アインシュタインメモ☆ブログ

 特殊相対性理論が発表され、はや101年。 新世紀の世に捧ぐ、愛と希望のサイエンス・ラプソディ☆

生命の起源

2006-03-27 22:05:22 | 論考


 以前NHK教育の番組で、「生命の誕生」を「目覚まし時計」を使って説明した生物学者(か何かだったと思う)がいた。彼は透明のアクリル板でできた箱の中に、分解した目覚まし時計のパーツ(表面を覆うプラスチックパーツから秒針、ネジの一本に至るまでの全て)を入れ、ガラガラと振って見せると、

「これを何億回、はたまた、その何十乗分回振っていると、いつか偶然に(全てのパーツがそのものピタリ合致し)目覚まし時計が完成する可能性があります。生命誕生の瞬間とは、譬えればこういうことです」、と言った。

 番組を観ていた時は然したる感銘も受けなかった(ただボーっと観ていた)が、その後しばらくして、模倣に用いたのが「目覚まし時計」だったことといい、素晴らしい解釈だということに気付いた(日本人だったが、残念なことにその名字すら記憶していない)。何より私が着目したのが、「偶然」という表現だった。その学者が何を意図したのかは、今となっては知る由もないが、この世の全てを「必然」と捉えている私にとって、その意義は軽くない。量子学的観点での「確立と兆候」にも通念する、「生命誕生に於ける偶然」とは、いったい何を含蓄しているのだろうか。
  
 アインシュタインの果たせなかった「統一場理論」を完成させ、二十一世紀最高の物理学者と謳われるスティーヴン・W・ホーキング氏は、同時に、「ビッグ・バン理論」でも有名だ。聖書にも「最初に光ありき」とあるが、彼はそれを科学的見地から事実上、立証(当然、異論、反論的学説は浜の真砂)したのである。以降はその理論を基軸に記述される。


 地球は誕生後間もない、宇宙の塵(超新星の残骸)から生まれた。地球は太陽の引力圏内に於いて比較的小さな惑星だが、それより更に小さいものは小惑星帯(岩屑)として、宇宙空間を浮遊している(つまり、地球は「運のいい」惑星だった)。しかし、その誕生に至る過程は、決して穏やかなものではなかった。衝突、崩壊、溶解が絶えず繰り返され、表面に追突する隕石の存在も助長して、全てが不安定な状況にあった(隕石そのものも破砕、溶解して、その成分のひとつとして吸収された)。

 まだ若い地球は、その成長とともに内部の温度を上昇させた(ウランその他の不安定な元素が、放射性崩壊していた)。ここで、地球の大きさとその内部からの熱量とは、絶妙のバランスを保つ必要があった。もっと小さければ燃え尽きてしまっただろうし、大きすぎれば生命を育む適温まで上昇することもなかった。また、太陽との距離関係も、実に好都合に調整された。焼け焦げてしまうほど近くもなく、(生命の素材とも言うべき炭素を始めとした原子の)化学反応が発生しないほど遠くもない。それに地球自体の自転という要素が加わったことで、表面の全ての空間が程よく、その恩恵に授かれる(生化学反応の生じやすい)環境へと徐々に変移していった。

 十九世紀のイギリスの生物学者チャールズ・R・ダーウィンは、友人に宛てた手紙にこう記している。

「もしも仮に、有機化学物の溶け込んだ暖かい水たまりに、光と熱と放電が作用することでタンパク質が合成されれば、もっと複雑な変化でも容易に進行するであろうし、生物形成以前の太古では、それらが捕食、吸収されることもなかったであろう(要約)」

 慎重派であった氏が、「もしも仮に」と前置きして提唱した「原始スープ説」は以降、一部の科学者に継承された。そして、ドイツの動物学者エルンスト・ヘッケル、ロシアの生化学者A・オパーリン等を経た後、1950年代初頭、S・L・ミラー、H・C・ユーリーの実験に於いて、終にそれが証明された。二人は原始大気を組成した「還元型大気」と呼ばれる混合気体に、(稲妻の代わりに)放電することによって、様々な有機化合物(主にタンパク質)の形成に成功したのだ。このことから、生命の素となる単純な有機化合物は、原始の地球で自然に合成されえることが証明された。炭素化合物は互いに結合して長い鎖状に重合する自律的性質があり、あとはエネルギーさえ存在すれば、自己複製能力の付与された最初の分子(生命)の発生が、理論上可能となる。 

 しかし、仮に必要な分子全てが生成できたとしても、そこから「生命」が生じる保証はない(ここでやっと、冒頭の「目覚まし時計」の例が引き合いとして出てくる)。それ以降、(化学合成を繰り返し行う)煮え滾る釜が創造力を発揮するまでに、何億年もの時を必要とした。更に、何億分の一の確立でしか起きない化学反応が運良く生じた後でも、現在に至る途方もなく永い経緯(道のり)には、想像を絶するほどの苦渋が満ちていた(例えば、生命がエネルギー摂取機構が確立するには、熱力学の法則に反しなくてはならない。この他にも、幾何級数的な障害の発生が憶測される)。兎にも角にも、「生命」がその貴重な第一歩を歩み始めたのが今から40億年近く前であったろうことは、間違いないと考えられている。

 現在、最も太古の生物とは「超好熱性化学合成無機独立栄養生物」と呼ばれる、数千分の一ミリ程度の細菌であると考えられている(現存する彼らの種は、沸点近くで最多に増殖する)。そして、昨今の遺伝子分野に於ける科学進歩により、彼らから始まるあまたの生物は、全て同じ遺伝子(リポソームRNA)構造を共有していることが判明した。この発見は、単純且つ明確な「一確定論」を帰納する。つまり、「絶滅種を含む全ての種は、たった一己の生(個体)に帰属する」という事実だ(リボソームRNAはその複雑な構造故に、独立した複数の類似はありえない)。


 前述のホーキング氏は(生命を含む)宇宙の創世に関し、「そこに何らかの意思・因果関係・必然性を前提とすることが、より科学的だ」と述べている。現役で活動している他の科学者の中にも、その始まりには何か「サイコキネシス」のような意志(念)が介在したと考えるのが妥当である、とする者も(依然、少数派だが)存在する。そして、かくいう私も、地球以外の惑星に於ける生命体の存在を信じていない。「奇跡の星」という表現が大好きで、また私は、我々とは全て「その存在自体が奇跡なのだ」と信じている。

 最後に。宇宙を周期的に移動する流星群(彗星等)が、ゼロではないにせよ、どうして嘗て(きっと、これ以降も)それほど何度も地球を危機的状況に陥らせなかったのか(小型のものは大気圏で焼失するにしても、その他が衝突しないのか)ご存知であろうか。それは、衛星である「月」の存在のおかげだ(その引力を以って回避、または月自体に衝突させている)。地球を包括する宇宙とは、「間然するところのない取り合わせの妙」の裡に成り立っているのだ。


※生命の起源に関しては、他に「粘土論」もあり、かなり興味深いものです。また、今回の記事に於いては、イギリス古生物学会の会長も務めたリチャード・フォーティ氏著作の、「生命40億年全史」から多くを抜粋しています。関心のある方は(単行本しかない故に少し高価ですけど)一読してみて下さい(他に氏の専門である「三葉虫の謎」なる書籍も存在します)。

ホェン・ドーヴス・クライ/プリンス

2006-03-26 22:00:56 | 音楽評論


When Doves Cry-Prince

Dig if u will the picture
Of u and I engaged in a kiss
The sweat of your body covers me
Can u my darling
Can u picture this?

Dream if u can a courtyard
An ocean of violets in bloom
Animals strike curious poses
They feel the heat
The heat between me and u

How can u just leave me standing?
Alone in a world that's so cold? (So cold)
Maybe I'm just 2 demanding
Maybe I'm just like my father 2 bold
Maybe you're just like my mother
She's never satisfied (She's never satisfied)
Why do we scream at each other
This is what it sounds like
When doves cry

Touch if u will my stomach
Feel how it trembles inside
You've got the butterflies all tied up
Don't make me chase u
Even doves have pride

How can u just leave me standing?
Alone in a world so cold? (World so cold)
Maybe I'm just 2 demanding
Maybe I'm just like my father 2 bold
Maybe you're just like my mother
She's never satisfied (She's never satisfied)
Why do we scream at each other
This is what it sounds like
When doves cry

How can u just leave me standing?
Alone in a world that's so cold? (A world that's so cold)
Maybe I'm just 2 demanding (Maybe, maybe I'm like my father)
Maybe I'm just like my father 2 bold (Ya know he's 2 bold)
Maybe you're just like my mother (Maybe you're just like my mother)
She's never satisfied (She's never, never satisfied)
Why do we scream at each other (Why do we scream, why)
This is what it sounds like

When doves cry
When doves cry (Doves cry, doves cry)
When doves cry (Doves cry, doves cry)

Don't Cry (Don't Cry)

