**馬耳東風**

エッセイ・世相・世論・オカルト
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越えると元には戻れない(Point Of No Rreturn)

2015-12-31 | 世事諸々
帰還不能点という言葉があります。航空用語で帰りの燃料がなくなる限界点のことです。喧嘩で言い過ぎてもう元の友達に戻れない、言ってはいけない言葉を発したときがPONR(Point Of No Return)越えになります。昔のハリウッド映画の西部劇などで、殴り合いの喧嘩をするシーンがありますが、その直前、双方のセリフを注意深く聞いていると、PONRが必ず見付かります、それを契機に殴り合いが始まるのです。政治交渉においても、古くから、このセオリーは有用視されています。交渉相手の発する言葉にPONRの有無を探り、相手の本意を知ろうとするものです。

日本の戦国時代にも智将といわれた武将なら必ず心得ていたキーワードだったはずです。よく言われるように、石田三成は官僚で智将ではなかったために、徳川家康の挑発に乗りPONRを越えて関ヶ原の戦場に引き出され、敗れたのでした。昔も今も、戦争を仕掛けようと企んでいる、かに見える近隣国はどこにでもあるのですが、外交交渉の言葉の中に相手の本気度を見る事ができるかも知れません。ゆめゆめ三成の轍をふまないことです。

「驕れる平家は久しからず」と慣用句にありますが、どのような繁栄も栄華も長く続くものではない、と解釈すると、いかにも日本人らしいネガティブ・コメントにきこえますが、この真理は、けだし、古今東西、どの文明の消長にも当て嵌まるように思えます。長続きしないだけではなく、ノーリターン、決して復活していない、というおまけも付いています。厳然としたセオリーなのです。古代エジプト王朝、インダス文明、中華文明、ギリシャ文明、ローマ帝国、マヤ文明、中世ヨーロッパ文明、イギリス帝国主義・・・ひとつとして復活したものはありません。

今は、過去には存在もしていなかった国アメリカが、新しい文明を築いて繁栄の絶頂にあります。資本主義文明で、そのリーダーになって世界を牽引しています。対抗馬だったはずの共産主義はあだ花で、一瞬の栄華も紡ぐことはありませんでした。共産主義のフラッグを掲げた国のひとつは崩壊し、もう一つの中国はアメリカ資本主義に取り込まれ、今後どのように変容していくのか行き先知れずです。驕れるものも驕らないものも久しからずで、歴史は次のページに進んで行くようです。

冒頭に述べた帰還不能点に類似の言葉で、攻勢終末点というのがあるそうです。こちらは軍事用語で、戦には攻勢のピークがありそれを見分けるケーススタディで士官学校では必須教科だそうです。簡単にいうと戦争にも、攻勢(上り)・ピーク(頂)・退却(下り)が必ずあり、ピークが攻勢終末点で、それを見極めれば戦いに負けることは少ないというものだそうです。詳細は知りませんが、第二次大戦で日本は緒戦優勢でしたが、太平洋海域のどこかで攻撃終末点を迎え、その時点で多少不利な条件でも休戦に持ち込むべきであった、とデモシカ論を(自衛隊では)学習しているそうです。

経済学は、このセオリーを採用して、好景気が続くと必ず攻撃終末点が訪れ、それを見逃して商いするのを戒めています。バブル崩壊前に不動産を売り抜けることを考える人は多くても、実行できた人は少なかったそうです。アメリカの国勢を傍観的に、二十世紀初頭から上り百年、最近の、あるいは近未来のどこかでピーク(頂)、その後下り百年と予測する人もいるようです。アメリカの上り百年の後半を共にして来た日本は、戦々恐々です。攻撃終末点は必ずあるとされているからです。知らぬ間に通り過ぎているのかも知れません。今のアメリカの重心はもう右肩さがりという人もいるからです。


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新薬治験のミステリー

2015-12-25 | 世事諸々
アメリカ合衆国は領土が広大で西海岸と東海岸では別の文化があるとよく言われます。前回は東海岸のニューヨークの医者の話でしたが、今回は西海岸のロスアンジェルスの大学病院、UCLAで行われた新薬治験の奇怪な出来事を紹介したいとおもいます。

