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おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

小説・エッセー。編著書100余冊、歴史小説『命燃ゆー養珠院お万の方と家康公』(幻冬舎ルネッサンス)好評!重版書店販売。

小説「命燃ゆ」を講談に!

2015-08-24 08:21:44 | 小説
 知人に勧められて小説を講談用にまとめましたので、あとは文体を工夫して仕上げてもらいます 

講談 養珠院お万の方 あらすじ

「徳川御三家」と言えば泣く子も黙る尾張と紀州と水戸藩でありまする。この紀州家と水戸家の藩祖は、房総正木家の息女お万さまのお子さまであります。
映画やテレビで「この紋所が目に入らぬか!」と、葵の紋の印籠(いんろう)を掲げるのは、水戸黄門様の付け人の助さん、格さんのお役目ですが、この黄門さまは、じつは房総勝浦城の領主正木家の御息女お万さまのお孫の一人なのです。

お万さまは、天正5年春の4月に勝浦城で産声をあげられました。幼い時から利発で可愛いので城中の者たちの人気者で御座いました。ところが、3歳の時のことであります。にわかにご城内が騒がしくなり、お万さまはお母上に背負われて落ち延びるのであります。これは、今でも土地の人々に語り継がれる「お万布さらし」の話であります。
またこんな歌も御座います。
三つとせぇ
身の毛もよだつ絶壁を
布をさらしてお母様
背負うて城を抜け出だす

これは、大多喜城の正木大膳亮憲時(まさきたいぜんのりとき)が安房上総を自分の領地にしようと兵を挙げたこの争いは、お万さまのお父上の正木頼忠(よりただ)と、安房の里見氏によって無事に治められたのですが、幼いお万さまには、いかほどに怖いことでありましょうか、後々までこの世の平和を願い、各地にお寺を寄進された理由は、この幼心からで御座いましょう。

お万様は、戦国の世のならいで戦火を逃れ、苦労に苦労を重ねられますが、三島の宿で徳川家康公に見初められて、めでたく大奥に入ります。何しろ近郷近在に誰知らぬ者のいない器量よしで働き者で御座います。
それは、徳川家の記録には、このように書かれております。
「背丈高くして、器量よく、博学多識にして、文筆を良くし、謡曲音楽を好み、薙刀(なぎなた)は達人の域にあり、仏教を研鑽して信心深く、じつに優れたる大賢婦なり」とあります。
まぁ言ってみれば、マリリンモンロウとブリジットバルドウとオードリィヘップバーンを足して、壇密を掛けても余りある才色兼備の女性でありました。
何しろ土地の者たちは
「お万髪の毛 七尋八尋(ななひろやひろ) 
三つつなげば 江戸までとどく」
とまで歌われております。それほどの評判の美女でありましたから権勢並ぶもののない家康公も一目ぼれであったのです。家康公51歳、お万さま18歳の時に御座いますが、家康公には正室が長い間おりませんから若いお万さまを「万よ、万よ」と可愛がられたのです。
仲人を務めた人物は、韮山(にらやま)の代官として名高い第28代江川太郎左衛門英長さまです。
この江川家は、大御所の覚え目出度く、江戸時代の2百数十年にわたって代々韮山の代官の地位にありましたが、こういう例はほかにはないのです。
みなさんは「韮山の反射炉」が世界文化遺産に推薦されたことをご存知でしょう。あれも幕末の江川代官家の大事業で、第36代目の英龍(えいりゅう・ひでたつ)様と37代目の英敏(ひでとし)様によってなされたのです。
ところで、なかなか子宝に恵まれないお万の方は、家康公のお許しを得て子宝の湯として有名な伊豆の吉奈の湯に出向きました。ここはお万さまがお母上と弟と娘時代に暮らした思い出の地であります。この温泉でゆっくりとして、近くの善名寺(ぜんみょうじ)に「どうか、子宝に恵まれますように」と、朝に夕べにお祈りして、家康公のおられる伏見城に帰られたのです。
天城小唄には、こう歌われております。
「所かわれば吉奈にござれ
 吉奈子宝 湯の香り
 さっても昔のお坊様
 ここに杖突き お湯が出て
 お湯が出たのでお万さま
 来ればめでたや 子が出来て」

