文 美 禄 ( bunbiroku )

美禄にはいままで一切縁が無かった。かといって、決して大酒飲みでもないし美酒を求めてきたこともない。忘備録になればと。

小林秀雄の言葉 ( その61 ) 「 歴史 」

2019年01月01日 05時53分06秒 | 小林秀雄
 歴史を知るというのは、みな現在の事です。現在の諸君のことです。古いものは全く実在しないのですから、諸君はそれを思い出さなければならない。思い出せば諸君の心の中にそれが蘇って来る。不思議なことだが、それは現在の諸君の心の状態でしょう。だから、歴史をやるのはみんな諸君の心の働きなのです。こんな簡単なことを、今の歴史家はみんな忘れているのです。「歴史はすべて現代史である」とクローチェが言ったのは本当のことなのです。なぜなら、諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではないからです。それは史料の中にあるのではない。諸君の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。
 ―小林秀雄「 講義 文学の雑感 」より―

※「日本国紀」副読本の中で、有本氏の言葉に『 百田さんの通史は「日本史」ではなくて、まさに「私たちの歴史」なのです。 』とありましたが、それで思い出したので、上記の小林秀雄氏の言葉です。久しぶりに、小林秀雄氏の言葉を掲載しました。


小林秀雄の言葉 ( その1 ) ※ 再度掲載

2017年09月15日 05時28分02秒 | 小林秀雄
 私は本屋の番頭をしている関係上、学者というものの生態をよく感じておりますから、学者と聞けば教養ある人と思う様な感傷的な見解は持っておりませぬ。ノーベル賞をとる事が、何が人間としての価値と関係がありましようか。私は、決して馬鹿ではないのに人生に迷つて途方にくれている人の方が好きですし、教養ある人とも思われます。
「読書週間」21-27 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.170)



小林秀雄の言葉 ( その60 )

2017年08月15日 07時30分44秒 | 小林秀雄
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も亦旅人なり」と芭蕉は言った。恐らくこれは比倫ではない。僕等は歴史というものを発明するとともに僕等に親しい時間というものも発明せざるを得なかったのだとしたら、行きかう年も亦旅人である事に、別に不思議はないのである。僕等の発明した時間は生き物だ。僕等はこれを殺す事も出来、生か
す事も出来る。過去と言い未来と言い、僕等には思い出と希望との異名に過ぎず、この生活感情の言わば対照的な二方向を支えるものは、僕等の時間を発明した僕等自身の生に他ならず、それを瞬間と呼んでいいかどうかさえ僕等は知らぬ。従ってそれは「永遠の現在」とさえ思われて、この奇妙な場所に、僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。
  「 ドストエフスキイの生活 」 11 - 一一七 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.81)



小林秀雄の言葉 ( その59 )

2017年08月14日 08時07分41秒 | 小林秀雄
 子供が死んだという歴史上の一事件の掛替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替えの無さというものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る、恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、 この時何事が起るかを仔細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智慧を読み取るだろう。
  「 ドストエフスキイの生活 」 11 - 一一五 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.81)



小林秀雄の言葉 ( その58 ) ※久しぶりに

2017年08月07日 20時18分24秒 | 小林秀雄
 歴史は繰返す、とは歴史家の好む比倫だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等は、 思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねたであろう。後にも先きにも唯一回限りという出来事が、どんなに深く僕等の不安定な生命に繁っているかを注意するのはいい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に憧れる。あらゆる人間に興味を失う為には人間の類型化を推し進めるに如くはない。
    「ドストエフスキイの生活」 11 - 一一四 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.80)



小林秀雄の言葉 ( その57 )

2017年05月11日 11時35分41秒 | 小林秀雄
 凡ては永久に過ぎ去る。誰もこれを疑う事は出来ないが、疑う振りをする事は出来る。いや何一つ過ぎ去るものはない積りでいる事が、取りも直さず僕等が生きている事だとも言える。積りでいるので本当はそうではない。歴史は、この積りから生れた。過ぎ去るものを、僕等は捕えて置こうと希った。そしてこの乱暴な希いが、そう巧く成功しない事は見易い理である。
    「ドストエフスキイの生活」 11 - 一一〇 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.79)



小林秀雄の言葉 ( その56 )

2017年04月29日 05時28分24秒 | 小林秀雄
 末だ来ない日が美しい様に、 過ぎ去った日も美しく見える。 こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、 歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、 現在というものを理解する事は、 誰にもいつの時代にも大変難かしいのである。 歴史が、 どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、 そのままを信じて、 これを現代と比べるのはよくない事だ。 その時代の人々は又その時代の難かしい現在を持っていたのである。 少くとも歴史に残っている様な明敏な人々は、 それぞれ、 その時代の理解し難い現代性を見ていたのである。 あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない。
      「 現代女性 」 11-九四 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.79)



小林秀雄の言葉 ( その54 )

2017年04月13日 15時24分37秒 | 小林秀雄
 決断だとか勇気だとか意志だとかを必要とする烈しい行為にぶつかる機もなく、 又そういう機を作ろうとも心掛けず、 日々を送っている人間は、 心理の世界ばかりを矢鱈に拡げて了うものだ。 別に拡げようとするのではないが、 無為な人の心は、 取止めもない妄念や不逞な観念が、 入乱れて棲むのに大変都合のいい場所なのである。
      「 現代女性 」 11-九二 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.78)



小林秀雄の言葉 ( その53 )

2017年04月09日 19時19分49秒 | 小林秀雄
 書物の数だけ思想があり、 思想の数だけ人間が居るという、 在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。 何故人間は、 実生活で、 論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知し乍ら、 書物の世界に這入ると、 論証こそ凡てだという無邪気な迷信家となるのだろう。 又、 実生活では、 まるで違った個性の間に知己が出来る事を見乍ら、 彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てる様になるのだろう。 或は又、 人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知ってい乍ら、 自分とやや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思い込むに至るか。
 みんな書物から人間が現れるのを待ち切れないからである。 人間が現れるまで待っていたら、 その人間は諸君に言うであろう。 君は君自身でい給え、 と。 一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、 それ以外の忠告を絶対にしてはいない。 諸君に何んの不足があると言うのか。
      「 読書について 」 11-八八 小林秀雄 (人生の鍛錬 P.77)