When doves cry
When doves cry
When doves cry

When Doves cry (Doves cry, doves cry, doves cry
Don't cry
Darling don't cry
Don't cry
Don't cry


 分化人類学者の指摘を受けるまでもなく、人は経験から学習する動物だ。以前の記事でも触れた通り、その行動は無意識と習慣の多大な影響下にあり、また、人格自体もそれまでに体験したことの総体に過ぎない。もっと言えば、人(主として男性)は体験を通してしか、外部(彼以外の人間及び、生物)と観念を共有することができない。

 例えば私は、自身の思考形態を根底から変移する時期を経過して初めて、その大変さを識った。それまでの自身を自己否定し、新たな「自身が信じるもの」への軌道修正をする、それには真摯な勇気の固持と痛切なストレスに晒される必要があり、その体験を経て初めて、サナギから成体へと変容する蝶への畏敬の念を覚えた(ここでいう「変容」とは、「メタモル・フォーゼ」の概念とは意を画する)。


 思春期を通した私の過去には、「PRINCE」の存在が欠かせない。私は元来、音楽自体(曲)への遍歴があるものの(いい物はそれが何であれいい、の概念)、限定されたアーティストへ固執する傾向はなかった(今でもない)。しかし、何にでも例外はあるもので、そのひとつが「PRINCE」の存在だ。

 その理由解明には、未だ至らない(人間誰しも自分のことが一番よく分からないものだ)。ただ、飽くまで憶測として述べれば、彼の生得的に運命付けられた(俗に言う劣等感も含めた、心的複合体の意での)コンプレックス及び、その分化過程のスピードが、私のそれらに酷似していたのだろう。

 昨今の「PRINCE」と言えば、打撃系格闘技「K-1」のオープニング・ソングとして(何故か)使用されている「Endorphinmachine」の存在が挙げられる。とはいえ、「PRINCE」の芸歴は意外にも長く(日本ではあまり売れないため知られていないが、30年近い)、映画等の主題歌になっているものの他にも、(私流で言う)優れた作品は山のように存在する。

「When Doves Cry」に於ける「you」は彼女であり、同時に母親のことでもある。プリンスはこの作品に於いて、成長し恋人(この場合、彼女)と構築する人間関係は、幼児期に於ける母親とのそれを踏襲(投影)しているに過ぎない普遍的事実(「Animals strike curious poses・・」の部分は、あまりに感慨深い)を歌い上げているのだ(曲に関係なく追記すれば、上司との関係は父親とのそれを再構築)。

 英語の「dove」には(小型の)ハトという意味の他に、「愛人」というスラングもある(この作品には、他にも多くのダブル・ミーニングが織り込められている)。ギターを自身の性器に擬えて弾きあげることでも有名な彼が、そのソロ演奏から始まるこの歌に託したメッセージを読み取る鍵は、聴く側の感性に委ねられているのだろう。

ICU(集中治療室)

2006-03-25 21:51:05 | こばなし


「産んで育ててやった親には、(子供を)殺す権利もあるんだ。あんまり、世話焼かすんじゃねえ・・」

 幼少時に於けるその教育方法は、以前の記事に記した。その後、思春期に突入した私は、それ故に派生する権威への反発、協調性への不和等の諸問題(具体的には教師他への反発、種々の集団活動への参加拒否等)を勃発させる度(学校側には母親のみが対応)に、上記のような不条理な恫喝を受けて育った(とはいえ、それを気にするほど、当時の私の神経も細くはなかった)。

 そんな父が以前、心筋梗塞で倒れた(私の心臓疾患は、その体質を継承している)。一時は奇特、ではなく(な、はずはなく)危篤状態であったため、二人姉弟の私は「小銭(保険金)が入るぜ」、と俄かな期待を寄せたりもしたが、結局、(生命力の強い彼は)賦活し始めてしまったため、母に勧められるまま、病院へ見舞いに行くこととなった(当然にしてその本質を見抜いていた母の口からは、若い看護士の存在が仄めかされていた)。

 二回曲がると来た道を忘失する、歳を負う毎にその深刻さを増す「方角不認知症」は、何の変哲もない収容所を模した建造物内に於いて、酷く私を疲弊させた。途中幾度もすれ違う看護士に心奪われながら、それでも何とか「ICU(集中治療室)」の表札の架かる一角にたどり着いた私は、その入り口へと歩を進めた。
 
 そこで、私の中に、はたと疑念が湧いた。眼前には、大きな、ツインベッドが丸ごと納品できそうな扉が聳えているのだが、その入室方法が不詳だったのだ。扉の表面にはどこにも取っ手らしきものが見当たらないし、その正面の床に何度も足を踏み込んだりもしてみた(自動扉イメージ)が、それはピクリとも反応しなかった。しばらく待ったが、声を掛けたくなるような人物との邂逅にも至らなかった私は、思い切ってその隙間に手を差し込んだ。

 意外なほど素直に扉は開いた(こじ開けた)。一般に、笑顔の素敵な女性にはしかるべき男性の影が想起されるのだが、ダメもとで自身を晒したら(タイミングが合致して)、想いのほか容易に食事に誘えた。そんな感慨を彷彿させる、開放だった。室内に踏み込むと、透明のカーテンに覆われたベッドが(確か)6つ見えた。順に覗き込んで行く私は、3つ目くらいで、人口呼吸器を装着した(あまり私と似ていない)見慣れた顔を発見した。

 彼は寝ていた。しかし、わざわざ彼の好物であるグレープ・フルーツ(ルビー)をスプーンとともに持参した孝行息子である私は、その肩を揺すってみた。すると、程なくして、彼は目を開けた(やはり、生きていた)。意識が朦朧としていたのか、その瞳はしばらく中空としていたが、やがて私を見据えると、何やらあえぎ始めた。

 当時、自宅に不審な電話があった。たまたま在宅していた私が、「はい、もしもし」と電話に出ると、相手はただ「俺だ」、と言った。不義を感じた私が「どちらさまですか?」と訊ねると、受話器の向こうの人物は(少し苛立った感を伴い)、再び同じ句を唱えた。間違い電話を確信した私が、「うちは○○ですけど」と(ぎりぎりの自制心を以って)答えると、男は、「ああ・・」と、低い吐息のような言葉を漏らし、一方的に電話を切った。後日、その不審電話の主が、会社に掛けるつもりで誤って自宅にリダイアル発信した(着信が受付嬢でないことに訝った)父であることが判明した。謎解きした母は笑っていたが、私はそれまで以上に、その接触を控えるようになった・・。

 入院(見舞い)時期、既述の親子関係にあった私は、呼吸器の向こうから発せられる、その「意図するもの」を理解することができなかった。

(遺言なら、しっかと聞いてやるぜ) 

 それでも、初めてその姿を見下ろすことの許された私が、楽勝なことを考え始めた頃、病室の奥に併設された詰め所から血相を変えて近付く看護士の姿が見えた・・(これ以降に、その少し気の強そうな看護士が、笑顔の私に対し、早口で捲し上げた内容を要約する)。

 あなたはどうしてここにいるのか。面会者は専用入り口から、両手の消毒、専用ガウン、スリッパを着用して初めて、入室することができる。そもそも、現在は面会時間に該当しない云々・・。

 つまりは、その時の父の言葉(あえぎ声)も、きっとそれを意味していた。そして、私はますます、自宅での居場所を萎縮させることとなった・・(もちろん、グレープ・フルーツを手渡す機会にも恵まれなかった)。


 彼は依然、よく食べ、よく忘れる男だ(この形質もまた、確実に私の遺伝子に継承されている)。成人以降、「おう」、以外のコミュニケーションを受けたことに乏しい私に、その正確な(彼に関する)分析が不可能なのは事実だが、どうやら、観察からはそう推される・・、と言うより、現在の(それ以降の、年に2度ほど顔を合わせる)私は、ただ、そうであろうことを願っている・・。



プライドと矩論

2006-03-21 22:34:00 | 論考


「乞食」とは、道に落ちている物を拾う人たちのことを指すのではない。彼らは単に、廃棄物の有効活用をしているに過ぎない(現行法規に於いても、遺失物の取得を原則、合法と認めている)。「本物の乞食」とは、相互理解、信頼のない者(団体)に対し、金品を要求する(または、授与される)人間のことを顕す。

 血縁という関係を以ってのみ、すねを齧る子供(もしくは、その逆)、雇用の維持だけで会社組織にぶら下がる(依存する)サラリーマン、予算取りのためだけに盲目的に地方への無駄な公共投資を継続する行政機関等、その例は枚挙に暇がない。しかし、仮に肉親から現金を一時借用していても、はたまた、定年までひとつの組織に勤め続けたサラリーマンであっても、上記に該当しないケースが(昨今では稀だが)存在する。その差異に起因するのが、「プライドの介在」だ。

