【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

チンギス統原理 【10】

2011-02-05 13:36:13 | 史蹟彷徨・紀行随筆

 イスラム世界への大親征、西征から帰ったチンギスは広大になった領地を皇子に分割した。 長子・ジュチは南西シベリヤから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を拝領した。 次男・チャガタイは中央アジアのカラ・キタイ全域と西部ホラサン地域を、三男・オゴデイは西モンゴルとアルタイ山脈南部・ジュンガールの支配権を、末子トルイには言明を避けた。 遊牧民の風習は末子相続であり、チンギスの本拠地モンゴル高原はトルイが継承することになっていた。 しかし、後継者問題は別である。 耶律楚材にチンギスは《正嗣子に能力が無いと判断すれば、直ちに この帝国の指導者に就いてもらいたい》と相談していた。 その折、耶律楚材は ためらいも無く即答した《臣、次期皇帝に誠心尽くしましょう》チンギスは《神が 我が家に使わした人よ》と 言ったと記されている。 チンギス・カーンは 耶律楚材の助言で 温厚な三男・オゴデイを後継者に指名していた。 西征の際、ジュチは壮麗な城市を破壊する事を拒む戦術で攻略が長引いた。 チャガタイは抵抗するものは徹底的に殺戮・破壊した。 戦術の実践で二人は何時も対立してきた。 オコデイがジュチ・チャガタイの間を調整してたのです。 チンギス・カーンが西征で知ったウイグル文字を 縦書きに変化させ 完成した蒙古文字を部下に収得させようと布告した折に、一番優秀だったのがオコデイであった。
 凱戦の後 しばらくしてから、チンギス・カーンは 以前 臣下した西夏王国が金と同盟を結んだ事を知った。 ホラズム遠征に対する援軍派兵の依頼を西夏の皇帝は拒否してきた事実もチンギスの逆鱗に触れた。 チンギスは懲罰遠征を決意した。 1226年初頭 西夏の諸城を攻略、凍結する黄河を渡り。首都興慶(現在の銀川市)を包囲した。 西夏王国は諸域からの援軍30万余で蒙古軍に抗戦するが敗れて、四散する。 ここに西夏王国は壊滅した。 国王は娘を人質に包囲網を解かせた。 翌年6月 チンギスはオゴデイを陜西・河南の金領に侵略させ、自ら西夏の未だ好戦的な諸城を攻略しつつ 夏季の避暑のためにオルドスの六盤山に本営を設けた。 莫舎の中には人質の妃が独り居た。 身には寸鉄だに おびていなかった。 ただ、西夏には西方のイスラム神秘主義者が暗殺に使う秘法が伝わっていた。 女体に隠し持ち、秘所にて用いる秘法の劇薬である。 1227年8月18日未明 チンギス・カーンは他界した。 遺体は北の高原へ運ばれた。 その北帰行 途上 見かけた住民はすべて殺害された また 埋葬の痕跡を消すために 一千頭の馬を走らせた と史書は記す。 悲報を知ったオゴデイは 西夏王国の皇族・重臣の全てを殺戮した。*小生 オルドス地方を二度訪れている。 南に明の長城や始皇帝が築かせた長城があり、オルドスのほぼ中央にチンギス・カーン陵がある。 これは大興安嶺山脈南西部ホインバル大草原に日本帝国陸軍が建立した陵を中国・共産党が移設したのもです。 しかし 紅衛兵が文化革命で内部の遺品をことごとく破壊した。 訪問時、建家のみが 寂しげに虚空に孤立していた。 因みに チンギス・カーンの埋葬地は未だ不明です 2004年 日本の調査隊がヘルレン河・ウランバートル東方250kmのアウラガ遺跡で発掘調査を実施、チンギス・カーンのオルド跡と立証したが、モンゴル族の心情を配慮して墓の調査は行なっていない 歴代のモンゴル帝国・皇帝はチンギス・カーンのそばで永眠していると言う*
   
    

