【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_13_ 

2015-09-03 15:54:49 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

○◎ バトゥの夢実現に向けて・・・・ ◎○

 バイカル湖の南域で遊牧生活を送っていたチンギス・ハーン家が地域政権を確立し、その政権維持のために、新領地を拡大して行った。 遊牧民の生活には豊潤な草原が必要であり、生活そのものが騎馬・射的・移動など 戦争行為の訓練だと言える。 優秀な指導者が民を組織化し 軍事化すれば 遊牧民の一人一人が“一騎当千”の戦闘機パイロットです。

 小ぶりだが、蒙古馬はその持久力で各段と優秀兵器だった。 天性の兵士が 組織的な訓練を積んで挑んだ戦いは、相手が遊牧民であれ、城砦を構える農耕民であれ、平原に誘って戦機を計れば各地で圧勝した事だろう。 事実、騎馬の勇者は五六っ百の歩兵を蹴散らし 中央アジアの馬は大きいが体力がなく、鎧兜で身を覆う騎士の行動は鈍かったであろう。 なめし皮を重ねて作る蒙古騎兵の防御服の機能性は優れたものであった。 同じような風土で育まれた遊牧民同士の戦いなら指導者の力量が その勝敗を決めたことであろう。 また、勝利の戦いの後 指導者は戦いに参加した者に公平な報償を与えなければならない。 これが遊牧民の掟だった。

 チンギス・ハーンの覇権は指導者としての才覚以上に 従う者を心服させる公平さにあった。 しかし 征服され 財貨や豊潤な郷土を奪われた者達には 侵略者の哲理など悪魔の行為以外のなにものでもない。 バトゥゥの遠征軍の直接的脅威にさらされたヨーロッパ゜諸国の記録や、特に16世紀後半に中央アジア進出を開始するまで、ジュチ・ウルスの服属支配を受けたルーシ(ロシ)アにおいては、バトゥの性格は極めて激しく、敵には容赦ない残虐性を持っていた人物とみなされている。

 政敵はことごとく暗殺、戦場では敵を皆殺し、降伏してきた敵方の貴婦人300人を素っ裸にして首を刎ねるなど数々の処刑も行った“タタールのくびき”を体現した人物として、バトゥは悪逆非道な暴君として書かれている。 13世紀中頃にトランシルバニアからロシア草原に出てバトゥの宮廷およびカラコラム(大蒙古帝国の首都)を訪れたローマ教皇遣使プラノ・カルビニ(カラコルムにて、グユク皇帝に謁見)も彼の著作『われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴル人の歴史』にバトゥを「偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評している。

 ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini、1182年- 1252年8月1日)は、イタリア・ヴェネツィア共和国の修道士。本名はジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネ (Giovanni da Pian del Carpine) だが、ラテン語読みしたプラノ・カルピニが有名である。

 1241年、ワールシュタットの戦いを契機として東欧・西欧にモンゴル帝国の脅威が忍び寄ってくると、1245年 モンゴルとの交渉役としてカルピニはローマ教皇インノケンティウス4世の命令を受けて、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥの元に派遣される。派遣された使節はカルピニと同じ修道会のボヘミアのステファン修道士の2名であり(途中ポーランドにてポーランド人のフランシスコ修道会ベネディクト修道士が加わって3名となった)、道中通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、教皇使節としては少数だった。 面会したバトゥはグユク汗の元へゆくよう命じた。 カルピニはバトゥが建都していたサライの状況などを見て回る。」

 さらにモンゴル帝国の首都であるカラコルムにまで交渉に赴き、到着直後の1246年8月24日、モンゴル帝国のハーンとなるグユクの即位式のクリルタイに列席した。 この時に、カルピニ一行はグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なったが、グユクは和睦ではなく教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を望んだため、果たすことはできなかった。 そのため帰国後は一時、教皇の怒りを買ったが、カルピニが記した『モンゴル人の歴史』という史書・報告書が高く評価されたこともあり、後に怒りを解かれてダルマチアの大司教に任じられた。

 しかし、バトゥは 軍事においては、数々の困難な戦いに打ち勝ってきた。 モンゴル帝国が短期間でヨーロッパ゜にまで勢力を拡大できたのは、彼の功績によるところが大きいと言える。 バトゥは戦場では極めて果断かつ苛烈であった。 これは『元朝秘史』、『集史』などでチンギス・ハーンが説き求めているモンゴル帝国の君主の徳目として、≪同胞や味方に対しては極力寛大に振るまい 物惜しみなく報賞を与えることを第一とし、また、降服を拒む民や反逆する民に対しては容赦無く殲滅すべく敵に対しては妥協のない処置に望むこと≫が 美徳とされていた帝王学の「成吉思汗の金言」に忠実な人物だったと言える。

 支配者側 また 服従に甘んじた民は、バトゥは優れた人物で、人民に対しては寛大で宗教に対しても融和的な政策を採用して国家の安定を図る「偉大なる賢君/サイン・ハン」とまで称されているのです。 モンゴル人以外の歴史家からも、バトゥは軍人としても為政者としても高く評価されているが、ヨーロッパ゜遠征中にオゴディ家の長子・グユンやチャガタイ家の諸子らと 犬猿の仲になったことが、後のモンゴル帝国分裂の一因を成すのですが・・・・・・

 さて、バトゥの軌跡を追てみよう。 大西洋まで辿り着けるのであろうか・・・・・・・・

 

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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

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