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ぼたんくんとふわりちゃん

2010年10月17日、また猫と暮らしはじめました。

読書日記[50]じわじわくる

2025-03-21 23:25:31 | 読書
ぼたんを診てもらっている動物病院は
けっこう人気のようで、いつも混んでいます。
ネット予約して、順番が近づいてから行くにも関わらず
だいたい1〜2時間待つ。

なので、待合室用の本を持っていきます。
いまは通院2〜3回で1冊読むペース。


今回読んだのは『文豪怪奇コレクション 恐怖と哀愁の内田百閒』。



読書日記[46]で書いた、『ノラや』が良かったのですが
内田百閒先生の本って読んだことないな〜、と思って
手っ取り早くアンソロジーを読んでみました。


『ノラや』は旧仮名・旧字体で、昭和初期の雰囲気があって好きですが
こちらは新仮名になっていて、ふりがなもついて読みやすい。
(『ノラや』も改訂版がでているのでこちらは新仮名かも)


最近の本は内容の展開が早く、どんどん進んでいくものが多いせいか
大正〜昭和初期のこの本の文章は、
とってもゆっくり時間が進んでいく気がします。


「由比駅」という話の最後(P279)


耳許(みみもと)ががんとして、耳鳴りがする。松も鳴っている。ボイの白い顔と白い上衣が、境目がなくなった。


この一文が、なんだかこの本の全てを表している気がする。

今は昼なのか夜なのか、夢なのか現実なのか、話し相手は知人なのか別人か、
ここにいる自分は果たして生きているのか死んでいるのか。。。
いつのまにかあらゆる境界がなくなって、ぬる〜っとした感覚が残る。
そんな感じの本でした。


なんとなく、この時代の感じが良くて続けて読んだ同じシリーズ、
『文豪怪奇コレクション 耽美と憧憬の泉鏡花〈小説篇〉』。



こちらは、また少し内容が変わって
「向こう側」の世界に足を踏みれてしまったところから始まる話が多かった。

明らかに夢ではない、何かがおかしい世界。
そして自分に深く関わっていて、本能が逃げたいと告げるのに逃げられない。

あまりこういう感じの本を読んだことがありませんでした。
なんだか怖い夢を見てうなされている気分になります。


個人的に好きなのは、読後にじわじわとくる『恐怖と哀愁の内田百閒』。
このシリーズ、他の作家さんもちょっと読んでみたいです。



この2冊を読んでいたら、
とある漫画を読みたくなりまして。


『鬼を飼う』(吉川景都)



(画像は購入したebookから拝借)


ちょっと方向性はかわるのですが、昭和初期の奇獣もの。
絵も綺麗だし、話もまとまっていて、7巻で完結するのも良い。


久しぶりに読みました。
明治から昭和初期は、こういう話が合います。
異界とか、異能とか、奇獣とか。

読書日記[49]扉の奥 2

2025-03-05 15:05:44 | 読書
画家・山本浩二さんのエッセイ『ミラノの森』の続きです。


ミラノの扉の奥には、深い森がある。


この本には、言葉に余韻というか、その言葉の意味を
自分なりに解釈してみようと思う箇所がけっこうあります。


読んでいて、アトリエのことを書いているところがあったのですが


本文より ↓

集中していると終りは突然やって来る。もうどこにも何も描けない。カンバスの前を行ったり来たりしながら考える。
<中略>
時間を置いた絵は完成しているように見えた。絵はいつも、筆を止めた瞬間から私の元を離れ始める。絵が私の領域から離れていると感じることが完成の指標である。

(ブエノス・アイレス大通り 2番地 P187より抜粋)


これ、
全く同じことを内藤礼さんも『母型』の最後で言っていた、と思いました。


『母型』の最後に質疑応答のページがあって、
内藤さんが作品を作るときに無意識を積み重ねていくという話をしたとき

質問者からの

ここで作品は完成というか、この作品でみなさんに真価を問いたいと思うときの決め手は何にあるのでしょうか。

という質問に

これでもうさわってはいけない、というときってあるんですよね。そのときなんですけど。それはじゃあどこに根拠があるかといったら、それはやっぱり「アートの秘密」じゃないですか(笑)。人間を超えているところ。
<中略>
これ以上さわってはいけない、と思えたときに、自分でももうバーンと距離ができているわけです。それがほんとに作品として成り立ったときだと思うので。その直感というか、それはぜったい信じるべきもので。<後略>