 私の好きなロックン・ロールを代表としたミュージシャンたち(興味のある方は「音楽評論」のカテゴリを参照)は、時にその作品の中で、「foolish pride」なる表現を施す。この意味するものとは、多くが、自己顕示欲であったり、虚栄心であったりして、プライドの本質とは異なる、単なる幼児性に過ぎない(もちろん、当のアーティストたちも否定的に使用している)。つまり、プライド概念の成立には、「一定上位での自我の覚醒」が必須事項となる。

 また、プライドを直訳すれば、「自尊心」となる。読んで字の如し、「自身を尊ぶ気持ち」を意図している。自己を客観的、論理的に一己の生命として敬愛するわけであるから、当然、その前に自身をよく知る必要がある。そして、ここで敢えて喚起すれば、英語で「存在する」とは「exist」と綴り、そのラテン語の語義は「外へ出て行く(踏み出す)こと」である。

 仮に、とてもサディスティックな、俗に言う「イジメっ子(ここでは成人男子と仮定)」がいるとする。彼は職場に於いて、上司を除く二十名の同僚(部下を含む)とグループ作業をしている。彼はその性格故に、業務遂行上、ことあるごとに周囲への不義を働くのだが、ここで、彼がその全員に対し攻撃性を示すかというと、えてしてそうではない。中には、部下にあたる社員であっても、その範疇外に活動する者も存在するはずだ。それは何故かというと、「人格に統一性はない」からである。

 人格とは、当該人物(ここでいう彼)の五歳の頃の自分、十歳の時のと或る経験をし(反応をし)た自分、思春期に恋愛をした自分・・etcの統合(体系化)した総体に過ぎない。この側面からも、人間が自身以外の(物理的には表皮を境界とした)外部との接触なしには自我の形成には至らず、そればかりか、その本質を顧みることすら出来ない事実が帰納できると言える。

 そして、かかる論点からの、「外部との明確な識別を獲得した人物のプライド」とは、イコール「知性」でもある。再び例証すれば、女性から金品を受け取る男性がいるとする。彼らの未熟な恋愛関係は、その物質的授与に拘束されている。その時、その男性が自身及び、その女性のことを真義に案じ、現在の唯物的関係を絶った(具象的には別離、もしくは正当な関係へ移行した)としたら、それを世間一般で、「プライドのある男性」と呼ぶのではないだろうか。そして、そうすることが、それぞれにとっての、長期的及び、大局的見地からの幸福を醸造する「ヴェクトル」も意味する。

 論語に「不踰矩(七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず)」という、有名な言葉がある。「矩」という単語には、型、規格、四角形等の語義があり、規矩、矩尺、矩形を英訳する場合は、standard、rule、common等の単語が主としてあてがわれる。しかし、人に於いての「矩」とは、その人物を取り巻く(厳密には出生後、現在に至るまでの)事象の全てであり、直訳には「formula」が相応しいのではないか、と私は考えている(ご興味頂けた方は、スピード概念と民主主義理念をご覧下さい)。そして、私は「自由」の語義を、「与えられた矩の全肯定下に於ける自己実現」であると解釈している。


※「プライド」に関し必然的に付記すれば、女性の側からのプライドとは、上記と少し様相を違える。よりフィジカルになる、と形容していい。つまり、その自尊心とは、「自身の身体を物質的に大切にすること」だと換言できる。ここで敢えて差別化した理由は、そもそも母性なる「叡智」を生得的に保持できる女性が、わざわざ男性の場合のような「時間軸に即した知性」を獲得する必然性はないことを叙述したかったからであり、また、決してできないことを意図するのでもない。その気になれば、(現状がそうであるように)女性の方が優位であるとも形容できるからだ。ただ、その獲得経緯には多大な「犠牲」が伴うため、相対的に空間理念に所属することができる女性が、わざわざ物質的(稀でなく身体的)犠牲を併発させてまで、それに固執しなくてはならない蓋然性は低いと言えるだろう。


 最後に、「You Gotta Be」「Life(ドラマ主題歌)」「Kissing You(映画Romeo&juliet主題歌)」で有名なDes'ree(デズリー)の、「I Ain't Movin'」を付与しておきたい。「私は逃げない」と歌う、アフリカ系イギリス人である彼女のソウルが、あなたのハートにヴァイブすることを祈って。


I Ain't Movin'-Des'ree

Love is my passion
Love is my friend
Love is universal
Love never ends

Then why am I faced with so much anger, so much pain?
Why should I hide? Why should I be ashamed?
Time is much too short to be living somebody elses life
I walk with dignity, I step with pride

'Cos I ain't movin' from my face,
from my race, from my history
I ain't movin' from my love,
my peaceful love, it means too much to me
Loving self can be so hard
Honesty can be demanding
Learn to love yourself,
it's a great, great feeling

When you're down baby, I will set you free
I will be your remedy, I will be your tree
A wise man is clever, seldom ever speaks a word
A foolish man keeps talking, never is he heard

Time's too lonely, too lonely without words
Future voices need to be heard
Eyebrows are always older than the beards
Momma said be brave, you've nothing to fear

I ain't movin', I've been here long before
I ain't movin', 'cos I want more
I ain't movin', got my feet on the ground
As far as I'm concerned, love should win the rounds

サヴァイヴァー/デスティニーズ・チャイルド

2006-03-21 22:33:38 | 音楽評論


Survivor-Destiny's Child

(Verse 1)
Now that you are out of my life,
I'm so much better,
You thought that I'd be weak without ya,
But I'm stronger,
You thought that I'd be broke without ya,
But I'm richer,
You thought that I'd be sad without ya,
I laugh harder,
You thought I wouldn't grow without ya,
Now I'm wiser,
You thought that I'd be helpless without ya,
But I'm smarter,
You thought that I'd be stressed without ya,
But I'm chillin'
You thought I wouldn't sell without ya,
Sold 98 million.

[Chorus]
I'm a survivor (what),
I'm not gonna give up (what),
I'm not gon' stop (what),
I'm gonna work harder (what),
I'm a survivor (what),
I'm gonna make it (what),
I will survive (what),
Keep on survivin' (what),
I'm a survivor (what),
I'm not gonna give up (what),
I'm not gon' stop (what),
I'm gonna work harder (what),
I'm a survivor (what),
I'm gonna make it (what),
I will Survive (what),
Keep on survivin' (what).

(Verse 2)
Thought I couldn't breath without ya,
I'm inhalin'
You thought I couldn't see without ya,
perfect vision
You thought I couldn't last without ya,
but I'm lastin'
You thought that I would die without ya,
but I'm livin'
Thought that I would fail without ya,
but I'm on top
Thought that it would be over by now,
but it won't stop....
Thought that I would self destruct,
but I'm still here Even in my years to come,
I'm still gonna be here

[Chorus]

(Kelly)
I'm wishin' you the best,
Pray that you are blessed,
Much success, no stress, and lots of happiness,
(I'm better than that)
I'm not gonna blast you on the radio,
(I'm better than that)
I'm not gonna lie on you or your family, yo,
(I'm better than that)
I'm not gonna hate you in the magazine,
(I'm better than that)
I'm not gonna compromise my Christianity,
(I'm better than that)
You know I'm not gonna diss you on the Internet
Cause my mamma taught me better than that.

[Chorus]

After all of the darkness and sadness,
Still comes happiness,
If I surround myself with positive things,
I'll gain prosperity.

[Chorus]


 私が初めてデスティニーズ・チャイルドを知ったのは、ちょうど「Independent Women」が、映画「チャーリーズ・エンジェル」の主題歌として流れていた頃だった。その曲の一部に、KRS-ONEの「Step Into A World」のフレーズが挿入されていたことから、当時は、またパクリ物か、と感じた程度だった。だが以降、度々耳にするそのメロディを聞けば聞くほど、私の中にある種の「嫌悪感」が芽生え、肥大化していった。

 人は自身にないものに憧憬を抱き、似たものに共鳴する。そして「嫌悪」とは一種の否定観念であり、即ち、「嫌だ」と感じるものは、自身の本質に迫る某かの表象である場合が多い(そのアンテナが、無意識裡に察知しているのだ)。

 私は、彼女たちの曲の中の、有名な数種を聴いてみた。上記以外には、「Say My Name 」「Lose My Breath 」「 No, No, No, Part I、Ⅱ」「Girl」程度だ。

 そして、ある明白な結論に至った。その概要を語るのは、私の中に執拗に残存する韜晦癖が邪魔をするため不可能だが、断片だけ記せば、ある曲を想い出した。その曲とは、Bonnie Tylerの「HOLDING OUT FOR A HERO」だった。

 彼女たちの曲はアップテンポのものが多い。デスティニーズ・チャイルドというユニット自体は、昨年の6月を以って解散したらしいが、その表現した作品は、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラに並ぶ、現代の洗練された女性像であり、且つ、その叫びなのかも知れない。

