アインシュタインメモ☆ブログ

 特殊相対性理論が発表され、はや101年。 新世紀の世に捧ぐ、愛と希望のサイエンス・ラプソディ☆

ラ・イスラ・ボニータ/マドンナ

2006-02-26 22:07:47 | 音楽評論


Madonna - La Isla Bonita

Last night I dreamt of San Pedro
Just like I´d never gone, I knew the song
A young girl with eyes like the desert
It all seems like yesterday, not far away

Chorus
Tropical the island breeze
All of nature, wild and free
This is where I long to be
La isla bonita
And when the samba played
The sun would set so high
Ring through my ears and sting my eyes
You Spanish lullaby

I fell in love with San Pedro
Warm wind carried on the sea, he called to me
Te dijo te amo
I prayed that the days would last
They went so fast

Chorus

I want to be where the sun warms the sky
When it´s time for siesta you can watch them go by
Beautiful faces, no cares in this world
Where a girl loves a boy
And a boy loves a girl

Last night I dreamt of San Pedro
It all seems like yesterday, not far away

Chorus

To dijo te amo
El dijo que te ama



 私にとって、最も理想的な女性(母性)像のひとりがマドンナなのかもしれない。
 
 中学生の頃、初めて彼女の「Like A virgin」を聴いた私は衝撃を受けた。とはいえ、当時はやはり、セクシャルなパートの刺激だった。以降も、彼女は「TRUE BLUE」等のヒットアルバムを以ってスター街道を走り続けるのだが、多感な時期にあった私は逆に、少し距離を置いてしまった。

 高校生になった私は、CDに付属する日本語歌詞なるものが、全くもって不正確だということに気付いた(この点には未だに不信感を抱く)。英語科目が割合得意だった私は、学生ならではのヴァイタリティを活かし、好きだった洋楽の我訳を始めた(その経験は、今でも私の中に大きな糧としてトレイスしている)。

 
 この歌の真意が理解できたのは、30歳を越えてからだ。同時に、その頃の私は気付いた。それまでの自分が如何に無知だったのかということに。というより、未だに圧倒的無知なのだが、それまでは自分が無知なことにすら気付いていなかった(あまりにも極少な視野で世界を捉えていた)。


 この歌の真意を説くキーポイントは、歌い始めの「A young girl wiyh eyes like the desert」の歌詞にある。正規の日本語歌詞では「虚ろな目をした少女」と訳しているのだが(これに参らされた)、私がどの英和辞典で調べても、「desert」に「虚ろな(空虚な)」などどいう意味はなかった。つまり、名前は挙げないが、対訳した者の勝手な意訳(誤訳)なのだ。

「砂漠は最高の贅沢だ」という言葉がある。中東のアラビアン・ナイトに出てくるような大富豪が、世界中のグルメを堪能し、フェラーリ、ロールス、ベントレイ等のあらゆる高級車を乗り回し、知りうるあまたの美女を抱き・・。金で買える全ての贅沢をし尽くした男が、ある日何気なく、砂しかない砂漠へ行くと、「これこそが最高の贅沢だ」と気付く、とかといった意味である。そして、この歌の「desert」は、かかる「砂漠」を意味している。

 「La Isla Bonita」は、ヒスパニック系であるマドンナが中米のリゾート地、サン・ペドロ島をモチーフに、自身の幼少期を懐古したナンバーだ。つまり、「A young girl with eyes like the desrt」とは、「砂漠のような目をした少女(マドンナ自身のこと)」と直訳すればいいのであり、彼女はこの節で、幼少期の(物質的には貧困だったが)自由奔放な自然に抱かれた、何ひとつ不自由なく幸せだった自分を回想しているのである。その上で、「まるで一度も(サン・ペドロ島)に行ったことがないような」、「全ては昨日のことのようで、あまりに遠すぎる・・」と、現在の自分を嘆いているのだ。

 次に、二番の冒頭部分でまず、「私はサン・ペドロ島に恋に落ちた」と言っている。その意味は以降の歌詞にしたためられるのだが、ここでマドンナは擬人的表現を用いている。

「暖かい風が海に届き、彼は私に愛してる(スペイン語)、と言った・・」

 ここでの「warm wind」は父親を表し、「sea」は母親を表している。つまりは、父なる青空(からの意志)と、母なる大地を表現しているのだ。そして、それはコーラス部分(トロピカルな島風~スペインの子守唄まで)の伏線ともなっている。

 
 「La Isla Bonita」の間奏部分には「Como puede ser verdad(どうすれば、実現できるの?)」、「te dijo te amo /el dijo que te ama(彼は愛してる、て言ってくれたわ)」等の、スペイン語のセリフが挿入されている。そして、彼女は80年代のヒット曲を集めたべストアルバム「THE IMMACULATE COLLECTION」に於いて、この「La Isla Bonita」の次に、特異な宗教感(父性像)を描いた問題作「LIKE A PRAYER」を配置している。マドンナは意外にも、影を持った少女時代を過ごした女性なのかも知れない、と私は考えている。

堀江貴文とヒロイズム

2006-02-26 22:02:47 | 時事関連
 

 昨今、小泉政治を批判するキーワードとして、ワンフレーズ・ポリティクス、迎合及び劇場型政治等が挙げられている。現時点でそのことを深く言及するつもりはないが、やはり、彼のしていることはその根拠があまりに貧しい。そして、その小泉首相と堀江貴文には共通点がある。

 ジークムント・フロイトという、精神分析学者をご存知であろうか。無意識の世界の意義を世に広く知らしめた(諸説有)、現代心理学の祖である。彼の偉業のうち、最も優れたもののひとつがエディプス・コンプレックス(俗的に言うマザコンの起源)である。以下にその概要を述べる。
 