(<これいじょうさわってはいけない>──質疑応答P99より抜粋)




絵が上手い人はたくさんいて、良い作品もたくさんありますが
感動というか鳥肌が立つような、出会ったと思えるような魅力を感じる作品は
何かしらプラスアルファの力が働いているのだろうと思っていました。
やっぱり人の心を揺らす力がある作品は、
表現を超えた何かが宿るのかなぁ、となんとなく思います。






……美術館に行きたいな。


学生時代は最低でも週一回は美術館やギャラリーに行っていましたが
社会人になって月に一回とか、さらに子供ができて年に2回とか
ひきこもりになる前はそれでもまだ時々行けていましたが。


最後に行ったのは、
Bunkamura ザ・ミュージアムの『みんなのミュシャ』展(2019年)
こんなに美術館に行かないでいるのは初めてです。



ドリンクボトル付チケットを購入。《ヒヤシンス姫》デザイン。
夏はこれでお茶を飲んでいます。


この展示も良かったです。
ミュシャは大好き。
このとき図録買っておけば良かった。


画集で持っているのは1冊。
『ミュシャ作品集 パリから祖国モラヴィアへ』



ミュシャの絵はとにかく構図と色が良いのですが、
金を使っていたり、色彩が絶妙な分、
本になるとあまり綺麗じゃなくなってしまう気がします。
この本はその点があまり気にならないので手元に残しています。


そういえば、20歳になったころでしょうか、
長野市内でアート作品の展示即売会があって、
入場者プレゼントがミュシャのポスターとチラシに書いてあって。


どうしてもポスターが欲しかったのですが、一人で行く勇気がなく
父に頼んで連れて行ってもらったことがあります。

入り口でポスターをもらい、
せっかくだからと会場内を観ていると
やっぱりスタッフの人に話しかけられ、
ミュシャが好きなら、と《四季》シリーズを勧められましたが
買うつもりはなかったので
なんとかごまかして帰ってきました 笑


アートに関わる会社で作るポスターは、色の再現性が高いので綺麗です。
このポスター、ちょうど家にあった額の色がイメージに合ったので入れたのですが
サイズが合わないのにポスターを畳んで無理やり入れたため
なんだか少し残念な感じに。



しかも、家の雰囲気に合わないのと、私しか喜ぶ人がいないので
何回引っ越しても、家の端っこにひっそり飾られています。
今はほぼ私しか使わない、アイロンスペースに置いてあって
もらったポスターだし、
もう処分してもいいんだけど、
と思いつつ捨てられない (´ー`)


またすごい脱線しました。。。


今日のぼたんは、少し寒そう。丸まってずっと寝ています。



ちょっと痩せちゃいましたが、
あげている療法食で栄養をとっているからか、触り心地がとても良くて。
ずっと撫でていたくなります。
今日も検査の結果の連絡来なかったね。。。


ふわりは、撮影してたらやってきてぐるぐる回ってました。
本と一緒に撮ろうとしたら、動きが早くて無理だった。



読書日記[48]扉の奥 1

2025-03-01 16:04:35 | 読書
最近、内藤礼さんの本を続けて読んでいたら
なんとなく芸術系の本が読みたくなり、
買ったまま、まだ読んでいなかった
画家・山本浩二さんのエッセイ『ミラノの森』を読みました。



この本、何かの書評で知ったのですが
表紙で買ってしまった「ジャケ買い」本です。

私は昔から、こういう門とか扉が大好きで
学生の頃絵にも書いたし、雑誌で海外の風景でこういう門があると
切り抜いてとっていたりしていました。

日本にはない感じで特別感があります。
ワクワクします。



購入してみると、表紙の写真はとにかく良いし、
本文の中に入る写真がカラーで、それもすごく良い!



