**馬耳東風**

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都知事選・・二度あることは三度ある

2016-07-16 | 世事諸々
東京都知事選が公示されましたが、今回はメインとなる候補者がともに後ろ暗い過去を抱えているようです、三者三様、それなりに対立する理由があり、やみくもに、互いに過去を詮索、誹謗しあう、足の引っ張り合い選挙になりそうな雲行きです。

自民分裂で始まり、それを好機とばかり、野党が立てた候補者は、都民からみればなんともちぐはぐな、将棋の駒を間違えたような一手で、選挙戦は始まるまえからドタバタ劇さながらです。

小池百合子 64才、増田寛也 64才、鳥越俊太郎 76才、何が因果か因縁か、揃いもそろって辰年生まれで、巷間にいう、辰年は我が強くおこりっぽいとか。いずれも喧嘩好きでやるき満々。

小池百合子氏は誰でも知っているように細川護煕殿様に仕え、その後、政界の土木建設のドンとも言われた小沢一郎衆議院議員の右腕となり、政界再編、そして、その凋落後は次の騎手小泉純一郎、安倍晋三第一次内閣に食い込み、福田内閣にも引き立てられ・・ていたのに、生まれ持っての日和見主義で、先の自民党総裁選挙のおり安倍を裏切り次の有望株、石破に乗り換えた拙速がたたって、日干しにされかけていたので、「崖から飛び降りる」つもり(本人の言)で都知事に立候補した次第なので、立候補理由としてはいささか不純のようです。

増田寛也氏は建設省の土木建設業界を仕切る官僚だったころ、何の因縁因果か、またしても同じ小沢一郎氏、に気にいられ引き立てられて、あろうことか役所をやめ、(不可解にも)それまで縁もゆかりもなかった岩手県の県知事に押し立てられたのです。いうまでもなく小沢一郎氏の政治地盤の岩手県知事になり、そこに3期12年勤めあげています。知事として有能だったかどうか、小沢氏からみれば当然有能だったようですが、県民にはどうか・・一説には「箱ものつくり行政」を得意として県の負債、就任時7千万程度だったのを退任時にはその2倍の1兆4千万円にしていた・・とこれは億測ではなく元横浜市長中田宏さんが漏らしていたことで、当時の全国の知事会で知らぬものもない話だったそうです。とすると・・自民が今回都知事に押し立てた理由は(実務に優れている)云々はさておいて、膨大なオリンピック建設費用問題など、至便な人材に思われたのかも知れません。政治家の意のままになりやすい、反乱分子でもなさそうということもあるでしょう。

究極の後だしじゃんけんの鳥越俊太郎氏は究極の不真面目人間、不真面目な候補といっても過言ではありません。都知事になろうと思いついた理由が民進党が参院選で惨敗し自民の憲法改正案が促進される、という危機感(本人の弁)という東京都知事に立候補する理由とはかみ合わない自己混迷によるもので、立候補表明時に「どのような東京にしたいか」との問いに「何も決まっていません」と反感を買いそうな返事をしています。ジャーナリストとしては反権力の立場を崩さない価値ある人材でしょうが、大都市行政の運営者となると、かっての青島都知事を髣髴とします。間違えた将棋の駒に思えるのです。

都知事選は始まり有権者に最良を選ぶ道はなく、最悪を選択しない・・その一点になるようです。

江戸時代の富士山大噴火・・・

2016-04-30 | 世事諸々

それは、その一ト月前の宝永の大地震、さらには4年前の元禄の地震の余波だった・・

現在の熊本・大分大地震は今も収まらず、延長線上には阿蘇山もあるというので、思い浮かぶのは地震と噴火と、その連動です。専門家は否定しているものの白々しく、やむなく過去の事例を調べてみることにしました。

阿蘇噴火は記録が少ないので、類似の富士山噴火を調べてみると、最後の噴火は江戸時代中期、宝永の大噴火でした。1707年、宝永4年11月23日、富士山の頂上ではなく東南側7合目付近が炸裂・噴火しています。

山梨県富士吉田市に残された記録によると、噴火の始まりは地響きに似た鳴動で山が揺れ7合目付近の噴出孔から白い蹴鞠(けまり)がクルクルと舞い上がり、爆発して空一面に広がり、耳を聾する大音響で山頂が揺れ、崩壊するかと思われ、人々は地に伏したそうです。大地も家々も大きく揺れ、空は火柱で赤く爛れ、雷鳴が飛び交い、程なく空から噴石や灰が降り注ぎ、静岡側の須走村(現小山町)には焼け石が降り注いで多くの家が焼失したといいます。

噴火は16日間続き、周辺50の村落を一丈(3メーター)の降灰で埋め尽くし、3寸(10cm)の降灰が江戸まで及んだと記録にあります。

この噴火の一月前、宝永4年10月4日には東南海大地震が起こっています。マグニチュード8.4という大地震で、直後に大津波もあって数年前の東北大地震を彷彿させる被害をもたらし死者はゆうに2万を越えたといいます。