 人間は生後3歳から5歳くらいまでの間に母親に対し、子供として甘えたいと同時に、一人の男として性的に支配したいという衝動(父親に対してはライバル心、時として殺意)を芽生えさせる。この際、母親が一人の自立した大人として接する(具体的には唇を重ねるキスをしないであるとか、女を感じさせる一切の行為を慎む)ことで(正確なフロイト理論では、去勢回避のため)、子供は次第にこの欲望を破棄していく。この一連の現象が、一般にエディプス・コンプレックスと呼ばれているものだ。子供はこの経験を通じ我慢(自身の欲望をコートロール)することを学び、そして以降は、父親への同化傾向(父親のように強く、男らしくなろうとする動向)を示し、正常な男子へと成長していく(女の子の場合はエレクトラ・コンプレックスと呼ばれ、ここまでの過程は概ね同じ)。

 私がどうしてフロイトのエディプス・コンプレックスを紹介したかというと、それがヒロイズムの根源であるからだ。ヒロイズムとは既述のような男らしく、強く、格好よくなりたいという願望のことを指す。エディプス・コンプレックスを正常経過していない子供は大抵の場合、ヒーロー戦隊ものを観ても、ヒーローに憧れるといったことがない。ヒロインのみに関心を示したり、敵怪獣を応援したり、やたらとヒーローにやっかみ、突っかかったりする。そういった異常を示す子供が昨今多いのは言うに及ばないが(そんな異常はまだ可愛いものであるから)、私が言いたいのは、この現象は今から30年近く前から発生しているということだ。つまり、現在普通に就職、結婚している成人男女の多くはエディプスの正常経過を経ていない、その主観からの異常者なのである。

 では、日本社会に稀にでなく存在する大人の異常者(健常者との比較のため、ここでは敢えてこう呼びます)には具体的にどういった症状が表れるかというと、まず男性だが、自身がヒーロー(強く格好いい存在)のようになりたいと努力するのではなく、そういう(そう見える)第三者(例外的に実父のみ含まない)の存在を求めるようになる。これは同じくフロイトが発見した「投影」と名付けられた心理効果で、本当は自身がそうなりたい(そうでなくてはならない)のに、様々な理由(環境他、本人の惰性等)によってそうはなれないため、その願望を第三者(友人知人、血縁者、アイドル他の多岐に亘る人種)に対し投射するメカニズムだ。更にやっかいなのは、現代日本の閉鎖的共同体の中では、この作用が本来のそれとは逆のベクトルを持った「抑圧された欲求の投影(例えば、格好よくしたりする者が身近に存在したりすると、そうはできない自身を投影する形でその邪魔をしてしまう)」という攻撃性として働くことだ。このことは、日本社会全体が抜け出すことの出来ない暗闇に沈みこんでいる一因として列挙するに必然だ。

 次に女性の場合だが、母親への同化傾向が薄いということで、まず、女らしさが希薄になる。同時に、普通であれば男らしい男性を恋愛対象として求めるはずだが、父親への思慕の念が無意識に抑圧され、残存(年頃の女性が実父に対し、動的に甘えることは不可能である)していることから、それに依拠して男性に対するある種の罪悪感が芽生え、そうはなり難くなる。ではどうなるかと言うと、憧憬である父親像へ自身が同化しようとするようになる。現代社会に於いて、男性顔負けの女性が多数存在する主原因たるメカニズムのひとつがこれだ。また、このことは無意識のうちに、ある種の脅迫観念に因って誘発されるので、女性自身は自身のこの行いに対し、意識化では嫌悪感を抱いてもいる。しかし、男性の場合と同様の社会的要因に依拠して(現代女性の多くは職に就いている)、身近に男らしさを感じる男性が存在しても、容易には受け入れることが出来なくなる。そして、日本社会に於ける暗闇作りは更に加速するのだ。

 以上が日本の社会に関する私の現状分析だが、正に、現代のこの土壌に現れたのが、小泉純一郎と堀江貴文なのだ。

 「自民党をぶっ壊す」「国民と痛みを分かち合い、改革に取り組む」「中国脅威論に決して屈することなく、靖国神社を参拝する」・・。ホリエモンも負けてはいない。財界に於ける既成概念の破壊、徹底した拝金主義(女性化した現代社会の風潮に於いては好意的な概念)、若く一代にして財を成したカリスマ性・・。例を挙げればきりがないが、もうお分かり頂けたであろう。抑圧され逼塞した日本国民にとって、二人は長年待ちわびたヒーローなのである。小泉政権が圧倒的支持率を得たのも、ライブドア株が空前の高値を更新したのにも、全てには意味があったのだ。そして、その根拠とはあまりに空虚で、無責任で、非建設的なものだった。


 私は社会民主主義者(日本の福島瑞穂のものとは似て異なる)だ。とはいえ、民主主義国家の根幹理念のひとつである主権在民を、決して否定及び批判はしない(何故なら私の理念はその延長に位置するものであるから)。私は明治憲法の流れを僅かとはいえ汲む日本国憲法、現在の議員内閣制を、世界に名立たるシステムのひとつであると自負している。しかし、だからこそ問いたい。真の民主主義とは、健全な社会とは何であるのかを。私は決して、自分に嘘はつかない。

水虫-ミクロな国の仲間たち-

2006-02-26 22:02:30 | こばなし
 

 私は以前、パラノイドな彼女(「前の彼女」を参照)と水虫に悩まされていた。前者に抜け道はなかったとはいえ、後者の存在は、私の中で日増しに大きくなっていった。
 
「痒い・・」

 見ると、足の指の間とかに水泡が出来ているのだ(おまけに日々増幅)。詳細は略すが、とにかく不快極まりない、私の中の多くの関心とエネルギーを必要とする、まったく厄介なやつらだった。

 市販の塗薬、専門医(不当な扱いを受けた)の他、やれ緑茶成分だ、やれ40℃に温めた酢だといった具合に、一般によしとされているものは、全て試した。しかし、その何れもが、私の病を完治へと導かなかった。

 例えば、市販薬の場合はこうだ。堪らないむず痒さを堪えた私が、やっとたどり着いた自宅で足を洗い、患部に薬を塗る。(とってもキモチがいい・・)。学習した私が説明書通り、日に三度、塗擦する。すると、症状にやや改善が診られるのだが、それを1年続けてみても決して完治はしない。つまりは、質の悪いクスリに溺れている、麻薬患者と同じ境遇を繰り返すのだ。

「これではいけない・・」

 その数ヵ月後のことだった。一念発起した私は考えた。そもそも、この白癬菌なるものとは、一体何なのか。カビの一種である。カビ・・?
 
