「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.45 蛇頭国サウジ(p495~)

2012-12-14 22:48:34 | 中東
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 ワッハーブ・クールの源流たるサウジは何十年間もテロルを醸造してきた。PLOに資金援助してきたし、9・11の実行犯は大半がサウジ人だった。遂に米国の圧力により実態調査が行われることになったが。
 サウジ王室は夷教国のムスリムを支援するため、1500以上のモスク、202の大学、210のイスラム施設、2000近くのマクタブを建設してきた。サウジ政府は他国のイマームにも1000~4万ドルの報奨金を出し、多くを自らのワッハーブ・クールの燐子とした。他国も同様のことを行っているが、20年間で870億ドルを支出したサウジに敵う国はない。南アジアや極東アジアでもこうしたワッハーブ・クールなイマームが活動している。

 ここで、イスラム4大法学派(ハナフィー、シャーフィイー、マリーキ、ハンバリ)の原則を確認したい。ワッハーブ・クールの燐子は多くがハンバリ派の徒だ。
 西洋マスゴミや「穏健派」はサウジ式のワッハーブ・クールをスンニ派神学ファッショとか保守サラフとか「守旧イスラム」と呼ぶ。アルカイダの思想はサラフ・ジハードとでも呼べようか。しかし、実行者自身は「ムワヒドゥーン」と呼ばれるのを好み、穏健派の解釈を嫌っている。
 ワッハーブとは18世紀、今日のサウジで活躍したウラマーの名前に由来する。「偉大なる預言者様に帰れ」と唱える彼の原理主義的再解釈に従うと、嫌夷教徒流はアッラー的にカッコよい態度であり、民主主義は「20世紀の紅世なる大戦の根源」で、夷教徒式発想を全拒絶するのは当然ということになる。
 ワッハーブ・クールはクウェートやUAE等でも結構強い。ムワヒドゥーンたちはその理念が一宗派の枠で括られることに反発し、サラフィー思想と呼ばれるのを好む。
 ムスリム同胞団などが奉じるサラフィー思想は元来、ワッハーブ・クールより近代的とされる。ただ、イスラム自体への近代的解釈を拒絶する点では共通だ。近年では同胞団とサウジ王室の連携強化により、融和して汎イスラム連合を形成する動きも活性化している。
 サラフィー主義は黎明期の70~80年代とは様相を異にしてきている。その思想では資本主義や社会主義は勿論、経済や政党などといった西洋の根本的価値観までが拒絶される。代わりに、イスラム的政治計画でなくシャリーアの宣布が真摯にダーワ(呼びかけ)される。
 サラフィーによれば、歴史は預言者ムハンマドに始まり、木鐸は預言者の3世代の内に出揃う。その後のウラマーはあくまで「中興者」に過ぎない。ただ、その思想の系譜は預言者の時代から続いてきた訳ではないようだ。

 サラフィー思想では暴力ジハードは夷教徒の占領軍に対してのみ許され、イスラムを称する政権に発動してはならぬとされる。また、非暴力での改革運動が必要でも、内戦(フィトナ)は駄目だとする。(サルマン・アッラウダ)
 ただ、抑圧政権を倒すよう呼びかける者もいる。その筆頭がエジプトのムスリム同胞団の「原理の道標」サイード・クトゥブだ。クトゥブはサダトらを暗殺した罪で結局収監された。(ラーベ・アル・マドハリ)

 近年ではアルカイダのサラフィー思想がジハードの名の下で文民を討滅し、サウジや同胞団にまで牙を向ける。サラフィー同士の対立も酷い。しかし、ここで重要なのは、彼らの影響力を矮小化しようとするイスラム謝罪主義者が西洋で展開するマスゴミ工作だ。

 非公式網と行動するサラフィー主義
 アラブ世界を詳細にみていくと、サラフィー思想を統一的に動かす階層的組織はどこにも存在しないことが分かる。誰でも「俺はサラフ(眞道)を顕現しているぞ」と自称できる分権的な思想なので、サラフィーも弟子を獲得するのに忙しい。つまり、サラフ細胞はどこにでも出現しうるという訳だ。
 「行動するサラフィー」たちは先祖と同じく、友人関係などの非公式網を使って組織を拡大する。そのため、友人が一気にサラフィー化することもあるのだ。その連帯感は極めて高い。

