
即位後のチンギス・カーンの関係年表を確かめると、1207年 ジュチ オイラート族・キルギス族を征討、 1209年 チンギス・カーン 西夏に親征、 1211年 チンギス・カーン 金朝に親征、西ウイグル王国の来降 とあり。
中国の資料には 1208年頃より 蒙古族しばしば長城を越える、1211年 金の西京を取り、居庸関をおかす。 と記され また 日本国内では 源頼家 修善寺でれ殺さる。 等々が歴史上の出来事として、記載されています。
誠に短い年表から チンギス・カーンが草原を新体制で統治しているさまが浮かんできます。 諸部族を糾合したとは言え、反抗勢力、恨みを持ちつずけ抵抗する部族は各地に潜んでいたでしょう。 忠誠心を再確認した武将たちを思うがままに動かし 鎮圧・懐柔に派遣しているさまが 容易に想起できる。 他方、ジュチの活躍が強調されている。 服属したメルキト部族の北方域、バイカル湖東方地域の遊牧部族がオイラートです。 後年、ジンギスの家系と強く結びつきます。 16世紀以降、チンギス・カーンの“黄金の氏族が衰退した後、蒙古族を牽引するのがジンギスの血が流れるオイラートの貴族です。 また、キルギス族は六世紀に後述するウイグル族の帝国を解体せしめ、天山方面に追放した有力部族です。 バイカル湖西面にて遊牧しているトルコ系部族。 尚武の気風が強く、現代のキルギスタンはこの部族の末裔です。 勿論 キルギス族の貴族階級にもチンギスの血は色濃く流れいます。 チンギス・カーン帝国の外周域の部族統合や征服を 次期政権委譲の第一候補者 正嗣子ジュチとその兄弟に実行させ 帝国内は実弟と重鎮の奮闘で統治を固めてしまう。 北の憂いを取り除いてから、 南部そして西部の豊潤な地域への侵攻を図る着実な戦略が覗える。 チンギス・カーン42歳 ジュチ20歳の頃です。
西夏王朝はタングート系の王朝です。 唐の時代 “黄巣の乱”の平定に大きな功績を上げ、封領された地に王権を確立した国です。 十二世紀が全盛期でした。 13世紀初頭 凋落する国勢の中、政変が起き 李安全が帝位を筅奪する。 新政権・李安全は旧来の遼王朝との誼が強く、金王朝に敵害する政策を進める。 戦略的に草原の有力部族とは友好関係を結んぶ政策をとる。 即位以来の金王朝への軍事行動が国勢を傾け、皇帝は酒色に溺れように成った。 飢餓状態が恒常化した。 チンギス・カーンは農耕社会の生産物の安全な確保が必要であった。*小生 二度ほど オルドスから北方域を旅行した。 西安から北北西に直進すれば、ゴビ砂漠の西端部を容易に抜け陰山山脈縦断する事なしに北方草原に出られた。また 二月の折、逆U字型に湾曲する黄河がオルドス大草原を囲んでいるのですが 北部域の黄河は凍結していた。 車で走行可能と聞いた。 オルドス草原の四分の一の南部域には秦時代からの長城があり、最も北側に明時代の長城があった。 西安はこれらの長城 約200km 南にある。 騎馬なら 冬季には黄河は障害にならぬと この旅行で知った * 西夏王朝の凋落は草原に入り来る物資を停滞させた。 南方の物資を入手する交易路は 西夏領内を通過する街道が最短にして最良であった。 1207年 チンギス・カーンは親征した。 従軍の中心はオングートであった。 オングート部族は幾度となく西夏王国を侵略していたが、小規模な掠奪行為の繰り返しであった。 チンギス・カーンは城壁に囲まれた城市を攻略するのは初めてであった。 彼はその困難さを知った。 この時点までの 北方遊牧民の侵略は 収穫期直後か必要に迫られた折に侵略し 略奪すればことは足りていた。 しかし ジンギス・カーンは長期的な交易路の確保が遠征の目的です。 思わぬ城攻めの困難さに直面したチンギス・カーンは兵を引き、翌年 再び軍を南下させる。 蒙古軍団の侵略と金王朝への軍事行動で国力の限界に至った西夏王朝は 1209年 チンギス・カーンの軍門にくだり、臣下する。 *後年 西夏王朝は再び宮廷クーデターで政権が変わり*1211年*チンギス・カーンの出兵要請を拒否し、自滅して行く。 1226年の事です。 チンギス・カーンの逝去と重大に絡みますから、詳細は後ほど* チンギス・カーンは知っていた。 東部・左翼のムカリ万人隊長が居庸関近辺は万里の長城を超え、権王朝領内で略奪行為(上記、年表記載の中国資料)を行なっている事を。 西夏帝国が 今 服属した以上 西夏経由の侵攻で金王朝を追い詰められる事を。 また 彼は知っていた。 城市の攻略は容易でないことを。 《この時点では、黄河地帯を直接支配し 居住する とは 蒙古族は考えだにしなかった。 チンギス・カーンは金王朝を屈服させ、定期的に朝貢物資と人頭税が入入れんば善し と考えていた》