 ポク、ポク、ポク・・。チーン!(一休さんイメージ)

 そして、私は開眼した。「カビには・・」

 そう!「カビキラー」なのだ。

 翌日、コンビニでカビキラーを購入してきた私は、早速、夜毎患部への噴射を行った。すると、不思議や不思議。それまでの私を悩ませていた彼ら(白癬菌)が、見事に死滅していくではないか(まるで耳を澄ませば、その断末魔の叫びが聞こえるようであった)。そして、3ヵ月後には、彼らの駆逐にほぼ成功しのたのだ(さすが、5分で根に効くカビキラー!)。蛇足ながら、現在市販されているタイプには石鹸カスバリア成分(これで、シャワー時での洗い残しも大丈夫)まで付加されている。恐るべし、ジョンソン株式会社。
 
「大人になるとは、ウィルスに慣れ親しむことだ」

 以前、とある著名な細菌学者が口にした言葉だ(厳密には、カビはウィルスでない)。この出来事を境に、私は世の中へのものの考え方を大きく変えた。自分が如何に固定観念に縛られ、自己中心的に矮小化させた世界に住んでいたことに気付いたからだ。今は亡き、我が友(白癬菌)たちよ。私は決して、君たちの犠牲を無駄にはしない・・。


 追記:当たり前のことですが、ジョンソン㈱さんでは正規用途意外に使用しないことを、厳しく注意書きしています(とはいえ、私の例は全て事実です)。
 また、現在の私は、カビキラーを多用し過ぎてささくれた足に、アロエクリームを塗布しています(ちゃんちゃん)。
 

あなたのドラえもん

2006-02-26 13:32:52 | 時事関連
 

 先日、3歳の息子を持つ、私の友人が言った。

「うちの子供、アンパンマンは好きなんだけど、ドラえもんのことは怖がるんだよな・・」

 可愛いものである。気にすることはないんじゃない、と私は答えた。むしろ、アンパンマンよりドキンちゃんに興味を示す場合のほうが心配である(詳細は「堀江貴文とヒロイズム」を参照)。因みに私は、バタコさんよりメロンパンナちゃんが好きだ。この年齢でアンパンマンキャラクターを二十名分くらい暗記している私も、きっと傍目には心配される存在なのだろう。

「弱い犬ほどよく吠える」という諺がある。では、どうして犬は吠えるのか。怖いからである。知らない人間、不審な人物に対し、犬は恐怖感を以って吠えたてる。その本質は友人の息子の例と同様で、人間を含めた動物は、自身の理解を超えたものに対して畏怖の念を抱くのだ。

 では、畏怖の本質とは何か。既述の二例のように純粋に恐怖感から吠える、泣く(感情的になる)か、もしくは「そんなもの、しょうがない。ばかばかしいよ・・」等々の難癖を付けて、自身から遠ざけようとするか、のどちらか。つまり、物理的な距離を隔てようとするものである(更に言うと、この件は以降の記事で取り上げるつもりだが、恐怖とは一種の「空間理念」なのである)。

 幸か不幸か、東アジアの片隅に位置する島国日本は、過去に於いて一度も他国に侵略された歴史的経緯がない。圧倒的文化圏の違いに遭遇した(強要された)ことがないのだ(国内の歴史的偉人が行ったのは、内部調整だけだ)。では、何が存在するのかというと、諸外国の批評の槍玉にあげられ続けている、「日本的ムラ社会制度」と呼ばれる(名称は他にも多々存在する)、特異な共同体システムだ。

 例えば、この国の組織は、新人共同体員に対し、ある種の儀式を強いる。俗にいう「新人イジメ」というものだ。この儀式は肉体的、もしくは精神的苦痛を伴ない、遮断された内部での自己開示及び、それに派生する組織内での連帯意識の萌芽を目的としている。また、その苦痛度は、所属する組織の閉域性に比例する。警察官(自衛官)になるには、始めの数ヶ月間、厳しい肉体訓練を受ける必要があり、暴力団は組員に対し、まず、悪事に手を染めさせる。

 ここで、もし、その儀式を拒否するとどうなるのか。簡単だ。組織に受け入れてもらえないのである。とはいえ、諸法規が整備された現代に於いて、それだけで、「君はクビだ」とは言えない。では、それでも僕は仕事が好きで、と続けている人がいるとどうなるのか。そこに、映画「戦場のメリークリスマス」のテーマのひとつでもあった、「閉域組織内でのスケープ・ゴート(私が勝手にこう呼んでいるだけ)」という、現象が発生する。

 スケープ・ゴートの語源は、goat(山羊)をescape(逃亡)させるという、ユダヤ教に於ける贖罪に派生するもの(ユダヤ教に於いての山羊は霊的存在)で、転じて、犠牲者、身代わりといった意味になる。さすがにこれは最近ではよく耳にすることだが、外部から閉ざされた組織とはいうのは、内部の規律を守るために、時としてこの犠牲者を必要とするのだ。国内でのこれは、数年前の「名古屋刑務所受刑者死亡事件」に、如実に表れている。弁護士面会するままならぬ(法治国家はいずこへ?)、不断なストレスが遍在する刑務所内に於いて、暴力団を含む受刑者の秩序を保つためには、見せしめとして苛められ(時として殺害され)る存在が必須なのだ。これがオープンな国の場合になると少し事情が変わり、外部に敵を作るようになる。第一次大戦以降のナチス・ドイツ(敵はユダヤ人、)現在のアメリカ(敵は石油利権上、中東の各国)がこれに該当する。つまり、体のいい表現を用いるとすれば、「インチキ」である。


