雑木帖

 ─ メディアウオッチ他 ─

安倍晋三の“核合憲発言”

2006-10-11 17:39:16 | 記事
 Index
 ・安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈 第5回 『週刊現代』2006.09.23
 ・NHK元“硬骨”記者が警告「偏狭な体質が日本を危うくする!」 『サンデー毎日』 2006.10.01
 ・田中康夫の奇っ怪ニッポン “このダブルスタンダードなご都合主義よ” 『日刊ゲンダイ』 2006.10.04
 ・“知られざるプルトニウムの軍事利用計画” 『私物国家』 広瀬隆著 1997.10.30刊
 '02年5月13日のことだ。東京・新宿区の早稲田大学に官房副長官(当時)の安倍晋三が姿を現した。同大特命教授で評論家の田原総一朗が塾頭を務める学生向けシンポジウム「大隈塾」に招かれ講演したのだ。この講演で、安倍はとても官房副長官という内閣の要職にあるとは思えない、驚くべき“爆弾発言”をしたのだった。『サンデー毎日』'02年6月2日号から発言を抜粋する。田原から、
「有事法制ができても、北朝鮮のミサイル基地は攻撃できないでしょう。これは撃っちゃいけないんでしょう。先制攻撃だから」
 と水を向けられて、晋三はこう答えたという。
「いやいや、違うんです。先制攻撃はしませんよ。しかし、先制攻撃を完全に否定していないのですけれども、要するに『攻撃に着手したのは攻撃』と見なすんです」
 さらに、独自の憲法解釈も開陳してみせたのだ。
「大陸間弾道弾はですね、憲法上は問題ではない」
「憲法上は原子爆弾だって問題はないですからね、憲法上は。小型であればですね」
「日本は非核の原則がありますからやりませんけども、戦術核を使うということは昭和35年('60年)の岸(信介)総理答弁で、違憲ではない、という答弁がされています。それは違憲ではないのですが、日本人はちょっとそこを誤解しているのです」
 原爆でも、小型であればこれを保有することは憲法上、問題はなく「合憲」だというのだ。このような暴言がまかり通っていいはずはない。当然、国会では物議をかもし出した。しかし、晋三はあくまでこう釈明したのだった。
「憲法論について、また、政府の解釈論を紹介したわけでありまして、また歴史的な事実として岸答弁を紹介したわけであります。(中略)憲法には一々兵器が列挙していないというのは当然であります。その解釈論について、(戦争放棄を定めた憲法)9条の2項をどう解釈しているかという解釈論について私が述べたわけでございます」('02年6月10日に行われた衆議院『武力攻撃事態への対処に関する特別委員会』での答弁)
 核兵器保有について、憲法上の解釈では「可能」と述べたにすぎないと言い訳したのだ。(略)
 (安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈 第5回 『週刊現代』2006.09.23より)
「気に入らない報道は問題をすり替え、都合が悪くなると取材を拒否することもある。そういうメディア対応に彼の体質が表れています」
 元NHK政治部記者、川崎泰資氏(71)は安倍晋三氏を容赦なく批判する。
 川崎氏は、首相官邸キャップだった時に上司の制止を無視して厳しい質問を浴びせ、記者会見場で田中角栄首相を激怒させた硬骨漢だ。その後、81年にはロッキード事件の検証番組が上層部の圧力でカットされたことに抗議、取材現場から外された。同じく政治部出身の海老沢勝二・前NHK会長とは同期だ。
 冒頭の川崎氏の指摘は実は本誌のことも指している。
「『サンデー毎日』が盗聴器とまた盗撮ビデオを仕掛け…」
 02年5月27日の参院予算委員会で、当時官房副長官だった安倍氏は、こう答弁した。本誌が取材で盗聴、盗撮をしたというのだ。