関ヶ原や大阪の陣の戦いが終わると、この日本は戦国乱世の世から世界にも稀な平和な国になりましたが、その礎を築いたのは、大御所家康公と、信仰心の厚い側室お万の方に御座います。
家康公も落ち着いてお万さまと伏見城で仲睦まじくお暮しになられましたので、2年続けてお万さまはご懐妊なされ、男のお子さま「長福丸」君と「鶴千代」君の二人をもうけられたのであります。これは、側室にとっては大手柄のことで、ますます大御所様のご寵愛を独り占めに致しました。
世界の王侯貴族は、多くの女性を抱えておりましたが、その理由の一つには子孫を絶やさないためと言うことがありましたから続けて二人のお世継ぎを出生なされたお万さまは、大奥に並ぶもののない存在となりました。
大御所様は、すでに60歳にもなられていて、急に二人もの男の子を授かりましたからそれはそれは大変なお喜びようで御座いました。お忙しいのにもかかわらず朝に夕べにお子さまのご様子をのぞきに来ました。それはもうおじい様と孫のような年齢の差ですからこれを「孫かわいがり」と言うのでしょうか。
「おお、よしよし。笑いおった」
「兄の方は、白い歯が出て来たではないか」
「乳は足りておるかのう」
「風邪をひかすではないぞ」
などと、毎日うるさいぐらいのです。
侍女たちは「大御所様の子煩悩にもお困り申しまする」などと陰口をきいているほどでした。

江戸から駿府城に移られて、お子様もお元気な日々でしたが、一大事が起こったのであります。
それは、お万さまが若いころより帰依なさっておられる身延山久遠寺のご住職日遠上人が大御所様のお怒りに触れてしまったのです。
徳川家の信仰する芝増上寺の浄土宗のお坊様と、お万さまの信仰する日蓮宗のお坊様とが宗派論争を江戸城で行ったのであります。その時、日蓮宗の主張が負けたので、身延山の日遠上人がもう1度論争をさせてほしいと申し出たのです。大御所様は「もう宗派の論争はやめることじゃ」と前もって言い渡してあったので激怒なされて、日遠上人を安倍川の河原で打ち首にすることを命じたのであります。
愛するお万さまが、いくら取り成しても大御所様のお怒りは解けずに処刑の日が近づきました。
お万さまは、白装束を2着、心を籠めて手縫いをして、1着を身延山の日遠上人にお届けなされ、処刑の日を待っておりました。
とうとうその日がまいりました。お万さまは、白装束を身につけて朝早くに大御所様のお部屋にうかがいました。
「何じゃ、お万よ、こんな早朝に?」
と大御所様が振り返ると、白装束のお万さまが、額を床に擦り付けて
「今朝は今生のお別れに参りました。わが子、二人の行く末をよろしゅうお願い致しまする」
と、きっぱりと申しました。
「ううむ、そちは、そこまで信仰が厚いのでじゃな。困ったことよのう」
大御所様は絶句なされて静かに目をつむられていたそうに御座りまする。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
お万さまは、早駕籠で処刑場の安倍川を目指した。日遠上人と共にお命を絶とうと言う思いが募るばかりであった。
今にも上人様が磔柱に縛られようとした時であった。
ドッ、ドッ、ドッ、ド、ド、ド、早馬が駆けつけて来て
「上意、上意、処刑を待たれよ!」
と言う大声がした。
竹矢来の外でお題目を唱えていた多くの人々は、その声の方を見た。駿府城の御家老様が、馬上から降りて来られて申し伝えた。
「大御所様のご上意であるぞ。日遠上人の処刑はなきものとする」
そこへお万さまもお着きになって、日遠上人に申された。
「宜しゅう御座りまするか、ご上人様、しばらくは伊豆の下田の乗安寺にてご静養下され。このお駕籠をお使い下されば、今日中にはお着きになられると存じまする」
今でもこの時のお駕籠は乗安寺に置かれているので河津桜の花時にお寄り下されよ。
このお万の方のお話は、口から口へと伝えられて、ついには京の都の後陽成天皇のお耳にまでも達したので、帝はとても感激なされて「南無妙法蓮華経」と書かれた大きな書と、直筆の御書状を賜われたのでありまする。