 私には、日本的共同体主義の否定を述べるつもりはない。事実、そのパラダイムが、この国の歴史上並びに、今日の様々なシーンに於いて有益に作用している例は普遍的に存在する(そもそもこのブログ自体が崩壊しつつあるシステムの代替だ)。ただ、にも拘らず私が提唱したいのは、これ以降にはその一部変換、リニューアルが必要だということである。世界規模で文化の融合が図られ、グローバリゼーションの波が打ち寄せる二十一世紀に於いて、日本人だけに共有するステレオタイプの既成概念を固持し続けることはマイナス面の発症率を上げ、如いては、国力低下を誘発することが確かであるように思われるからだ。

 現在、内外に乱立する諸問題の根源は家庭に依存している。そして、その鍵はコミュニケーションにある。相互理解とは共有した場面であり、同時にコミュニケーションの積み重ねでもある。そして、信頼とは相互理解に基づき、故に、絆が芽生えるのだ(決して時間の長短に依拠しない)。

 私たちは皆、子供ではない。所属する組織(会社及び家庭)に「ドラえもん」が現れたら、極力コミュニケーションを図り、相互理解に努めるべきだ。そして、概してそこに、自身にとっての「しずかちゃん(のび太くん)探し」の近道が存在するのかも知れない。


私という名のリズム

2006-02-26 12:01:54 | 音楽評論
 
 
 音楽といえば、思い出すシーンがある。「ミラン・クンデラ」の同名小説が原作の、「存在の耐えられない軽さ」という映画でのワンシーンだ。

 サビーナ役のレナ・オリンが、偶然心惹かれた男性とレストランで食事をしている時。彼女が突然、年配のウェイターを呼び付けて言う。

「あのノイズ、何とかならないかしら・・」

 そのウェイターは耳を澄ませる。しかし、これといった雑音は聞こえてこない。

「ミス。何も、それらしい音は聞こえてきませんが」

 サビーナは不快そうな顔付きをする(だったと思う。記憶が定かでない)。しばらくして、ウェイターが店内に流れるポップサウンドに気付く。

「ミス。もしかして、ノイズとはこの音楽のことですか?」

「音楽? あら、あなたたちはそう呼んでるのかしら」


 優れた音楽の見分け方がある。あなたは今までに、好きな歌、好きなミュージシャンの存在というものに出会ったことがあるであろう。特に十代の多感な時期のことであれば、ジャンルはそれぞれであったにせよ、誰にでも必ずひとつやふたつ、そういった経験があるはずだ。では、その歌を現在聴いてみたらどうであろう。初めて耳にした時と同じように、その歌声(メロディ)は心に届くであろうか。実は、本質はそこにある。優れた音楽とは、時を経ても変わらない(ある程度、聴く側に左右される面はあったとしても)、縦系の時間軸に準ずるもののことである。


 イグノーブル賞というものをご存知だろうか。アメリカのハーバード大学が年に一度、世界で比較的コミカルな発明を行った者(企業)に授与している賞で、ノーベル賞のパロディ版として発足したものである(イグノーブル/ignobleとは不名誉または、くだらないとかいった意)。今年はみごと、日本の㈱タカラが開発した「バウリンガル」が受賞した。他にも、「ダチョウの性衝動」、「へそのゴマ」の研究等が各部門に受賞、ノミネートされている。過去には、「世界一早く着火するバーベキューセット(ジェット燃料を使用するため、着火と同時にコンロ自体も焼失する)」なんてのもあったりした。
 さて、冗談はさておき。その賞に以前、「水は記憶する」といったテーマの研究がノミネートされたことがあった(確か何も受賞していない)。今回、私が抽出したいのは、その方面の話しだ。

 この世の(形而下の)全ての物は、元素から成り立っている。そして、絶対零度(‐273.15℃。ここでは触れない)に至らない物質は全て、原子振動を行っている(不確定原理もとりあえず除外)。つまり、この世の万物は一様に、「波動」を保持している。
 クラシックを聞くと早く成長する野菜(トマトの場合は何故か、トラックのエンジン音)、飲尿療法、気孔、ダウジング。例はを挙げれば枚挙に暇がないが、これらの現象は皆、この波動で(大方)説明がつく。そして、年月を経てなお、琴線に触れる音楽にも、「美しい波動」が備わっており、そしてそれは、CD、MD等の記録媒体を介しても、確実に伝わるものなのである。私はこれを、「魂」と呼んでいる。魂などと聞くと胡散臭く感じる方も多いだろうが、私のいうそれとは、「おのおのに偏在する自身の美しさ」のことである。

では、美しいものに触れる(見抜く)にはどうすればいいのか。一番は、感性を磨くことだ。感性を磨くには・・、簡単だ。感動すればいいのである。映画、音楽、絵画、人との触れ合い、何でもいい。鳥肌が立つような、自身の感情を直撃するような事象を普段から探し求め、それを素直に取り入れればいいのである。更に、感性が研ぎ澄まされると、インスピレーションに昇華する。そうなると、たまたま見た時計が自分の誕生日(他にはぞろ目、連番等)を差しているなんてことが、ざらになってくる。その頃には、脳からβエンドルフィンが放出されまくっているので、心身ともにリラックスし、様々なアイデアが想起されるようになる(右脳が活性化することによって、脳が可塑化しているのだ)。

 美しいものの定義とは、「あるべき姿であるもの」のことである。ダムの建設された小川はそうでないし、いくら小奇麗な顔立ちであったとしても、表情の歪んだ女性に真の「美しさ」はない。

