文 美 禄 ( bunbiroku )

美禄にはいままで一切縁が無かった。かといって、決して大酒飲みでもないし美酒を求めてきたこともない。忘備録になればと。

「 ツワブキ 」 と 「 ユキノシタ 」 と 「 アシタバ 」

2016年12月05日 15時17分58秒 | デジカメ_花
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 御蔵島の道路のわきに 「 ツワブキ 」 と 「 ユキノシタ 」 が、いたる所で咲いていました。 「 アシタバ 」 も同様に、あちこちで 「野生の明日葉 」 を見かけ、採って帰ろうかと思いましたが、いかんせん3泊の荷物でいっぱいなのと、ヘリコプターは5kg以上の手荷物 1kg当り 340円の超過料金があるため、パスしました。 大島の港でも売ってましたが、もう疲れていて、荷物を増やす気分ではありませんでした。 12月2日 ( 2100歩 )、3日 ( 16000歩 )、4日 ( 13000歩 ) と、万歩計は驚く数値でした。 しかも勾配 5~12 % 程もある林道が主な歩行場所でした。


小林秀雄の言葉 ( その10 )

2016年12月05日 11時01分13秒 | 小林秀雄
 宮本武蔵の独行道のなかの一条に 「 我事に於て後悔せず 」 という言葉がある。 菊池寛さんはよほどこの言葉がお好きだったらしく、 人から揮毫を請われるとよくこれを書いておられた。 菊池さんは、 いつも 「 我れ事 」 と書いておられたが、 私は 「 我が事 」 と読む方がよろしいのだろうと思っている。 それは兎も角、 これは勿論一つのパラドックスでありまして、 自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、 世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。 今日の言葉で申せば、 自己批判だとか自己清算だとかいうものは、 皆噓の皮であると、 武蔵は言っているのだ。 そんな方法では、 真に自己を知る事は出来ない、 そういう小賢しい方法は、 寧ろ自己偽瞞に導かれる道だと言えよう、 そういう意味合いがあると私は思う。 昨日の事を後悔したければ、 後悔するがよい、 いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。 その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、 批判する主体の姿に出会う事はない。 別な道がが屹度あるのだ、 自分という本体に出会う道があるのだ、 後悔などというお目出度い手段で、 自分をごまかさぬと決心してみろ、 そういう確信を武蔵は語っているのである。 それは、 今日まで自分が生きて来たことについて、 その掛け替えの無い命の持続感というものを持て、 ということになるでしょう。 そこに行為の極意があるのであって。 後悔など、 先に立っても立たなくても大したことではない、 そういう極意に通じなければ、 事前の予想も事後の反省も、 影と戯れる様なものだ、 とこの達人は言うのであります。 行為は別々だが、 それに賭けた命はいつも同じだ、 その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、 かくの如きが、 あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。 これは彼の観法である。 認識論ではない。  小林秀雄 「 私の人生観 」 P.36


ここはどこ? ( その7 ) の答え

2016年12月05日 05時31分37秒 | デジカメ
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 答えはもちろん御蔵島で、 写真は 「 御蔵島小中学校 」。 御蔵島村の人口が 320 人程ですから、生徒数は小中学校合わせて 18人という学校です。 お椀を被せたような形の島で、海岸とか砂浜のようなところはなく、港も岩壁に沿って、かなり急な坂道を作って、ようやく作った感じです。 昨日、帰りのヘリの前に、歩いて降りてみましたが、本当にきつくて、登りは息が上がり、何度も休んでようやく戻りました。 坂の途中に、 「 イルカの見える丘 」 があります。 集落も坂道や階段だらけで、村内は危険なため、自転車使用禁止です。 ( 村外からの観光客等も、もちろん持ち込んでも乗れません。 )