ミラノでの出会いや暮らしを含め、私の周りには絶対にない話なので
エッセイというより、物語を読んでいるような。。。
それでいて、
すごく個人的な体験が、突然始まって突然終わるような文章なので
なんというか読んでいて不思議な感覚になる本でした。


本文より

『自分を知りたければ世界の果てまで旅をしなさい。そして世界を知りたかったら、自分の内側を見つめなさい』
(ヴェネツィア門P48より ミヤヤマ・マリエ監督の好きな言葉)



これを読んで、もしかしたら全然違う意味かもしれないけど
なんだか思い出したことがあって。


はるがまだ保育園に通っていた頃、
昆虫の標本作りをしている方が、
子どもたちに標本を見せてくれる機会があったのです。

大学の教授など昆虫の研究者に
世界中の虫を標本にして提供している有名な方で、
子どもたちに虫について面白い話をして、最後に、


昆虫の研究をすると発見がいっぱいあります。
そして、虫のことをたくさん知ってどうなるかというと、
人間のことがわかります。


というようなことを言いました。

10年くらい前なので、
もう少し違う言い方だったかと思いますが、いつものごとく記憶が曖昧。。。

小さな子どもたちに伝わったか不明ですが
このとき、なんだかすごくわかるような気がしました。
昆虫に限らなくてもこれは言えることかもしれないな、と。



話は戻って、ミヤヤマ・マリエ監督が好きだと言う先ほどのことば。
世界で活躍する人は、ほぼ無意識にこれができる人なんじゃないかと
この本を読んで思いました。



最近よく布団に潜って寝ているぼたんですが
きのうは少し暑くなったのか、足が出てた (^ ^)



夜はぼたふわ同じ場所で寝てました。珍しい!



読書日記[47]母型

2025-02-17 21:32:12 | 読書
とても好きだと思った、内藤礼さんの作品とことば。

その後もずっと本とか探していて
買ったものから順番に読んでいます。


神戸芸術工科大学レクチャーブックス 4
『母型』内藤礼



この本は2008年の大学の特別講義の記録なのですが
作品に関しての考え方がよくわかりました。
アーティスト本人に実際に話を聞ける機会は貴重です。
学生の時ってこういうのがあるの、いいですよね。


「母型」というタイトルで内藤さんはいくつか作品を作っていて
旦那は数年前に会社の人と直島に行った時に
豊島美術館の「母型」にも行ったそう。
羨ましい〜。
まあ、当時は全然知らなかったんですが…(´ー`)

すごく素敵な場所です。



豊島美術館のサイトから画像拝借しました


この作品に関しての対談があります

【対談】福武英明×内藤礼 幸せの定義を拡張する「人×自然×アート」の可能性
(https://forbesjapan.com/articles/detail/52980)

私の作品は、その場所をつくり替えるというよりは、何か最小限のものをそこに置くことによって、元々そこにあったよいものが顕れてくるように、というものです。すでに地上に私たちが与えられているもの。風であったり、光であったり、水であったり、そう、生命もです。


内藤礼さんの本はまだ手元に数冊あるので
読むのが楽しみです。


また、
本文の最初の方では
横浜トリエンナーレ2008の作品のことについて語られていて。
行けばよかった〜。観たかった〜。
2008年ならちょきを飼った年だから
東京に住んでいたのに。

ちなみに、
横浜トリエンナーレは第1回と第2回は観に行っていて
2008年は3回目。


探したら2001年のガイドブックが見つかりました。



このとき観て、今でも強烈に印象に残っているのが
草間彌生さんの「エンドレス・ナルシス・ショウ」。

パシフィコ展示場内に、ミラーボールを床に敷き詰め、
中空にも吊り下げたインスタレーションです。

ちょうど観に行った時、会場には私一人で
部屋中に敷き詰めたミラーボールはまさに圧巻でした。
その全てに私が映り込み
「見る側」と「見られる側」が反転したような、
自分までもが作品の一部になったような、
インスタレーションのすごさを直に体験した気がします。
まさにナルシストの部屋!
改めて、草間彌生ってすごいとその時思いました。






ぐっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっv:・;𝐿



コーヒーを入れている間に
ふわりが謎のメッセージを残していました。
ノートパソコンはちゃんと閉じておかないとこうなります。

今日はここまでにして、
内藤礼さんに関してはまた書きたいです。


すぐパソコンにのってしまうふわりちゃんは
今日もはるのベッドでぐっすりです。



この下になっているのは、クッションの「犬ちゃん」。



なんだか「重いよ〜」って言ってるみたい。
困った顔に見えてしまう。

読書日記[46]ノラや

2025-02-09 13:43:56 | 読書
そういえば、
この本のことを書こうと思っていたのでした。


『ノラや』




Amazonの紹介文より
愛猫の突然の失踪に悲嘆に暮れる百鬼園先生。使っていた座布団に、好物の寿司に、在りし日の猫の姿が思い出されて涙が止まらない。新聞広告を打ち、貼紙をして帰りを待つ。




有名な本みたいなので、読んだ人も多いでしょうか。


私は最初にこの本を読んだ時に
100ページもいかないうちに何故か涙が止まらなくなってしまい
読もうとするとまた泣いてしまうので、
どうしても読み進めることができず
一旦読むのをやめることにしまして。


でも時間をおいて読んでみたら、
意外にすんなり読めました。


ある日突然出ていってしまったノラを思って毎日泣き暮らす
おじいちゃん、内田百閒先生の落ち込み方がすごい。


張り紙をして、警察にも届け、
新聞に広告を載せ、折込広告も数回入れたあと、さらに
「もしノラを保護しているのが外国人だったら?」となって
英文の折込広告を入れたり。

きっと痩せこけた状態で見つかるだろう、と予想して
見つかった時のお礼状またはお礼広告の文面まで用意し、
ノラの帰りをひたすら待つ日々。

読者からの手紙に励まされ、
手段問わずノラを探す様子がおかしくも悲しい。


最初に読めなくなってしまったのがこの辺り。

 ノラや、お前は三月二十七日の昼間、木賊(とくさ)の繁みを抜けてどこへ行つてしまつたのだ。それから後は風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰つたかと思ひ、今日は帰るか、今帰るかと待つたが、ノラやノラや、お前はもう帰つてこないのか。
<85ページ「ノラや 八」より>



後半はノラの後に家に居ついて、結局飼うことになったクルツの話。
クルツの最期を看取った百閒先生はやっぱり涙が止まりません。


 八月晦日の夜遅く、お膳の途中で手洗ひに起つ。帰つて来れば必ずそこにゐたクル、毛の生えた三角の耳をピンと立ててゐたクルがゐない。夢でいいから、もう一度クルに会ひたい。抱きたい。げに夢猫をうつつにぞ見る。
<260ページ「クルやお前か 四」より>

猫を飼う皆が通る道ですが
「おじいちゃん」目線の描写がなんだか新鮮で
後にクルの思い出を語る「クルの通ひ路」の話も泣けます。
昭和30年代の周りの人々との関わりも
「古き良き」下町な感じで、良かった。



そういえば、
長野に引っ越した2011年頃
ふわりが外に出たがって、誰かが玄関を開ける度に

「ニャー!!!」

と叫びながら突進してくる時期がありまして。

防げずに数回外に出たことがありました。

外の世界を知らないふわりは、
だいたい玄関先で固まるのですぐに回収できたのですが
一回だけ、近くに駐車していた車の下に入って出てこなくなり
そのまま建物の裏側に入り込んでしばらく行方不明になりました。

まわりはフェンスと壁しかないのですぐに見つかったのですが
短時間で野良猫化してしまったふわりは
興奮してしまいなかなか捕まらず。。。
やっと捕まえた時には、シャーシャー怒って
完全に知らない猫のようでした。゚(゚´ω`゚)゚。

その後、ふわりが外に出ないようだいぶ苦労しましたが
だんだん突進することもなくなり
今でもごくたまに玄関から出てしまうことはありますが
動かないのでその場で抱っこされて回収です。



当時住んでいた家では
こんな風に誰かが玄関を開けるのを待っていたのです。
で、飛び出すのはふわり 笑