**馬耳東風**

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中国の侵略 (むさぼり)

2016-01-26 | 世事諸々
日本でも中国の(小さな)侵略が小笠原沖にみられる騒ぎがありました。17隻の赤錆びた漁船が小笠原沖に現れたのが一昨年10月末で、11月3日にはそれが200隻を越えていたということでした。日本の領海侵犯で不法操業を承知の上、底引き網で珊瑚を,繰り返し執拗に浚う臆面のなさは見ていて不安を残すものでした。

その騒動のあった同じ週、偶然にもニューズウイーク誌(日本語版同年11/11号)が符丁を合わせたかのように、「中国の侵略」と題した特集記事を掲載していました。サブタイトルは「愛憎入り混じる世界の中国観」というものです。

愛憎の愛から先に紹介すると、「エボラ出血熱との戦いで中国は200人を越える医療スタッフを感染地域に派遣し3,800万ドル相当の医療機器支援を行い、さらに1,600万ドルの追加支援と現地アフリカ人看護師10,000人の訓練を申し出ている」というものですが、それに対して自国の共産党系新聞(環球時報)はアフリカの反応を「大きく期待されているが、動機も疑われている」と目下の微妙な状況は理解している様でした。

中国の世界各地への〔侵略〕は「イナゴのように押し寄せ、貪り尽くして、何も残さない」とニューズウイーク誌は冒頭で述べています。中央アジアのカザフスタンやトルクメニスタンそれに東南アジアのミャンマーでのすさまじい〔開発〕振りをそう評しているのです。カザフスタンでは鉱物資源を大規模に、特にレアアースを乱獲し、その多くを日本に供給(高値で売りつけた)したケースは、揶揄交じりに報道しています。

トルクメニスタンでは、資源の搾取と共に労働力の搾取もあったとしています。中国は十数年前から石油と天然ガスをトルクメニスタンで採掘、自国に向けて搬送するパイプラインの敷設と道路などのインフラ整備で、大勢の建設労働者を使役しているのですが、その待遇で不満が爆発しているのです。通例通り、中国人技術者・労働者が大挙してこの国にやって来ていますが、現地建設労働者は当然ながらその数倍で、その賃金格差が騒動のもとでした。

中国石油公司はトルクメニスタンの労働法規を無視して一日10時間労働を強制し、賃金は中国人と同一労働でありながら彼らの1/4であったと述べているそうです。その他、セクハラやパワーハラストメントなども多発、現地人を奴隷の様に処遇していると抗議していたのです。まさに過去の植民地主義そのままだとニューズウイーク誌は評していました。

ミャンマーでは国政が軍部独裁政権下にあった頃、中国は手馴れた収賄作戦で軍政府の幹部に賄賂を贈り、アジア最大の(中国人が珊瑚同様大好きな)翡翠(ヒスイ)鉱山を山脈丸ごと入手して、その採掘権と森林(ジャングル)の伐採権を取得、同時に道路・港湾建設などインフラ整備事業を請け負い、時を置かず大型機器を導入して素早い開発を行ったのです。

その後、お決まりの中国製品の大量流入、それを売る商人や建設労働者、ヒスイ加工工場に至るまで、中国人が大挙して移住してきたのです。そして、十数年で翡翠は掘り尽され、森林は切り株だけ残す保水性のない荒地に変っていたのです。その有様をイギリス人は軍隊蟻が通過したようだったと評して、それが中国悪評の最たるものとなっているのです。

スぺイン人ジャーナリスト、パブロ・カルディナルは中南米でコスタリカからチリの南端まで(足で歩いて)中国の(侵略)をリポートしていますが、その中のアルゼンチン編の一部をここに要約紹介してみます。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、現在中国人は推定6万人住み、全土では30万人を越えていると言われていますが、中国人が中華人民共和国人として最初にアルゼンチンへやって来たのは2006年頃で、あたかもアルゼンチンはディフォルトに陥って破産寸前でした。IMF・世界銀行からの借款やその他の負債も返済不能で破産宣告寸前だったのです。

中国はそのタイミングでやって来て経済支援(融資)を申し出たのでした。、その見返りに求めたのはアルゼンチンにとって特に負担になるものでもなかったのです。中国人と中国製品を受け入れること、自由に制限を課さずに経済活動を認可すること、といったものでした。アルゼンチン政府に異論があるはずはなかったのです。

以来まだ10年と経っていませんが、もうこの国の小売業の約三割は中国人の手中にあるそうです。中国製品は優遇関税で大量に輸入されていて、その多くはすでにアルゼンチンの人々にとって欠かせない日用品になっているとのことです。


パブロ・カルディナルは、どの国でも、その国で活躍している中国人の事業家達に会って直接話を聞き、当事国の役人などともインタビューを重ね、忌憚のない会話から事実を煮詰め、客観的なリポートを仕上げています。

