**馬耳東風**

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マルサの女・伊丹十三の自死

2015-11-22 | 世事諸々
1997年12月20日早朝、東京麻布の伊丹プロダクションのあるマンション下の駐車スペースに伊丹十三はうつ伏せに横臥している姿で発見されています。多量のウイスキーを飲んだ形跡があり、その後屋上から投身自殺したものと麻布警察署はその日のうちに結論を出しています。ワープロで書かれた遺書らしきものが残されていたのが決め手になったようです。それには「身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです」という簡略で伊丹らしくない一文があり、それに対応するのは写真週刊誌「フラッシュ」による伊丹スキャンダル(不倫やSMクラブ通い)に対しての釈明と推測して、警察は自殺の理由としたようでした。

しかし、伊丹の友人知人の誰一人それに納得するものではなかったのです。伊丹は達筆で私信にワープロを使うことはなく、文筆家でありダンディな伊丹が人生最後の終止符の時に、あのような粗末な文章の切れ端を残すことはありえない、と誰にも思われたのです。

伊丹十三はその以前、5年6ヶ月前の1992年5月、映画「ミンボーの女」を劇場公開直後に自宅近くの路上で刃物を持った5人組に襲撃され、顔などを切られて全治3ヶ月の重傷を負わされています。

犯人は後日逮捕されていますが、暴力団後藤組の配下の男達で「ミンボウーの女」(民事介入暴力団専門の女性弁護士)が主人公となるこの映画の内容が滑稽に描かれていて、暴力団をコケにしたものと反発、映画製作者で監督の伊丹に対して暴力行為に及んだものだったのです。5人組は罪を認め裁判は即決で、それぞれ4-6年の懲役刑を言い渡されて服役していました。

伊丹の自殺を認めないのは友人知人だけではなく、週刊誌「フラッシュ」の執筆担当記者自身も自分の記事が伊丹自殺の原因とは微塵も思わず、後日伊丹の自殺動機説に対して否定的な記事を伊丹の写真付きで載せています。その中で伊丹は笑いながら「不倫?それなら女房に聞いたら、そんなのしょっちゅうだから。SMクラブ通いは本当だよ勿論」と屈託なく言っていたのです。SMクラブ通いが彼の映画のための取材目的なのは記者を含めて誰でも知っていることだったのです。自殺の理由になる要素などでは全くなかったのです。

数ヶ月後、アメリカ人で読売新聞記者という異色の人物、ジェイク・エーデルスタインという伊丹の友人のひとりが彼の自殺を聞き知って、その否定記事を英米の新聞(ワシントン・ポストなど)に公表しています。彼は読売新聞社に入社以来、なぜか日本の暴力団(Japan’s Yakuza Mafia)に魅せられて、その取材を12年間続けて英米のメディアにも紹介していた筋金入りで、英米では日本のヤクザ世界のエクスパートとして知られていたそうです。

1992年に伊丹が被害者となった刃傷事件のことも犯人が後藤組の組員で逮捕され服役し、伊丹の自殺騒動の頃すでに刑を終えて出所していることも知っていて、伊丹を死に至らしめたのは、あるいは再び彼ら5人組ではないかと疑い、彼らに直接取材を申し入れていたそうです。

ジェイク・エーデルスタインは、この事件の動機となり得るものとして、伊丹から生前に聞いていた彼の次の映画の企画が、彼らに対する挑戦と受け止められて、それを妨害するものだったかも知れないと疑ったのです。伊丹の次の企画というのは実のところ、彼らの神経を逆なでせずには済まないものだったのです。映画の題材となるのは暴力団と新興宗教で、そのものずばりだったのです。

しかも、中心テーマはかねてから親密な関係にあるとエーデルスタイン自身が伊丹に教えていた、ヤクザ・マフィアの後藤組と創価学会だったのです。伊丹が思い描いていたのがどのようなストーリーだったのか判りませんが、後藤組の組長後藤忠政には心あたりがあったのか激怒し、創価学会名誉会長の池田大作も快く思わなかったはず、と英文のワシントンポストに寄稿したリポートには書いてあるそうです。

