだが。これはセガの80年代及び90年代初頭を代表する「体感ゲーム」の1つだ。言っちゃえば、恐らくセガとしては、体感ゲームを実現するハードウェア、つまり筐体こそが本体であって、ソフトは従、ってんでどーでも良かったんじゃないか。
ハッキリ言ってセガなら考えられる。セガの考え方ってのは任天堂と真逆なんだよ。少なくとも中山体制下だとそう思ってたんじゃねぇかなぁ。
んである意味正しいのかも。
僕はシューティングあまり詳しくないから評価出来ないんだけど。アフターバーナーって筐体あってこそのアフターバーナーじゃない?筐体無かったらゲームとしての魅力や面白さって半分以下に減ってない?
多分セガはそこが分かってたとは思う。っつーかよ。誰かも言ってたけど、当時のセガの代表的なクリエータ、鈴木裕って人は専用ハードウェアを駆使出来て初めて面白いゲームを作れる人なんだよな。言い換えると普遍的なハードウェアで面白いゲームが作れるのか、っつーと多分作れないんだよ(笑)。良く知らんけど。
今あるハードウェアからギリギリ「面白い事を絞り出す」任天堂の宮本茂氏とは真逆のスタンス、っつーか才能の人だ。だから専用ハードウェアが無い時点で彼のゲーム自体の魅力は減る。セガはそこが分かってたからライセンス乱発してたんじゃないか。「ゲーセンから離れたらあとはどーでも良い」ってなカンジで。

いや、ぶっちゃけると、ビジネスとしては間違ってると思うんだけど、セガはライセンスに対してヌルく、自社ゲームを他社からブロックまでして護らなかった、と言う事実だけは遺るわけだ。
上で書いたのは僕の予想なんだけど、いずれにせよ、セガのこの辺の「ライセンス」の動きは非常に不可解ではあるんだ。



なお、SHARP X68000版もセガ メガドライブ版も「移植の鬼」電波新聞社が移植して販売している(販売元のマイコンソフトは実は電波新聞社の子会社)。
こうして、セガのコンソールでセガが開発したゲームが、何故かセガ以外からリリースされる、と言うワケワカメな状況が起きるわけである。

セガってつくづく不思議な会社だ。

※1: なお、ジョン・コナーが銀行から金を不正に引き出す為に使ってた「パソコン」がATARIのPortfolioと言うマシンだ。


今の「ラップトップパソコン」のルーツは1985年の東芝の輸出専用機だった模様だが、1989年にはバカな(笑)AppleがMacintosh Portableと言う「とてもPortableと呼べないような重量の」持ち運びがギリギリ可能な(笑)パソコンを出す。
同年、MSX陣営からさっさと撤退した東芝は日本国内で初めて「それまでのPCと違って持ち運び出来る」IBM-PC互換機を開発して販売する。これが後の東芝ダイナブックのシリーズになるが、生憎、対米輸出は当初は考えてなかった。
まぁなんだかんだで、この時のアメリカでは「パソコンとポケコンのあいの子」であり最軽量だったのはAtari Portfolioしか無かった、と言う事だ(だから「ターミネーター2」に出演出来たんだろう・笑)。
なお、今や見る陰もねぇが、この頃の東芝はなかなか凄かった、「最先端企業」の一端を担ってはいた。

※2: ターミネーター2の公開は1991年だが、同年、アーケードゲームの花形の地位を奪った「ストリートファイターII」が北米も含めてゲーセンでデビューする。
つまり、ターミネーター2の撮影期間を鑑みると(まぁ、鑑みなくてもそうだが・笑)、「ストリートファイターII」のデビューはターミネーター2の撮影には「間に合わなかった」ということだ(笑)。
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