それによると、この国一番の成功者は、食品雑貨小売業のスーパーマーケット8900店舗を全国ろなるど展開しているCASRECHというシンジケートのCEO(在北京)で目下の急成長を誇り、さらに「毎月22店舗増え続けている」と豪語する無敵振りだったそうです。それまでのこの国での小売業界の主流だった、スペイン人・イタリア人の小規模店舗経営者を短期間で駆逐し、取って替わっているということです。

今もこの国に残留している中国以外の外国スーパーマーケットはアメリカのウオルマートとフランスの大手、カルフールのみで、彼らも撤退は近いと思われているそうです。CASRECHはすでにアルゼンチンの全スーパーマーケットの株式を少量のところもあるが概ね所有していると言っています。同様にして、ボリビア、チリ、エクアドル、ペルーのスーパーマーケットの多くからも株式を購入中で、それらの国への進出も近いとのことです。南米大陸すべての小売業を制覇する勢いに見えたそうです。

しかし、中国がアルゼンチンでこれまでに得た最大の成果は、制覇しつつある小売業の商権以上のもので、それは中国の一つの郡か行政区の農耕地にも匹敵する広大な(32万ヘクタールに及ぶ)土地の取得でした。10万ヘクタールをアルゼンチン政府から購入し、残りを個人地主数名から借り受ける50年契約の借地で、その契約内容は中国が指定する農作物を全ての土地で20年間作り続け、毎年その収穫量を契約値段ですべて中国に引き渡すというものでした。

その土地の所在地はパタゴニアに隣接するリオ・ネグロ州の一角で、適度の降雨にも恵まれた暖地にもかかわらず、それまで耕作不能の荒地だったので、中国の購入時の価格はわずか$200/ht というものでした。その後、灌漑用水と電力エネルギィーを導入し、大型農耕機器で耕作地に転換するとその土地の評価額は高騰して、今では時価相場で$2,000/htを越える価格になるということです。

外国ジャーナリストの目を通してみると、中国の本質(キーワード)は(膨張)となります。経済の膨張、人口の膨張、他国への侵略膨張・・・俯瞰してみると、この20年間に世界中で目を見張る浸略を行っているのが虫食い痕のように見えるのです。

イギリス・フィナンシャルタイムの直近のアンケート調査によると、イギリス フランスを含む欧州主要国では「中国が21世紀の世界のリーダーになる」と答えたものが60%を越えていたそうです。

今年はアメリカ大統領選挙の年、今予備選挙の最中ですが、いつになく混迷しているといわれています。共和党のトップランナーはドナルド・トランプ、民主党はバーニーサンダースかヒラリー・クリントン・・最終的には、それでもまだヒラリー・クリントン有望との観測とか。そして、本選挙では民主党のクリントン対共和党のトランプが大統領の地位をあらそうことになる、かも知れない・・
 
「やばいね、アメリカ」

トランプは未知数。クリントン夫妻は、中国企業との深い関わりが知られています。夫のビル・クリントンは前々回、大統領に就任早々、同盟国である日本や韓国は飛ばして(立ち寄らず)、中国に直行、どのような密談密あったのか、延々9日間という異例の長さで滞在し、その会談のどこかで、「アジアの事は、中国に・・」と言ったとかいわないとか。その奥さんが今や最有力大統領候補・・・
アメリカはあらぬ方向に大きく舵をきるのでしょうか。


織田信長の天下布武、(異人が目にした中世史)

2016-01-23 | 世事諸々
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは織田信長や羽柴秀吉に謁見してその印象を書き残しているので、その名前は現代の日本人にもよく知られています。彼は信長との最初の接見で、信長の印象を「奇矯なほど高い声で話す人」と言い、その後の観察で「動作は粗野に見えるが、内実は正義と慈悲と名誉を重んじ、因習に囚われず、規律に服することなく、部下の言うことに従うこと稀である」とその性向を異としながらも好意的に受け止めていたようです。羽柴秀吉については、身長が低く醜悪な容貌の持ち主だった、と容赦なく書き残しています。

ルイス・フロイスは1563年に長崎に上陸し、その後、当時の権力者に滞在と布教の許可を得るため数度に亘り上洛していましたが、生活の大半は九州で過ごしていたようです。九州も本土同様に戦乱の時代で、フロイスは幾多の戦乱を目の当たりにして日記に記しています。

「欧州の戦争が都市や領土の奪い合いであるのに対し、日本の戦争は殆どいつも、米や麦や雑穀を奪い合うものだった」とその卑小さを述べ、反面「戦の特徴は目に触れるもの一切を焼き払い蹂躙する乱暴なもので、誰も容赦せず、神社仏閣まで破壊しつくしていた」とその無法振りを述べています。財貨はことごとく持ち去られ、住民の多くは捉われて戦争奴隷となり、稲田はことごとく刈り取られたと言います。