慶長14年、お万さまは、かねてより念願の菩提寺を身延山の麓の大野に建立し、「大野山本遠寺」と名付け、ここに日遠上人を後にお迎えします。
日蓮聖人の「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」にならい、ご自分もこの地にお墓を考えたのでありまする。
元和2年4月17日家康公は駿府城にてご逝去なさり、「東照大権現」として久能山に埋葬されまする。後に日光東照宮が造営されて、ますます家康公の御遺徳は世に広まりまする。
お万の方は感応寺にて受戒剃髪をなさり「養珠院」と称しまするが、当時の女人貴族は、連れ合いの逝去にともない院号をいただくのが常でありました。
寛永17年、家康公の25回忌を本遠寺にて行い、崇敬なさる七面大天女の祀られる七面山に周囲の反対を押し切り登山を致します。女人禁制の修験道の1400メートル余りのきついお山でありまするが、養珠夫人の御威光にてそれ以後は女人も登れるようになりまする。日蓮聖人の教えには、男女の差別はないと言うかねてからの思いを実行なされたのでありまする。
晩年の養珠院さまは、江戸の紀州家屋敷にお暮しになられ、水戸家の孫の光坊(のちの徳川光圀)などに囲まれ、文筆と読経三昧の生活をしておりましたが,承応2年8月21日、御長男の紀州家藩祖頼宜(よりのぶ)公、次男の水戸家藩祖頼房(よりふさ)公などに看取られてご逝去なされまする。享年77歳、波乱万丈の清廉潔白の生涯でありまする。
その間、身延山久遠寺や小湊誕生寺、さらに八日市場飯高寺など全国各地の寺院数百か所への喜捨と三島玉沢の妙法華寺を初めとする多くの寺院の建立に浄財を献じ、さらに世の弱者へのいたわりの救済は数を知れず、人々から惜しまれて永遠の眠りに就かれたのであります。
「養珠院妙紹日心大姉」の御戒名は大野山本遠寺の小高い墓地の石碑に今も刻まれて参詣の人を静かに見守っておられまする。
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※本遠寺=ほんのんじ 養珠院=ようじゅいん 久遠寺=くおんじ 七面山=しちめんざん
 修験道=しゅげんどう 日遠上人=にちおんしょうにん 駿府城=すんぷじょう 
飯高寺=はんこうじ 吉奈=よしな

美は乱調にあり

2015-06-16 18:58:19 | 小説
 大杉栄に「美は乱調にある。諧調は偽りである」とは、大杉栄の言葉である。瀬戸内晴美は、これを書名にして、伊藤野枝を描いている。彼女は「新しき女性」として、「青鞜」を編集し、大杉栄と不倫関係になり、甘粕事件で虐殺される。
 この御宿の駅前にかつては植(上)野屋と言う旅館があり、伊藤野枝は、よく滞在したらしい。アナーキスト辻潤との間に設けた男児2人の二男は、八積の網元若松家に養子に出している。
 近日中に刊行する小冊子「御宿町の文学歴史散歩」には、そのことなどを紹介してあるので地域に根差す出版物として、多くの方に読んでいただきたく考えている。
 1部実費200円プラス送料300円、299-5107御宿町浜1688 シーガル店 0470-68-3317
 編者としては、一味も二味も違う小冊子になったと自画自賛している昨今である。

御宿町の文学・歴史散歩 
Ⅰ 月の沙漠へ(駅前ロペス通りコース)

―A1, 伊藤鬼一郎銅像・鈴木貫太郎揮毫(御宿小学校)・A2,五倫文庫・A3,歴史民俗資料館(久保)―B,三宅艶子旧住宅地(新町)―C,大内義一旧滞在地(新町MA)―D1,加藤まさを旧居―D2,月の沙漠記念館(新町) ―D3,ラクダ像(新町海岸)―D4,まさを詩碑ロ-ド(海岸)



A 御宿小学校庭に校舎再建と五倫文庫創設に尽力した伊藤鬼一郎校長の銅像(首相鈴木貫太郎揮毫)が立つ。1902年の台風で校舎3棟が全壊、全町民が日々5厘の日掛貯金を行い1914年新校舎が完成した。また、駅前のロペス通りの左側には「五倫文庫」が歴史民俗資料館に併設されている。これは、伊藤校長が第1次世界大戦後に「世界平和には正しい教育が必要である」として、世界中の教科書を収集した図書館である。以来、理事長を伊藤家が受け継ぎ有志で運営している。
B 三宅艶子1912~1994東京都生 作家 随筆家 作家三宅やす子の長女 娘はフリーライター菊子。
C 大内義一 1912~2011ソウル市生 早大名誉教授 アイルランド文学研究 「文学碑」(昭和経済会)他
D 加藤まさを 1897~1977静岡県藤枝生
 詩人・画家・作家 「加藤まさを抒情詩画集」(月
の沙漠記念館)1919~1923療養に御宿を訪
れ、晩年1976~1977御宿に住む。「月の沙
漠記念館」開設1990・ラクダ像(竹田京一制作)
設置1989 

  ★「月の沙漠」は何故、御宿に? 内山 浩   



Ⅱ 海女のふるさとへ(岩和田漁村集落コース)

―E,郭沫若宿泊地(岩和田旅館跡 )・F,エミリオ・貝塚生家(浜よし)-G,日西墨三国交通発祥記念之碑(岩和田)―H,ドン・ロドリゴ上陸地(田尻浜)―I,大宮神社―J、天野
節子生家(岩和田)―J2,貝塚ひろし生家―K,金井栄一郎住宅(岩和田)―L,星野博美祖父生家(岩和田 屋号こんにゃく屋)―M,石田ゆき緒生家(岩和田)・M2,ゆき緒句碑(元サンドスキー場)




※天野節子生家 1946~ 千葉県御宿町生 東京都に勤務、定年後「氷の華(幻冬舎刊 朝日テレビ)」で推理作家デビュー 
※ 貝塚ひろし 1938~ 千葉県御宿町生 漫画家 歴史・野球漫画など著書多
※エミリオ・貝塚1946生 詩人 スペイン料理研究家 詩歌集「小道」(博光出版)
他国の女に 惚れちゃいけない 
末はカラスの鳴き笑い
歯ブラシが口の中で溶ける 寒さ 他
※ 金井栄一郎 1922~2004千葉県御宿町生 呉服店・ホテル・アワビ蓄養業経営・日本スキー連盟理事などのかたわら戦争体験記や「ドン・ロドリゴ物語」(新人物往来社)などの著作あり。

※ 石田ゆき緒 1918御宿町生 俳人
つみびとの如くふるへ来 若布刈海女 旧サンドスキー場に句碑あり。
※星野博美1966~東京都生 『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)第32回大宅壮一ノンフィクション賞。『コンニャク屋漂流記』(文春)第63回読売文学賞随筆・紀行賞等受賞。祖父の出身地岩和田や、祖先のルーツ和歌山県湯浅町を訪ねてまとめる。
※ 郭沫若 1892~1978中国四川省生 1928日本へ亡命。市川市に住み中国史の研究。1937年に帰国、戯曲『屈原』で大きな反響を呼ぶ。政務院副総理・中国科学院院長・全国文学芸術連合会主席・中日友好協会名誉会長を務める。「浪花の十日間」(1934年7月31~8月10日)は避暑の家族を訪れたエッセー。
※ 日西墨交通発祥記念之碑(メキシコ記念塔)祖先の美挙を伝えようと、浪花村長浅野重雄、有力者森矗昶、新聞記者藤平権一郎氏が中心で建立。(1928)
※ ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルルサ 1564~1636 スペイン国副王領(メキシコ国テカマチャルコ市)生 フィリピン臨時総督 1609、岩和田田尻浜に漂着
※ 大宮神社 ※火災で現在地に移転、慶長14年のサンフランシスコ号乗組員の宿泊所とは異なる。

Ⅲ 谷内六郎と人生劇場の面影(浜の歴史通りコース)