 また、英語の「music」の語源は、ギリシャ語のミューズである。「Muse」とはギリシャ神話に於ける詩歌、音楽、舞踊及び歴史芸術、学問を司る九女神のうちの一人であり、同じ綴りの英語で「黙想」を意味する。そして、この黙想の本質とは以前の記事にも触れた偶像(マリア)崇拝に通念する。つまり「music」とは思想、宗教観念であり、同時に物事の本質を見抜く知恵のことなのだ。
 

スイート・チャイルド・オブ・マイン/ガンズ・アンド・ローゼズ

2006-02-25 10:41:11 | 音楽評論
  

Sweet Child O' Mine‐GUNS N' ROSES

She's got a smile that it seems to me
Reminds me of childhood memories
Where everything
Was as fresh as the bright blue sky
Now and then when I see her face
She takes me away to that special place
And if I'd stare too long
I'd probably break down and cry

woah oh oh
Sweet child o' mine
woah oh oh oh
Sweet love of mine


She's got eyes of the bluest skies
As if they thought of rain
I hate to look into those eyes
And see an ounce of pain
Her hair reminds me of a warm safe place
Where as a child I'd hide
And pray for the thunder
And the rain
To quietly pass me by

woah oh oh
Sweet child o' mine
woah oh oh oh
Sweet love of mine

woah oh oh
Sweet child o' mine
woah oh oh oh
Sweet love of mine

woah oh oh oh
Sweet child o' mine
woah oh oh oh
Sweet love of mine

woah oh oh oh
Sweet child o' mine
woah oh oh oh
Sweet love of mine

Where do we go
Where do we go now
Where do we go
Where do we go
Where do we go
Where do we go
Where do we go now
Where do we go
Sweet child o' mine
Where do we go now
ah ah aiai ai ai
Where do we go now
Where do we go

Where do we go
Where do we go now
where do we
where do we go now
sweet child
sweet child of mine


 ガンズ・アンド・ローゼズ(以降ガンズ)は1985年に結成された。87年にデビューアルバム「APPETITE FOR DESTRUCTION」でいきなり全米NO.1を記録。以降「GNR' LIES」、「ESE YOUR ILLUSION(2枚組)」で爆発的人気を誇るも、93年の「THE SPAGETTI INCIDENT?」を最後に活動を停止した、伝説のロックバンドである(現在はヴォーカルのアクセル・ローズが2002年にバンドを再結成、2004年にはギターのスラッシュが別バンドで活動を再開している)。

 この「Sweet Child O' Mine」は「アペタイト~」からのファーストシングルカットにして、アルバム同様に全米チャートNO.1を記録し、ガンズの名を世界に轟かせたナンバーだ。また、スラッシュのギターソロから始まるイントロはあまりに有名で、私などは未だその波動に鳥肌を立てている(波動に関してはこちら)。

 二十世紀最高の芸術といえば、やはり、ピカソだろう。では、ピカソ作品(主に前中期)に於ける、そのテーマとは何か。私は論拠を同じくして、「Rockn'Roll」もまた、前世紀の偉大なる文化遺産のひとつだと考えている。
 
「Rockn'Roll」とはアイルランド音楽が、50年代のアメリカで加工されたものだ。そして、私はその意味を「転がる石」と直訳する。「石」とは意志のことであり、確固たる理念(思想)を固持した男性の、転がり続ける生き様そのものだと定義付けられる、と考えている(あくまで原則論であり、女性ロッカーを否定するものではない)。

 ピカソに通じ、男性主観のアートである以上、メインテーマのひとつには必然的に「母性への敬愛」が捧げられる。チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリーの時代から現代に至るまで、表現が歪んでいようとも、渇望し、それ故に時に疎まれる、神話の時代から成る永遠の存在が、それである。そして、その由々しきテーマを華燭に歌い上げた楽曲のひとつが、この「Sweet Child O' Mine」だ(彼らのナンバーの中にはやたらと前奏の長い曲があり、それにはちゃんと意味がある。故に、楽曲という表現を用いた)。 

「女ひとり幸せできない男にいったい何ができる」
 昔の日本人は良く言ったものだ。

「Where do we go now・・」
 アクセルは叫ぶ。彼らは間違いなく、ロックンロールの正当な継承者だった。


「Sweet Child O' Mine」から20年が経過した。現在の我々はどこに向かおうとしているのか。享けた生の意味を、もう一度ちゃんと考え直さなくてはいけない時期に差し掛かっているのかもしれない。もちろん、自責の念を込めて。
  

カテーテル Part Ⅲ

2006-02-19 01:02:59 | こばなし
 

 人間は長期に亘るストレスに晒されると、精神が退行する。単純に、子供に戻ってしまうのだ。歯が痛かったりした時、最終的に「痛いよ~」になってしまうことを思い出せば、理解頂けると思う。そしてこのことは、人類史上、多くの事実に深く関連している。極端な例を挙げれば、戦時下に於ける無差別、大量殺戮などがその最もたるうちのひとつと言える。いつ殺されるか分からない、物質的にも欠乏した状態が続くことで、破壊、殺人衝動(共に幼児性)が高まってしまうのだ。

 また、退行の主な症状のひとつとして、判断力が低下し、外部の情報を受け入れ(信じ)やすくなる傾向が見られる。最近で言えば、東京都で起きた「一夫多妻制催眠術男」の事件などが、これにあたる。彼は様々な理由で思い悩んでいた女性たちに対し、催眠術もどきの手法を用いて更に精神的に追い込み、そこで刷り込みを行ったのだ。その他、臨床心理士がそのカウンセリングの最中に発生させてしまう事象として、患者(相談者)が施療者に対し、恋愛感情を抱くいうパターンもある。これに関してもストレス、催眠手法の他に、種々の心理学的技法に基づいて健全に行われるべきことであるので、ここで詳細は述べない。興味のある方は、本でも買って勉強してください(悪用は慎んで)。