フロイスにとって、さらに我慢ならなかったのは薩摩軍の豊後(ぶんご)侵攻を目の当たりにしたときのことで、薩摩軍は「豊後で捕虜にしたものを肥後の国に連行し・・まるで家畜のように数珠繋ぎにし、高来(島原半島)に連れて行って売り渡した。戦争奴隷は女子供が中心で、身体に顕らかな虐待の痕を残し、ポルトガル商人に二束三文で売却され」その後、マラッカやマカオを経て東南アジアやインド、遠くアルゼンチンにまで売られたという。アルゼンチンには今も日本人奴隷引取書が残っている、とのことです。

ルイス・フロイスの他にも目撃者はいて、丁度来日したばかりの天正少年合唱団(使節)のミゲル某は書き残しています。「奴隷達は、幼い子供達も大勢いたが、手足に鉄鎖を付けられ船底に押し込められ、航海の途中で死ぬものも多いと聞く、日本人は欲心と金銭への執着が甚だしく、道義の一切を忘れて同じ言葉を話す同国人を家畜や駄獣のように安値で外国に売り渡し、その非道に義憤を覚えずにはいられなかった」と当時の日本人の獣性にひどいショックを受けていたようです。その頃の九州地方は本土に比してまだ文化も低く人心は低劣で、この地方のどの戦でも敗戦地住民の奴隷化が普通に行われていた、とフロイスは書き残しています。

本土でも織田信長が台頭してくるまでの戦は、東日本の雄、武田信玄や上杉謙信などの強国でも、戦の大方の目的は糧食米の略奪で、騎馬武者以外の兵士、足軽や雑兵などは勝手に略奪の限りを尽くすのを許されていたといいます。女子供に対する狼藉も大目にみられ、人身売買こそ無かったものの破壊と放火は常道だったそうです。フロイスなど欧州人の目には戦というより野盗の襲来に見えたのかも知れません。勝者は敗者に対して残虐で簒奪と狼藉の限りを尽くしていた、と書き残されています。

織田信長の登場は戦争の様相を一新するものでした。叡山焼き討ちなどで残忍非道、神仏を怖れぬ異常人と評されていましたが、やがてその評価は次第に変わっていきます。ルイス・フロイスの見る目は最初から違がっていました。欧州人の規範からみると異論のない武将だったのです。敵に対しては容赦なかったが、それは当然で、非戦闘員の地域住民の民百姓に加害してはならぬ、不当に略奪もならぬ、と厳しい軍律を定めた、おそらく最初の武将だったのです。

そのため、時が経つにつれて敵地にあっても住民に恐れられることは少なくなり、往々にして敵地の住民が織田軍の侵攻をかえって喜び助けにさえなったと言われています。度々困難な戦に遭遇しても、危機を乗り越え、勝ち進めたのはそうした住民達のシンパシーや物心両面での支援も役立ったと言われているのです。信長自身が京都へ初めての進軍をした折、京都っ子は誰一人織田軍を懼れるものはなく、住居を捨て逃げ出すものもなく、沿道に列をなして迎えた、と信長公記は述べています。

甲斐の武田信玄は戦国時代にあって(堅固な)城は持たず屋形と呼ばれる砦風の居城に住み、絶えず国外に攻め出て敵に攻め込む余地をあたえなかった、と言われていますが、それは強軍ゆえに攻め込むものはなかったというより、当時の甲斐は貧しく、攻め入っても得るもの少なく、攻めるに価しないと思われていたのかも知れません。

甲斐の領地は狭隘で農地は肥沃とはいえず、天候不順で不作の年が多く、領民は常に土一揆を起こしかねない不安定な状態にあったのです。そのため信玄は苦慮し、それらの農民を雑兵として連れ歩き、糧食を求めて他領に攻め入っていたということのようです。不足の食料を他国で補うと同時に一揆のガス抜きにもなっていたのでしょう。

この時代、信玄に限らず上杉謙信も他の武将の多くも戦の目的はルイス・フロイスの言うように糧食の簒奪だった、というのも事実だったかも知れません。戦でその目的を果たすと、あっさりと軍を引いてまた来年やってくる、ということを繰り返していたのです。執拗に一城を攻めて滅ぼそうとする意図は、この頃はまだなかったのです。

武田軍団に限らず上杉も新潟という積雪寒冷の国で稲の不作が常年化していて慢性的に食料不足だったのです。自国の農民を満足させるためにも毎年他国に攻め入り短期合戦で収穫期の作物を奪っていたのです。相手も必死なのでいつも勝てるとは限らず、僅かな戦利品に我慢することも多かったようです。