 イスラム謝罪主義者とワッハーブ・クール
 イスラム謝罪主義者によると、ワッハーブ・クールを実践しているのはサウジやタリバンなどの「ごく一部の邪世の徒」に過ぎない。しかし実際には、多様な形でワッハーブ・クールの燐子たるサラフィーたちが運動している。先に挙げた地域以外でも、アルジェリア、モーリタニア、ソマリア、パキスタン、インド、中東、ボスニア、コソボ等にサラフィーたちが跋扈しているのだ。
 
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2.35 エジプトでの教科書ジハード (p449~)

2012-12-07 22:40:01 | 中東
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アンドリュー・ボストム


 出典

 3人のムスリム青年が別の青年で「打ち首ごっこ」をする動画がイスラム急進系のシェイク・アブー・ハムザの電頁を通して流れた時、大きな反駁が起きた。しかし、エジプトの児童用教科書に含まれる夷教徒への憎悪教育に比べれば、これは大したものではない。ジハード関連の打ち首を日常系の出来事のように記す描写をみてみよう。
 
 神学(2001年版)
 偉大なる預言者様と聖コーランは、最大の使命についてこう唱えています。「敬虔なる者をジハードへとみちびき、不信心者を打ち首にし、力をうばって捕虜にし、眞心からしたがわせることこそ、ムスリムの使命であります」アッラーはこう仰せになりました。「戦場で不信心者と会ったら首を斬れ。降伏したら一まずしばりつけ、身代金を取り立てるなり好きにしろ」と。

 別の文書には「ひざを打ちつけよ」ともある。現代人からみると慄光するが、これが1300年間続いてきたジハードの真名なのだ。そこに曖昧模糊な処はない。訳者いわく

 教科書内のジハードは軍事演習の一環だろうか?内地も含め、夷教徒や不信心者への敵対が煽られている。内外を問わずジハードは絶対であり、これに参加せぬ者は糾光される。
 
 19世紀カイロやルクソールで過ごした学者E・W・レーンも「エジプトの教育内容には驚愕する。夷教徒や異端ムスリムに対する呪詛が溢れている」と述べる。その中にいわく、

 アッラーよ、呪光されし悪魔より我が身をお救い下さい。アッラーよ、慈悲深く情熱に溢れ、全真名の顕現者、使徒の守護者にして欧亜のスルタン、地中海と黒海の大ハーンであられ、偉大なるマフムード様の御子として。アッラーよ、全セカイの領導者よ、どうか我らの側に立ち、野蛮なる夷教徒の討滅に力をお貸し下さい。そして、夷教徒を孤児とし、奴らの住居、兄弟、嫁を我らのものにして下さい。全セカイの森羅万象を知悉するアッラー様。

 1949年、イスラム学者のS・D・ゴイステンはアラブ世界についてこう警告した。

 イスラム火病主義が公然と煽動されている。西側の生活様式に染まっていた作家が競ってイスラム世界の傑雄や美徳を語り、教養人は「東方の青年学士器官」と自称する雑誌「新東方」の下へ結集する。そこには「イスラムを火病的に死守しよう。ムスリムたる者とのみ友誼を結び、邪なる不信心者とは徹底して縁切りしよう」とある。

 この風潮は10年後も顕現した。レバノンのアントワーヌ・ファッタル法学部教授が嘆いたように、シャリーアの下でムスリムとジンミーは完全に隔離されたまま生活を送れるようになった。アズハルでもナジャフでもザイトゥーンでもジハードはセカイの末劫まで続くと教えられている。
 これは50年後の今も続いている。西側諸国の領導者は経済制裁を臭わせてでも、憎悪天翼なるイスラム諸国の「教育」措置を封絶させねばならぬだろう。