 チンギス・カーンの遠征は非常な成功を収めている。 その理由は抵抗する者を決してゆるさず、最後の一人まで殺し尽くすが、抵抗せず降伏する者は、 人頭税を払わせるだけで決して殺戮を許さなかった。 自治を与え、開放した。 自軍への懲罰は厳格だった。 例えば、 メルブィ攻略の折、町の守備隊は 二度 城外に出て、激しく抗戦した。 末子トルイは7万余の軍を率いて応戦 城市を包囲した。 町の知事以下幹部がトルイの幕営に赴き、降伏した。 トルイは彼らを捕縛し、町の富豪二百名と工芸家・職人四百名が幕営に呼びつけた。 ついで、モンゴル軍が入城し 全住民に貴重な財産を持たせて城外に出させた。 そして 幼児・老人を問わず 全員を虐殺した。 以前 トルイが温情で、チンギスの甥を戦死させていたがゆえのトルイへの厳命であった。 また ホラズム帝国の都・ウルゲンチを長男ジュチと次男チャガタイに包囲攻略させていた時。 6ヶ月を経過するも落城の報告はない。 チンギスはその原因が兄弟の不和であり、軍規が緩んでいる為と知ると 直ちに 三男オゴデイを派遣した。 ジュチ・チャガタイの指揮権を剥奪し、オゴデイに総指揮をとらせている。 
 チンギス・カーンは自軍にも敵軍にも 判りやすい原則を貫いて成功を勝ち取った。 前節でホラズム帝国崩壊の理由を述べました。 更に 追記するなら、 モンゴル兵団は 事前に情報をよく集め、地理を調査し、綿密な作戦予定表を作成して、全軍がそれに従った侵略を履行した事。 第二に、作戦中は規律が徹底し、指揮官の命令を厳守した事。 第三に、兵士はそれぞれの変え馬を準備し、機動力が大きかった事。 第四に、蒙古兵の弓は張り合わせ弓で、矢の速力が速く射程が長かった事。 また 遊牧の生活で騎馬・馬射の技術は城下の兵士の比ではなかった事。 第五に、進軍途上の他の諸部族が われもわれもと従軍し、目的地に至った折には 雪だるま式に巨大な軍団に成長した事。 第六に、おおむね 蒙古軍の敵は農耕・封建社会で、統一行動の習慣がなく、ややもすれば抜け駆けの保身や分裂を起こしやすく、各個撃破が容易であった事。 等々でしょう。
 
 さて チンギス・カーンの死後、そのオルド/ウルスを相続した末子・トルイがとりあえず監国(摂政)となり、左翼万人隊・ムカリ将軍の金王朝に対する作戦を続行した。 左翼のモンゴル高原は叔父達が安定させていた。 一方 右翼方面は長兄ジュチは病死 *チンギス・カーン西征の1224年頃 ジュチはカスピ海西岸よりモスクワ近辺まで侵攻していた。チンギスが帰還命令をだす。 ジュチは轡を返し、カスピ海東岸を回り、帰幕を急ぐが途上 病にたをれた。 馬車に横たわり、父のもとに急ぐ。 チンギス・カーンはジュチの出生の虚言でジュチは離反したかと自問しつつ、命令違反の懲罰軍を出そうかと自責する。 二百数余の白馬(白馬一頭は十二匹の馬に相当する)に囲まれたジュチのむくろが帰還した* で ジュチの子息 オルダ・バトたちはシル河以北の所領を相続していたから、自然と右翼右翼万人隊はチャガタイの命令を仰ぎ、耶律楚材に何かと相談をする。 耶律楚材は大局からチンギス家を見る人であった。 チンギス・カーンにオゴデイを次期の支配者に推した人でもある。 チンギスの希望も後継者はオゴデイであった。 ただ、チンギスはオゴデイに酒を慎めと苦言していた。 遊牧帝国は部族、氏族の連合体である。 その君主は選挙制で決める。 だれを君主/指導者するか、遠征は何時・何処に・目的は・期間は等 クリスタル(大会議・国会に相当)が決めるのです。 クリスタルは最有力部族の長が招聘するのです。 皇族の最年長者である次男・チャガタイが このクリスタルを招聘 挙行した。 時は1229年、場所はケルレン河畔のコデエ・アラルです。 諸王・万人隊長・千人隊長・チンギスの皇族・諸部族氏族の長・チンギスの重鎮 が集まった。 オコデイは右翼に属していた。 右翼の支配者にはチャガタイが戦歴からして誰もが適当と認める状況である。 チャガタイが招聘したクリスタルでもあった。 左翼のトルイは執政の立場である。 右翼のトルイと右翼のチャガタイが最終の候補に選ばれた。 オゴデイはトルイと仲がよく、トルイの長男・モンケを養子してたほどの関係にあり、温厚にして聡明であった。 耶律楚材は動いた。 チンギスの希望をチャガタイに語り、オゴデイの跡は ジュチなき今、 チャガタイ家から皇帝を出す条件でトルイと話し合い、オコデイをチンギスの後継者に推薦しろと。
 春から行なわれたコデエ・アラルのクリスタルは1229年九月十三日にオゴデイをチンギス・カーンの後継者 大モンゴル帝国の二代目皇帝に推挙し 決議した。
 
   
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