以前の記事に書いた通り、野球には関心が低い私だが、以前テレビでイチロー(松井だったかも)が、興味深いコメントをしているのを耳にした。
「(アメリカの)メジャーは日本と違って加点主義だから、プレーがしてて気持ちがいいし、選手も成長しやすい云々・・」
同じ野球(仕事)するのなら、誰だって「褒めて褒められ」がいいに決まっている。では、何故それが成立しないのか。心理学に於いて、「万能感」なる言葉がある。読んで字の如し「何でもできる」という、一種の幼児性に帰属する概念であるが、これが上記の事象に深く関連している。
人間は、生まれてすぐには「立って歩くこと」ができない。このことは、ある程度の社会性を帯びた種(主に哺乳類)であれば、普遍的に同様の現象が見られるが、その中に於いても、自立歩行までに1年前後の期間を要するほど未熟な状態で出生する種は、生物界でも稀な例に挙げられる(他に有袋類等)。当然その間は、敵から逃れることはもちろん、摂食、排泄すらままならないわけで、自身の生を100パーセント、母親(乃至、父親他の成体)に依存する形になる。この間に必然的に芽生えるのが、「万能感」である。
ここでは敢えて、母親をモデルにするが。子はお腹がすくと泣き、授乳を受ける。これによって食欲と同時に、乳首をしゃぶるという行為から、幼児性性欲も満たす。また、眠くなれば安全な(誰にも邪魔されない)睡眠を享受でき、排泄後は、適応に処理される(心理学で排泄物、分泌物は秘密を意味し、幼児はこの時点に於いて、母親の自我のコントロール下にある)。つまり、生理的欲求の全てを他者に依存し、自身の意に介さないものは、「泣く」という表現を以って拒否(意思表示)している。この生理的慣習は、トイレでの自主排泄を学習する3~4歳くらい(兄弟の有無等の諸条件に影響される)まで継続されるのだが、この間(正確にはそれ以降の家庭内に於いても)に、抽象的表現でいう「母親の愛情」が欠落(不足)していると、この「万能感」なるものが無意識の深淵に残存してしまう。また、上述した通り、万能感とは幼児性の一種でもあるので、故に、自我の覚醒段階が低度であることも含有する。そして、その諸現象としてはまず、乖離概念の希薄な他者への、完全性の希求が挙げられる。それは目上の者に始まり、異性、友人へと拡散していくのだが、その最も明瞭なケースは、異性への投影であろう。
例えば、彼氏(彼女)が不実を働いたとする。(仮にそれを分かりやすく浮気であったと仮定して)自身から捉えた彼氏(彼女)は完全潔癖なものであるはず(そうあるべき)であるから、負の面が露呈されればされるほど、減点方式でどんどんそのパートナーの株を下げていき、反面、正の側面を目にしても、称賛することがない(このことが一連の負のサイクルを固定化、激化させ、終焉へ誘うことは想像に容易い)。
同時に、この完全性なるものは、相対的、必然的に自身にも向けられる。そして(これは小児以降成人以前に至るくらいまでの家庭に於ける父母との心理的関わり方、如いては、減点方式による躾けに強く依存するものでもあるのだが)、完璧であらねばならないという強迫観念から、そうでない自身への嫌悪、自己否定の衝動に陥り(固定化し)、このことが直接的誘発原因となって、「アンダー・アチーバー(客観的に決してそうではないのに、著しく自己評価が低いために、IQ値に比例するだけの社会的成功度が伴わない)」と呼ばれる病癖が発症してしまう(これは、昨今の日本でも大きく問題視されている)。また、万能感から以降、不随(派生)されるものとして、合理的思考の放棄(軽視)という傾向も挙げられる。世の中を情動的(善か悪かだけの二次元論)に把握する趣向が強いため、合理的、客観的論拠に基づいた思考形態を取得しにくくなってしまうのだ。
「うちの子、少し変なんです・・」
見識のある精神科医(臨床心理士、カウンセラー他)であるならば、まず子供より先に、その同伴した両親の問題点に着眼してしかるべきだろう(負の観点からも、子は親を映す鏡であるから)。例えば、幼い子がお人形さんを失くしてしまって泣く。次に成長して、思春期に恋人と別れて悲しむ。そして大人になって、金銭的損失(分りやすくは、株で大損した等)をして嘆息する。これらはある意味、正常な精神的成長を表していると言えるが、神経症患者(の、あるひとつの観点からの定義)とは、成人してなお、「お人形さん」を失くして泣く人物を指すのである。そして、(今これを読んでいる)あなたの生活する環境へと焦点を移すと、その程度に差異(病的なほどではない)はあるものの、過去のある時点(のある種のトラウマ)に固執し、考えを改めようとしない人物の存在が思い浮かぶのではないだろうか。もしそうであるなら、まず自身を含めた周囲からの改善を試みなくてはいけない。弱い立場にある子供に、そのしわ寄せが及ぶ前に。
この世に誰一人、神様はいない。それは自身についても同様で、完璧でないのは当たり前なのだ。また、私は「悪性の本質を幼児性である」と定義付けているが、それにしても、この世に無駄なものは一切ないのであって(幼児性なくして、あらゆる文化、芸術は生じない)、欠点があるからこそ人間なのである。相手に、また自身に対しても過度な潔癖概念を持たず、逆に、(それが偶然であれ)うまくいったときを褒める、加点主義へと移行すれば、きっと、人生は明るく開けてくるのではないだろうか。少なくとも前提を、「相手は不完全なのだ」と変えることにより、気持ち的に今よりは楽になるだろう。
最後に、「F・スコット・フィッツジェラルド」という小説家をご存知であろうか。その代表作のひとつ、「The Great Gatsby(偉大なるギャッツビー)」の 冒頭に於ける、主人公である少年と父との会話を付記する。
「ひとを批判したいような気持ちが起きたときにはだな・・。世の中のひとがみんな、おまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみることだ・・」
※写真は日本フイッツジェラルド・クラブ ホームページより。