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2.33 生き残るために…アラブ世界よりエクソダスするキリスト教徒(p443~)

2012-12-06 22:40:31 | 中東
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アミラ・エル・アール他


 出典不明
 
 イスラム原理主義のテロルが中東のキリスト教徒を脅かしている。存亡の危機に立たされたキリスト教徒は決起か逃散かの瀬戸際に立たされている。
 新生バグダッドでの話をしよう。ある朝、五人の青年が起亜の小型車に乗って350km離れたクルド人地区へ避難していた。カルディア系カトリック教会の神学生たちだ。イラクでカトリックが無事でいられる場所はもうそこしかなかった。8月中旬から4人の司教が拉致され、遂には管理役のサミ司教まで誘拐された。そこで大司教のエマニュエル3世がバグダッドの宣教施設を他所へ移転させることにした。大司教を一人残して、弟子たちはバグダッドをエクソダスした。
 
 オスマン帝国以来の歴史
 イラク最初のカトリック系神学校ができたのはオスマン帝国時代だ。イラク独立後、モスルからバグダッドに移転し、[湾岸戦争中の]1991年ドーラに神学・哲学聖書学校ができた。この学校はカルディアの命運をなぞるかのように結局15年で閉鎖に追い込まれた。
 キリスト教徒はアラブ世界で2000年間暮らしていた。過去の大討滅期と比べればまだ穏健なのだろうが、それでも一部の国では生存の危機が迫っている。ローマ教皇でさえ、中東の「小勢」なる敬虔者が「微明なる闇」の中にいると認め、権利拡大を訴えた。
 中東のキリスト教徒に関する統計は僅少だ。政情に配慮している面もある。イラクで少数派のスンニ派だったサダム・フセインは統計調査を嫌ったし、エジプトでもコプト教徒の数は500~1200万まで流動する。
 近年の政変もキリスト教徒の減少に拍車をかけている。ヨルダンでは1967年の六日間戦争から20年間で数が半減した。2003年のイラク戦争の後、イラクのキリスト教徒はどんどん国外へ移住している。
 
 巨富
 中東のキリスト教徒は基本的にムスリムより聡明で富裕だが、出生率は低い。移民の波が何十年も続いた結果、彼らの大半は西洋諸国に親戚がいる。出国者の大半は医師や技師、弁護士などの精鋭階級だ。近年の移民は世俗主義の衰退とイスラム主義の昂揚によるところが大きい。
 「アラブ社会主義」の看板政党バアス党を1940年結党したのはシリア系キリスト教徒のミシェル・アフラックだった。六日間戦争で大敗したエジプトのナセルはカイロ郊外の聖母マリアの遺跡に詣でた。パレスチナのアラファト議長もベツレヘムの聖墳墓教会で一緒にクリスマスを祝うよう主張していた。
 しかし、キリスト教徒だったイラクのタリク・アジズ外相もアラファトの教育相ハナン・アシュラウィも消えた。ムスリム同胞団やハマスの選挙での勝利、イラクでのスンニ派とシーア派の械闘をみるに、中東でキリスト教徒が政治力を持つことはなくなったようだ。

 被差別の歴史
 エジプトのコプト教徒は最低500万人と中東最大のキリスト教小勢を構成する。福音書のマルコを聖人とし、西暦284年を元年とする暦も持つこの宗派は、[2012年まで]高齢のシェヌーダ3世総主教に率いられていた。コプト週刊紙ワタニのユスフ・シドハム編集長によると、今日では1970年代のような械闘はないが、瘴気なるイスラム原理主義との闘争が深刻化している。
 [旧]ムバラク政権期の2005年の総選挙で、[絶対与党だった]国民民主党の議員の内、コプト教徒は2人しかいなかった。閣僚級のコプト教徒が財務相になっているだけだ。これが宗派に基づく公正な選考結果だろうか。
 ナポレオンの軍隊がエジプトに入寇した時も、コプト教徒への差別はあった。女は青の靴と赤の靴を一足ずつ履かねばならず、男は後ろ向きにしか騎乗できなかった。フランス軍はこれをみて、「コプト教徒は第三階級」と診断したものだ。今日でも、ムバラクが関連法を廃止するまで、コプト教会の修築・新築許可が下りるかどうかは一大問題だったのだ。ムスリムと登記されるコプト教徒もいた。
 ヒジャーブを拒否する女は恒常的に嫌がらせを受け、男の上司も宗派ゆえに不快感を味わう。2005年10月には、イスラムへの改宗を後悔するコプト教徒の演劇を発端に、アレクサンドリアで暴動が起きた。それでも、毎年1000人程度のコプト教徒がイスラムに改宗している。