被害地域は東海・山陽・四国・九州に及び四国土佐や九州南東部、長門・周防に大津波が押し寄せ(東北大津波同様の)大被害をもたらしています。摂津・播磨・大阪にも高波が寄せて漁船や荷船を転覆させたと記録にあります。

地震は明らかに連鎖性があるようです。宝永の東南海大地震の僅か4年前の元禄16年(1703)年11月23日には房総沖を震源地にした元禄大地震が起こっていました。マグニチュード8.2で、房総半島・三浦半島・小田原・鎌倉・平塚・大磯と相模灘沿岸など広域が震度6で壊滅的被害を受け、江戸も震度5で相当の被害を蒙ったと述べられています。

地震・噴火には連鎖性が疑いなくあるようで、1700年初頭の大噴火・大地震の連鎖から300年を経た今、近年の地震頻発に安穏としているものは少ないでしょう、周期の到来を思わせるのもむべなきことです。

あぶない日本、災害地救援の主役は誰?

2016-04-23 | 世事諸々
普通に考えて主役は赤十字のはず・・

ところが毎年のようにある災害日本の災害現場で赤十字マークを付けて活動している人を見かけません。災害復旧や人命救助は自衛隊が十分以上に立ち働いている姿はどの災害現場でも必ず目にします、しかし、日赤が災害現場で何か役立つことをしている姿は皆目みることがありません。集まった支援物資を被災者に配る仕事すらしていません。

日赤は本来一番に災害現場に急行して被災者援助(救助は自衛隊がしている)必要物資を各自治体の保管場所から取り寄せて配布する、戸外に避難している人々のテント設営や炊き出しなど、するべきことは山ほどあるはずです。

ボランティアを集めて適所に采配するのも日赤が中心にやるべきでしょう。指揮者がどの災害現場にもいないので毎回、災害毎に右往左往しているように見えて、進歩が少しもないようです。日赤が災害支援チームを常備して支援のためのノウハウを蓄積して、国内のどの災害にも急行して見事な采配をふるって欲しいものです。

最近気が付いたのは、テレビやその他の団体が災害地支援の募金活動をしていて「皆さんの募金は全額(日本赤十字を通して)災害地に届けられます、という意味深な文言です。なぜ「全額」と断りを入れるのか、不審といえば不審です、寄付金の全額が被災者の応急の必要のために届けられ使われることは自明の理で、募金に応じている人はみな、そんなことは疑ってもみないはずですから。しかし、募金団体がわざわざ「全額」と念をいれるのは、ひょっとすると「全額を日赤に届ける」ことはするが日赤が通例によって「全額」から必要経費(?)を差し引いて日本の災害地のみならず外国の被災地へも分配することも(まま)あり得ると示唆しているようにも思えます。

それはとも角、日本赤十字社はどのような存在なのか、定款のようなもので国民に示して頂きたいものです。災害地に人材を送って実働的に救援に当たるよう、これからも災害は目白押しと思われる日本です、災害現場で救援の指揮者となり実経験を生かしてどの災害現場でも指揮をとれるプロの救援者となって頂きたい、と政府のどなたかにお願いしたいものです。

首都大地震さえ真近といわれる現在、災害救援の日赤が出動部隊を持っていないのは無為無策といわれるゆえんです。ボランティア団体が集めた募金を配布するのが主な任務(権益)というのが本当なら、この際、日本赤十字社の再構築を考えるべきでしょう。ナイチンゲールの主旨は自ら手を汚して負傷兵を手当するというものです。現場主義こそレッドクロス(赤十字)の原点のはずですから。

赤十字の災害現場への実働部隊を緊急に組織して頂きたいと多分、多くの人に異論のないことだと思われます。

危うい日本、少子化と人口減と移民の可否

2016-04-15 | 世事諸々

一昨年亡くなったシンガポールの元首相、リー・クアンユーはシンガポールも近年人口減少が顕在化していて、人手不足を埋めるべく数年前から移民枠を大幅に増やしているとのことですが、しかし、日本については移民政策は多分意図してはいないだろう(と推測して)人口縮小に対応した別の方策を模索する賢明さがあるだろうと(皮肉でなく)述べています。

北欧の事例をみるまでもなく人口縮小には移民策の他にも対応はあるはずで、日本はきっと最良の道を見つけるだろう、と言っているのでした。

現在の日本が少子高齢化しているのは事実ですが、人口減少が今の日本の大問題と考えるのは明らかに間違っているようです。なぜなら,今の日本の人口はむしろ過剰で減少に転じるのは自然の摂理かも知れないからです。

日本の人口の推移は江戸時代の270年間が約3,300万人、明治・大正年間に産業発展で人口扶養能力が高まり2600万人増加して5900万人になっています。

その後の推移は、昭和20年(終戦時)8300万人、そして、22年後の昭和42年(1967年)一億人を越えて、当時の人々は驚き、一億人は増えすぎ、国土の許容を越える人口過剰ではないかと懸念したそうです。