信玄や謙信の戦記をみても一様に短期戦だったのはそのような理由によるもので、自国の農繁期になると農兵主体の軍は帰国せざるを得なかったのです。室町幕府の終焉までそのような戦が多かったので、ルイス・フロイスが目撃して奇異に感じたのはそんな戦争だったのです。

ところが、程なくして登場してきた織田信長により戦争の目的も様相もがらりと変わります。敵を屈服させるか滅ぼすか本当の戦いになったのです。周囲の状況も一変していました。足利幕府の衰退が顕らかになり、後継を競う抗争が始まっていたのです。

織田信長が最初に頭角を現したのは、周知の通り桶狭間の戦いでした。今川義元が足利に代わって武家の頭領になるべく京を目指して動き始めたのです。大軍四万を率いて信長の所領尾張を通過することになったのです。普通この兵力差なら信長は、臣下の礼を尽くして今川軍を迎えて従属を表明するところですが、なぜか沈黙していたのです。

そのため今川の大軍は尾張領に入るや出城を次々に攻め落として進軍していきました。信長はそれでも動かず、一兵も出さず無抵抗を続けていたのです。今川義元は信長を測り兼ねながらも、多分恐れをなし、右往左往しているのだろう、服従して来るのは時間の問題と思ってか悠々軍を進めていたのです。四つの出城が破られ武将の死が伝えられても信長は動かず、あくまでも沈黙を続け、城詰めの武将達の出陣要請にも応えなかった、と信長記は述べています。

本心を明かさず、一人部屋に閉じ篭っていたのですが、地下(じげ)の情報網を駆使して義元の本陣の位置は正確に把握していて、予め工作してあった地頭など主だった領民に義元軍を熱烈に歓迎させ、酒食を供して油断させ、休息の地として桶狭間という狭隘静謐な林地に誘い込むと、一気に三千の手兵で急襲しその首(しるし)を挙げたというものです。

信長はその後「天下布武」の朱印を顕して全国制覇を目指したものの、1582年、志半ばで明智光秀の謀反により本能寺内で自刃して果てた、と信長記は簡潔に述べています。

天下布武とは「武力をもって国を統一する」と一般に解されていますが少し違うようです。信長幼少時の養育係りだった平手政秀が書き残したとされる「政秀寺古記」という資料によると、「天下布武」の言葉の出典は中国(周)時代の「春秋左氏伝」で、信長の学問の師で僧侶の澤彦宋恩(たくげんそうおん)に教えられたものといいます。

布武の武の意味は、七徳の武、と書くが武力の武ではなく指針というほどの意で、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする・・という七徳を目指すものが天下を治める、という意味のようです。澤彦宋恩は信長に本拠地の居城の名になった「岐阜」という呼称も教えたとされています。古代中国の革命児、周の文王、に倣った地名ということです。その他に、澤彦宋恩は信長の裏参謀で(桶狭間の策)を授け軍律の制定を教えたと一説には言われていますが、それは推測の範囲です。澤彦は信長の幼名を吉法師といった頃からの学問の師で、元服の折、信長と命名したのも宋恩だったということです。そんな人物であったのに、何故か、裏方に徹して姿をみせず、その記録も少ないということです。

一方、信長の後継者、秀吉は駆け引き上手で天下人になりましたがルイス・フロイスの評価は低く、心身卑小で知恵浅く、無作法、言動は虚飾に尽きて、品格なし、とされています。また、信長亡きあとの、(かのもの)の戦は回を追う毎に愚かしく、最後の戦、朝鮮出兵に至っては無用の戦いで、文禄の役で20万の人命を消耗し、慶長の役に至っては彼岸の殺戮甚だしく人の成すところにあらず、と批評されています。幸いというか、秀吉は慶長の役最中(さなか)に癌病死に見まわれ、その奇禍によりこの戦は終焉に至っています。

この時代一番の謎は明智光秀の謀反の動機で、後の世に伝わる光秀の真意は真の動機と思えず、光秀を追い詰めた信長の仕打ち「所領の没収と次の戦さで勝ち取った国を与える」云々は動機の一部ではあったかも知れませんが、信長を撃つ覚悟と勇気にいたるほどのものではなかった、と思えるのです。一部に言われているように、天下平定後に天皇を廃して信長自身がそれに替わろうとしている、という逼迫した憶測があり、公家出身の光秀には、それは耐え難く、一身を賭して信長の死を望むべし、と決意することが出来たという説で、本来小心者の光秀を思うとあり得ることかも知れません。

光秀には天下を取る意図など毛頭なく、またその可能性を一瞬たりとも信じるほど愚かではなかったはず、と思われるからです。事実、光秀の三日天下ならぬ、十三日目に大阪・山崎の戦いで秀吉軍に破れ、逃走中の山林で落ち武者狩りに出遇って討ち取られています。無念は察するに余りありますが、つとに本望は達成しているので、悔いるところはなかったかも知れません。

