アインシュタインメモ☆ブログ

 特殊相対性理論が発表され、はや101年。 新世紀の世に捧ぐ、愛と希望のサイエンス・ラプソディ☆

万能感と加点主義

2006-03-12 21:16:55 | 論考
 

 以前の記事に書いた通り、野球には関心が低い私だが、以前テレビでイチロー(松井だったかも)が、興味深いコメントをしているのを耳にした。

「(アメリカの)メジャーは日本と違って加点主義だから、プレーがしてて気持ちがいいし、選手も成長しやすい云々・・」

 同じ野球(仕事)するのなら、誰だって「褒めて褒められ」がいいに決まっている。では、何故それが成立しないのか。心理学に於いて、「万能感」なる言葉がある。読んで字の如し「何でもできる」という、一種の幼児性に帰属する概念であるが、これが上記の事象に深く関連している。

 人間は、生まれてすぐには「立って歩くこと」ができない。このことは、ある程度の社会性を帯びた種(主に哺乳類)であれば、普遍的に同様の現象が見られるが、その中に於いても、自立歩行までに1年前後の期間を要するほど未熟な状態で出生する種は、生物界でも稀な例に挙げられる(他に有袋類等)。当然その間は、敵から逃れることはもちろん、摂食、排泄すらままならないわけで、自身の生を100パーセント、母親(乃至、父親他の成体)に依存する形になる。この間に必然的に芽生えるのが、「万能感」である。

 ここでは敢えて、母親をモデルにするが。子はお腹がすくと泣き、授乳を受ける。これによって食欲と同時に、乳首をしゃぶるという行為から、幼児性性欲も満たす。また、眠くなれば安全な(誰にも邪魔されない)睡眠を享受でき、排泄後は、適応に処理される(心理学で排泄物、分泌物は秘密を意味し、幼児はこの時点に於いて、母親の自我のコントロール下にある)。つまり、生理的欲求の全てを他者に依存し、自身の意に介さないものは、「泣く」という表現を以って拒否(意思表示)している。この生理的慣習は、トイレでの自主排泄を学習する3~4歳くらい(兄弟の有無等の諸条件に影響される)まで継続されるのだが、この間(正確にはそれ以降の家庭内に於いても)に、抽象的表現でいう「母親の愛情」が欠落(不足)していると、この「万能感」なるものが無意識の深淵に残存してしまう。また、上述した通り、万能感とは幼児性の一種でもあるので、故に、自我の覚醒段階が低度であることも含有する。そして、その諸現象としてはまず、乖離概念の希薄な他者への、完全性の希求が挙げられる。それは目上の者に始まり、異性、友人へと拡散していくのだが、その最も明瞭なケースは、異性への投影であろう。

 例えば、彼氏(彼女)が不実を働いたとする。(仮にそれを分かりやすく浮気であったと仮定して)自身から捉えた彼氏(彼女)は完全潔癖なものであるはず(そうあるべき)であるから、負の面が露呈されればされるほど、減点方式でどんどんそのパートナーの株を下げていき、反面、正の側面を目にしても、称賛することがない(このことが一連の負のサイクルを固定化、激化させ、終焉へ誘うことは想像に容易い)。

 同時に、この完全性なるものは、相対的、必然的に自身にも向けられる。そして(これは小児以降成人以前に至るくらいまでの家庭に於ける父母との心理的関わり方、如いては、減点方式による躾けに強く依存するものでもあるのだが)、完璧であらねばならないという強迫観念から、そうでない自身への嫌悪、自己否定の衝動に陥り(固定化し)、このことが直接的誘発原因となって、「アンダー・アチーバー(客観的に決してそうではないのに、著しく自己評価が低いために、IQ値に比例するだけの社会的成功度が伴わない)」と呼ばれる病癖が発症してしまう(これは、昨今の日本でも大きく問題視されている)。また、万能感から以降、不随(派生)されるものとして、合理的思考の放棄(軽視)という傾向も挙げられる。世の中を情動的(善か悪かだけの二次元論)に把握する趣向が強いため、合理的、客観的論拠に基づいた思考形態を取得しにくくなってしまうのだ。

「うちの子、少し変なんです・・」

 見識のある精神科医(臨床心理士、カウンセラー他)であるならば、まず子供より先に、その同伴した両親の問題点に着眼してしかるべきだろう(負の観点からも、子は親を映す鏡であるから)。例えば、幼い子がお人形さんを失くしてしまって泣く。次に成長して、思春期に恋人と別れて悲しむ。そして大人になって、金銭的損失(分りやすくは、株で大損した等)をして嘆息する。これらはある意味、正常な精神的成長を表していると言えるが、神経症患者(の、あるひとつの観点からの定義)とは、成人してなお、「お人形さん」を失くして泣く人物を指すのである。そして、(今これを読んでいる)あなたの生活する環境へと焦点を移すと、その程度に差異(病的なほどではない)はあるものの、過去のある時点(のある種のトラウマ)に固執し、考えを改めようとしない人物の存在が思い浮かぶのではないだろうか。もしそうであるなら、まず自身を含めた周囲からの改善を試みなくてはいけない。弱い立場にある子供に、そのしわ寄せが及ぶ前に。