―N,伊藤家―O,伊藤野枝・辻潤・大杉栄・ひらつからいてう等宿泊地(植野屋旅館跡 須賀交差点)―P,谷内六郎滞在地(浜)―Q,最明寺(須賀 六郎写生地―北条時頼宿泊地・地名由来歌碑、伊藤家墓地・加藤まさを墓地)―R,尾崎士郎滞在地・前田河広一郎執筆地(須賀 妙音寺 御宿海岸)―S,戸松醇堂記念碑(観音寺)―T,井上究一郎旧別荘(浜谷 バス停御宿漁港)
※伊藤家住居 大阪夏の陣後の1619年に土着、須賀村名主を世襲、13郷の総名主も務める。初代御宿小校長の鬼一郎は18代目、現在は孫の良昌が当主。
※ 伊藤野枝1895~1923福岡市生 女性解放運動家「青鞜」誌編集者 辻潤と結婚「底本伊藤野枝全集」※大杉栄と同棲 甘粕事件で虐殺される「美は乱調にあり」(瀬戸内晴美 文春)のモデル
・辻潤1884~1944東京都生 ダダイスト 翻訳家「著作集」6巻(オリオン出版社)※伊藤野枝の恩師で夫だが、二男をもうけて離婚。孫に画家野生(のぶ コロンビア在住)
・大杉栄1885~1923香川県丸亀市生 アナーキズムのリーダー『大杉栄全集』14巻(現代思潮社)伊藤野枝と暮らし、1男4女をもうけ、神近市子に傷害を受け、甘粕事件で虐殺される。
・平塚らいてう1886~1971東京生 「元始、女性は太陽であった」(青鞜)を編集する「新しい女」として注目される。後に編集を伊藤野枝に譲る。女性解放・参政権運動のリーダー。鴎外は、与謝野晶子の後継として推挙している。「野枝さんはその子供を、私たちの曾遊の地、上総御宿海岸の同じ旅館(植野屋)に大杉さんと滞在中、土地の漁師の家(八積村網元若松家)へ里子に出してしまったのでした」
☆竹久みなみさん(竹久夢二の孫)に聞く 
御宿町駅から西へ向かい、須賀三叉路の旅館植野屋(火災で焼失、空き地)を定宿にしていた伊藤野枝は、与謝野晶子・岡本かの子・神近市子・平塚らいちょう・山川菊枝らの女性解放運動の人たちと親交がった。上野高女の英語教師でアナーキストの辻潤と結婚し、一(まこと、長男)・流二(二男)をもうけるが、大杉栄と不倫関係になり離婚する。栄の愛人神近市子は嫉妬し、栄を刺して重傷を負わせ投獄される。野枝は1男4女を産むが栄と共に甘粕事件で虐殺される。享年28歳。
 ところで、辻潤と野枝の二人の子は竹久不二彦(夢二の二男、みなみさんの父代わりの叔父)の家に青年期、寄宿していたことがあるという。その関係で、野枝と潤の孫、一の長女の野生(ノブ)は、北海道へ入植した不二彦家の養女となり、みなみさんの妹のような関係となる。みなみさんは、叔父の酪農の手伝いに勤しみ、中学・高校も出なかったが、思うところがあって上京し、タイピストなどをやり生活、染色家となる。父は夢二の長男虹之助だが、妻の出奔後は若い女性と暮らし、長女みなみさんは弟の不二彦が養育していた。※野枝の二男流二は、八積の網元若松家へ里子に出される。
 潤と野枝の孫、野生さんは、上智大学スペイン語科でコロンビア国大統領の弟の教授に師事、のちに京都大学造園科に進み結婚、早川姓となる。夫婦でコロンビアにわたり造園業を営むが、夫に死別。娘二人を養いながら画家となる。以後、日本でも個展を開いているが、今年(2025)は、瀬戸内寂聴の支援でかなりの売り上げがあった。寂聴は、1965年4月号より「文芸春秋」誌に「美は乱調にあり」を晴美のペンネームで連載しているのでその関係である。
 みなみさんは、大田区山王小学校では、尾崎士郎の娘一枝と5年生まで同級であったが、学童疎開で別れ別れになった。だが、今でも連絡はし合っている。一枝さんは、俳人中村汀女の息子と結婚した。
 この尾崎士郎は、若いころ御宿町妙音寺に住んでいたことがあり、「人生劇場―愛欲篇」には、夜逃げ同然で寺を出たという。このことは、日経新聞昭和34年8月のエッセー「御宿ざんげ」にも書かれていて、当時の和尚は、悪役に描かれている。また、御宿に住んでいた三宅艶子母子や地酒岩の井にも触れている。

※ 谷内六郎1921~1959東京都生 画家・マンガ家 詩人 1938御宿でぜんそく療養生活、その後もよく訪れ、絵や詩の題材多く、週刊新潮の創刊号より表紙絵を1535回連載。創刊号は御宿風景。
参考文献 谷内六郎と御宿(「芸術新潮」2001,5)
わかったことは、六郎にとって御宿はかけがえのない原点であることだ。週刊新潮の創刊号の表紙絵は、まさにそれを証明しています。また最明寺の裏山から眺めた御宿展望はまことにこの浜辺の村を丁寧に描いていて参考になる。
「週刊新潮」創刊号の表紙の言葉。
上總の町は 貨車の列/火の見の高さに 海がある
乳色の夜明け、/どろどろどろりん
海鳴は低音、/鶏はソプラノ、
雨戸の節穴がレンズになって/丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈
 六郎の詩文には、御宿の浜の香りが漂っている。
兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳におぐれるよ、
上總の海に陽が昇ると、/町には海藻の匂いがひろがって、
タバコ屋の婆さまが、/不景気でおいねえこったなあ
と言いました。 ※「おいねぇこった」=「困った・いけないことだ」の上総方言


※ 最明寺 天台宗の古刹
・北条時頼1514~1122生 鎌倉幕府5代執権宿泊(歌碑)
 御宿(みやど)せし そのときよりと ひととはば 網代の海に夕影の松(地名由来)
 ・伊藤家墓地(黒御影石が見事)。・加藤まさをの墓地あり(旧墓地より移設)。
 ・初代伊八の獅子頭と象鼻の彫刻。・本堂裏に洞窟(やぐら)、裏山には山城跡と横穴墓。
※ 尾崎士郎 1898~1964愛知県西尾市生 作家大長編「人生劇場」の「愛欲篇」の舞台は、御宿である。
・前田河広一郎1888~1957仙台市生 作家「三等船客」「蘆花伝」 後に千葉新聞社記者

※ 戸松醇堂記念碑(観音寺)1850~1917御宿生 伊藤鬼一郎の師(浜小学校長=御宿小前身) 
※ 井上究一郎1909~1999大阪府生 東大名誉教授 フランス文学「失われた時を求めて」全訳他


Ⅳ、鴎外父子をしのぶ(みどりの布施・久保通りコース)