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中国は、中華思想 (見下し文化) の国

2016-01-19 | 世事諸々
日本人は時に自国を、経済大国、技術大国、世界に冠たるもの、などと自画自賛することがありますが、中国人は自賛ではなく相手を完全に見下すことで自己優位性を示し、それを信じて疑わない国なのです。

中国語で日本のことを「小日本」と書くのもその一つです。さりげないものですが、日本を歴史的レングスで見下しているのです。日本は国土的に小さいから(小さい国)というのは日本人の解釈で、本当は、そんな皮相なものではなく根深い蔑視によるものなのです。

欧米の一部の人たちに中国人はユダヤ人に似て選民意識が強いといわれています。選民意識とは”選ばれし者”という優越意識といってもいいでしょう。ユダヤ人は明らかに神に選ばれし人種との意識が強く、そのためしばしば他国民を怒らせることになり、かっては嫌われ人種の筆頭でした。

ユダヤ人の試練の時代、第二次大戦中、ヒットラーのドイツを命からがら脱出して隣国に逃げたユダヤ人は多く、ヨーロッパの彷徨えるユダヤ人と呼ばれていましたが、いずれの国もユダヤ人を暖かく迎えることは稀で、ドイツでのホロコーストを薄々知ってはいても、ユダヤ嫌いはヨーロッパ全土で根強かったようです。それはともかく、中国人の選民意識の話に戻ります。

中国人の選民意識は神によるものではなさそうです。数千年遡る古代中国は、実際に文明文化が見渡す限りのどの国のどの民族よりも突出して優れていて、比べるものもなかったのです。銅器、鉄器、道具、車輪、兵器、言語、文字、礼儀作法と文化一般。周辺の石器時代人がやや進化した程度の部族集団など語るに足らず、武力をもって寄せ付けることもなく超然として国家を形成していたのです。

神を持ち出すまでもなく選民意識は周辺との比較にあったのです。その証拠に、周辺すべての部族集団に”小日本”に劣らぬ蔑称をつけていたのです。東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北荻(ほくてき)・・・解説するまでもなく周辺部族をその存在場所の方位で分類し卑語を付して呼称としていたのです。

ちなみに、時代を千数百年下った中国の古文書に倭国(日本)に関する最古とみなされている記述があります。そこに記されている卑弥呼(ヒミコ)という倭国の王の名前ですが、どういう訳か、日本の歴史文書には卑弥呼という呼び名がフルネームであるかのようにそのまま紹介されていて、卑弥呼の王国は島根県であったか奈良県であったか、または九州であったか、などと論争にもなっています。卑弥呼がそのまま王名とし認知されているかのようです。

しかし、卑という文字は明らかに名前の一部というより"小日本”の小にあたる形容詞と思われ、文字のなかった倭国の時代なので、おそらく口頭で倭国の王の名は、と問われたものが、ミコでございます、とでも答えたに違いありません。さようか、と頷きながらも文書にするとき漢字名に卑という冠詞を賜り、卑弥呼となったと容易に推察できるのです。


したがって、卑弥呼の呼び名はミコであり、今の漢字に当てると巫女であったかも知れません。当時は確かな名前などなく神に仕えるものと言うほどの意味だったと思われます。古代にあっては、政治を司るものは神職を兼ねていた、と想像に難くないからです。

古代まで引き合いにだしたのは中国人の深層にある気質のようなものが今も昔も健在で、他国蔑視の原点がそこに窺がえる様に思えるからです。そのような中国に、今の日本から(民主党の)国会議員団百人以上が北京に赴き、旧王宮の大広間に整列し、うやうやしく一人ずつ胡錦涛主席の前に出て握手を求め写真まで撮った事があり、中国人以上に日本人が仰天したものでした。


表敬訪問ということでしたが、それはどう見ても、中国の古き良き時代の属国からの朝貢の姿に他ならなかったのです。そのイメージが今に尾を曳いているのが、中国の日本に対する高飛車な強腰外交で、日本の100人の議員団が(古代からの上下関係)を甦らせたようです。

中国は毛沢東によって共産主義国家に変身したかのように思われますが、それは表層だけで、本当はどんな変化・変身もしていないのです。また改革開放政策以来資本主義国家になっているかにも見えますが、本来的な意味での資本主義国家でもありません。中国の国家体質に本質的な変化はないからです。


二千二百有余年の栄華、中華王朝の自尊意識が、脈々と今に引き継がれているかに思えるのです。中国は一貫して中華思想を背負い、堅持しているのです。世界の中心は中国であるという中華思想です。その復元を目指している、というのは疑う余地のないところです。

幽霊の有象無象 (あるなしのはなし)

