**馬耳東風**

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小堀保三郎の自死 (自動車用エアーバッグの発明者です)

2016-04-11 | 世事諸々
小堀保三郎という名前を聞いても、聞き覚えがあると思う人は少ないと思います。しかし、この人物が何を成した人かを聞けば、人は軽い驚きを覚え、なるほど、アップルの創業者、スティーブ・ジョブスなみの知名度があってもおかしくはなかった人物、と納得できるはずなのです。

今では、どんな車にも装着されているエアバッグの、正真正銘、世界で最初の発明者だったのです。世界で初めて自動車の乗員の命を事故から守る手段を考案、その装置を作成、特許もとった人物だったのです。1965年から1975年の十年間「衝突時乗員保護システム」という装置を作り世に送り出そうと奮戦していたのです。

しかし、その当時の人びとの(自動車事故時の乗員保護)など全く考慮の外で、そのためその装置は見向きもされず、商談にもならなかったのです。日本の大手自動車メーカーはどこも好況で乗用車生産台数は上昇の一途で、そんなものを付けなくともよく売れていたので、おまけのような装置(としか認識がなく)をつける考えはは全くなかったのです。

「衝突時乗員保護装置」は現在のものと比べても基本的には遜色のないもので、その内容は(衝撃加速度検出装置・弾性防御袋〔エアバッグ〕・気化ガス発生装置)で構成されたものでほぼ完璧なものといえるものだったそうです。世界14国で特許を取得していたとのことですが、詳細は不明です。しかし、この装置は運転席、助手席、後部席、両側面、ルーフと装着するように設計されていて、過剰気味ながら完全なものだったそうです。

1970年には国産乗用車の生産台数はさらに増え、うなぎのぼりで、一大ブームの様相でした。外国車も交え自動車ショーも頻繁に行われ、小堀のエアバッグは様々な場所で披露されたのでしたが、有力メーカーのトヨタ・ホンダ、ニッサン、マツダなども興味を示さず、中には商談を受けて失笑をみせたものもあった、との話もあります。外国車メーカーには興味は示したものもあったが商談には至らなかったそうです。

1975年(昭和50年)小堀保三郎(76)はエアバッグ開発費用捻出に行き詰まり、失意の中、8月30日午前、東京港区三田の事務所内で妻・艶子と共にガス心中、と報じられています。 

1980年になっても、まだ日本のメーカーはエアバッグに関心を示していませんでしたが、ドイツのベンツ社は密かに開発を進めていました。小堀のデモンストレーションに早くから着目していたのです。世界で最初にエアバッグを自社製品に装着したのはベンツで、その後日本のホンダも外国製品を輸入装着したそうですが、それは1985年のことでした。小堀保三郎のエアバッグは10年早過ぎたようです。

どのような経緯か今では分かりませんが、小堀の特許は効力を失い、部分的な特許に細分化して世界に散らばっているそうです。日本に特有の先見性のなさ、あるいはアカデミズム偏重の風潮によってか、アウトサイダーの小堀の発明を軽視・失笑した報いでスマートフオンにも次ぐといわれるヒット商品、自動車用エアバッグという珠玉を逸したようです。残念という気にもなれませんが。
(最近ニュースで伝えられている、タカタ製エアバッグのリコール問題は思いの他深刻で、因果は巡る、の感があります)

(付記)小堀保三郎は石川島播磨重工、大同工業など大手重工業会社向けに工場内輸送機器・運搬機などを作成する中小企業の工場を長年経営、十分な資産家だったのですが、62歳のとき当時の成長企業、自動車製造に注目、自動車乗員保護装置を考案、余後をエアバッグ完成に没頭、膨大な開発資金に自己資産を注入したのでした。しかし時期尚早で販売に失敗して挫折、という経緯だったのです。卓越した機械職人で機械好きで、ホンダの創業者、本田宗一郎を彷彿させる人物だった、と多くの人が伝えています。

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