―U,遠山あき(布施小学校)―V,森鴎外・杏奴・類墓地(久保1602 御宿霊園)―V2,旧御宿家政学校校舎―W,荒井栄旧宅(久保矢畑)―X芭蕉句碑(浅間山)―Y,千人塚供養塔(新町共同墓地)―Z,岩瀬禎之生家・内藤多仲設計旧長谷川病院(久保 海女の群像ギャラリィ)―Z2,柳川星巌(久保  詩本草)-Z3,松阪直美居住地(久保)

※遠山あき1917~千葉県大多喜生、作家 「鷺谷」で日本農民文学賞受賞 文学同人誌「槇」主宰 父の転勤で小学3年生の1年間布施小に在学、
※森鴎外1862~1992島根県生、作家 軍医「鴎外全集」「高瀬舟」「舞姫」(各社)他多数。※岬町の鴎荘より御宿霊園に類氏が移す。そのいきさつは、「おすみ文化16」宮田忠郎文にくわしい。
・小堀杏奴1909~1998東京都生 鴎外次女 エッセースト「晩年の父」(岩波文庫)他 
・森類1911~1991鴎外3男 エッセースト、「鴎外の子供たち―あとに残されたものの記録』(ちくま)

※ 荒井栄 1902~1971茨城県生 歌人 千葉大学名誉教授 歌集「白煙」・「秋霖有心」、「言語の意味機能」(法政大学)夜くだちに寝覚めて聞くや磯のへに間なくあやなくおらぶ潮鳴り
※ 芭蕉句碑(浅間山)眼にかかる時やことさら五月不尽 翁 (建立者 元吉蓮蕊清々舎)
※千人塚(新町共同墓地)1601・1642・1655・1677・1703年の大津波犠牲者の供養塔あり。
※岩瀬禎之 1904~2001御宿町生、酒造業 アマチュア写真家、主に海女を撮影し、世界的に評価が高
い。旧長谷川病院舎に「写真集海女の群像・習俗ギャラリー」が常設されている。 なお、岩瀬家の茅葺の母屋には、400年ほど前に岩和田田尻浜に漂着したガレオン船のマスト材が使用されている。
※長谷川病院設計者内藤多仲は、早大名誉教授、東京タワー・通天閣などを手掛けタワー設計の第1人者。
病院設計は珍しく、文化財としても貴重。
※柳川星巌1788~1858 岐阜県大垣生 勤皇の漢詩人。妻紅蘭との房総紀行で御宿久保~勝浦新官を詠う。

※松坂直美1911~2002壹岐市生 作詞家・作家 日本詩人連盟会長 美空ひばり・舟木一夫などの歌詞2000余曲、著書多数

町 内 在 住 者

黒沼ユリ子1940~東京都生(新町MA) 国際的ヴァイオリニスト・エッセースト「メキシコからの手紙」・「メキシコの輝き」(岩波新書)など多※約45年間の海外生活を終えて、御宿に転居。
安藤三佐夫(操)1936~千葉県市原市生(新町MA)作家・俳人 小説「命燃ゆ」(幻冬舎ルネッサンス)句集「鋼の星」(国書刊行会)など編著書100余点。
滝口仲秋1936~いすみ市生(新町)NHK福祉賞矢野賞受賞。「足がだめでも手があるさ」(日本図書)他
斉藤弥四郎1950~福島県桧枝岐村生(新町)民話研究家。「童謡月の沙漠と御宿町」(本の泉社)他多。松田栄範1954~栃木県生(須賀)僧侶 作家「あかね色の雲」(朝日クリエ)

君塚一雄1930~勝浦市生(御宿台より千葉市へ)実業家を経て詩歌句川柳作者「色即是空」他
北岳 登 1948~千葉市生(実谷)僧侶 ジャーナリスト「虚飾のメディア」(ダイヤモンド社)
納富則夫 1930年~佐賀県生「海の食卓」(評伝社)・「親父のアウトドア料理」(山水社)他

乙川優三郎 1953年東京に生れ千葉県に育ち、現在は御宿台在住。作家 直木賞など受賞多。「脊梁山脈」「トワイライト・シャッフル」(新潮社)で御宿町を描く。
※『トワイライト・シャッフル』の舞台
13篇からなる連作小説集。「イン・ザ・ムーンライト」は、仲良しの海女の晩年を浜言葉を交えて描く。「サヤンテラス」は、実在のホテルを舞台にしている。イギリスの養護施設に育った女性が水産研究所に勤める日本人男性と結ばれ海辺の町に落ち着く。夫と死別後に60代のステージピアニストと出会うが、夫との思い出が忘れられない。「ビア・ジン・コーク」は、チェーホフと、ヘミングウェイの小説・言葉と、夫に失踪された読書家の女性の生活とを重ねた作品、「書店も図書館もない小さな街」、「街に一軒しかないスーパー」として海辺の町は描かれている。