 むろん事実無根である。発端は、02年6月2日号の特集記事。安倍氏が早稲田大学の講義で「核兵器の使用は違憲ではない」との趣旨の発言をしたことをスクープしたものだ。
「盗聴・盗撮の物的証拠はあるのか」と再三追及した長妻昭衆院議員(民主)に、安倍氏は「合理的な疑いが発生するのは当たり前」などと答えるだけだった。
 (略)
 (NHK元“硬骨”記者が警告「偏狭な体質が日本を危うくする!」 『サンデー毎日』 2006.10.01より)
 (略)安倍氏は「核保有国を目指そう」の広言が報じられた4年半前、「発言を外に一切出さない事を学校側も了解した。それを報じたのは学問の自由を侵す」と巧言し、失笑を買いました。今春に靖国参拝をしたかどうか、公式に述べる必要は無い、と秘密主義を貫く氏は、矢張り、第3次岸信介内閣と呼ぶに相応しい心智の持ち主なのでしょう。
 (田中康夫の奇っ怪ニッポン “このダブルスタンダードなご都合主義よ” 『日刊ゲンダイ』 2006.10.04より)
 東京電力は、なぜこのようにプルトニウムに固執するのか。また、どのようにして、このプルトニウム製造体制を、前述の三菱軍事財閥と連動させてきたのであろうか。
「日本の原子力産業は、軍事用のプルトニウムを確保するべきである」という考えが、日本の政界と財界に根強く残っている。その命題は、九七年五月二十二日に、ロッキード事件の若狭得治が全日空から退任するなり、会長に迎えられた「日本航空協会」という財団法人の人脈を抱きこんで進められてきた事業であり、かつてこの会長のポストを占めていたのが、前章の【系図12】に三菱財閥創始者・岩崎弥太郎に近い一族として登場した荘田泰蔵であった。
 前章の系図の301頁に示されるように、岩崎弥太郎の姪が、三菱財閥の番頭をつとめた荘田泰蔵の母である。その息子の荘田泰哉が、現代に、われわれの見ている前で、動燃の理事となって、福井県敦賀市の高速増殖炉”もんじゅ”の開発に旗ふり役をつとめてきた。いま示した東京電力のプルトニウム支配体制の背後にいる、日本の中枢一族である。
 荘田泰蔵は、戦後に新三菱重工の副社長となり、五三年十一月五日、経団連の防衛生産委員会に「誘導弾懇談会」という奇妙な名前の組織が設置され時、副会長に就任した。当時は、敗戦後であるため、国民のあいだに再軍備反対の声が強く、誘導弾という言葉を使うことさえタブーだった。そのため、彼らはそれを英語で表記し、誘導ミサイル(guided missile)の頭文字をとって、ひそかにGM懇談会と称していた。
 のち、千葉県の農民の土地を強制的にとりげて成田空港を建設し、成田闘争をひき起こした最高責任者「新東京国際空港計画」委員長が、やはり荘田泰蔵であった。この空港建設にも、全日空の若狭得治と、荘田の結びつきがあったのである。
 三菱重工は、戦時中、長崎の工場を主体に、造船と兵器の製造で日本の軍需産業をリードし、そのため米軍が原爆を長崎に投下する悲劇を招いた。長崎にプルトニウム原爆が投下されたのは、三菱重工長崎造船所を破壊することが、アメリカ最大の軍事目的だったからである。
 また、三菱重工の名古屋航空機製作所は、一九三七年(昭和十二年)にロンドンへ国産機”神風”を飛ばした工場であり、それが原型となって、戦時中に海軍の戦闘機”零戦”が製作されたのであった。
 戦後、三菱重工の社長となった岡野保次郎は、このような歴史を持つ長崎の造船所の副所長と、名古屋航空機製作所の所長を歴任した問題の人物だったが、荘田副会長に従えるGM懇談会の会長が、その岡野であった。岡野もまた、前章の【系図12】に三菱重工支配者として描かれている(305項)。したがって、戦後の誘導ミサイル研究は、三菱重工を中心におこなわれてきた。
 戦後このように、朝鮮戦争終結後の間隙をぬって、日本の国防政策が大きく前に動きだしていた。