 新薬治験とは製薬会社が新薬を作るとCDC〔日本の厚生省に相当する役所)の販売許可を得るために薬効を証明する人体実験を行う必要がありますが、その新薬の試用試験のことです。試薬を行う人数は不定ですが、この大学病院で行われたのは40名でした。それをAB二組に分け、Aには新薬を投与し、Bにはプラシーボ(偽薬、ビタミンなど無害なもの)を投与します。

 このときの治験薬は進行した肺がんの腫瘍をも消滅させうる、という画期的な効能が記された新薬で、試用する予定者は当然ながら40人全て進行性肺がん患者ばかりでした。治験B組を担当したのはインターンの女医でした。A組を担当したのは中年の内科医でしたが、こちらが偽薬組という噂が流れていました。というのは、全ての治験は盲検といってどちらの組が本物の薬をを投与されるのか、担当医を含め、誰も知らないことになっているのですが、そこはいずこも同じで、情報は漏れることになっていて、この時はA組が偽薬組と信じられていました。

 いよいよ治験が始まる当日、一人の患者がB組担当の女医のところに訪ねてきました。末期の肺がん患者で寝たきりだったはずの本人がやってきたのでした。「先生、私も治験組に入れてください」と涙ながらに懇願しました。「見殺しにしないでください」といい、さらに自分は誰よりも悪い進行がん患者だ、新薬を試す権利があるはずだと主張するのでした。なぜ彼が選ばれなかったか想像はつきましたが、女医は半ば同情してこの患者を21人目に加えました。

 治験はおおむねいつも通りに進み、結果はA組20名中8名に腫瘍の後退がみられ、B組21名中12名がやや顕著な病状の好転がみられたというものでした。この新薬治験は全米の数十の病院で行われたもので結果の成否が通知されるのは先のことになります。ただ、B組21番目の患者については担当医もわが目を疑うほどの目覚しい病気の改善が見られたのでした。肺に点在していた腫瘍の多くが消えて、残ったものも縮小しつつあるのがあきらかとなっていたのです。

とても喜ばしいことに違いはなかったのですが、この事実が女医にとって頭の痛い問題となったのです。医者の間だけに伝えられたのですが、B組の患者に投与されたのは、実はプラシーボだったのです。あの21番目の患者の回復振りは一体なんだったのでしょう。医者のあいだでこの事実は伏せられ患者に伝わることはありませんでした。21番目の患者は、3ヵ月後に、なんと病院を退院したということでした。素晴らしい新薬のお陰でガンが治ったと信じたがゆえに完治したのでしょうか。

 このはなしには続きがあり、少し怪しいオチがあります。同じ年のクリスマス前に大衆紙の片隅に小さな記事が載りました。{期待の新薬xxxxは治験に不合格、効果は薄く不認可}その故かどうか、21番目の患者は間もなく病気が再発して再入院、なすすべもなく翌年には亡くなったとのことす。

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イギリスの箴言・・(病気は神が癒し、医者が請求書を書く)

2015-12-22 | 世事諸々
ハーバード大学の医学部を出た医者でも学校を卒業してインターンを終え、ドクターとして独立し、三日も診療にあたると自信喪失に陥るそうです。学校で学習した病気でやってくる患者など稀で,見当もつかない病気を抱えてやってくるものばかりだからだそうです。本当の病気というのは診察室で聴診器を操って解るものなど全くないといってもいいそうです。

このように告白した医者はさらにつずけて、10年経った今でも状況はそう変わってはいないがね、と苦笑したそうです。病気は動物にも植物にもあります。しかし、人間には身体を害するけがや感染症のような肉体に及ぼす障害ばかりではなく、心に及ぼす病や、自己免疫障害(アレルギィ)などというものもあります。病気の主体に目的性がみられないもの,原因不明なものも多々あるということです。

病気に対抗する主役が医療であることに違いはありませんが、切り傷ひとつ治すのも、実は医者に出来るのは止血と感染を防ぐ消毒剤を塗布するだけで、傷を治すのは患者の内面に備わった自己治癒力によるものなのです。あらゆる病気や障害に言えることで、それを知れば、医療にも限界を感じざるをえません。病気はミステリーであると誰かがいいましたが、それは医者自身がまずしみじみと感じることだそうです。