リンゴの唄が聞こえる

2015-06-08 11:54:17 | 小説
 執筆活動が続いたので、このところの約1か月は充電期間と自分に言い聞かせて、ぶらぶら、ごろごろしていたが、オーシャンビューのわが家は、ホップもステップもジャンプもする気になれない環境なのである。人間は、あまりにも住み心地がよいと、怠惰になるのである。
 そこで、指導のエンジンをかけることにした。


  リンゴの唄が聞こえる
―山の村の子どもの心に映ったおかしな時代
プロローグ 校庭に防空壕、戦時体制「勝って来るぞと勇ましく~」
1、 勉強する場所がない
2、 女学生の姉の動員―風船爆弾ののり付け
3、 子どもたちのノルマー松の樹脂とり・カラムシ採り、ドングリ拾い
4、 出征兵士の家の手伝い
5、 駅へ隣の庄作さんを送る
6、 北海道と満州からの兵隊さんー土曜日になると~
7、 東京大空襲の焼け出されー担ぎ屋の兄弟の家
8、 ニイヤの葬式―おばぁさんのつぶやき
9、 編隊飛行機の銀の翼と、「日本は負けない!」と家庭訪問をする高級軍人
エピローグ
 

中編小説の手入れ終わる!

2015-03-30 18:41:04 | 小説
 1年がかりの小説が、中断を含めて、やっと今日終わりましたので、あらすじを掲載します。年末までには出版したいと考えておりますのでご期待ください。
あらすじ
重い喘息の転地療養のために外房の漁村に滞在した画家志望の青年星郎は、子どもの頃戦災で火傷をし、指にケロイドを持っていた。そのため「蛙・かっぱ」などとクラスでからかわれ、不登校の辛い体験を持っている。
その星郎が、生まれつき指に障害を持つ網元の家の少女サヨリと偶然出会う。
少女の母は、障害児を産んだ理由から姑に家を追われたので、サヨリは、網元の父と老婆との三人暮らしである。しかも、学校では、心ない餓鬼大将などから「指なし人形」とからかわれ、嫌がらせを受けて登校拒否をしている。その孤独な少女サユリが、いつも貝の笛を吹きながら星郎青年に付きまとう。その理由を知った星郎は、自分の少年時代の体験と重ね合わせて深く同情する。いつもは消極的な星郎が、妹のように愛するサヨリを救うために学校に乗り込み、子どもたちから思わぬ大歓迎を受け、「絵の先生」として人気者になる。
ところが、サヨリのうちのお婆が体調を崩し、小学三年生の身で看病をする。それを知った星郎は、サヨリの母を実家に呼びに行き、両家から感謝される。
夏の終わりにサヨリが波にさらわれ、星郎は必死で救助するが、体力を消耗して死亡する。成長した子どもたちは、星郎先生の思い出を懐かしみ、村人に呼びかけて、「しのぶ集い」
を企画する

1月尽(季語)

2015-02-01 11:44:35 | 小説
 年末の姉の急死と、1月の妻のインフルエンザ罹患と重なって、傘寿の感想も慌ただしい中に消滅してしまった。しかも、イスラム国と言うテロ集団の残虐性をここ数日間、直視させられて心が萎えそうになった。
 小説の執筆も滞りがちだ

 
 鎮魂の文をつづりて 冬の月 
 海猫の乱舞に姉は逝きにけり
 冬鴉 泣くな泣くなよ 泣き笑い
 純白に反り返る骨 氷雨降る
 白鳥の背なに乗りけり 小さき姉

 病床の妻に香れる野水仙
  森のケーキ屋さんのお見舞い

  ※このケーキ屋さんは、房総丘陵の南端、勝浦市市野川の道路沿いにある小さな洒落たお店で、味は素晴らしく、昨年は全国コンクールで優勝している。わたは、このお店をモチーフにした童話を書こうと考えている。

 そう言う訳で、じっくりと寒仕込みを味わう心境にならないままに1月はすぎて、今日からは2月だが、ニュースによるとイスラム国という残忍な集団によって、罪もない日本人が昨夜虐殺されたという。もうこれ以上の被害が及ばないことを祈るばかりだ。
 今日の陽光に輝く網代湾に本当の春が訪れることを願う。 、