エーデルスタインは、後藤組と創価学会の繋がりを数年前に遡り、読売新聞紙上にも書いているそうです。創価学会が冨士大石寺と分裂騒動の折後藤組を援用していたころ何度も取材していて両者の関係は熟知していたのです。

そのような浅からぬ関係にある両者が、今回の伊丹の映画企画潰しにも同様に画策したのではないかと考えていたようでした。外国メディアへの寄稿文には、自分で隠密取材した後藤組の組員のひとりにオフレコを条件に(思っていることを)喋らせているそうです。するとその組員は「5人組は伊丹の部屋に押し入って、拳銃で脅し、ウイスキーを浴びるほど飲ませて、屋上へ連行して投身させた」と語ったということです。証拠は何ひとつありませんが。

エーデルスタインはその後、後藤組とは別件でトラブルとなり、コロンビア マフィアさながらの脅迫、手を引かなければ妻子から危害を加えると脅され、その真実味に怯えて読売新聞社を退社、帰国してしまったのです。その別件トラブルとは、後藤組組長の後藤忠政が深刻な肝臓がんに罹り、肝臓移植のためアメリカに渡航、西海岸の大学病院UCLAで肝臓移植を受けた、という事実を掴み暴露してしまったのです。それはアメリカ側のFBIも絡んだもので複雑なトラブルになったそうです。ヤクザは絶対に入国できないアメリカへFBIの仲介で入国した事実があり、FBIの弁明は〔日本の暴力団の内容解明と彼らの資金ルート情報の提供〕を条件に入国と臓器移植の医療許可を与えた、というものだったそうです。

いずれの話も日本語の公式記事はなく真偽のほどは判りません、また、エーデルスタイン本人も身の危険を感じてか、証言を拒否しているということで、伊丹十三(自殺説)を覆すまでには至っていないということです。

伊丹十三は「ミンボーの女」で後藤組の怒りを買い顔や手足に酷い怪我を負いながら「私はくじけない、映画で自由を貫く」とテレビの取材に向かって言っていました。実際その通りで、死の直前まで次の映画を企画制作に意欲的だったのです。ヤクザと新興宗教をテーマに、かなり面白そうなシナリオを考えていたようなのです。そんな人が唐突に自殺することなど(普通に考えて)あり得ないのです。

伊丹十三とは芸名で、名付け親は永田雅一元大映社長、当初命名された名前は(一三)でしたが、後年、宮本信子と出会って結婚する時、これからはプラス指向で、と芸名を一から十(プラス)に替えたということです。彼はその通りの人で、常にプラス指向で、制作映画も深刻なテーマであっても笑いのある明るいものだったのです。自殺するとは考え難いことなのです。

(付記)その後、後藤組は山口組により(内部抗争で)その傘下から破門となり、後に解散、組長は得度して仏門に入ったとのことです。

超能力の真贋(嘘ほんと)  

2015-11-19 | 世事諸々
日本でも有名なスプーン曲げの元祖、イスラエル人のユリ・ゲラーは1970年代に度々来日してスプーン曲げの奇術をテレビで演じて見せています。彼はもともとマジシャンでしたが、日本ではテレビを通して超能力者と紹介されていました。

当時の日本は霊能者・超能力者ブームでそれらを自称する(芸人)も多く、テレビ出演もしていたのです。テレビのない時代には(ドサ廻り)などと言われた芸人達でしたがテレビに出演するとその泥臭い芸(幽霊を自在に見る、守護霊・背後霊と会話をしてみせるなど)は視聴者側にその欲求があったのでしょう高視聴率番組になったこともあったのです、そのためテレビ局側も力を入れて(やらせ番組)と言われながらも放映回数を増やしていました。彼らは霊能者・超能力者と紹介され、それを演じていたのですが、お粗末芸に変わりなく、やがて視聴率も低下してブームは終焉しています。