 病室に戻った。右手首は専用バンドできつく締められ、そこから先の手全体が紫色に腫上がっていた。左手には点滴がぶら下げられ、一応移動できるとはいえ、あまり、ハッピーな気分になれない。おまけに右手全体に不快感と、断片的な痛みを感じる。私は再び笑顔で出迎えてくれたおじいちゃんに勧められ、お茶をがぶ飲みしていた。

 おじいちゃんの狭心症談義がネタ切れをおこした頃、病室がパッと明るくなった。テレサちゃんが来たのだ(いきなりヤッピー)。彼女は私の着替えを手伝い、優しく声を掛けながら手首の様子を確かめると、「大丈夫ですね」と言ってくれた。私は大丈夫じゃなくてもいい、と感じていた。

「どこか痛いところとかないですか?」
「全くないです(withスマイル)」
「何かあったら、すぐ呼んでくださいね」
(素敵だ・・)
 
 そうだ・・、猫を飼おう。望むなら犬でもいい。小さな庭の付いた家で家庭菜園をして、土曜日には「世界・ふしぎ発見!」を観よう。日曜日はそうだな・・、家族でピクニックに出掛けよう。子供は・・、それは、コウノトリが決めることさ・・。
 
 そして会話が弾みリラックスした頃、(正気に戻った)私はタバコが吸いたくなった。

「ここって、タバコは吸えないんですか?」
「病棟内って全面禁煙なんです」
「どこか、吸えるところはないのかな」
「1階の売店の横から外に出ると・・」
 その時である。カーテンを隔てた向こう(人の気配は感じていた)から、メルモが言った。

「タバコはダメですよ」

 それは殊更きついというわけではない、まるで、イーグルスの「Hotel California」で「ここでは1969年以降、ワイン(spirit:精神の意にかけている)を取り扱っていません」と言ったホテルのキャプテンのような口調だった。それでもその一言でテレサちゃんは消え(メルモの方が先輩)、その15分後、私の胸部にはメルモの手によって、発信機付きの心電図装置が取り付けられた。

「3階以外は圏外ですから、どこにも行かないでくださいね。電波が途切れるとアラームが鳴って、みんなで探し回ることになりますから」

 ばっきゃろ、メルモ。青いキャンディ(10歳加齢してしまう)食わすぞ・・。しかし、その4時間後、医師による診察の際に健康をアピールしまくった私は、見事、その監視装置の脱着に成功したのだった(テレサちゃんは喜んでくれた)。

 その後も手首のバンドにお茶をこぼした時、動き回り過ぎて逆流した血が凝固し点滴を止めてしまった時(結局、途中で外した)、食事が足らなくて売店でパンをふたつ購入した時等、テレサちゃんは努めて優しく私の世話をし、素敵に微笑んでくれた。その頃には、2泊、3泊でもする気になっていた・・。

 結局、検査の結果判明した病名は、「冠攣縮性狭心症」というやつだった。自立神経のバランスを崩し、一時的に冠動脈が痙攣を起こすという病気で(これまでか、と思うほどの症状も1度だけあった)、原因はストレスであるらしい。私の場合、この3年くらいで生活環境、自身の物の考え方に大きな遷移があり、結果としてそれが起因したようだった。医師からはニトロ(貼付、舌下の2種)と精神安定剤を渡され、しばらく様子を見ることになった。少なくとも薬漬けにされ(特に後者)、骨までシャブられないように気を配るつもりだ。

 また、以降、テレサちゃんと会う機会はなかった(私の退院日、彼女は休みだった)。もっと言えば、会う必要がなかった。人との出会いは全て、一期一会である。私たちは多くの人から影響を受け、日々、その奇跡的なつながりの中で暮らしている。彼女たち(メルモを含む)と過ごした時間は、私にそのことを再確認させ、同時に、母性の偉大さを示唆してくれた。それは、私の人生が、またひとつ膨らんだ瞬間でもあった。


 追記:そして、私が固持していた医療関係者(医師を含む)への偏執的概念は脆くも絶えた。それはまるで、「ゴッド・ファーザーPart Ⅲ」のラストシーンに於いて、父権の崩壊を象徴した、アル・パチーノの逝去のようであった・・。

カテーテル Part Ⅱ

2006-02-18 12:22:27 | こばなし
 

「今までに、大きな病気をしたことはありますか?」
 確かに、精神なら大きく病んでいる。

「食べ物、注射でアレルギーが出たことは?」
 あなたたちの存在が、私にとってのアレルギーだ。

「一応動脈にする検査なんで、失敗すると天井まで血が噴出しちゃたりもするんですよ。て言っても、事故の確率は20万分の1くらいなんですけどね。ふふふ・・」
 失敗?天井? て言うか、「ふふふ」はやめなさい。

「では、注射しますね。ちょっと痛いですよ・・」

 入院直後、私は病棟3Fの食堂兼談話室で、メルモちゃんちゃんのような顔をした30代の女性看護士と対峙していた。ツベルクリン検査の親戚のような注射を2本打たれ、身長、体重の計測を終えた私は、一度、病室へと戻された。

 病室は4人部屋だった(最初は2人部屋と聞かされていた。誰かに不幸が起きたのだ)。私の他には、肺に穴が開いて手術をする(3ヶ月も仕事休めてラッキー)というタクシードライバー、以前、心筋梗塞で倒れ、年に2回定期検査をしているという、冠動脈に6本のステンレスメッシュを埋め込まれたおじいちゃん、そして、まさに今、心筋梗塞で倒れたばかりという全身(尿道にすら)にパイプを突っ込まれている50代の男性がいた。入院中の私はそのおじいちゃん(ステンメッシュ6本の方)と仲良くなり、終戦直後の闇米で儲けた話しなどで盛り上がった。
 