2016-01-15 | 世事諸々

霊を見た(という)人は昔から多いのですが、肉親や親しかった人の死をすぐには受け入れられず、悲しみに暮れていると、たまに死者の残影を垣間見るというものです。平安の昔からよくあった話は死者に怨恨を与えたゆえの復讐、菅原道真の怨霊ような3D幻影をみるというものです。

久しく会っていない知己の姿を夢現に見て不審に思っていると、その死を電話などで知らされる、と言う話も世界のあちこちにあります。また夜道を歩いていたり車で走っているとひと気のない通りの先に女性の姿を見る、また旅先の宿でふと目覚めると枕辺に誰か座っていた、という類の話も多く百物語風で怖い話になります。

霊を見るという行為は必ず脳を経由するので脳の作為が入りやすいのは否めません。霊以外のものでも、見たいという欲求に脳が対応することはよく知られています。空腹時に食べ物を幻視する、砂漠で水を求めてさまようとオアシスを視る、などはよく聞く話です。幻視は押しなべてリアルで思わず手が出る、といいますから脳の作為とはいえ信じる人も多いでしょう。

霊を顔かたちのある立姿で見る人、だれかの背後に付着して見えるという人もいます。霊の話は日本でも江戸の頃から、歌舞伎、講談、落語、絵草子などでも様々に創作されて描かれています。その上、民話や伝承も多く、輸入ものもあり多彩です。今風の霊を語る人々も大方はそれらの話の筋書きに沿って(無意識にしても)「見てきたような話」をしていることが多いようです。

霊魂を見た話は物語化され過ぎて、かえって真実を疑うものが多いのはやむを得ません。しかし、霊は実在する(と主張し)見た人も見る事が出来る人も現実にいるのだ、という人は昔からいるのです。

作家で評論家の立花隆さんが雑誌に書かれていたものですが、「うちのカミサンは普通、人の耳には聞こえない超音波を耳だけで聞き取れるようだ。主要道路の要所には交通量測定装置があるのだが、カミサンはそこを通りかかると急にウルサい音がする」というのだそうです。この装置は人の聴覚範囲外の超音波を出しているのだそうですが、それが(カミさん)には聞こえて喧騒さいというのだそうです。そのような(聴覚範囲外の音)を聞き取る人は稀ではなく、優れた音楽家などにみかける絶対音感がある人などで、目立たないながら、そのような人はかなりいるということです。「そんなわけで、同様に視覚についても、可視光線以外の領域まで見える人がいても不思議ではないかもしれないので、オーラを見るという人はその類だろう」と立花さんは述べています。

生きている人の霊(変な表現だが)はオーラだろうと思われています。オーラが死後にも残存するのはよく知られている(?)ことだそうで、死後に現れる残像現象などがその類となるそうです。遠地で不慮の死を遂げた近親者の姿を、その時間に一瞬見たという話はよく耳にします。嘘の話でなければ、死後の残影は暫定的にはありうるのかも知れません。

立花さんも容認しているのは、人に限らず生命体には生命エネルギィーがあり、それが発する電磁気がオーラで、器具を使って測定も出来るということです。人の目に見えるもの(可視範囲)の方がむしろ少ないので、見えないはずのもの(不可視範囲)が見える人という人達がいても疑うことはできない、そうなのです。オーラの形状は今も昔も、外国の情報でもほぼ同じで、人型を包む楕円で繭に似てケバがあり、淡く光り、多くは暖色で、寒色もある、膨らみや弾性もあるというもの、生命力の強弱を感じさせる、と表現されています。

霊魂は宇宙からの素粒子のひとつ、ニュートリノのようなものでエネルギィというより(物質)と断言するアメリカの研究者もいるそうです。ニュートリノはノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんが世界で初めて巨大地下貯水槽内観測でその存在を確認した素粒子で質量がある物質です。微小で、原子顕微鏡でも見えず、また、すべての物体を通り抜けるため感知も捕捉も出来ない幽霊のような素粒子なのだそうです。それを、6年の歳月をかけて、数十万分の一の確率で(カミオカンデの貯水槽の深部の)水の分子に衝突させ、その反応から存在を確認したというものです。数値としては、1cm平方に200個の割合で地上に降り注いでいるものでありながら、それまで人類は一人としてその存在に気付くことはなかったのです。人体も他のどんな物体も、地球をも一瞬で素通りする素粒子で、観測による把握は全く出来なかったのですが、太陽光線のスペクトル分析から、その存在は早くから予知されてはいたとのことです。