 レバノン・マロン派の憂鬱
 アッシジの聖フランチェスコはかつて、「神は言われた、汝は狼の中の子羊として宣教へ赴く。決して喧嘩・論争する莫れ」と言った。この言葉がムスリムの改宗活動で用いられてきた訳だが、レバノン山岳部の砂岩宮殿からベイルートへやってきて、喧噪の前に帰郷したマロン派のナスラッラー・スフェイル司教の活動にはその影もない。確かに砂岩宮殿でスフェイルはヨハネ・パウロ2世の肖像画を前に政治家の相談を受けている訳だが、既に疲労困憊したスフェイルの口から出てくるのは、レバノンを戦場化したシリアやイラン、それに国家内国家を形成したヒズボラへの批難文句だけだ。スフェイルは「我らは中東一のちび国家なり」と嘆く。
 キリスト教徒の人口流出は止まりそうもない。内戦期の73万人に加え、今夏にも10万人が国を逃れた。スフェイルは「有り得ぬだろうが、もしヒズボラが政権を握ったら、より多くのキリスト教徒が出国するだろう」とする。12世紀以来カトリックの傘下に入ったマロン派に絶滅の危機が迫っている。

 シリアとイラクのクルド人地区のみが希望
 多くのキリスト教徒が希望の地としているのがシリアだ。イラク戦争後、多くのキリスト教徒がシリアへ避難した。バアス党の超宗派的性格が久々に見直されたのだ。12歳の娘をカルディア系教会への襲撃で失った土産物商人も、シリアでは同胞とみて貰えると語る。
 シリアでは、バアス党内にも政府内にもキリスト教徒の党員が多い。バッシャール・アサド大統領は最近、「父祖の地は万民の者、されど宗教は神のもの」と述べた。これはイスラム色の濃い国では不可能だ。サウジではキリスト教の国民は一人もいないが、実際には相当数のキリスト系労働者がアフリカやインドからやってきている。しかし、彼らのために教会を建てると、厳罰に処される。聖書や十字架は頻繁に没収の対象となる。
 他国はまだ穏健だが、西側諸国の視点で見ると、信仰の自由は存在しない。非合法だったシリアのムスリム同胞団は国内のキリスト教徒を「無神体制崇拝者ども」と呼び、糾弾する。
 北イラクのクルド人地区もキリスト教徒の自由度が高いところだ。首府のアルビルでは最近、自治区東部のニネヴェ州をアッシリア系等のキリスト教徒の自治区とする案が討議されている。ここは現在クルド系のペシュメルガ戦隊に支配されている。
 民兵団ハムダニヤ集団はイラク国内の教会警備に当たっている。モスル近郊のバルタリャでは、キリスト教徒の入植活動が活発だ。教会撮影は禁止だが、ムジャヒディーンの暴虐を考慮すればやむを得ない。
 冒頭の青年たちは銃兵の厳戒の下、防壁聳えるアルビルの聖ペテロ聖堂で入寮式を行った。クリスマスの典礼で用いられたのは古代言語のアラム語ではなく、アラビア語だった。バグダッドからの避難民が400人もいたからだ。シザル神父の締めの詞は「アッラーの恩寵あれ」だった。
 
 34章は省略
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2.32 中東のキリスト教徒(p439~)