ガンがひとりでに治ることを寛解と言うそうですが、病気の不思議、ミステリーをひとつ紹介します。1980年代の話です。
ニューヨーク在住のワード医師が三年前までインターンをしていたのは、マンハッタンの同じ街区にある大学病院の外科病棟でしたが、インターン終了真近のある日、師事していた教授が執刀するガン開腹手術の助手の一人に加わることになりました。患者は多臓器転移ガンという絶望的な症状で、長時間の手術になりそうでした。当日のワード医師は緊張してこわばった表情だったのでしょう、ふと気がつくと、ベッドの上から麻酔に入る前の患者がじっと自分の方をみているのでした。ワード医師は少し恥じて緊張を緩め、患者に微笑みかけました。患者も笑みを返してくれましたが、すぐに深い眠りに落ちて行きました。

執刀医の教授は初めから憂い顔でしたが、開腹部から中をしばらく眺め、やがて首を微かにふりました。ワード医師も患者の切り開かれた腹部の奥に幾つもの黒い腫瘍をみて思わず胸に十字をきっていました。手術はそれ以上行われることはなく腹部は縫合されました。インターンとして最後の忘れ難い経験でした。そして、その最後の経験のせいか、彼は内科医になり三年経っていました。

内科医は外科医ほどの緊張感は少ない代わり多忙でした。そのお影でインターン時代のことはすっかり忘れていましたが、ある朝の診療時間にやってきた患者の顔をみて一瞬呆然となりました。多臓器転移ガンで開腹され、すぐにまた閉じられた、あの忘れもしない、インターン最後に出会った患者だったのです。もうこの世にいるはずはない、と思い込んでいたのでしたが。

その患者は屈託ない笑顔をみせて懐かし気に手を差し伸べてきました。「先生にはお礼の言葉もありません」開口一番、そう言ったのでした。「その節は幸運にもニューヨーク一の名医に手術をしていただき、そのうえ助手の先生が手術の成功を祈って胸の上で十字を切り神に祈ってくださる姿が見えました、お陰さまでこの通り回復し再発もなく元気にやっております」

ワード医師は答えるすべもなく、ただ無理に作った笑顔で患者の手を握リ返したそうです。医師として一番したい質問はありましたが、飲み込みました。実際、多くの病気はなぜそうなったか原因が解らず、なぜ治ったのかなどいうに及ばず、五里霧中とでもいうべき病気の人は、今でも絶えることはないそうです。ワード医師は霧の中を漂って地に足がつかない自分を感じていたということです。
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超常現象・超能力者・・(痕跡はあるようです)

2015-12-20 | 世事諸々
超能力や超常現象を信じないまでも興味は持っている人は少なくなさそうです。イギリスやアメリカでは19世紀末に超能力・超常現象ブームがあり、降霊、ラップ音、騒霊、透視、念力、などという言葉もこのころ生まれ、体験者も多く、広く世間に知られるようになったのです。その余韻が20世紀のにつながり、アメリカのいくつかの大学では大真面目に科学的検証を試みるところまで現れました。

カリフォルニア大学デイビス校もそのひとつで、一般に呼びかけて、超能力があると思っている人のための能力検証・公開調査を行ったのです。(現在もまだ続行中かも知れません)

超能力を持っている(と思う)人は誰でも、いつでも大学を訪れて(検査)を受けることが出来るというものです。一例をあげると、透視能力検査では、一室に被験者が座り、壁の向こうの隣室の様子を透視して、見えた(と思う)ものを紙に書くというものです。隣室の様子は毎回変えて、人が(いるとしたら)男女の別、めがねの有無、服装、と透視できたものを書き、テーブルの上の備品、照明器具なども解れば全て付記するというものです。

これまで数百人の被験者がありましたが、結果は、ウイリアム・ジエームズの法則(超能力があると思う人にはその証拠が見つかり、ないと思う人にはいつも証拠不十分)の再確認で曖昧さ残すものでした。被験者の多くは隣室の男女の存在を正確に言い当てた場合でも、部屋の構造を正確に述べることが出来ず、部屋の形状が矩形なのを長方形と誤認したり、まその逆に部屋の様子には詳しく迫りながら人物の透視ができなかったり、眼鏡や服装に該当性がなかったり、机上のものや備品について正解率が少なく、よく出来たものも曖昧さが奇禍となって総合点数が50ポイントを越えることが出来なかったというものでした。