伊豆の寺院めぐり=お万様探訪

2014-11-28 17:37:25 | 小説
 命燃ゆ』ゆかりの地、伊豆を23名で廻って来ました。
 嬉しかったのは、来春、吉奈温泉東府や旅館が、養珠院お万の方の銅像を建てるというお話でした。ぜひ都合がつけば除幕式に出かけたいと思います。また、善名寺のご住職が、お万様の位牌や、玄関の欄間の彫刻の家康にお万様が、赤子の頼宜を見せているところなどを説明して下さったことです。
 三島の玉沢妙法華寺の拝観は、そのスケールと玄関の砦のような造り方に圧倒されました。しかも火災の前は、さらに数倍のスケールであったというのです。庭の紅葉も見事で、良い時に訪れたこともラッキーでした。
 残念なお寺は、河津の乗安寺と修善寺の妙国寺です、この2寺もお万様のゆかりの深い寺院なのですが、あまり関心がないようで、参拝者にはアッピールするものがありません。また、北条屋敷跡も整備されていませんから訪れる人には物足りません。
 河津桜の観光地としては有名ですが、歴史への取り組みはかなり軽いように感じられます。
 できれば、拙著を参考にしてもらいたいと思います

 

厳しい感想届くー小説「貝の笛」

2014-11-01 18:34:18 | 小説
 90枚ほどの青少年から成人向けの小説を執筆したので3社に送りました。感想をいただき、出版していただければと考えたのです。
 1社は、文庫で自費出版ならと言うお話でした。また別の社の知人の編集者からは、現代の厳しい社会状況を書き込まないと読者に受けないという電話がありました。もう1社の児童書の出版社からは、社長さんと、ベテラン編集者の2氏から感想が寄せられました。この作品の読者対象が広すぎること、現代の状況を反映していないことが欠点で、出版は出来ないが、作品としては文章や筋などは水準を越えているという感想でした。
 いずれも貴重な時間を割いてくださり、感想を下さったことを感謝したのであります。
 私としては、諸氏の感想を踏まえ、時間をかけて再度手入れをして世に出そうと考えました。
 その前に執筆をする構想もありますので熟成時間をかけようと思うのです。、

勝浦ロータリークラブでお万の方を語る

2014-10-17 16:59:13 | 小説
 徳川家康の側室で、紀州・水戸家の藩祖の母、養珠院お万の方は、大奥での呼び名は、「蔭山殿」です。それは、母が伊豆河津の領主蔭山氏に後妻に入ったからです。
 現代ですと、側室は、あまり聞こえがよくありませんが、戦国の世では、後胤をもうけるのが、女性の至上命令ですから正室か側室化は論外のことです。ことに家康は、若くして正室2名をを失い、あとは側室に後継の男子をもうけさせるか、大事なことでした。
 50歳で18歳のお万の方を大奥に入れ、数ある側室の中でもっとも寵愛したのです。だが、二人の男子を得たのは関ヶ原の戦い以後ですから10年の歳月がたっているのです。
 二人の男子を設けたお万の方の権勢は並ぶところがなかったはずです。
 そういう女性が、勝浦城で生まれたことは、郷土の誇りですから地元のロータリークラブでスピーチをすることは『命燃ゆ』の作者として、喜びなのです。
 お万の方の出生の地は、勝浦のほかに母方の祖父母の住む小田原と、伝説の残る伊豆河津の2か所がありますが、やはり勝浦が妥当でしょう。
 私は、初めに子供たちに絵本「お万様物語」を刊行したらどうかと提案させていただきました。ぜひ実現していただきたいのです。
 先日、いすみ市にお住いの方が来宅されて、旧東村大練(あずまむら・おおねり)地区には今も正木姓があり、言い伝えでは、大多喜城の正木大膳の末裔と伝えられている。古文書や刀剣などもあった、という。だから、我が家はお万の方とつながりがあるという。
 戦国の世には、地方の小領主たちは、滅びることが多く、その家臣たちは、土着豪族として生き残ったのであろう。正木姓が残っていて、言い伝えがあるということは、まんざら間違ってはいないであろう。
 ただ、正木姓は、もともとは三浦姓であったようだからいつの時代の名残なのかは考えてみると良い。
 スピーチは、持ち時間では、とても無理なテーマなので、来春に続編をやることになりました。地域に根差す歴史伝説は、大切にしなければなりませんから喜んでお引き受けしたのであります。

中・短編小説完成

2014-09-24 15:58:56 | 小説
 夏から秋へかけて、2作品を仕上げました。草稿は、このブログにも掲載しましたので、お読みくださった方もいらっしゃるでしょう。
 かなり手を加えたので、自分なりには、満足した作品になりました。来春には、出版しようと考えていますので、その折には書店でご注文下さい。
 タイトルは、短編が『貝の笛』、中編が『モデル茉莉のルーツ幻想』です。両作品とも在住地の漁村の風土と歴史を踏まえていますが、フィクションです。
 一休みして、また次の作品に取り掛かろうと考えています。