ユリ・ゲラーはその風貌からいかにも超能力者然としていたので、アメリカでもスプーンを念力で曲げると称してホテルやレストランなどの余興用舞台で演じて人気者でしたが、テレビ出演の機会を得てその巧技が受けて知名度を上げ、ついに当時(1973年頃)全国ネットで最も人気のあったABCのバラエティ番組「ジョニー・カーソン・ショウ」に招かれ出演したのです。ところが、一流番組は詐術を看過することはなく、ゲラーの超能力は暴かれてしまいます。この番組にはもう一人、アメージング・ランディという当時の第一級マジシャンが出演していて、彼がゲラーの詐術を暴くというものでした。一流奇術師が超能力者を自称する同業者の(芸)マジックを暴くという趣向だったのです。(今の日本にも類似番組があるようです)

アメージング・ランディにユリ・ゲラーのスプーン曲げの詐術はあっけなく暴かれました。ランディはカーソンと申し合わせて(市販)のスプーンを自前で揃えて番組終盤時に「今日はこちらで用意したスプーンも曲げてください」と追加芸をさりげなく申し出たのです。するとゲラーは快く数本試しましたが、なぜか一本も曲がらないと首を振り、弁解などはせず黙って退場したそうです。ランディとカーソンはその態度に一流ショウマンシップを見たのか、肯いて拍手で送り出したということです。ユリ・ゲラーはその振る舞いのよさで信用を維持して日本を含めた海外で大ブレイクすることになります。

日本やオーストラリア、ヨーロッパ各地で、彼のスプーン曲げの芸は人々を驚かせ、テレビブラウン管の中でクローズアップしたニ本の長い指で摘んだスプーンの首を別の手の指で軽く擦ると、スプーンの首はみるみる曲がり、ポトリと落ちるのです、まか不可思議な芸だったのです。「テレビを見ているあなたにも出来ます、スプーンを用意してください、一緒にやりましょう」とユリ・ゲラーは真顔で視聴者に呼びかけ、それに呼応して全国津々浦々の家庭で、大勢の視聴者がスプーン曲げに参加したのは、まだ覚えている人も多いでしょう。

スプーン曲げに挑戦した人々の中に、スプーンが曲がった、折れた、首を落とした、という子供から大人までの老若男女が各地に現れて混乱したこともありました。番組を担当したスタッフが最も困惑していたでしょうが、群集心理がなせるところ、とテレビ局内では弁明していたかも知れません。それでも世間の風聞では、実際に成功したものも大勢いたと信じるものも多く、超能力信仰は広まっていたのでした。

1970年代というのは超能力が価値ある能力と考えられていたのも事実で、偽者もいるが本物もいると思われていたのです。それは日本よりアメリカで正当性を認められていて、CIAがスプーン曲げより実用的な超能力・未知の能力に興味を示し求めていたのです。

あたかもソ連との冷戦の最中で、CIAが入手したソ連情報によると、ソ連はアメリカに先行して、すでに100人を越える超能力者を集め、六千万ルーブルの予算をつけて秘密目的の訓練を始めているというもので、具体的には(超感覚的知覚)という、超能力者による精神集中力による探査で、その透視力でアメリカの潜水艦の位置を特定することが出来るものと報告されていたそうです。それを額面通りに受け取って脅威を覚えていたのか、対抗手段を講じるべく、アメリカ全土に呼び掛けて、超能力者、特に遠隔透視者を募ったということでした

その結果、CIAは1972年に特殊能力開発調査機関を設立本当の話です)年間50万ドルの予算も用意して、23人の遠隔透視者と3人のその他の超能力者を雇用し、国務省の40人の軍事スタッフで管理体制を作り、遠隔透視の実用に向けた訓練に当たったということです。

しかし、冷戦の終結が目前に迫っていたその頃、その能力をソ連に向けて応用した記録はなかったのです。その代わり、1980年代に次の四つの所在調査を行った、と公文書公開記