サイコキネシス(念力)、テレフォーカス(遠視)などの一般公募テストでも特に際立った超能力者の出現はなかったようで、過去数十年間に公表された調査結果のいずれもジャーナリズムに取り上げられるほどの(ユリゲラーのような)ものは一人もなく、やや期待はずれに終っているとのことです。フォキャスト〔予知能力〕に至っては現代社会の凡庸な関心事を過剰に反映したものが多く、近未来は多雨による陸地の水没、大地震による文明世界の破滅、といった想像力に欠けたものが多く、後に検査の対象から外されたということです。

しかし、視点をかえてみると、超能力とは言わないまでも、非凡な能力というものはあるかも知れません。普通人の理解を超えた能力というものはあるようです。その一例はフラッシュ暗算という能力で、今ではよく知られているものですが、ブラウン管に連続して十分の一秒で瞬く3,4桁の数字を十数個、瞬時に暗算するというものです。日本の小中学生のそろばん塾などで訓練しているというので、もはや稀少とも言えないかも知れませんが、それでも過去にはなかったものです。

上級者の中には4桁以上の数列数十個を一秒以内という早さでブラウン管にフラッシュされる問題を殆ど瞬時に算出する複写コンピュータのような人もいるとのことです。どのように計算するのか、計算の経緯は詳らかではありませんが、回答者の子供に問うと、計算の過程は判らないが解答の数字が頭の内側の(額の辺り)に見えるとのことで面妖な話になります。

通常人には想像も付かない才能というものは他にもあります。それは通常人からみるとハンディキャップを持っていると思われる人々の中に多く芽生える才能で、重度の自閉症の一つにサヴァン症候群という病気がありますが、その患者の中には障害の代償に(神に)与えられたのかと思われるほど稀有な才能がたまに見受けられるのです。

ハリウッド映画の「レインマン」という作品に実在の人物として紹介されていますが、主人公はサヴァン症候群患者で、知的障碍者でありながら、フラッシュ計算以上の不可思議な能力を見せるのです。正常者の兄と一緒にレストランで食事を済ませ席を立ったときウエートレスが楊枝入れをフロアーに落とすのですが、それを見て瞬時に、「98本」とつぶやくのです。それはフロアーに撒かれた楊枝の数を言い当てていたのです。この病気の特徴は異常な執着心(強いこだわり)といものだそうですが、それが時に不思議な才能として顕現するするというものです。

サヴァン症候群に限らず、自閉症者に画才に恵まれた人が多いのは周知のことですが、その中でも人間の脳機能の範囲を越えた(と思われる)記憶力を駆使して風景描写をする青年がアメリカの地方都市に居住しているとテレビで紹介されたことがあります。建物が林立する街の景色をを走る電車の中から眺め、目に映った全てを記憶して自宅に戻り、翌日鉛筆で巻紙式のロールペーパーにスケッチするというものです。建物の配列や樹木、交差する車両、煙突や特徴のある警察署などまで詳細を極め、一点の誤りもなく数メートルの用紙に活写するというものです。高低様々な建物、その窓の形状、細部に至る写生は後に写真照合されてその精緻さは証明されているということです。不可思議ですが、もしかしたら、人間誰にでもある秘められた能力なのかも知れません。

その他に、同じサヴァン症候群患者に語学の天才というのもいるようです。リトアニアの小都市に赴任して一ヶ月でその国の言語をマスターしたと、サヴァン症候群患者自身が自己紹介しています。読み書き会話から文章の構成に至るまでリトアニア人と変わることなく話し書くことが出来るようになった、と長年強度の自閉症に苦しんだ本人が自伝風に本にして出版しているのです。自分でも思いがけない能力に驚いているということでした。

数学者の藤原正彦さんが日本にも紹介しているインドの天才数学者、ラマヌジャンの事例は世界的に有名でご存知の方も多いと思います。南インドの貧しい家庭で育ち、高校卒業程度の教育を終えて、地方役所の事務員をしながら独学で高等数学を(理解)し、さらに自己発展して高等数学の新領域に踏み入り、新しい定理や公式、無限級数などといった複雑な数式を、三十二才で他界するまでの短い生涯に、三千以上も作ってみせ、欧米の数学界を驚倒させたという、今も語り草になっている人物です。