 GHQ支配下の日本で、これほどの再軍備計画が許されたのは、五〇年六月に朝鮮戦争が勃発して、アメリカが日本の工業力を利用しようと考えたためであった。そして開戦からほぼ半年後、五一年一月二十五日に国務長官のジョン・フォスター・ダレスが来日し、経団連内部に日米経済提携懇談会を発足させたのである。この会議は、名称に経済を掲げていたが、実質的には軍事提携のための懇談会であった。
 そこに出席した岡野保次郎は、戦時中の三菱での兵器製造能力を買われて、「朝鮮特需の受入れ」を策定する第二委員会で委員長に選ばれた。しかし岡野は、同時に、いまだに三菱重工の最高幹部でもあった。
 そして五三年の「誘導弾(GM)懇談会」の発足、翌五四年七月一日の防衛庁と自衛隊の発足を経て、五七年五月七日には、岸信介首相が、「日本は核兵器保有が可能である」と発言するまでになった。
 続いて六〇年に、児玉誉土夫らが右翼と暴力団を大量動員するなかで、国民の猛烈な反対を押し切って日米安保新条約(軍事協定)が調印されると、岡野と荘田は、ただちに三菱重工のための軍事計画に踏みこんでいった。
 岡野が名古屋航空機製作所の所長時代、右腕として立ち働いたのは、”神風”を設計し、”零戦”の生みの親となった技術者の河野文彦であった(【系図12】の302頁)。
 安保騒動の翌年には、その河野文彦が、解体された三菱重工の一社(三菱日本重工)の社長に就任し、続く六二年には日本兵器工業会の会長に就任したのである。翌六三年には、彼の上司だった岡野保次郎自身が、ロケット開発協議会の会長に就任した。このロケットは、勿論、ジュール・ヴェルヌの月世界旅行のロケットではなく、GM懇談会の彼が開発計画を練ってきた兵器用の誘導ミサイルのことであった。
 そして翌六四年、河野文彦が主導するなか、戦後一九五〇年に解体されていた三菱重工の三社「三菱日本重工(東日本重工)」、「新三菱重工(中日本重工)」、「三菱造船(西日本重工)」が合併をなし遂げ、ついに戦前の軍需財閥と同じ三菱重工が復活したのである。
 その時、彼らが誘導ミサイルの先端、弾頭部分にとりつける破壊兵器として選んだのが、皮肉にも長崎で彼らの工場を破壊した核兵器材料のプルトニウムであった。あるいは皮肉でなく、彼らにとって、”長崎の報復”という意志がこめられていた危険性も充分考えられる。
 合併した三菱重工三社の代表者は、プルトニウム・ミサイルの製造支配力を確保するため、それぞれが次のような分野を担当した。
 三菱日本重工の社長だった河野文彦は、日本兵器工業会の会長。
 新三菱重工の副社長だった荘田泰蔵は、誘導ミサイル懇談会の副会長。
 その息子の荘田泰哉は、動燃の理事(プルトニウムを利用する高速増殖炉の建設推進を担当)。
 三菱造船社長だった丹羽周夫は、日本原子力研究所の理事長に就任した(【系図12】の301頁)。
 また、三社が解体されるまでの三菱重工社長で、解体時に代表清算人をつとめた岡野保次郎は、誘導ミサイル懇談会とロケット開発協議会の会長のほか、日本原子力産業会議の理事、原子力委員会参与、日本原子力普及センター理事長、経団連防衛生産委員会の委員長、日本原子力船開発事業団顧問、となった。
 彼ら四人の役職業務は、国防とミサイルとプルトニウムであった。この肩書と業務内容をつき合わせ、彼らが重工三社の重鎮として、合併後の相談役として共に会社を育てた経緯を考えてみれば分る。現在の青森県・六ヶ所村で、この三菱重工が主幹事会社となって建設してきた核燃料サイクル基地(再処理工場)が、プルトニウム兵器の製造のためであることを疑わない人間は、どこにもいないであろう。しかもそのプルトニウム「平和」利用の口実として必要不可欠な敦賀の高速増殖炉”もんじゅ”もまた、同じ三菱重工が主幹製造会社であった。
 (“知られざるプルトニウムの軍事利用計画” 『私物国家』 広瀬隆著 1997.10.30刊より)



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