 この世に誰一人、神様はいない。それは自身についても同様で、完璧でないのは当たり前なのだ。また、私は「悪性の本質を幼児性である」と定義付けているが、それにしても、この世に無駄なものは一切ないのであって(幼児性なくして、あらゆる文化、芸術は生じない)、欠点があるからこそ人間なのである。相手に、また自身に対しても過度な潔癖概念を持たず、逆に、(それが偶然であれ)うまくいったときを褒める、加点主義へと移行すれば、きっと、人生は明るく開けてくるのではないだろうか。少なくとも前提を、「相手は不完全なのだ」と変えることにより、気持ち的に今よりは楽になるだろう。

 最後に、「F・スコット・フィッツジェラルド」という小説家をご存知であろうか。その代表作のひとつ、「The Great Gatsby(偉大なるギャッツビー)」の 冒頭に於ける、主人公である少年と父との会話を付記する。

「ひとを批判したいような気持ちが起きたときにはだな・・。世の中のひとがみんな、おまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみることだ・・」


 ※写真は日本フイッツジェラルド・クラブ ホームページより。

スピード概念と民主主義理念

2006-03-12 21:08:28 | 論考


「市販車の販売はレースの資金作りにすぎない」

 フェラーリの創始者、エンツオ・フェラーリが生前よく、口にした言葉だ。彼は、「車はとにかくエンジンだ。何よりまず、速くスムースに駆け上がるエンジンを作れ(うろ覚え)」を信条に、伝統と誇りを以って、「誰よりも速く」を追求した男だった。

 私はF1が好きだ。また、サッカー(主にヨーロッパ・リーグ)も興味があり、ボクシング(他の格闘技系)にも関心が高い(学生時代はバスケット・ボール部に所属していた)。何故なら、それらには芸術性を併有した、決定的な「美しい瞬間」というものが存在するからだ。しかし、野球にはそれがない(イチロー等の例外は除く)。では、F1、サッカー、格闘技等に共持できて、野球にない由縁とは何か。その答えは、「時限」の介在だ。
 
 数年前、「バカの壁」という本が、まさしくバカのように売れた。その著者である養老孟司なる人物が、NHKの特集番組の中でこう答えていた。「死というものには1人称、2人称、3人称の3種類がある。1人称(自身)の死は現実的に体感できないからとりあえず省くとして、日本人は3人称(他人)の死は当然のように受け入れる(見過ごす)ことができるが(例えば、日々のニュース)、2人称の死に対しての適応能力が低い・・」。つまりは、本来、2人称(親、友人等)の死を通して得られるはずの、「自身の死」への想像力が著しく欠乏している、と言いたいのであり、このことは私の言う、「時限の概念」の形成に深く関与している。

「自身の死」を認知すると、どうなるのか。死にたくなる、とお思いになるかも知れないが、本当は全くその逆で、「生」に固執するようになる。生に固執するとは、言い換えれば、快楽に執着するということでもある。どうせいつかは死ぬんだから、それまでは気持ち良く行きようじゃないか、の発想になるのだ(ここで想像力が媒介しないと即物的快楽に溺れやすくなり、では、想像力を養うためには、という話しに突入するが、これに関しては、以降の記事に託すことにする)。

 ここで話しを戻すと、モータースポーツの最高峰と言われるF1とは、単に直線を早く移動すればよいだけのものではない。コーナーをスムースに駆け抜けるにはギリギリのポイントでブレーキをかけ、最もインをつく理想的なハンドリングで、バランスを崩さずエンジンのトルクを路面に伝える必要がある。つまりF1とは、如何に速くゴールするかに集約するスポーツであり、その過程で、圧倒的に他者よりも無駄を省くこと(合理化、効率化)を強いられるスポーツでもある(この点に於いてはサッカーも同様であるが、その決定的差異にして優位たる合理的根拠は、F1は皆一様のベクトル=方向性を保持することにある)。では、どうしてそこまでして(フェラーリの年間のレース資金は100億円程度)スピードを求めるのか。それが、気持ちいいからである。レースと聞くと、どうしてもドライバーだけを連想しがちだが、その勝利の裏には監督に始まるメカニック他のピット・クルー、それらを影で支える膨大な数の関連スタッフが必要となる。そして、それら文化、人種の壁を越えたクルー(仲間)が、与えられた物理的、時間的限界に於いて、ただ速くゴールする(皆にとって気持ちいいことの)ためだけに、各々が自身の得意分野で切磋琢磨を行うのがF1であり、同時にその概念は、民主主義理念の根幹に通念する。