遠い昔から天才は百年に一度、千年に一度、必ず世に現れて偉業をなしているという説があります。ピラミッドの建築は高度な数学力が不可欠なはずで、古代人の能力でも可能であった、などと現代人の学者の一部が推論していますが、そうであったとしても、それを設計し石材運搬し積み上げて構築した技量は推論すら及ばないものに思えます。未だ誰にも推測できない、われわれの物差しにはない重量と寸法の巨大構築物で、それを設計し指揮して建造した古代の天才は必ずいたはずで、それゆえ現代人の科学力をもっても容易にはリプロデュース出来ないという事実があるのです。予想外の何らかの方法がこの建造には用いられていたと推論されているのです。

ペルーの古代遺跡は神秘のベールに包まれています。なかんずくクスコ周辺はマチュピチュやナスカの地上絵が観光名所ですが、それ以上に神秘的なのは、実は現代の先端技術でも解明出来ないと言われているクスコの街の土台石、礎石群です。スペイン人の教会やその他の建築物の全てはその礎石群の上に建っていて、それは巨大な石組みの構造物なのです。インカの建築物をことごとく破壊したスペイン人も、これらの礎石の堅牢優美さには魅了されて一箇所も壊すことはしなかったと言われています。その当時の先進国、スペイン人達の目にも、その石組みの非凡な技術は見て取ることが出来て、破壊することはなかったのでしょう。それは現在でも理解し難い精密な石組みで、様々な形状と大きさの(数十トンに及ぶ)巨石の接合面をヤスリを掛けたような緻密さで重ねてあるのです。溶接されたようだ、と感想を述べる観光客も少なくないそうです。数十トンの巨石を数百個並べて数段積み上げ、それらを一ミリの誤差もなくピッタリと組み合わせているのです。ジグソーパズルのような自在な形の凹凸のある石も多くそれぞれの石の組み合わせは優美ともいえる完成度で、仮に手仕事だとすると途方もない手間ひまを掛けたことになります正四角形・長方形で積み上げる容易さを捨てて、あえて凹凸形を選び、それをピタリと組み合わせる高度な技術、どこにそこまで過剰に精密に作る必要性、必然性があったのか、現代人は理解に苦しむことになります。

標高4000米の市街地クスコから、バスでさらに一時間ほど上に登ったところにサクサイワマン遺跡という、インカ文明より遥かに古いとも言われている年代不詳の巨石長壁が大地にわだかまっています。観光名所のひとつです。巨大石組の中には百トンを越える切石もあると言います。この城壁跡のような巨石の石組み一個も一辺が5メートルを越えるものが多く、方形でありながらわざとのように窪みや凹凸をつけて組み合わせているのがクスコ市街地の礎石群を思わせ、おそらく同時代のものと思われています。溶接したかのような石組みの密着度も共通したものです。丹念に時間を掛けて注意深く調べても、石組みのどこにも隙間を見つけることは出来ません。それを剃刀の刃も通らない、と現地のツアーガイドは誇らしげに解説します。

さらに驚くことは、その石材の供出先の石切り場が深い谷を挟んだ遥か向こうの尾根に見えているということです。そこからどのようにして数十トンから百トン超の巨石をこのストンウオール(石壁)の現場に運び上げたか、それにはいまでも誰にも答えることが出来ない謎なのです。

人類の足跡には、いつもどこかに古代の天才の出現を思わせるものがあるようです。超能力ともいえる力が人類史のところどころに現れ、明らかな痕跡を残しているかに見えるのです。人類の文明も文化も、技術も科学も、刻苦勉励と試行錯誤で進歩を続けている反面、歴史の要所要所では途方もない天才の出現で、天狗飛びのような跳躍をしている痕跡を目にしない訳にはいかないようです。そんな痕跡がいたるところに残っているのです。

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人も領土も(合衆国)のアメリカ、

2015-12-17 | 世事諸々
アメリカは契約社会、とはよく言われることです。合衆国となる草創期の頃からその通りで、国土にしても、その8割は他国から割譲されて入手したものですが、その中の大半は売買や譲渡契約により取得されています。人間もまた様々な国からの移民で、人々もまた聖書や国旗に手を置いて忠誠を誓い、国民になる契約をしているのです。現在でもアメリカでは公私ともに、契約が重要で優先されるのは周知のとおりです。