ユー・キャン・リーヴ・ユア・ハット・オン/ランディ・ニューマン

2006-03-21 22:33:22 | 音楽評論


You Can Leave Your Hat On-Randy Newman

Baby, take off your coat...(real slow)
Baby, take off your shoes...(here, I'll take your shoes)
Baby, take off your dress
Yes, yes, yes
You can leave your hat on
You can leave your hat on
You can leave your hat on

Go on over there and turn on the light...no, all the lights
Now come back here and stand on this chair...that's right
Raise your arms up in to the air...shake 'em
You give me a reason to live
You give me a reason to live
You give me a reason to live

Suspicious minds are talking
Trying to tear us apart
They say that my love is wrong
They don't know what love is
They don't know what love is
They don't know what love is
They don't know what love is
I know what love is


 二百人の男女がカップリングすれば、百通りの愛し方が成立する。そんな愛を歌にしたのが、この「You can leave your hat on」だ。

 この歌は85年のミッキーローク主演作品「ナイン・ハーフ」の、挿入歌として使用されている。映画のストーリーは、若き実業家(だったと思う)とキャリア・ウーマン(キム・ベイシンガー)の9週間半に及ぶ(一部)サディスティックな愛(情事)を描いたドラマで、この歌をBGMにしたストリップ・シーンも設定されている。

 私は、これ以外にランディ・ニューマンを知らない(でも凄い人らしい。詳細はこちら)。ただ、私も彼に等しく、いくつかの愛の形を知っている。何故なら、過去に数人の素敵な「キム・ベイシンガー」と共有した時間を保持しているからだ。

思考の試行

2006-03-19 20:35:18 | 論考
 

 以前の記事に、人間の存在意義とは思考することだ、と書いた。言い換えればそれは、この形骸化した社会に於いては、横並びに同調するだけでなく、時として、自身の判断で物事の本質を見抜く術を身に付ける必要性がある、ということを示唆したかったのだ。しかし、我々の社会にはそれを遮蔽するものが多く存在する。今回はその説明を試みた。

 ライン工場に勤める工員は、毎朝、始業前にはこう唱える。「今日も一日、迅速、真面目に安全作業云々・・(セリフは何だっていい。ここでは、経営者サイドにとって利益のある、特定の言葉を唱和させられる事実を確認するだけ)」 その時(唱和中)の彼は、もしかしたら食事のことを考えているかも知れない。はたまた彼女、友人、趣味のこと、もしくは、ただ眠くてぼーっとしているだけかも知れない。しかし、その心理状況は問わない。現実として発声させられることに最大の意義があるからだ。

 また、洗剤メーカーは年間何十億円もの広告費をかけ、昼ドラが終了した(主婦が観ている)時間にCMを流す。その際、必ずと言っていいほど(CM放映の目的はインパクトと与えることなので、例外はあるが)、口にしやすい(受け入れられやすい)フレーズ(メロディ)を挿入する。

「酵素パワーのトップ!」と毎日聞かされている主婦は、仮に彼女にとっては「ボールド」のほうが好きであっても、いざ売り場出掛けると、何気なく(無意識に)トップを買い物カゴに入れやすくなる。何故なら、トップのロゴを見た瞬間にいつものCM(フレーズ)を思い出し(脳裏にはメロディが流れ)、ある種の習慣化された親近感を芽生えさせるからだ。この一連が、一般に「サブリミナル・エフェクト」と呼ばれる刷り込みの正体だ。

 メディアに於けるサブリミナル・エフェクトは、日本でも一応(飽くまで一応)規制されている(その発端と経緯はこちら)。しかし、映像意外に関しては、未だ野放しの状態にある。その最もたる例が「選挙カー」だ。

 以前の記事(皇室典範緒論)でも述べたが、この国は歴史的にも「抽象的感覚的文化圏」に属する。このことが、「侘び寂び」に代表される奥ゆかしき日本の文化の形成を至らしめた由縁になったのは事実だが、反面(故に)、ここでは選挙カーに代表されるような実際に耳(口)にする規制事実を受け入れやすくなる傾向が見られる。

 ここで注記すると、(上記の工員の例でも一部触れたが)潜在意識に対しては顕在意識下での思考はほとんど障害にならない。頭(意識下)で何を考えていようとも、「潜在意識は反復して入力されたもの(キーワード、行為等)」を単純に取り入れるからだ。このことは、(主に女性がする)ダイエットを例にすると分かりやすい。ダイエットを行う際、「太らない、太らない」と思念する女性は、概ね失敗する。何故なら、潜在意識に「~ない」は通念せず、「太る」のみが情報として伝達され(潜在意識は肯定形のみ受容する)、結果、太るための生活習慣が(無意識に)現実生活で具象化されるからだ。

 また、これは潜在意識に限らないが、ある種の心理学的見地から、「人の感情に於ける好きと嫌いは等価」である。ベクトルの向きが違う(主な要因は抑圧と考えられる)だけで、自身にとって「気になるもの」だからだ。このことは、「結婚相手のことを最初は大嫌いでした」と言う新婦(もしくは新郎)の言質等が証左として挙げられる。

 かくして、(毎朝、彼女のことだけを考えているだけかもしれない)工員は所属する企業にとって有益なスタッフとなり(このこと自体は決して否定的事案でない)、選挙権を持つ一般市民は、選挙時期に毎日街宣車を走らせる(時として、所属する団体の資金が豊富なだけの)候補者Aへの投票の可能性を高める(サブリミナル・エフェクトの誘発する最大のファクターのひとつが、この反復行為である)。

 また、日本には「言霊」という思想がある。ここでその起源は割愛するが、現代社会に遍在する精神的傾向として挙げれば、「口にしたことが本当に発生する」という観念形態のことである。

 例えば、「明日は彼女とディズニーランドに行く」と言った友人に対し私が、「どうせ、明日は雨が降るさ」と言ったとする。夜が明け(天気予報に反し)本当に雨が降ると、件の友人はこう言う(考える)であろう。「お前が変なこと言うから、本当に雨が降ったじゃないか・・」

 私が(僻んで)口にした言葉と現実的事象(降雨)との間には何の因果関係もなく(もしあれば、私はアフリカに行き、神として君臨する)、神経症でない友人にしても、そのことは当然にして理解できている(責められるべきは良純のほうだ)。しかし(飽くまで無意識、刹那の)想起としては、余計なことを口にした私に対し、その非難の矛先が向けられる。これがこの国の根底に潜在するパラダイムであり、文化なのだ。

 英語の「name」には、「名付ける」の他に「明示する」といった意味もある。それ自体は「in the name of~」の成句からも明らかなように、宗教色を帯びた表現ではあるが、ある側面に立脚すれば、自身を取り巻く種々の事象を「name(意識下)」していくということは、大人になるための「確定概念の一種」でもある。そして、敢えて極論として記せば、そこで初めて個性化(ユング的には分化)され、自身の「name」を享受するに値する存在となるのだ(日本でも「名は体を表す」と言う)。

 私に盲目的な欧米化主義を提起する気は皆目ないが、物事の本質を見極める上で自身の所属する文化を精査、掌握し、同時に、フレキシブルな他文化への理解、融合に勤める姿勢は、「かくありき」なのではなかろうか。


※画像は、自然の光(理性)を用いて真理を探求していこうとし、「近代哲学の父」と称された、ルネ・デカルト(Wikipediaより説明共々拝借)。

経済成長という名の幻想

2006-03-19 20:34:38 | 論考
 

 作家の村上龍氏が以前、「インセンティブ」に対応する日本語は存在しないことを指摘していた。言わずもがな、言語は文化である。そして、概要として(主に英語に対し)対訳しきれない日本語は他にも数多く存在し、以下にその顕著な一例の差異と弊害を叙述する。

 戦後の日本は、瓦礫だけの焼け野原から驚異的復興を果たした。これほどの急進的経済成長は世界的にも稀有であり、一時は「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン(エズラ・F. ヴォーゲル著作)」なる書籍まで、出版されたほどだった。しかし、反面、この成功体験は国民の精神性を蝕み、同時に、「恒久的経済成長(具体的には株価の永続的右肩上がり等)」なる妄想概念を植えつけた。

 ここでまず、「経済」という日本語は、戦後の「経国済民」を語源としている。経国済民とは読んで字の如し、戦後の復興、国家の治世に根ざした言葉だ。これに対し、英語の「economy」はギリシャ語のオイコス(家)ノモス(法)を原義としており、エコノミー自体は本来、「節約及び、倹約」を意味する。つまり、日本語(経済)の「直線的成長」とは、大きく語義が異なる。

 派生し、その明晰な例として、生物に於いての「成長」は、その生涯の比較的早期に終了し、「成熟」の段階へと移行する。成長がストップすることで、以降は退行するのかといえば決してそうではない。このことは、(こと顕然な例として転移すると)人間の脳をモデルに説明できる。人の脳細胞は二十歳程度を分岐点とし、以後、日に約十万個のペースで死滅していく。とはいえ、既述の如く、加齢するほど白痴化するのかといえばそうでない。そして、この逆行は、そのメカニズムを証左としている。