 英語で「race」と綴れば、「人種」を意味する。日本は今、規制緩和の波の中にあり、「いい物をより安く」の市場原理主義の下に、これまでのような産業界への国家権力による干渉が徐々に取り払われつつある。アメリカ主導の片手落ち(無秩序)政策である、という負の側面は無視できないにしても、「生きている」ということの「死んでいない」ということとの差異を、考慮する時期に差しかかっているのかも知れない。少なくとも昨今の流動化社会に於いて、自分の中にリミットを設けなくては、「リアル」に生きていくことは不可能(つまり、「リアル」と「アンリアル」の差異は、時限の有無)だと結論付けられるだろう。

 2度のWBC世界バンタム級王者に輝いた辰吉丈一郎氏は現役時代、自身のボクシングを芸術に喩えていた。2004年、F1史上最多となる7度目のワールド・チャンピオンに輝いたミハエル・シューマッハは、そのインタビューで、「僕は普通の人間。ただ、人より速く走れるだけ」と答えた。ボクシング(格闘技)はただの殴り合いでなく、F1は世界一高価な追いかけっこ、でもない。そこには、識るべき者のみが識る、この世の真理のひとつが存在するのだ。またF1(フォーミュラ・ワン)の「Formula」とは、「枠」を意味する。与えれた枠の中での自己実現。それを、自由と呼ぶのではないだろうか。


 2006年のF1レースは3月12日の「砂のバーレーンGP」を皮切りに、全19戦で開催される。レギュレーションの変更点としてはまず、エンジンが原則V8/2400ccに統一されること、レース中のタイヤ交換が可能になる(戻る)こと、予選のノック・アウト方式等が挙げられ、日本のホンダ、トヨタ、スーパー・アグリF1を含めた全11チームで争われる予定だ。エンジン関連に関し矛盾するとはいえ、レギュレーション変更の根拠がオーバーテイク(ショー的要素)の多用化にあるのは自明の理だ(08年にはCDGウィングなるものが導入予定)。この記事を読んで少しでも興味の湧いた人(レースを楽しむ資質は、より速いものを「美しい」と感じる感性のみ)は、深夜放送を録画してみてもいいのかも知れない。


※写真は、スクーデリア・フェラーリの2006年マシン、「フェラーリ248F1」。本年度のテクニカル・ルールに準えるスペックに変更、進化しているが、チェロを想わせるアーティスティックなフォルムはそのまま継承。

 記事中(普段、あまり他人の書籍を引用しない私が)、養老孟司氏のそれを挙げているのは、氏に対しての特別好意的な所感を意図したわけではなく、寧ろ私は、「中立・公正」の立場を執らぬ者を元来、知識人、文化人とは認めない観点から、当該書籍に関しては、同氏が自身の「バカの壁(良識の否定)」を発露しただけの作品である、と捉えている。

ナチュラル・ウーマン/キャロル・キング

2006-03-12 21:08:07 | 音楽評論


(You Make Me Feel Like A) Natural Woman-Carole King

Lookin' out on the morning rain
I used to feel uninspired
And when I knew I had to face another day
Lord, it made me feel so tired

Before the day I met you, life was so unkind
But your love was the key to my peace of mind

'Cause you make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman

When my soul was in the lost-and-found
You came along to claim it
I didn't know just what was wrong with me
Till your kiss helped me name it

Now I'm no longer doubtful of what I'm living for
'Cause if I make you happy I don't need to do more

You make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman

Oh, baby, what you've done to me
You make me feel so good inside
And I just want to be close to you
You make me feel so alive

You make me feel
You make me feel
You make me feel like
A natural woman


 キャロル・キングは70年代を代表するシンガー・ソングライターであり、16歳にして最初の結婚を経験した、現代でいう「自立した女性」のモデルでもある。この「Natural Woman」が収められているアルバム「Tapestry」には他にも、「It's Too Late」「You've Got A Friend」等、多くのヒット曲が含まれている(詳細はこちら)。1971年発売(私の生年)ということもあってか、思い入れの深い作品なのであるが、同時に、この「Natural Woman」ほど、母性の美しさをストレートに表現した歌を、私は他に知らない。

 フランス人は言う、「○○という、真理と結婚する」と。また、ラテン語圏で女性名に使用される「ソフィア」とは、元来「母性」を意味し、同時に「知性」の意味も持つ(英語でいう哲学、philosophyの語源でもある)。つまりこのことは(少なくともラテン文化圏に於いて)、母性こそがこの世の叡智である事実を物語っているのではないだろうか。そして、女性は概して「ひかりもの」に弱い。側面を違えて視れば、(本能的に)光るものを身に付けたり、周囲を光らせたがったりする(例えば掃除、洗濯等)。価値観の多様化した現代に於いて、不用意な一元化論は時として危険だが、敢えて言えば、私は「母性」の本質を「叡智及び、光」なのではないかと捉えている。

「Lookin' out on the morning rain. I used to feel uninspired・・」

 この「Natural Woman」は、アレサ・フランクリンに提供した歌でもあるが、私は飽くまで、キャロルのピアノとその夫、チャールズ・ラーキーのベースのみで演奏される、こちらのヴァージョンをお薦める。「かつては何の痛痒も感じなかった朝露」こそが、実はキャロルの、如いては母性そのものの輝きなのかも知れない。