国家としてアメリカの開発・発展が始まったのはニューヨークからですが、その土地を取得した当時の話から述べると・・

ニューヨークは1674年までオランダの植民地でオランダ領でした。オランダ人はこの地をニューアムステルダムと命名し、マンハッタン島全体をを ニューネザーランドと呼んでいました。1626年、オランダ本国から最初の総督がやってくると、それまでうやむやに占拠していたこの島を、先住民族のレナベ族と交渉して、総額24ドルという価格で買取ったということです。安すぎると思ったのか、総督が金銭支払いの他にガラス玉の装飾品など未開人が喜ぶとされていた品々を贈ったところ、レナベ族長はことのほか喜び、そのお返しに、内陸部から穀物や毛皮など白人の喜ぶものを運んできて、また謝礼にガラス玉装飾品などを手に入れると、その後は定期的に交易として物々交換をを始めていたのです。

しかし、暫くたったあるとき、そんな事情など全く知らないヨーロッパからの新移民の集団が交易品を携えてやってくるレナベ族に目を留めて襲撃し、積み荷の交易品を全て強奪、そのうえ証拠隠滅のため一族を皆殺しにしたのです。女子供を含めた一族全員を殺害、身体を切り刻んで海に捨てたというのです。それを一族の少年が一人だけ生き残って逃げ帰り、目撃したことを報告したので族長の知る所となったのです。

レナベ族の復讐が始まりマンハッタン島のいたるところで、孤立して暮らしていた農民や牧場主(白人)が襲われ、皆殺しにあいました。後の大人と女子供を問わず白人は殺戮後に頭皮を剥ぎ取って見せしめにする(インディアンの残虐行為)はこのとき始まったものといいます。その後、襲撃は街の中心部にまで及び、オランダ軍は対応策として防御壁(ウオール)を張り巡らせます。その名残がニューヨーク金融街の名称、ウォール・ストリートです。

その後、北米植民地戦争などもあり、オランダ人にはその地が益々住み難い土地となり、南米各地での敗戦を境にマンハッタン島をそっくりイギリスに引き渡してしまいます。イギリス人は早速、呼び名をニューヨークと変えました。母国のヨーク州から新ヨーク州、ニューヨークとしたのです。

100年後、アメリカ合衆国はイギリスから独立して新しい国家を樹立することになります。合衆国というのは独立自治制の州が寄り集まった(連邦)で、このときはまだニューヨーク州を含めて合衆国は13州でした。現在は50州なので37州増えたことになります。国土の面積は6倍に増え膨張大国です。

アメリカの主な領土拡大の経緯は次の段階を踏んでいます:

1803年  ルイジアナ州をフランスから購入、英仏戦争でフランスが敗北、イギリスにとられたくないのでアメリカに売却。

1819年  フロリダ州をスペインから購入、スペインが南米大陸からの撤退で北米のフロリダも譲渡。

1836年  メキシコ領のテキサスがメキシコから分離独立、その後アメリカ最初の州となる。

1843年  ニューメキシコ州、と現在のカリフォルニア州全土をメキシコから購入。居住者のメキシコ人はそのままアメリカ国民として定住させ、代価は1500万ドルだったとのこと。

1867年  帝政ロシアからアラスカ全土を720万ドルで購入、ロシアは英仏相手のクリミア戦争で敗北、経済が疲弊していた。戦争の中立国だったアメリカに売却したもの。

しかし、アメリカ国内では空っぽの冷蔵庫のような不毛の地を720万ドルで買うなど大馬鹿者と非難轟々だったとか、だが直後にアラスカ東部に金鉱が発見され、続いて石油資源も見つかると、最高の買い物だったと世論は変わったそうです。

1898年  ハワイ王朝の衰退、カメハメハ大王の死後合衆国に併合、1959年、アラスカに次いで50番目の州となる。

日本は尖閣、竹島、北方四島の領土問題を抱えていて、解決の見通しもないままです。アメリカの領土史をみると、その都度金銭による契約で明確に所有権を確立して後世に問題を残していません。機運にも恵まれていたようですが、契約による事務処理をきっちり済ませているのは、さすがで、契約国家たる所以でしょう。

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