録に残っているそうです。

*リビアのカダフィ大佐の所在
*北朝鮮の保有するプルトニュームの所

*イタリアのテロ組織「赤い旅団」が誘拐した人質の所在
*アフリカで墜落したソ連のTU-95爆撃機の位置の特定

結果はおもわしいものではなかったようで、CIAはほどなく別の機関AIRに、遠隔透視による上の4事例の有効性評価と

査定を依頼をしたところ、AIRはバッサリと有効性を否定し、なおかつ調査の中止を勧告したのでした。アメリカの超能力作戦はその段階で中断し、翌年には終了となってしまったようです。

それでも、彼ら(超能力者達)はめげなかったようです。その後はエンターテイナーとして生き残り、日本のテレビ局でも、彼らを使って数局が「超能力者番組」を作っていました。CIA残余の遠隔透視者達を招聘して、日本ではまだ当然のように彼らを(超能力者)として遇して番組を作っていたのです。

数回シリーズで放映された人気番組のひとつに、家出人捜しという番組がありました。視聴者から家出人探しの依頼を受けて、アメリカのCIA残余の遠隔透視者がその家出人の(その時の生死)を占い、生きていると認定すると追跡調査を始めるというものです。

1980年4月、イラン国内でアメリカ大使館員人質事件というのがあり、アメリカ人大使館員とその家族53人を救出するため、海兵隊特殊部隊が編成されて救出に向かったのですが、その部隊が大使館に突入する事前に、大使館内の様子(人質の監禁場所、イラン官憲の配置場所)を探索する目的で在米の超能力者の一人、マクモニーグル某が依頼されて、その遠隔地からの大使館内部の透視をし、見事館内の人員配置図を描き、救出作戦は成功した、と本人がそのように自己紹介して、日本にやって来ていたのでした。

目的は家出人捜索というテレビ番組のためもので、視聴者の依頼による行方不明者探索を何度か行って好評でした。容貌が誠実な建築設計士風で、不明者の最後の足跡から遠隔透視で何事かを読み、巧みにペンを走らせて迷いなく足跡地図を書き上げるのです。

その詳細に描かれた地図は見た目にもプロの手によるもので、日本の地方都市や海岸付近の村落を描いたものなど、実際にテレビ局のスタッフが地図を辿ると、驚くことに、そこに記載されている道筋は、形状から分岐点の位置まで目前に見るものと一致していて、左右の風景まで樹木の有無など詳述されていて、実地検分図にも思えたとのことです。

予備知識なしに日本の地方の名もない小都市の地図を本当に見たように書いていて、実際の地理に一致するものだったので、テレビの視聴者も共々に驚き遠隔透視によるというその不思議な能力を信じさせるものだったのです。

もう一つは、未解決事件の犯罪現場を透視して犯人の人相・服装、現場の状況などを描いてみせる(超能力者)番組で、アメリカ人の女性超能力者が何度か日本を訪れてテレビ出演しています。

その一つは、今でも記憶に残る悲惨な強盗殺人放火事件で、現場は東北のサラリーマン金融の青森支店で、犯人は現金を強奪後4人の支店員の通路側に灯油をまいて放火し全員を死亡させたというものでした。

事件後数週間経って、アメリカから来た超能力者が現地を訪れ犯罪現場(部屋の中)を透視して、事件の残像を見たというのです。それによると、犯人は単独で初老の男性、身長は1.65m、痩せ型・・鉛筆でその容貌をスケッチしてみせました。アゴの細い貧相で眼が大きくひ弱そうな体型にニット帽子、といういでたちを克明に描写したもので印象的でした。驚いたのは、その後犯人は逮捕されましたが、彼女の似顔絵は本人に酷似していたのでした。

CIAに遠隔透視作戦の中止勧告を出したAIRの指摘は、遠隔透視による大使館内現場描写図というのも、それまで内部通報による多くの情報があり、それを参照していたら可能というもので、必ずしも遠隔透視によらなくも人員の配置も室内の様子も把握できた、といえるもので、特殊能力によるとは言い難い。外部地形経路の指摘は適合したものだったが、これもコンピューターの地図検索でアメリカからでも図解できたもの。北朝鮮のような情報皆無の地域に対する遠隔透視がなされていないのも、遠隔透視には疑義がある、と判断され作戦の中止になったのでした。