現在の人口減(まだ一億2千万人いる)が今後の経済発展に不十分と唱えているのは、目先、人手を必要としている産業・商業の経営者で、他には年金制度のアンバランスをいう一部の人達だけです。

ヨーロッパ、東欧を含めて、人口問題、移民問題では深刻な、切実な、経験を踏まえて、多くの人は国家が対応を誤ったと考えているそうです。

アメリカも同様で、現在、WAPS系アメリカ人が(深刻に)憂慮しているのはアメリカという国家の人口構成の変化、イスラム人口とヒスパニック人口の急増(どちらも宗教的に避妊厳禁で多産)反比例してヨーロッパ系白人の少子化、そして当然の結果として、アメリカ大統領の必然的な交替、黒人・ヒスパニック・イスラミックと代わり行く(に違いない)という焦燥、喪失感だそうです。

今年の大統領選挙で、トランプ候補の出現は偶然ではないとのことです。ヨーロッパ系WAPSアメリカ人の、自国が自国でなくなる、アメリカではなくなる喪失感。その焦りが共和党候補、トランプ氏の出現で、過激な発言・暴言は今のヨーロッパ白人系アメリカ人の胸の奥に共有するものとのことです。

小堀保三郎の自死 (自動車用エアーバッグの発明者です)

2016-04-11 | 世事諸々
小堀保三郎という名前を聞いても、聞き覚えがあると思う人は少ないと思います。しかし、この人物が何を成した人かを聞けば、人は軽い驚きを覚え、なるほど、アップルの創業者、スティーブ・ジョブスなみの知名度があってもおかしくはなかった人物、と納得できるはずなのです。

今では、どんな車にも装着されているエアバッグの、正真正銘、世界で最初の発明者だったのです。世界で初めて自動車の乗員の命を事故から守る手段を考案、その装置を作成、特許もとった人物だったのです。1965年から1975年の十年間「衝突時乗員保護システム」という装置を作り世に送り出そうと奮戦していたのです。

しかし、その当時の人びとの(自動車事故時の乗員保護)など全く考慮の外で、そのためその装置は見向きもされず、商談にもならなかったのです。日本の大手自動車メーカーはどこも好況で乗用車生産台数は上昇の一途で、そんなものを付けなくともよく売れていたので、おまけのような装置(としか認識がなく)をつける考えはは全くなかったのです。

「衝突時乗員保護装置」は現在のものと比べても基本的には遜色のないもので、その内容は(衝撃加速度検出装置・弾性防御袋〔エアバッグ〕・気化ガス発生装置)で構成されたものでほぼ完璧なものといえるものだったそうです。世界14国で特許を取得していたとのことですが、詳細は不明です。しかし、この装置は運転席、助手席、後部席、両側面、ルーフと装着するように設計されていて、過剰気味ながら完全なものだったそうです。

1970年には国産乗用車の生産台数はさらに増え、うなぎのぼりで、一大ブームの様相でした。外国車も交え自動車ショーも頻繁に行われ、小堀のエアバッグは様々な場所で披露されたのでしたが、有力メーカーのトヨタ・ホンダ、ニッサン、マツダなども興味を示さず、中には商談を受けて失笑をみせたものもあった、との話もあります。外国車メーカーには興味は示したものもあったが商談には至らなかったそうです。

1975年(昭和50年)小堀保三郎(76)はエアバッグ開発費用捻出に行き詰まり、失意の中、8月30日午前、東京港区三田の事務所内で妻・艶子と共にガス心中、と報じられています。 

1980年になっても、まだ日本のメーカーはエアバッグに関心を示していませんでしたが、ドイツのベンツ社は密かに開発を進めていました。小堀のデモンストレーションに早くから着目していたのです。世界で最初にエアバッグを自社製品に装着したのはベンツで、その後日本のホンダも外国製品を輸入装着したそうですが、それは1985年のことでした。小堀保三郎のエアバッグは10年早過ぎたようです。

どのような経緯か今では分かりませんが、小堀の特許は効力を失い、部分的な特許に細分化して世界に散らばっているそうです。日本に特有の先見性のなさ、あるいはアカデミズム偏重の風潮によってか、アウトサイダーの小堀の発明を軽視・失笑した報いでスマートフオンにも次ぐといわれるヒット商品、自動車用エアバッグという珠玉を逸したようです。残念という気にもなれませんが。
(最近ニュースで伝えられている、タカタ製エアバッグのリコール問題は思いの他深刻で、因果は巡る、の感があります)

(付記)小堀保三郎は石川島播磨重工、大同工業など大手重工業会社向けに工場内輸送機器・運搬機などを作成する中小企業の工場を長年経営、十分な資産家だったのですが、62歳のとき当時の成長企業、自動車製造に注目、自動車乗員保護装置を考案、余後をエアバッグ完成に没頭、膨大な開発資金に自己資産を注入したのでした。しかし時期尚早で販売に失敗して挫折、という経緯だったのです。卓越した機械職人で機械好きで、ホンダの創業者、本田宗一郎を彷彿させる人物だった、と多くの人が伝えています。