霊が見えない人は(勿論)大多数ですが、もっと多くの人がその存在を視覚や聴覚ではなく、触覚で知ることが出来るのではないか、という人がいます。深山山麓の樹齢七百年の樹木に囲まれた神奈川県の古刹の僧侶です。人は案外、それとは知らずに幽霊に触れた経験を持っている、とその人は言うのです。その寺では山門から奥の院への長い石段があり、それを上る参拝者も多く、その中に、たまに、途中で足を止めて蹲るものがあるそうです。急に足が重くなって動けなくなった、と訴えるそうです。それは概ね、霊の憑依で、それも複数霊のため重さを感じる現象とのことです。また、背中にシャツが張り付いたような感覚を訴える人もいるそうで、(何かに)触られた、目に見えない何かと、明らかな接触感を訴えるものだそうです。霊が人に害を及ぼすことはないので、寺では特に注意することもないと言っていますが、僧達はあきらかに幽霊の存在を信じるというより日常的に認めているという風で、未成仏霊はいつくしめば馴染むもの、などと涼しい顔ならぬ(生暖かい顔)で言っていました。

景山民夫の変死

2016-01-12 | 世事諸々


景山民夫は1998年1月26日東京成城の自宅書斎で喫煙しながら趣味のプラモデルを製作中シンナーに引火、火事で焼死したとされていますが、酔ってもいない、眠っていたわけでもない五体満足な中年男が、自室が火事になったからといって逃げもせず焼死するだろうか、とは事件後に関係者の誰もが持った疑問のようでした。

景山の家は東京・成城にある3階建ての木造家屋で夫婦二人暮らし、事務所を兼ねていたのです。3階部分が民夫の書斎兼仕事場で、その書斎だけ天井が抜けるほどの火力で炎上し、2階では火事の気配も伝わらず無事だったということです。というより、妻の朋子さんは2階にいて3階の火事には全く気が付かず、居間の蛍光灯が何度か点滅して一瞬暗くなったのを不審に思い、三階に上がってみると書斎が一面の火の海で、慌てて駆け下りて電話通報したということでした。

夫は当然逃げたものと思っていましたが、という言葉に反して、一報でレスキュー隊員が駆けつけたとき、何故かパンツ一枚の姿で景山は書斎の外の廊下にうつ伏せに倒れていたということでした。火傷は少なく煙を吸って意識不明状態だったそうです。隣接した家の人の話ではボンという爆発音があって、景山家の三階を見ると火が見えたということで、部屋に充満したシンナーが爆発したという説になったのかも知れません。しかし、2階にいた朋子夫人はどんな音も聞いておらず、蛍光灯の点滅で不審に思って三階に上がって気が付いたと繰り返しています。

シンナー引火説は、景山民夫の友人知人達にも信じられないことのようです。気心の知れた出版社の編集者の来訪時にも、わざわざ背広に着替える、という身嗜みに煩い民夫がパンツ一枚で煙草を吸いながらプラモデルを作っている光景など誰にも思い浮かばなかったのです。そんなタイプの男ではなく、よく知られていたのは正反対で、過度なまでの几帳面、綺麗好き、ナルシスト、イギリス人作家がいうジャングルに一人暮らしでも正装してディナーを執るタイプの人間、だったそうです。また臆病で、必要以上に注意深く、火の用心には常日頃から煩かったということです。

この頃、景山民夫は直木賞作家というより、当時問題視されていたオーム真理教などと並んで急成長していた新興宗教の「幸福の科学」に夫婦揃って入信したことで話題になり、本など読まない層にも景山民夫の名は広く知られていたということです。その上、景山は以前からオカルト好きでも有名だったので、焼死事件は歪曲されて、自殺説、他殺説、怪奇現象説と紆余曲折を経ていたようです。

景山民夫は有名人だったので「幸福の科学」では先に入信していたテレビタレントの小川知子と共に幹部扱いで、教団と講談社で争われていた週刊誌「フライデー」事件(幸福の科学に関するスキャンダル問題)では二人が教団を代表して街頭での抗議活動を行って、それがテレビに映されて更に知名度を上げていましたが、その副作用で仕事関連の人間関係を大きく損ね、個人的な友人知人の多くとも疎遠になり始めていたといいます。

景山民夫は東京千代田区の生まれで私立暁星中学から武蔵高校、慶応大学と進んで、在学中からテレビの構成作家を志していたそうです。父親は警察官僚の上級職で地方管区公安部長などを歴任、転勤を繰り返していましたが、民夫は東京・半蔵門に住んでいる(おば宅)に寄宿して高校・大学と進み、なぜか慶応大学文学部を中途退学しています。

コネも才能もあったので、1968年にはテレビの番組構成作家になっていました。華々しいテレビの世界で数年に亘ってシャボン玉ホリデイなどのバラエティ高視聴率番組製作に携わって後、文筆業に転じて小説家になり、吉川英治文学賞、次いで1988年には直木賞を貰って順風満帆の人生航路にあったかに思われていたのです。