 私が幼少の頃、世俗に言う「頭の良し悪し」は、大脳の容量(大きさ)に起因するとされていた。だが、(その後、しわの数だ、等の変節を経て)現在のより高度な大脳(分子)生理学に於いては、それが「シナプス」の活性化に大きく依存することが明示されている。シナプスとは簡略すれば神経細胞(脳細胞)間のコミュニケートを果たす接合部位のことを指し、これが如何に可塑化されているかが、昨今話題になっている「脳年齢」なるものにも深く関係しているのだ。「フレキシブルな脳の可塑化」という概念自体の捉え方(照射する側面)にもよるが、このことが直線的成長でなく、成熟を意味していることに異論の余地はなく、また、この摂理は(無論、原則と例外の大前提を踏まえた上で)万事に共通する。

 包括して言えば、日本経済にこれ以上の(健全な)成長はあり得ない。以降は如何に成熟化(合理化、効率化)を図るだけだ。そして、その過程で必然的に生じるひとつが、「思考の有用性」だ。

 十七世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と提唱し、二十世紀の心理学者カール・グスタフ・ユングは、その自著に於いて、「人生の自然な終点は老いではなく叡智である」と述べ、また、現存する日本の加藤典洋は、前世紀後半に「日本の無思想」を著述した。即ち、人間の存在意義とは「思考すること」であり、合理的根拠及び、客観的事実に拠らない活動にのみ終始する者は、その存在意義を失った状態にある、とセグメントしても過言ではないのだろうか。

 また、「可塑」という言葉は、英語で「plastic」と綴る。人間の行為を脳活動(思想)の具現化であるとすれば、安価で便宜性に富んだ石油製品で創造(ここでは敢えてこう表現)した今の世界は、あまりに空虚で放擲であるようにも思える。


※写真は実験用にスライス、培養(着色)化した海馬シナプス。

平和の象徴≠ハト?

2006-03-15 22:19:19 | こばなし


「若い頃はな、暴れた馬(飼っていたらしい)が出ると、竹ざお握り締めて、がんがんにシバキ倒してやってもんよ云々・・」

 私にはちょうど三十歳、年の離れた父がいる。幼少の頃の私はよく、田舎育ちの彼の事実確認しようがない(親戚に訊ねようにも、同席する父のオーラの前に硬直)自慢話を聞かされて育った。「やめちまえ、ばっきゃろう」が口癖だった彼は、芸人並みの話術を保持するだけでなく、同時に、「ハンター」でもあった。

 小学校に通い始めたある日。私が家に帰ると、二匹のハトがいた。母に聞くと、父が会社近くの小川で捕まえてきた、とのことだった。その罠とは、捧で立て掛けたひっくり返した笊(ざる)の下にパン屑を置き、タイミングを見計らって、結んであった紐を引っ張る(棒を倒して、笊の中にハトを捕獲)という古典的なもの(何時間待ったのか)で、勝利者たる彼は、勇み気に微笑んでいた。

 日本では新沼謙治(演歌歌手、ご記憶であろうか)等が有名であるが、ハトなる鳥は世界的に最も愛されているペットのひとつである。現在でも主にヨーロッパでは、熱烈な飼育者たちが、パウダー、ファンテール、ラント、バーブ、ドラゴン、タンブラー等と呼ばれる諸品種を飼育し、その美しさ(特質的形状)を競っている。とはいえ、もちろん当時の私に斯様の知識はなかったし、その上、二匹は子供目にもただの野バト(首の辺りが緑色のやつ)にしか見えなかった。

 また、以前の我が家では、一時、鶏を飼育していたことがあった。夜祭りの屋台で、「雌鳥だ」と騙された私が持ち込んだものだった。

(今度はこいつを飼う気かな・・) 私はぼんやりと考えていた・・。

 その時だった。研いでいた出刃包丁を手におもむろに振り向いた父は、(まるでそんな私を嘲笑うかのように)もう一方の手で逃げ惑うハトの一匹を捕まえると、まな板の上に乗せ、その首を刎ねた(と同時に、私は以前飼っていた鶏の最期も同様だったことを思い出した)。

 耳にしたことは覚えていない。だが、ハトは確かに断末魔の叫びを上げたはずだった。暫く痙攣した小さな体躯はやがて動きを止め、それを待っていた父は、血みどろの手でその胸元に包丁を突き刺した(ジーザス・・)。内臓を全て取り出し満足(?)した彼は、次に毛を毟り始めた(子供心に、手くらい洗えよ、と思ったのは記憶している)。

 二匹目も同じ運命を辿った。気付くと既に、母と姉の姿はなかった(密かに外出済み)。そして、約一時間後。男二人の食卓には、それまでに(それ以降にも)見たことのないサイズの、鳥の丸焼きが置かれた。

(喰え・・)

 彼の意図することは分かっていた。何よりも、その視線が物語っていた。とはいえ、ついさっきまでラブリーにポロポロ鳴いてた生物を、やすやすと食す気にはなれなかった。しかし同時に、(柔道をかじったこともある彼に)矮小な私が逆らえるはずのない事実も必至であった。そして。(当然、カットする食器もない)私は、その少し体毛の残存する肉塊を手で掴み、口へと運び始めた・・。

「つまりな、こいつらは不味いから『平和の象徴』なんてことになってんだよ。これでもし、美味しかったりしてみろよ。滅んでるか、家畜になってるかのどっちかだわな。分かるか・・。まあ、残さず全部喰えよ」

 私は自身のノルマである一匹を、懸命に、できるだけ噛まずに呑み込んだ(呑み込めないほど不味くもなかった)。そもそも味付けしてんのかよ、とも思ったが、口は災いのもと(再チャレンジされても困る)であるが故に、私はただ寡黙に義務を果たした。
 
 彼のコレクションは他に、つぐみ、ひよどり(かすみ網使用、共に捕獲禁止動物)、へぼ(地蜂)、うなぎ等、多岐に亘った。彼にとって自然はイコール「恵み」であり、そこに存在する全ては「食材」だった(節足動物及び、図鑑にも載ってないようなシダ類は勘弁してほしかった)。

 かくして。私はハト(学名:Columba livia)なる種の存在意義を知った。ただ、今なお軌跡する疑問は、当時まだ七歳だった私に、そこまでした彼の意図とはいったい何だったか、ということだ。無論、本当に意図なるものが存在したとしての話しだが・・。

少子化問題と母性本能

2006-03-13 22:10:37 | 時事関連
 

 2006年3月4日付けの朝日新聞によると、第二次ベビーブームに生まれた「団塊Jr.」と呼ばれる世代(71~74年生まれ)の約半数が、30歳の時点で子供を儲けていないらしい。このことが何を意味するのかは、察して余るであろう。

 昨今、社会問題として提起されるうちのひとつが、この「少子化問題」だ。では何故、適齢期の男女が子供を作らなくなってしまうのか。まず、主に共産党などが論拠にしている経済格差の問題。それはそれで一因として正しいが、反面、文化的側面から見ると、そのこと自体はしょうがないとも言える(何故なら、文化とは圧倒的差異から生じるものだからだ)。故に、私は別の側面から検証したい。私が焦点にしたいのは、「社会的規範(父権)の崩壊」だ。

 本をたくさん読めば博識になれるかもしれないが、本当の意味での知識、教養というのは、IN(学習)もOUT(実行)も経験を通してしか成立しない。よく、他人にはえらそうなことを言っておきながら、自身の行動が全くそれにそぐわないといった人がいるのはそのせいだ。そのことは「頭で理解しているということ」と、「行動として理解している」こととの違いとも言い換えられる。後者は実際に行動を起し、そのレスポンス(周囲の反応の変化等)を含めて、自身が教養を高める(周囲との関連性に帰属する行為)ということだ。

 団塊世代から始まる負の系譜(幼児性)に関しては、以前、別の記事(新世紀の終末論)に記した。彼ら(団塊世代)は家政化(画一的拝金主義)した時代を形成し、生きた世代であり、そのマイナス面として、人間的成長の遅延が著しい。並行して、価値観の相違に不適応であり、コミュニケーション能力に於いても、資質が低い。彼らは現在、彼ら自身が伝統の系譜を担う年代にあるのだが、上記を根拠にスムースに行えない。どうなっているのかと言えば、「黙ってやれ」と押し付けることに腐心してしまっているのだ。

 彼ら以前の世代(現在でいうおじいちゃんクラス)から、その風潮(黙ってやれ)はあった。ただ、その決定的差異は合理的根拠(知識、教養)の在否である(口頭では伝わり難い故に、敢えてそうしていた)。しかし、団塊世代に於いてのそれ(知識、教養)は希薄であり、形骸化した儀式(パフォーマンス)を部下(及び家族)に強いるのみだ。儀式を行うのは子供と宗教(俗に言う新興宗教)しかない。そのどちらでもない者が、家庭不和(自閉症を筆頭にした精神病)、労働拒否(ニート問題等)を発生させるのは、全て「必然」なのである。