北からの憂いをなくし、側面の西夏は従臣した。 1211年 チンギス・カーンは金への進軍を決意した。 彼は慎重であった。 三軍に分けた進軍であった。 東部渤海湾方面からの侵攻・ムカリを総司令に左翼の子飼いの諸将で編成した。 中央部・ゴビ砂漠を縦断して大同方面に侵攻するジュチ・カサルを総司令とする実弟軍団を南下させた。 西部・西夏経由の自軍はジュチ・チャガタイ・オコデイに従軍させ自ら総司令として南下した。 末子・テルゲは留守部隊の統括である。 モンゴル軍はそれぞれ野戦では圧倒的に勝ち進んだ。 西夏への侵攻と同じ展開になった。 強固な城壁に阻まれ、主要な都市の攻略には失敗した。 しかし 騎馬遊牧民は戦いの日常から学んでゆく、戦士である。 攻城技術を苦戦の中から学んでいった。 後年 ペルシャ方面で圧倒的な破壊力で 短期間にて巨大なモンゴル大帝国を建設する都市征服者 チンギス・カーンの戦術は この金王朝攻略の経験が土台となって開化したと言明できる。 チンギス・カーンは全軍に指示をあたえる。 降伏しない城市は周囲を徹底的に破壊しろと。 黄河の北部域はモンゴル軍団の馬蹄で踏みにじられた。 事実 当時五千万人ほどいた華北の中国人の人口が三十年後の調査資料によると約九百万人に激減している。 黄河以南への逃散・流民化があったにしてもモンゴル侵略にともなう虐殺の規模は想像を絶する。 野戦の勝利と若干の城市攻略に成功したチンギス・カーンは 1213年には万里の長城のはるか南まだ、金帝国の領土を征服・併呑していた。 モンゴル軍の侵略は止まらない。 黄河方面に侵攻する。 1214年春 金王朝政府はチンギス・カーンと和議を結び、戦局収拾する。 テムジンは勝利した。 勝利の証は 膨大な戦利品と金朝皇帝・衛紹皇帝の娘 岐国公主がチンギス・カーンの妃に召されたことであった。 戦利品を運ぶ長蛇の列が一ヶ月以上続いたと言う。 岐国公主は草原の生活を始めてから 生きることの楽しさを知ったと周囲のものに話している。 また ジュチを筆頭に義理の子供の良き相談役になっているから 幸せな人生を送られたのであろう。 さて、金王朝は和睦後 モンゴルの勢力を恐れ、黄河の南 現在の開封市に首都を移した。 チンギス・カーンはこの事実は背信行為であると いや これを口実に 再び 金を攻撃した。 1215年 モンゴル軍は燕京(現在の北京市、金帝国の王都)を包囲し、陥落せしめた。 このとき チンギス・カーンをして“神が我が家に使わされた人”と言わしめる人物・“耶律楚材”をみいだす。 耶律楚材は美太夫であった。 身の丈180以上、顎鬚は黒々と1,0mと史書にある。 金に亡ぼされた“遼”王朝の皇族が末裔である。 実兄が金王朝政府の重鎮であった。 チンギス・カーンが聞く、 《なぜ、開封に行かぬ?》 《兄は兄、金に臣下したのは兄、私は今日まで金の禄は頂いたことはない 兄とて ひとたび 臣下の礼をとった以上 最後まで誠を貫きましょう》 《余が 金を亡ぼした、そなたに代わって仇を打った事になる、礼を言わぬか?》 《国を興せば、誰かが倒すのは道理、家の血筋を残すのが肝要と考える》 《そなたに なにができる?》 《なにも ただ 殿下に 知恵はあげられましう》との逸話が残されています。 耶律素材の存在がなければ、チンギス・カーンの偉業は成らなかったと史書は評価してる。
この耶律素材の助言(早急にこの地を復旧し、租税を徴収するのが得策)を受け入れたチンギス・カーンは これ以上の破壊行為を禁止した上 左翼万人隊長・ムカリを将軍に任命し、華北の経営を一任して草原に引き上げる。 後を追うように 耶律素材がチンギス・カーンの草原のオルドに現れ、以降 “髭の知者”と呼び、生涯 彼を身近に置く。 政務だけではなく家族のことまで相談するのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます