おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

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正木ゆかりの河津・吉奈を訪ねる

2012-03-19 12:52:50 | Weblog
お万さまには兄が二人いる
「お万さまは、ここで生まれ、原木(修善寺の加殿)へ移られて、家康の側室になった。火事の前の林際寺に昔は、お万さまの石碑があり見たことがある。また、お万さまの兄の菊松は、下田城主清水能登守小太郎の娘を娶りここで暮らした。菊松を帰してくれと言う天正八年三月の書状が、勝浦の頼忠から河津人々御中あてに来ている。家にあるが、今は家内が寝込んでいて、お見せできない」とおっしゃる。
 頼忠が長男為春を小田原に置いて勝浦城に智光院と帰った時に二男の菊松は河津の北条屋敷に養子の形で置いて行ったのかも知れない。
この菊松が実在の人物とすれば、お万さまの兄は二人(一人は病死?しているので)になり、しかもこの河津の地に土着したことになる。それは、母上智光院が北条氏隆の娘(智光院)で、この辺りは氏隆の領地であったからだと言う。今でも河津町には、約50戸の正木家があり、三養院が菩提寺で立派な墓碑が立ち並んでいる。
 正木一族は、町長や教育長なども輩出する町の名家のようにお見受けした。そうなると、お万さまにもう一人の兄がいて、北条屋敷に住んでいても不思議はない。この菊松は、頼忠の書状でもって一度は房総へ行ったのかどうかは定かではないが、ただ房総の正木家はかなり古くから相模と房総を挟んで両側に領地を持っていて、北条に追われてからは、里見家と同盟を結び、内湾と九十九里沿岸から香取の海にかけての水軍として活動していた。その一人が、正木淡路守時盛で内湾の水軍の総大将を努めていたようだ。
翌日は、元教育長の正木太助氏が縁戚の旅館「川ばた」にお出で下さったので、いろいろと伺うことが出来た。正木資料館で昭和天皇にご説明なさった方で、89歳の高齢であるが記憶はしっかりしている。
 お持ち下さった「正木家、清水家」合同の先祖帳は、富川家所有のコピーでかなり破れているが、昨日の源七郎氏のお話を補強する内容であった。家紋は、正木家が丸三引(丸の中に三本の横線)、清水家が登藤)で、両家は合同で二つを使うようである。
暴頭には「正木織部」について、「安房上総両国主里見義弘一家の正木大膳氏族を先祖とする正木織部は、天正年間に伊豆国川津嶺村に居住して農業を職とした」と言う意味が書かれている。次に「鐡雙常肝居士 寛永十三年五月十三日 俗名正木久七 幼名菊松 清水能登守小太郎 其頃、下田鴉嶋城退去の後稲生沢邑蟄居、小太郎娘、久七へ嫁入り、男女十三子、一男正木織部、澤田村居住、二男正木半兵衛、三男新町家祖正木半左衛門、堰口家祖正木九兵衛~」とある。当時のことだから宰相も数人いたのであろう。子沢山である。
 太助氏のご案内で菩提寺三養院を訪ね、さらにご自宅へ伺ったのは、葵紋の脇差があると言うので拝見させてもる為である。越前康継作之 とあって、葵紋が刻まれている。「康継は紀州県お抱え鍛冶で、紀州蜜柑の大木も前は植わっていた」と言う。調べてみると、家康に葵紋の使用を許された刀工であったが、真贋の程は専門の鑑定家による必要がある。為春作の物語『あた物語』=虫や動物の登場する話、の復刻版を拝見してお暇をした。
 午後は、天城越えをして吉奈温泉の老舗旅館「東府や」=子宝の湯 を訪ねる。フロントに和服の女将さん城所倫代さんがおいでで、気策に応対して下さり、お万さま腰かけの石を拝見。伝説では、なかなか子宝に恵まれなかったお万さまが、娘の頃の思い出の地の吉奈の湯に江戸からやって来て、入ると、続けて二人の男の子を懐妊されたので、評判となり、それは四百年後の今にも続いているのである。
天城小唄
所かわれば吉奈にござれ  吉奈子宝湯の香り
さっても昔のお坊様  ここに杖つき お湯が出て
お湯が出たので  お万さま来れば目出たや  子が出来て

 帰途は、三島から箱根路をたどり、一夜城から小田原とを伊豆の海を眺め、探訪の旅の目的は終わった。今回も土地の方々との予期しない廻りあいによって、小説のイメージは大きく広がったのである。感謝感謝!!
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