サラ金事件の場合は、事件前後にも不審者の目撃情報はなく、アメリカからやって来た女性超能力者に犯人を推測する情報は皆無であったはずで、事件現場に残った事件の(残像)を見るという不可思議な能力で犯人の似顔絵を描いて見せたのは、それをリアルタイムでテレビで見た視聴者にとっては驚き以外の何ものでもなかったのです。そのため様々な反響が放送後テレビ局によせられたそうです。

彼女は現在もまだアメリカ本土でFBIや地方警察や郡保安官事務所などで、犯罪捜査補助活動をしているとのことで、アメリカでは超能力信仰は消えてはいないようです。


中国の静かな侵略(チャームオフェンシブ)

2015-11-17 | 世事諸々
アフリカへの道

イギリスにグローバル・ウイットネスというNGO(非政府機関)があります。世界の政治・経済の問題ありげな出来事を見つけては、追跡調査するという団体です。

世界で起きている違法でないまでも非道な行為、政治経済に関る不正・不明朗な行為を摘発・報道するというものですが、誰の依頼によるものか、また目的も判然としません。そこで、もう一つのNGO“余計なお世話の(人権問題の)アムネスティ”に比肩してみると(なるほど)と少しはその存在理由が理解できるかも知れません。

このNGOの最近の活動報告は中国のアフリカ進出問題で、そのタイトルは、China's Silent Army(中国の静かな軍隊)というもので、含むところがありそうです。黙々と進路の全てを食い尽くしながら押し寄せる軍隊蟻の群れをイメージして、中国のアフリカ進出を批判しているように思えます。

しかし、中国がアフリカ進出を図る以前のアフリカの状況は旧宗主国やアメリカなどにも手に負えない一面があったのです。絶え間ない部族対立、戦乱と難民の群れ、干ばつと大地の荒廃、貧困と無気力、横暴な独裁者の出現・・、そのため西側先進国はおしなべて冷淡で、アフリカへの救援は一向に進まなかったのです。

ところが、遠い国から、中国が別の目でじっとアフリカ大陸を眺めていたのです。蟻が砂糖の山を見る目でした。アフリカは眠ったままの天然資源が多く、それらを管轄する愚かな独裁者が(各国に)いて、彼らが西欧から忌避されている状況も好都合で、その上、空の食器を並べたような巨大な市場が存在している、ように思え、当時生産過剰気味の中国製品を売るのに最適な国々に思えたのです。経済援助を申し出ても十分採算に見合うと考えたのでした。

中国にとって、鉱物資源・木材資源・エネルギィー資源は戦争をしてでも手に入れたい物資ですが、それにも増して、アフリカの魅力は、その広大な未開の地で、商業、工業、農業、水産業、と全てが未開発で、中国が(寄与)出来る場所は無尽蔵に思えたのでしょう。それは、永年の頭痛の種、人口問題を緩和する糸口にもなりそうで、大きな期待を抱かせるものだったのです。

中国のアフリカ戦略は慎重でオーソドックスともいえるものでした。天然資源が豊富で、独裁者の国で、西欧から忌避されている国に狙いをさだめて、順次、国土開発と経済支援を申し入れています。了承されると、すかさず賄賂を贈り、見返りに植民地時代に掘り掛けて放置されていた鉱山の採掘権を得て、同時に森林の伐採権も確保するというものです。経済援助の内容も道路建設や港湾などのインフラ整備が最初で、これは採掘伐採した資源の搬出のためで、次に着手するダムや発電所建設も、長い目で見て、将来自分達が商工業に参入する際に不可欠なインフラだったのです。病院や学校も作ったのは住民懐柔に効果的で、(善良で友好的な中国人)の存在をアピールする必要があったからのようです。