火事の当時の妻・朋子さんとは再婚でした。旧姓大津朋子といい、景山と知り合う前は、同じ作家の村上龍と数年間愛人関係にあった女性だったのです。村上が妻帯者でありながら優柔不断(朋子さんの言い分)でずるずる不倫関係のまま放置されたのに怒って、とうとう村上宅に抗議に行って破局を迎えたということです。疲れ果てた末、村上との決別を考えていたとき、偶々、村上の所で知り合った編集者の一人に景山を紹介されたという経緯だったのです。

景山はその時妻との折り合いも悪く別居中だったのでまるで見計らったようなタイミングだったのです。巷間の観察では偶然ではなく意図的なものだったとされています。朋子さんは村上龍の後釜の(作家)を物色していたので、あたかも不動産屋経由で空き部屋を見つけたような按配で景山を射止めたことになるそうです。

景山は別居中とはいえまだ妻と三人の子供を抱えていたのです。妻とは長らく不仲で口論が絶えず、長女が生来の身障者だったこともあって苦悩の日々を送っていたそうです。そんな折に朋子さんとの出会いがあって心が動いたとのことです。

朋子さんは聡明な人で出版関係者などとの知己も多く、交渉事務にも経験があり、後に放送関係者との執筆や出演交渉などもこなし、景山事務所の事務全般を取り仕切ることになります。 景山は妻と子供達の頸木(クビキ)から脱するために、金銭的に大幅に譲歩して離婚に漕ぎつけ、念願の朋子さんとの再婚を果たしました。世間一般の受けが良い訳がありません。二人とも表面的にはともかく、悪評さくさくだったとしても不思議ではありません。その上、二人は程なくして、当時なにかと問題が多く不評だった新興宗教の一つに揃って入信してしまったのです。

しかし、景山と朋子さんは余程相性がよかったのか、二人の仲は人目にも密接で、いつも一緒にいたそうです。朋子さんは景山の対外事務(出版社や放送局との連絡交渉)をすべてこなし、また景山が行くところには何処にでも付いて行ったといいます。時には非常識なほどで、作家の野坂昭如は景山民夫との対談を回顧して「あれは異常な対談だった。妻が会場となった料理屋の座敷にまで同伴したんで驚いた」と述べていました。

景山民夫は臆病なほど用心深く幸福の科学が創価学会と対立、緊張関係にあった頃、4WD車を購入、スタンガンを常備していたと言います。また神戸震災以降、自宅に大量の食料を備え、外部との交信のためと称して無線通信設備まで購入していたそうです。迂闊に火事を引き起こして、むざむざ焼死するとは考えにくい人物だったのです。

幸福の科学に詳しい人の話しによると、火事の少し前から、景山は教団の総裁大川隆法とは折り合いが悪くなっていて脱会を模索中だったとも言われています。景山の独特の知性からしても宗教に深入りしているのが不思議な程で退会は時間の問題とは仲間内の誰もが思っていたことでした。景山は総裁夫人の大川きょう子とも最初から折り合い悪く、その頃は険悪な関係になっていて、誹謗する事も多く、そのため教団内で孤立していたとも言われています。教団はあたかも拡大中で会員は300万人を越えて、年会費2万円なので全国から月々数十億という現金がダンボール箱で送付されて来ていたといいます。金銭をめぐるスキャンダルは多く、幹部の一人の景山の脱会は安易に許されるものではなかったかも知れません。

しかし、景山の不測の死は教団に直接関わりがあったとも思えませんが、教団は素早い手回しで遺族(前妻と三人の遺児)を説得して病院から遺体を引き取り、火葬まで一切を取り仕切り教団葬にしています。死者は脱会するつもりの人間だったにも拘わらず。 景山の父親が警察の幹部職員だったこともあってか、彼の死は疑わしくはあったが解剖に付されることもなく事故死で決着しています。

教団の受け止めかたは知るよしもありませんが、その後、20数年を経て「幸福の科学」総裁の大川隆法は妻のきょう子を離縁して教団から追放しています。理由は他の新興宗教、オームの教祖の麻原などと同様で教団の若い女性信者にお手付きを作っていたからだということです。

景山の死後、病院の死体安置室に真っ先に駆けつけたのは幸福の科学の同僚、女優の小川知子で、彼女は景山の遺体を眺めて特に悲しむ風もなく呟いたそうです。「そう、彼が息を引き取る時、この辺りから天使が舞い降りてきたの、わたしは見ていたの」すると離れた場所から景山の長女が「違います父は病室で死んで後からこの部屋に移されたのです。この部屋ではありません」と憎々し気にいったが、小川は取り合わず教団の仲間達と臨終の奇跡についてさらに語り合っていたそうです。

景山民夫の死に隠れた事情があったかどうか、今となっては知る人もいないようです。

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