2012-12-05 22:58:24 | 中東
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 中東のキリスト教徒の起源はどこにあるのか?彼らはイスラム到来後も決して改宗しなかった夷教徒の末裔たちだ。彼らは今どうなっているのか?迫害されている訳だが、それは2つに大別できる。
 一つ目は個人への人権侵害だ。サウジやイランなどではダヴィデの星を掲げるだけで逮捕され、酷い場合は処刑される。キリスト教に改宗したムスリムは時に賜死される。
 二つ目は小社への弾圧だ。キリスト教徒の活動は法制により封絶される。より酷い場合は物理的懲罰が駆使される。エジプトなどでは制度面での抑圧に加えて、イスラム系の部曲たちが頻繁に夷教徒へのポグロムを展開する。
 スーダンでは南部の黒人がジハードの対象とされ、レバノンではシリア系イスラム勢力によるキリスト教徒討滅作戦が進行する。イラクのアッシリア人も同様だ。

 奴隷化行為
 奴隷化活動も活発だ。スーダンでは北部の原理主義政権により60~100万人の黒人奴隷が南部より調達されている。

 キリスト教の頭目を抹殺するイラン
 45年前キリスト教に改宗したメフディ・ディバジュは1993年、改宗した罪を問われ、死罪判決を受けた。ディバジュも判決に抗議したハイク・メフルも翌年賜死した。
 1998年7月、アルジェリアのGIAはベルベルの歌手ルネ・マトゥブを殺害し、「イスラム最大級の敵を滅した」と犯行声明を出した。

 中東のキリスト教徒の数値
 中東一キリスト教徒が多いのはエジプトで、迫害を受けながらも1000~1200万人(総人口の5~6分の1)のキリスト教徒がいる。次が南スーダンで約600万人。レバノンでは国内に150万人、国外に600万人いる。イラクにはクルド人地区を中心にアッシリア系の者が約100万人、シリアには120万人程度のキリスト教徒がいる。他国にもキリスト教徒が相当数いるが、サウジには全く存在しない。
 パレスチナの場合はどうか?[東]エルサレムには1947年時点で2万8000人のキリスト教徒がいたが、六日間戦争後の1967年には1万7000人に減った。キリスト教徒の移転した家にはヘブロンのムスリム系アラブ人が入っていた。パレスチナ領内にある聖誕地ベツレヘムでは英国統治期8割がキリスト教徒だったが、今日8割を占めているのはムスリムだ。ヨルダン川西岸のパレスチナ領などでのキリスト教徒衰滅作戦を西洋マスゴミは隠蔽し続けている。キリスト教徒の脅威はイスラエルではなく、ムスリムの隣人と自治政府なのだ。彼らは生き残るために、「シオニスト体制」への糾弾と自治政府への賛美を続けている。
 エルサレム・ポストが指摘するように、1990年代エルサレムのキリスト教地区の宿泊設備をユダヤ人が買収しようとした時は大騒ぎになったが、ベツレヘムの人口変動に関して西洋マスゴミは頬被りだ。ファタハの仲間がベツレヘム近くのアイーダ修道女施設を荒光し、落書きしたとしても。
 聖誕の地マンジェル広場はムスリムによる金曜説教の場と化しており、嫌キリスト流の声が飛び交う。ある少年はムスリムこそファッショと呼ぶ。10~12人も子をなすムスリムの家族が夷教徒たちをイスラムの大海に呑み込もうとしている。緊張は高まっており、クリスマスを共に祝うムスリムなどまずいない。
 どうすればキリスト教徒を救えるのだろう。

 ワリド・ファレス世界黎巴嫩会議議長「猶督同盟を結ぶほかに中東のキリスト教徒が生き残る術はありません」
 
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キリスト教迫害の生ける伝統(p435~)

2012-12-04 22:47:01 | 中東
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 預言者は最期にアラビア半島北部タブークのビザンツ軍にジハードを仕掛けようとしていた。後継カリフたちは遺志を受け継いでジハードを多方面で展開し、1453年遂にコンスタンチノープルを征服した。1683年ヴィーンで大敗して以降、ジハードの波は停滞したが、20世紀イスラム思想が復興して事態は悪化してきている。19世紀末のオスマン帝国で起きた事態が復活するかもしれない。