中国のアフリカへのアプローチはアジアの国々に対するときの強面とは対象的で、イギリス人はこれをチャーム・オフエンシブと呼んでいます。甘言で始まり、徐々にボディブロウを浴びせ最後にダウンさせるというものです。

少し昔に戻りますが、2006年11月、中国の胡錦涛主席がアフリカ諸国を訪問した折、ナイジェリアにも立ち寄り、当時の大統領オルセング・オバサンジョの熱烈歓迎の辞を受けています。歯が浮くほど高揚したものでした

「21世紀は中国が世界を主導する世紀です。中国が世界を導く時、我々もその後に続きたい。あなたがたが月に行くとき我々は取り残されたくないのです」(原文のまま)

顧みて、日本も長年(中国より数倍長く)アフリカ諸国に継続的な〔外務省主導のODA〕経済支援を行って来ていますが、外交ベタの所以か、教会の献金箱にいれたほどにも感謝されず、神のみぞ知る支援に終っているのです。

中国の経済支援と外交には行き過ぎの面もありますが、必ず意図と目的があり、その成果を期待するものです。日本の外務省に見られるような漠然とした慈善意識など毛頭なく、日本はその点でも、中国に学ぶべきところがありそうです。口先はともかく、国際政治で無償の支援も奉仕も災害時以外では有り得ないことだからです。

植民地解放後のアフリカの(60年に及ぶ)騒乱と貧困は、ヨーロッパの旧宗主国に原因がありそうです。旧植民地国が撤退時に、後継者を擁立することもせず、政治の継承もしていない怠慢があったからです。被植民地国の治世権を長年奪っておきながら独立後の治世の道筋も作らなかったのは失策で、そのため、混乱の中で暴力がはびこり、覇権を争う騒乱が何年も続くことになったのです。

国連のユニセフが(貧困と餓死者のアフリカ)救済、と支援キャンペーンを始めて、少しは一般の関心も集め、国際的な募金活動も始まりましたが、しかし、国家的な本格的支援は行われず長い年月が経過していたのです。

グローバル・ウイットネスは、中国のアフリカへの経済支援のもう一つの(重要な)目的、移民問題にも言及しています。中国人を自然な流れで大量に送り出すには、需要を掘り起こす必要があったと指摘しています。アフリカはどの国も、人口過剰気味に見えても労働力は不足していて、そのため建設労働者や技術者はすべて中国本土から移住させる必要があった、と中国当局者は当時の実情を述べています。

技術者・労働者と共に商人達、中華料理の料理人と食堂経営者、従業員とその家族、親族とセットでやって来ます・・・多くの国で移住者の数は数十万人を越え、アフリカには累計三百万を越える移住者がいるとも言われているのです。

中国人はアフリカに多くのものを建設し、近代都市もつくり、溢れるほどの商品と一部に豊かさをも持ち込んで来ましたが、それはアフリカ人のためというより中国人のためではないかと、現地の人もようやく気付いて不満が噴出しているところもあるようです。当初は歓迎だったのですが・・・

現在少し遅れて(侵略が)進行中の南アフリカ共和国を例に取ると、中国製品はどこでも熱烈歓迎されていて、中国人もおおむね好感をもたれているそうです。〔安価で良品質の〕中国製品は市場を席巻していて、ここは中国か、と思われるほどだそうです。

バスやトラック、携帯電話、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、フライパンに包丁、プラスチック製品、衣類に寝具、石鹸から菓子類に至るまで中国製で、日本製品など見る影もなく、デパートもスーパーも今や中国製品を中国人が売り、生活の場を広げているのです。またマスメディアへの浸透も怠りがなく、ナイロビをハブ・ステーションにしている中国国営テレビが、ここにも現地支局を作り、現地スタッフによる現地語の自主制作番組を放映して情報番組のみならず娯楽番組も制作していて、中国製品のCMも流し、ある程度の視聴率も保って人気を博し、この国でアルジャジーラやCNNと並ぶ放送界の一角を占めているのだそうです。

中国の静かな民族移動は、見るかぎり成功しているのです。