 荷物を整理し終えたくらいに、一人の看護士が来た。

「おはようごさいまーす」

 20代前半か。白衣から覗く白い肌に気品を纏った、凛とした感じのする女性だった。彼女はベッドの脇に来ると、優しく私の腕を捲り上げ、血圧を測り始めた。

「正常ですね」

 きゃ、可愛い・・。少し上がり気味ではなかったかと心配したが、大丈夫のようだった。私は咄嗟にマザー・テレサを思い出した(そうだ、君の名はテレサにしよう)。私は慣れない空間での不安もあり、様々な質問をした。彼女は全てに優しく答えてくれた。その時、いきなりメルモが部屋を訪れ、私に言った。

「○○さん、検査始めますよ。一緒に来てください」

「え。もうやるんですか?」

「部屋の準備ができましたので」

 私の心の準備はどうするのか。辛うじて、言を飲み込んだ。忙しそうな「テレサちゃん」の姿も、もうそこにはなかった。私は暴力的な継父に連れられる子供のように、検査室へと向かった。隣のおじいちゃんだけが、私を笑顔で見送ってくれた。

 検査室、というより手術室に近かった。青い検査着に着替えさせられた私は、同世代と思しき医師(とても経験豊富には見えない)の指示で、台の上に横になった。ふと見ると、更に若そうな2名の医師の姿(きっと見学)が見える。キョロキョロしていると、2名の看護士が私の身体の上に、シートを被せた。首を起して何が起こるのか見ようとすると、今度はガンマ線カメラの機材によって遮られた。焦燥感を募らせた私は、天井を見た。すると、照明に浮かび上がる茶色い、水しぶきの飛び散ったような染みが見えた。

 こ、これはもしかして、メルモが言っていた、動脈から噴出した血飛沫の跡ではないのか・・。もし違ったにしても、ちゃんと拭っておいてくれよお。柄にもなく弱気になった私は開き直り、全身の力を抜いた。

 医師によって、検査の概要が語られ始めた。あまり耳に届かなかった。2人いるうちの看護士の一人が、可愛いかったからだ(天使のようだった)。その存在がやたらと気になる・・。できれば手くらい握っていて欲しかったのだが、そんなことを考えていると、医師がその左手に点滴用の注射針を刺し込んだ。

「麻酔しますね。ちょっと痛いですよ」
 とうとう右手から、カテーテル挿入が始まった。

(げ、キショイ・・)

 注入部分である右手首には麻酔が効いているのだが、肘くらいまでの間において、血管に何か異物を挿入されている感触が分かる。その後は名状しがたい鈍痛が続いた。

「痛くないですか?」
 医師が聞いてきた。

「痛いです」
 返事はなかった(じゃあ、聞くなよ)。

 君たち大人が形骸化したコミュニケーションツールを常用するから、今日の日本はな・・。その時、そんな私の脳裏に天使が現れた。

「大丈夫ですか?」
 ママ、痛いよ・・。口にしかけたセリフをぐっと堪えた私は、平静を装い、答えた。

「大丈夫です」
 きっと、そうでないことは見破られていた。

 造影剤を投与されて浮かび上がる、心臓、冠動脈の映像が垣間見れた。ただ、それどころではなかった。単純に、右手が痛いのである。

「あと、何分くらいですかね?」

「次に、右側の血管見ますね」

 軽く言うんじゃねーよ・・。遮られた視界のせいで天使ちゃんの姿も見えない。私は、過去の楽しかったエピソードを思い出すことに終始した。結局、検査は30分程で無事終了した。(Part Ⅲに続く)

 

カテーテル

2006-02-12 22:31:18 | こばなし
 
 
 医者に行くから病気になるのだ。普段より朝早く起きて出掛けていくと、収容所のような空間に敷かれた長椅子でただひたすら待たされ、やっと診察が始まると、マジンガーZの「あしゅら男爵(上写真」のような男に脅されスカされ(暴力団と同じ手口)、終われば終わったで今度は胃が痛くなりそうなほどの高額なチャージをせしめられ、身も心もズタズタに蝕まれた後のやっとたどり着いたアパートで、副作用ガッツリの処方箋を体内に取り込むのである。

 そもそも私は東洋医学に重きを置いている。医学には西洋医学が主として行う治療医学の他に、予防医学、健康増進医学というものがあり、普段から後者のふたつに心掛ける(自己の免疫力、自然治癒能力を高める)ことによって、ほとんどの病から自身を遠ざけることができるのである。しかし、日本で「お医者さん」と呼ばれ、判断力の低下してきたご老体を食い物にしている人種は、予防に関する提言は一切しない。彼らは病人を培養しているのだ。毎朝眠そうに出社(?)しては、治るも八卦、治らぬも八卦の体たらくな医療を施し(税法上サービス業に分類されるのだから、スマイルくらいしろよ)、アフターは看護婦と焼き肉パーティ、あわよくばネンゴロなのである。

 こんな不謹慎な輩に対し、私は自身の身体に指一本として触れさせることを許さない。注射針を刺すなど、言語道断だ。私は仮に罹病したのがエイズであったとしても、医食同源の大原則と瞑想のみを以って完治させてみせると、堅く胸に刻んでいるのである。


 症状が出始めたのは3年ほど前からであった。就寝前に心臓がアブるのである。

「トク、トク、トク、トク、(空白)、トク、トク、(空白)、(空白)、トク、トク・・」 
 ・・・え、おかしい・・。いつから私の心臓はラップを刻むようになったのか。心なしか、胸も苦しい。ホワイ・・。
 
 とにかく、私は大の医者嫌いだ。二十代の頃は、風邪でどうしようもなく熱が出たときに、それでも医者に行くのが嫌で、知り合いの看護士に自宅で点滴してもらったくらいである(指した注射針が血管まで届いておらず、その時は結局、救急車で運ばれた。ツベルクリン検査の十倍くらい腫上がった腕を隠して)。

 しかし。私にはもう、その時の若さはなかった。たまたま観ていた「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」のメニューが胸部大静脈瘤(チェック項目の7割に該当)だったことで、保持する克己心もずたずたに瓦解した。私はとうとう、禁断の扉を開いたのだった。
 