 文化の発起、継承というのは、神話の時代から主として男性が担ってきたパートだ。敢えて婉曲でない表現を用いると、女性のほうが圧倒的に強く、現実的(サヴァイヴァル精神に富む)であるため、男性は外に出て、それとは別の何かを得なくてはならないのだ。文化の或る側面とは長期的展望からの知恵のことであり、もし男性にそれがなければ、あと(女性に対して)勝るのは、「重い物を持てる」と「おしっこを途中で止められる」くらいしかなくなってしまう。どこの誰がそんな輩の子を産み、愛情を持って育てようと思うのであろうか。

 本能と名の付くものには全て、「リリーサー」と呼ばれる発動要因が必要になってくる。このことは「母性本能」に関しても同様で、(生物であるが故に個体差は生じるものの)ただ横に男性が寝ていれば発情するわけではないし(当たり前)、子供がいれば必ずしもそれだけで、面倒を看ようとも思わない。そこには、確固たる父性の存在が不可欠なのだ。つまり、(無論、女性の側に問題がないとは言い切らないが)昨今の少子化問題に於いて、「産まない女性」「産んでも育てない女性」を一方的に槍玉に挙げるのは、間違いも甚だしいのである(負のサイクルの形成にすらつながる)。上記を論拠に私は断言する。「少子化問題打開の鍵は男性の側にあるのだ」と。

 現役世代の雄姿たちよ。今すぐに全て解決とは言わない(ラディカルな行為は混乱を引き起こし、結果、元に戻るだけだ)が、今行っている儀式を少しでも減らすことから始めてみてはどうだろうか。それがより良い社会の(親近者との関係)形成につながり、如いては末裔までの幸せに加担することにもなるから。

 かく言う私も71年生まれであり、渦中の世代に該当するのだが、恥ずかしいことに結婚はおろか、それに該当する女性の存在すらない。とはいえ、決して諦めたり斜に構えたりはしない。私も含め、皆で少しずつ歩みを刻んでみるなんてのも、一考の価値があるのかもしれない。


※モーゼ像はあくまでイメージとして用いたのであり、特化した宗教を意味するものではない(私は一般的には無神論者に分別される)。件に関し、本来であれば日本のものを掲載すべきだが、諸事情を鑑み、今回は控えさせて頂いた。
 また、私は団塊の世代に対し厳しい指摘を多用するが、経済成長等のプラス面を否定するわけでは決してない(物質的に恵まれた社会の恩恵を忘れることはしない)。


万能感と加点主義

2006-03-12 21:16:55 | 論考
 

 以前の記事に書いた通り、野球には関心が低い私だが、以前テレビでイチロー(松井だったかも)が、興味深いコメントをしているのを耳にした。

「(アメリカの)メジャーは日本と違って加点主義だから、プレーがしてて気持ちがいいし、選手も成長しやすい云々・・」

 同じ野球(仕事)するのなら、誰だって「褒めて褒められ」がいいに決まっている。では、何故それが成立しないのか。心理学に於いて、「万能感」なる言葉がある。読んで字の如し「何でもできる」という、一種の幼児性に帰属する概念であるが、これが上記の事象に深く関連している。

 人間は、生まれてすぐには「立って歩くこと」ができない。このことは、ある程度の社会性を帯びた種(主に哺乳類)であれば、普遍的に同様の現象が見られるが、その中に於いても、自立歩行までに1年前後の期間を要するほど未熟な状態で出生する種は、生物界でも稀な例に挙げられる(他に有袋類等)。当然その間は、敵から逃れることはもちろん、摂食、排泄すらままならないわけで、自身の生を100パーセント、母親(乃至、父親他の成体)に依存する形になる。この間に必然的に芽生えるのが、「万能感」である。

 ここでは敢えて、母親をモデルにするが。子はお腹がすくと泣き、授乳を受ける。これによって食欲と同時に、乳首をしゃぶるという行為から、幼児性性欲も満たす。また、眠くなれば安全な(誰にも邪魔されない)睡眠を享受でき、排泄後は、適応に処理される(心理学で排泄物、分泌物は秘密を意味し、幼児はこの時点に於いて、母親の自我のコントロール下にある)。つまり、生理的欲求の全てを他者に依存し、自身の意に介さないものは、「泣く」という表現を以って拒否(意思表示)している。この生理的慣習は、トイレでの自主排泄を学習する3~4歳くらい(兄弟の有無等の諸条件に影響される)まで継続されるのだが、この間(正確にはそれ以降の家庭内に於いても)に、抽象的表現でいう「母親の愛情」が欠落(不足)していると、この「万能感」なるものが無意識の深淵に残存してしまう。また、上述した通り、万能感とは幼児性の一種でもあるので、故に、自我の覚醒段階が低度であることも含有する。そして、その諸現象としてはまず、乖離概念の希薄な他者への、完全性の希求が挙げられる。それは目上の者に始まり、異性、友人へと拡散していくのだが、その最も明瞭なケースは、異性への投影であろう。

 例えば、彼氏(彼女)が不実を働いたとする。(仮にそれを分かりやすく浮気であったと仮定して)自身から捉えた彼氏(彼女)は完全潔癖なものであるはず(そうあるべき)であるから、負の面が露呈されればされるほど、減点方式でどんどんそのパートナーの株を下げていき、反面、正の側面を目にしても、称賛することがない(このことが一連の負のサイクルを固定化、激化させ、終焉へ誘うことは想像に容易い)。

 同時に、この完全性なるものは、相対的、必然的に自身にも向けられる。そして(これは小児以降成人以前に至るくらいまでの家庭に於ける父母との心理的関わり方、如いては、減点方式による躾けに強く依存するものでもあるのだが)、完璧であらねばならないという強迫観念から、そうでない自身への嫌悪、自己否定の衝動に陥り(固定化し)、このことが直接的誘発原因となって、「アンダー・アチーバー(客観的に決してそうではないのに、著しく自己評価が低いために、IQ値に比例するだけの社会的成功度が伴わない)」と呼ばれる病癖が発症してしまう(これは、昨今の日本でも大きく問題視されている)。また、万能感から以降、不随(派生)されるものとして、合理的思考の放棄(軽視)という傾向も挙げられる。世の中を情動的(善か悪かだけの二次元論)に把握する趣向が強いため、合理的、客観的論拠に基づいた思考形態を取得しにくくなってしまうのだ。

「うちの子、少し変なんです・・」

 見識のある精神科医(臨床心理士、カウンセラー他)であるならば、まず子供より先に、その同伴した両親の問題点に着眼してしかるべきだろう(負の観点からも、子は親を映す鏡であるから)。例えば、幼い子がお人形さんを失くしてしまって泣く。次に成長して、思春期に恋人と別れて悲しむ。そして大人になって、金銭的損失(分りやすくは、株で大損した等)をして嘆息する。これらはある意味、正常な精神的成長を表していると言えるが、神経症患者(の、あるひとつの観点からの定義)とは、成人してなお、「お人形さん」を失くして泣く人物を指すのである。そして、(今これを読んでいる)あなたの生活する環境へと焦点を移すと、その程度に差異(病的なほどではない)はあるものの、過去のある時点(のある種のトラウマ)に固執し、考えを改めようとしない人物の存在が思い浮かぶのではないだろうか。もしそうであるなら、まず自身を含めた周囲からの改善を試みなくてはいけない。弱い立場にある子供に、そのしわ寄せが及ぶ前に。

 この世に誰一人、神様はいない。それは自身についても同様で、完璧でないのは当たり前なのだ。また、私は「悪性の本質を幼児性である」と定義付けているが、それにしても、この世に無駄なものは一切ないのであって(幼児性なくして、あらゆる文化、芸術は生じない)、欠点があるからこそ人間なのである。相手に、また自身に対しても過度な潔癖概念を持たず、逆に、(それが偶然であれ)うまくいったときを褒める、加点主義へと移行すれば、きっと、人生は明るく開けてくるのではないだろうか。少なくとも前提を、「相手は不完全なのだ」と変えることにより、気持ち的に今よりは楽になるだろう。

 最後に、「F・スコット・フィッツジェラルド」という小説家をご存知であろうか。その代表作のひとつ、「The Great Gatsby(偉大なるギャッツビー)」の 冒頭に於ける、主人公である少年と父との会話を付記する。

「ひとを批判したいような気持ちが起きたときにはだな・・。世の中のひとがみんな、おまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみることだ・・」


 ※写真は日本フイッツジェラルド・クラブ ホームページより。

スピード概念と民主主義理念

2006-03-12 21:08:28 | 論考


「市販車の販売はレースの資金作りにすぎない」

 フェラーリの創始者、エンツオ・フェラーリが生前よく、口にした言葉だ。彼は、「車はとにかくエンジンだ。何よりまず、速くスムースに駆け上がるエンジンを作れ(うろ覚え)」を信条に、伝統と誇りを以って、「誰よりも速く」を追求した男だった。