 ある夜、家に帰った夫がこれまで仲良くしてきた村のラーヤ達を「紅世のスルタン」から殺光するよう命令されたと言ったのです。私は激怒しました。そんなことをしたら天罰が落ちるだろうと。しかし、夫は私の制止を聞かず、本当に御自らラーヤ達を殺光したのです。

 トルコ国内のキリスト教徒の数は1920年の15%から90年間で1%にまで減少した。シリアでは同時期に3分の1から1割になった。聖誕地ベツレヘム[パレスチナ領]でも1948年85%いたキリスト教徒の数は今日12%だ。
 過去の歴史は実に重い。ビン・ラディン賛美の末に英国から追放されたシェイク・オマル・バクリ・ムハンマドは2002年、「カリフ国家なくとも、夷教徒を討滅し、ジンミー化するために邁進せねばならぬ」と述べた。1999年、パレスチナ自治政府で宗教啓蒙部門に務めるシェイク・ユセフ・サラメーはムスリム支配の下の夷教徒ジンミー化計画を礼賛した。2000年の第二次インティファーダ以降、この感覚は全土に浸透してきている。
 ムスリムは子供に嫌夷教徒流を植え付け、ジハード精神を叩き込む。最近も、シェイク・マルズーク・サレム・アル・ガンビ師はマッカでこう語った。

 シャリーアの下でジンミーはジズヤを払い、偉大なる預言者様の定められた条件に従うことでのみ生存を許される。即ち、教会を新設・再建せず、ムスリムに慈善し、ムスリムの格好をせず、武装せず、騎乗せず、葡萄酒を売らず、夷教徒とすぐ判別できる服装をし、ムスリムを一切批判せぬ限り。ジンミーが上の条件を一つでも破棄した場合、ムスリムが庇護する覚えはない。

 この感覚が今日ジハーディによって復興されようとしている。2008年3月、カタール最初のカトリック教会ができたが、十字架などを飾ることは忌避された。ムスリムを刺激せぬためだ。カトリック国フィリピンでも、ミンダナオ島のマラウィの街では教会に十字架はなく、神父はムスリムに合わせて髭を伸ばす。婚姻式で欠かせぬ豚烤(ローストポーク)もここでは御法度だ。
 
 沈黙する人権団体の罪科
 人権派の国際弁護士ジュストゥス・ライド・ワイナーは2007年12月、パレスチナでのキリスト教徒迫害を国際社会がスルーすることを非難し、「このままでは15年以内にアラブ系キリスト教徒は衰滅する」と警告した。これは人権団体全体への警告でもある。
 アムネスティも2007年、コプト教徒へのムスリムの討滅行為を簡潔にしか紹介しなかった。教会内部で信者がムスリムに殴殺されたのを皮切りに、ジハーディがアレクサンドリアの3つの教会を襲撃したというのに。インドネシアの夷教施設襲撃事件も取り上げられているが、「イスラム団体のせい」とは決して記さない。イスラム団体による人権侵害には甘めのようだ。多文化主義の精鋭人権団にとって、キリスト教徒の問題は欧米に余りに親和的すぎる故、言及が避けられるのだろうか。
 メルカイトのグレゴリー3世主教は2006年宣言した。「9・11以降、アラブ世界に散らばる1500万人のキリスト教徒を滅光する計画が進んでいる。これが成就した場合、西洋基督世界は単独でイスラム・アラブと向き合うことになるだろう。私は2億6000万のムスリムを治めるアラブの領導者たちに我らを衰滅させないよう書簡を送った」
 一応アルメニア系などの原始キリスト教徒は今もイスラム世界内に存在する。西洋の人権団体はこれだけを見て、ムスリムによる迫害の事実を矮小化する。ムスリムは西洋の被害者という意識の戒禁に囚われたまま。そうしている内にもジハーディとシャリーアの使徒たちは蛮光の度合いを増し、第三世界を紅世化している。

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