 私はF1が好きだ。また、サッカー(主にヨーロッパ・リーグ)も興味があり、ボクシング(他の格闘技系)にも関心が高い(学生時代はバスケット・ボール部に所属していた)。何故なら、それらには芸術性を併有した、決定的な「美しい瞬間」というものが存在するからだ。しかし、野球にはそれがない(イチロー等の例外は除く)。では、F1、サッカー、格闘技等に共持できて、野球にない由縁とは何か。その答えは、「時限」の介在だ。
 
 数年前、「バカの壁」という本が、まさしくバカのように売れた。その著者である養老孟司なる人物が、NHKの特集番組の中でこう答えていた。「死というものには1人称、2人称、3人称の3種類がある。1人称(自身)の死は現実的に体感できないからとりあえず省くとして、日本人は3人称(他人)の死は当然のように受け入れる(見過ごす)ことができるが(例えば、日々のニュース)、2人称の死に対しての適応能力が低い・・」。つまりは、本来、2人称(親、友人等)の死を通して得られるはずの、「自身の死」への想像力が著しく欠乏している、と言いたいのであり、このことは私の言う、「時限の概念」の形成に深く関与している。

「自身の死」を認知すると、どうなるのか。死にたくなる、とお思いになるかも知れないが、本当は全くその逆で、「生」に固執するようになる。生に固執するとは、言い換えれば、快楽に執着するということでもある。どうせいつかは死ぬんだから、それまでは気持ち良く行きようじゃないか、の発想になるのだ(ここで想像力が媒介しないと即物的快楽に溺れやすくなり、では、想像力を養うためには、という話しに突入するが、これに関しては、以降の記事に託すことにする)。

 ここで話しを戻すと、モータースポーツの最高峰と言われるF1とは、単に直線を早く移動すればよいだけのものではない。コーナーをスムースに駆け抜けるにはギリギリのポイントでブレーキをかけ、最もインをつく理想的なハンドリングで、バランスを崩さずエンジンのトルクを路面に伝える必要がある。つまりF1とは、如何に速くゴールするかに集約するスポーツであり、その過程で、圧倒的に他者よりも無駄を省くこと(合理化、効率化)を強いられるスポーツでもある(この点に於いてはサッカーも同様であるが、その決定的差異にして優位たる合理的根拠は、F1は皆一様のベクトル=方向性を保持することにある)。では、どうしてそこまでして(フェラーリの年間のレース資金は100億円程度)スピードを求めるのか。それが、気持ちいいからである。レースと聞くと、どうしてもドライバーだけを連想しがちだが、その勝利の裏には監督に始まるメカニック他のピット・クルー、それらを影で支える膨大な数の関連スタッフが必要となる。そして、それら文化、人種の壁を越えたクルー(仲間)が、与えられた物理的、時間的限界に於いて、ただ速くゴールする(皆にとって気持ちいいことの)ためだけに、各々が自身の得意分野で切磋琢磨を行うのがF1であり、同時にその概念は、民主主義理念の根幹に通念する。

 英語で「race」と綴れば、「人種」を意味する。日本は今、規制緩和の波の中にあり、「いい物をより安く」の市場原理主義の下に、これまでのような産業界への国家権力による干渉が徐々に取り払われつつある。アメリカ主導の片手落ち(無秩序)政策である、という負の側面は無視できないにしても、「生きている」ということの「死んでいない」ということとの差異を、考慮する時期に差しかかっているのかも知れない。少なくとも昨今の流動化社会に於いて、自分の中にリミットを設けなくては、「リアル」に生きていくことは不可能(つまり、「リアル」と「アンリアル」の差異は、時限の有無)だと結論付けられるだろう。

 2度のWBC世界バンタム級王者に輝いた辰吉丈一郎氏は現役時代、自身のボクシングを芸術に喩えていた。2004年、F1史上最多となる7度目のワールド・チャンピオンに輝いたミハエル・シューマッハは、そのインタビューで、「僕は普通の人間。ただ、人より速く走れるだけ」と答えた。ボクシング(格闘技)はただの殴り合いでなく、F1は世界一高価な追いかけっこ、でもない。そこには、識るべき者のみが識る、この世の真理のひとつが存在するのだ。またF1(フォーミュラ・ワン)の「Formula」とは、「枠」を意味する。与えれた枠の中での自己実現。それを、自由と呼ぶのではないだろうか。


 2006年のF1レースは3月12日の「砂のバーレーンGP」を皮切りに、全19戦で開催される。レギュレーションの変更点としてはまず、エンジンが原則V8/2400ccに統一されること、レース中のタイヤ交換が可能になる(戻る)こと、予選のノック・アウト方式等が挙げられ、日本のホンダ、トヨタ、スーパー・アグリF1を含めた全11チームで争われる予定だ。エンジン関連に関し矛盾するとはいえ、レギュレーション変更の根拠がオーバーテイク(ショー的要素)の多用化にあるのは自明の理だ(08年にはCDGウィングなるものが導入予定)。この記事を読んで少しでも興味の湧いた人(レースを楽しむ資質は、より速いものを「美しい」と感じる感性のみ)は、深夜放送を録画してみてもいいのかも知れない。


※写真は、スクーデリア・フェラーリの2006年マシン、「フェラーリ248F1」。本年度のテクニカル・ルールに準えるスペックに変更、進化しているが、チェロを想わせるアーティスティックなフォルムはそのまま継承。

 記事中(普段、あまり他人の書籍を引用しない私が)、養老孟司氏のそれを挙げているのは、氏に対しての特別好意的な所感を意図したわけではなく、寧ろ私は、「中立・公正」の立場を執らぬ者を元来、知識人、文化人とは認めない観点から、当該書籍に関しては、同氏が自身の「バカの壁(良識の否定)」を発露しただけの作品である、と捉えている。

ナチュラル・ウーマン/キャロル・キング

2006-03-12 21:08:07 | 音楽評論


(You Make Me Feel Like A) Natural Woman-Carole King

Lookin' out on the morning rain
I used to feel uninspired
And when I knew I had to face another day
Lord, it made me feel so tired

Before the day I met you, life was so unkind
But your love was the key to my peace of mind

'Cause you make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman

When my soul was in the lost-and-found
You came along to claim it
I didn't know just what was wrong with me
Till your kiss helped me name it

Now I'm no longer doubtful of what I'm living for
'Cause if I make you happy I don't need to do more

You make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman

Oh, baby, what you've done to me
You make me feel so good inside
And I just want to be close to you
You make me feel so alive

You make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman


 キャロル・キングは70年代を代表するシンガー・ソングライターであり、16歳にして最初の結婚を経験した、現代でいう「自立した女性」のモデルでもある。この「Natural Woman」が収められているアルバム「Tapestry」には他にも、「It's Too Late」「You've Got A Friend」等、多くのヒット曲が含まれている(詳細はこちら)。1971年発売(私の生年)ということもあってか、思い入れの深い作品なのであるが、同時に、この「Natural Woman」ほど、母性の美しさをストレートに表現した歌を、私は他に知らない。

 フランス人は言う、「○○という、真理と結婚する」と。また、ラテン語圏で女性名に使用される「ソフィア」とは、元来「母性」を意味し、同時に「知性」の意味も持つ(英語でいう哲学、philosophyの語源でもある)。つまりこのことは(少なくともラテン文化圏に於いて)、母性こそがこの世の叡智である事実を物語っているのではないだろうか。そして、女性は概して「ひかりもの」に弱い。側面を違えて視れば、(本能的に)光るものを身に付けたり、周囲を光らせたがったりする(例えば掃除、洗濯等)。価値観の多様化した現代に於いて、不用意な一元化論は時として危険だが、敢えて言えば、私は「母性」の本質を「叡智及び、光」なのではないかと捉えている。

「Lookin' out on the morning rain. I used to feel uninspired・・」

 この「Natural Woman」は、アレサ・フランクリンに提供した歌でもあるが、私は飽くまで、キャロルのピアノとその夫、チャールズ・ラーキーのベースのみで演奏される、こちらのヴァージョンをお薦める。「かつては何の痛痒も感じなかった朝露」こそが、実はキャロルの、如いては母性そのものの輝きなのかも知れない。

涙そうそう/夏川りみ

2006-03-10 21:44:09 | 音楽評論
 

 涙そうそう-夏川りみ

 古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
 いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
 晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
 想い出遠くあせても
 おもかげ探して よみがえる日は 涙そうそう

 一番星に祈る それが私のくせになり
 夕暮れに見上げる空 心いっぱいあなた探す
 悲しみにも 喜びにも おもうあの笑顔
 あなたの場所から私が
 見えたら きっといつか 会えると信じ 生きてゆく

 晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
 想い出遠くあせても
 さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう
 会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう


 普天間基地が揺れている。この国の内政事情を紐解くには、誰が得するのかを突き止めればよい。警察は人が殺されたとき、まず、周辺の利害関係を洗う。同様に、日本の国政は、殺人者の犯罪心理に依拠している。そして、対外交渉に於いては、国内に目を向けるより、在日アメリカ大使館のHPに入り、「年次要求」を閲覧したほうがより合点がいく(どうしてこれを、内政干渉だと言えないのか)。この国の外交は、自国の利益でなく、宗主国の指示に従っているからだ(小泉首相の靖国神社参拝も、中国脅威論を煽って国内を右傾化し、アメリカからの兵器購入へ結びつけるためだけにすぎない)。そして、不幸にもそのふたつの側面からの干渉を被るのが、沖縄基地問題だ。

 ベルリンの壁が、旧ソビエト連邦が崩壊してから、何十年経過しているのか。アメリカはもう、日本を守ってくれてはいない(事実、沖縄駐留部隊の多くは中東へ移動済み)。また、いくら戦争がアメリカの公共事業(アメリカなる国家には保持する兵器の償却ベースでドンパチしないと、経済的に破綻する可能性が潜在する)であるとはいえ、ブッシュが蜂の巣を突っついたおかげで、彼らも当面は軍事費削減の方向性を保たざるを得ない。つまり、在日米軍基地とは、アメリカが「世界の覇権国」ならしめるための、足場のひとつに過ぎないのだ。

 東京空襲が、広島、長崎への原爆投下が生易しいものだったとは言わない。ただ、1945年3月から日本が無条件降伏するまでの半年間に及ぶ、沖縄戦の凄惨さも常軌を逸した。

「轟音の最中。逃げるのに一生懸命で、弾が自分の胸を貫通したことも、抱いていた乳飲み子が即死していたことにも、気付きませんでした・・」

「隠れ家だった防空壕に行ったら、子供は泣く(アメリカ兵に発見され、火炎放射される)から殺してくれ、と言うんです。じゃあ、私たちは出て行くから、と答えると、スパイになるかも知れない、と言われ・・。どうしようもなかったんです・・」

 沖縄の地上戦(日本で地上戦が行われたのは沖縄だけ)では、約半数の民間人を含む20万人(諸説有)が死亡した。沖縄は(結果的には)本土の防衛に利用されたのであり、現在の私たちの生活の幾らかは、その尊い犠牲の上に成り立っていると言っていい。そして、そんな島から流れたのが、この「涙そうそう」だ。
 
 作詞した森山良子は、死んだ兄への思慕を綴ったのらしい。作曲(こちらの完成が先)のBEGINは、また、豊かな表現力で歌い上げた夏川りみは、一体、何を想ったのだろう。そして、これを読むあなたには、どの「笑顔」が想い浮かぶのだろうか。

新世紀の終末論

2006-03-06 00:01:14 | 時事関連


「どうして人を殺してはいけないの?」

 昨今のメディアに於いて、このことがよくテーマとして見受けられる。そんなこと当たり前じゃないか、では今の子供たちは納得しない。何故なら、この国の「世間というもの(そんなことしたら世間さまに笑われるぞ、の世間)」、つまり、既存の共同体ルールが瓦解しつつあるからだ。では、何と答えればよいのか。今日はそれを検証したい。

 まず、大人と子供の差とは何か。よく、子供に嘘(言い逃れ)を言った親が、「子供だと思ってたらとんでもない」なんてことを言っているのを耳にする。つまり、相手は子供だから大丈夫だろうと思っていたのが、いとも容易く嘘だとバレてしまったというのである。このことは女性が交際相手の浮気を見抜くのと同じ原理で、バランス力に起因している。親(彼氏、夫)がいつもとは違う声のトーン、仕草、行動で自分に対して接することで、直感的に「変だ」と感じているのである。直感力はより野生に近い子供(女性の場合は母性本能)の方が敏感であるので、この事実は然して驚嘆に値しない。では、嘘(子供は皆、成長と共に嘘をつく)の見抜き方でないのだとしたら、大人と子供の差とは一体何なのであろうか。私はそのひとつを「判断力」だと考えている。

 では、人間の判断の基準となるものは何であろうか。まずは情報だ。そして情報の本質とは、変化と差異である。人は比較を以ってしか、論理的判断を下せない動物なのだ。しかし、周知の通り、子供への情報制限は親の義務であるという節もある。そこで次に浮上する判断材料が、「経験」というものである。

 子供は猫をいじめて、噛まれて、痛いおもいをして初めて、猫がそういった危険性を持った動物であることを認識する。とはいえ、自動車の危険性を知るために、わざわざ車に轢かれる必要はない。親が教えてやればいいのである。つまり経験とは、人から教わった(聞いた)、本で読んだ等の間接的経験を含めるのである。

 そして、現代の子供の中には、著しくこの経験値の低い者が存在する。屋外に出て自身の手で直接、何かに触れる経験の乏しい子供が多数いるのだ。勿論、本も読まない(ゲームはする)。このことが、子供の成長に大きな足枷となっていることは容易に想像できるが、それ以上に問題なのが、子供だけでなく、その両親までもが人としてあまりにも未成熟であるという点である。

 現在のパパママ世代というのは、団塊の世代の息子、娘たちである。団塊の世代というのは(決して批判的見解のみで挙げるのではないが)、終身雇用、年功序列制度を背景に、画一量産、使い捨て消費のみを追及し、バブル経済を経てきた世代である。彼らの時代に於いて仕事とは労働実績でなく労働時間なのであり、質ではなく量であった。また彼らは、「出る杭は打たれる」の風潮に於いて、上司に与えられた業務のみを黙々と遂行(しているようにアピール)することが美徳とされ(事実、そのタイプが出世した)、自身の判断で行う業務及び、派生する失敗経験(人は失敗からより多くを学ぶ)が極端に少ない、矮小な世界を生きた世代でもあった。更に、彼らはそれが良くないと気付きながらも(時代の流れで仕方なかった)、家庭を犠牲にした。そのことは、実質的な子育て(子供とのコミュニケーション、共有時間等)に参加しない彼ら自身の、人としての成長、成熟(教える事は学ぶ事に等しい)を著しく阻害した。つまり、昨今浮上した「日本人の未成熟性」という問題の根源は団塊の世代、如いては労働力として現存するほとんど全ての世代に及ぶのである。


「どうして人を殺してはいけないの?」

 この問いに対し、最も多く見受けられるのが、「法律に違反するから」であったり、「命は尊いから」であったりする。しかし、前者の場合は、「バレなきゃいいじゃん」で終わってしまう(事実、それが彼らの目にする大人たちの現状だ)。では、後者の場合はどうどうであろう。私は幸か不幸か、男の子である。男系の時間軸に即して、以下にその説明を試みた。

 進化論で有名なイギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンは、その名著「種の起源」に於いて、全ての種は永続的変化の途中段階の変種に過ぎない、と指摘している。そしてその上で、器官(痕跡器官を含む)、骨の形状及びその個数他の由来の相似性に鑑み、人を含む全ての生物は同じ自然形態(系統的配列)に含まれる、と結論付けている。要約すれば「僕らはみんな生きている」の精神(これは日本密教の開祖、空海の「曼荼羅」の思想にも通じる、自然を一体に捉えた世界観)であり、つまり、それがどんな生物(単細胞生物から始まる全ての有機体)であれ、彼らの存在なしでは、私たちも存在し得ない客観的事実を帰納しているのである。

 そして、私たちの誰もがその外部からの恩恵に因って成り立っている。直接的な例で言えば、食物の中で水と塩以外は一様に生物であるし、また、普段の何気ない自身の言動が意外にも多くの身近な人の思想、行動へ影響(稀でなく傷付け)し、そして、その逆もしかりである。つまり、この世に誰ひとりとして神様(絶対的存在)はいない。誰もが普遍的な相対性の裡に存在するのである。

 上記を論拠に私は断言する。大切なのはその犠牲を如何に最小化し、また、発生の避けられないものに対しては、如何に無駄にしないか、ということであると。そして、私はその理念を以って、殺人行為(死刑判決を含む)の一切を否定する。何故なら、人間による同種への破壊行為は理論上回避可能なことであり、それこそが人が人たる所以であるからだ。

「どうして人を殺してはいけないの?」

 その相手が大切な人だったとして、あなたならどう答えるであろうか。もし、訊ねてきたのがあなたの子供であったとしたのなら、決して面倒がらずに、逆にコミュニケーションを図るチャンスだと捉えて欲しい。答えを諭すのではなく、「どうしてそう思うの?」「パパだったらこう考えるかな」と意見を交換し、共に答えを導き出す方向へと向かって欲しい。自身で物を考える習慣を身に付けさせることは大切であるし、そうすることが親子の信頼関係の構築にもつながる行為でもあるから。

 子を抱く母の姿は美しく、その胸に宿る子供の笑顔は何物にも代え難い。そしてこれこそが、46億年続く生物の系譜そのものなのであると、私は信じて止まない。