「具体的には、どういう症状なんですか?」
「寝る前に不整脈がでます」
「それは、いつから?」
「3年くらい前から」
「くらいって言うのは?」
「正確に覚えてません」
「それで、その間、放っておいたの?」
「自然に治るもんだと思ってました」

 そして。通院を開始して2ヶ月が経過した頃、あしゅら男爵(医師)が言った。
「一度、ちゃんと検査した方がいいですよ・・」 

 金曜のみの一泊入院。背に腹の替えられぬ私は、その条件に脆くも妥協した。入院ヴァージンの私の純潔に、不甲斐無い一矢が投じられた瞬間だった。


 以前、知人の夫が病院で生涯を終えた。その際、最期の3日間のみで治療費が170万円近く掛かったと聞いた。つまり、こうだ。

「先生。302号室の○○さん、そろそろだと思うんですけど」
「そうだな。もういい加減ご臨終いただかないと、あのベッドは次の予約が押してるからな」
「投与するお薬とかは、今のままでいいんですか?」
「とりあえずは、量増やすくらいでいいよ。あ、でも、心停止直前には余ってる高価な薬剤、バンバン打ち込んどいてくれよ。かきいれどきだから。メーカーさんとの付き合いもあるし、最近、薬剤部からも在庫整理を詰められてるんだよね・・」
「その辺は、いつも通りでいいんですよね」
「君はもうこの業界長いから、大丈夫だよね。ところで今日、食事でもどうかな・・」

 日本では産婦人科に通う妊婦の多くが、平日のデイタイムに出産する事実をご存知であろうか(薬剤投与に因って、分娩時間をコントロールされているのだ)。では、キシリトール輸入を巡って、全国歯科医師連盟が猛反対した事件は、はたまた、日本の専門医師資格が事実上、形骸化していることなどは耳にしたことはあるであろうか。現在、全国津々浦々の病院では日々、医療ミスが散発し、闇から闇へと葬られている。私は決して、騙されないのである。
 
 そして、入院当日。保険証、診察券、印鑑、着替え、歯ブラシ、タオルにスリッパetc。「入院のしおり」と題された冊子に記された持ち物をカバンに詰めると、私は約束の朝9時半に病棟へと赴いた・・。 (Part Ⅱへ続く)

マイノリティ・リポート

2006-02-12 04:20:48 | 映画評論
 

 西暦2054年、ワシントンDC。政府は度重なる凶悪犯罪を防ぐ策として、ある画期的な方法を採用し、大きな成果をあげていた。それは、“プリコグ”と呼ばれる3人の予知能力者によって未来に起こる犯罪を事前に察知し、事件が実際に起きる前に犯人となる人物を捕まえてしまうというもの。ジョン・アンダートンはその犯罪予防局のチーフとして活躍していた。しかし、ある日、ジョンは自分が36時間以内に見ず知らずの他人を殺害すると予知されたことを知る。一転して追われる立場になったジョンは、自らの容疑を晴らそうと奔走するのだが…。  (以上、yahoo!ムービーから抜粋)

 スピルバーグ監督がトム・クルーズを抱きこんで、またやってくれた。この作品のメインストーリーは犯罪予知、というもの。プリコグ、と呼ばれるシステムの発案者を遺伝子学の権威と設定していることからも分かるように、スピルバーグは最近流行の先天性の遺伝子異常(欠損)をテーマに取り上げているのだ。
 
 人間の細胞核には23対の染色体があり、それをほぐすと二重螺旋構造のDNAが出てくる。DNAは塩基と呼ばれる4種類の化学物質で構成されていて、その配列によって遺伝情報が決定される。昨今ヒトゲノムの解明により、どの部分が何の情報を遺伝しているのかが判明してきた。同時に、どこの配列に異常があるとどういった病気に罹りやすいといったことも分かるようになり、これが先天性遺伝子異常と呼ばれるものの正体だ。

 先天性遺伝子異常の中には、精神に関するものも含まれる。そのことに派生してアメリカでは、殺人犯に共通する塩基配列の異常を分析することで、生まれつき危険因子を持った人物の特定をし、犯罪を未然に防ごうという動きがある。将来的には、先天性異常者に発信機を付けて監視しようというもので、スピルバーグは本作品を以って、このことに明確に反対の立場を表明しているのだ。

 物語の後半で、プリコグ(預言者)がジョン(トム)の自宅で言う。「この家は愛に溢れている・・」 そのシーンは、人間が犯罪者を犯すのは決して、先天性の遺伝的特性のせいではなく、根本的原因は後天性(主に家庭)にあるのだと暗示している。そして、自身の力で未来は必ず変えられるのだと。作品中で、ジョンがそうしたように・・。

 もうひとつ、私が主要だと感じたテーマは、タイトルでもある「マイノリティリポート(少数派の意見)」というものだ。犯罪予知システムをめぐり、作品中登場人物たちが何度も口にする。「完全なシステムというものはこの世には存在せず、また、それを取り扱う管理者の不備(故意を含む)によって、その正常な運営が妨げられてしまうのだ」と。スピルバーグはまずその問題点を掲げて、それ故、マイノリティの意見に耳を傾けるべきなのだと訴えかけているのだ。言わずもがなそれは、議会制度に於いて安易に多数採決をしてしまう、現在の民主主義制度に対する警笛を意味している。

 アメリカは一部、業界団体が強力な影響力を持っていたりするが(今話題のBSE問題もこれに起因する)、トータルバランス的には、実に合理的なシステムを堅持する国だ。そんなアメリカでさえ、このような危惧をしているくらいだから、これに比べたら、日本はどうなるのだろうか。僕が学生の頃、日本はアメリカに50年(ヨーロッパには100年)遅れていると言われていたが、こう考えるとまだ20年近くは後進しているのかも知れない。少なくとも、冷戦終結後10数年経過してなお、アメリカの年次要求のみを指針に国策を図る政党(例えばこの人)が政権を保持し続けているうちは、何ひとつ本質的解決には到れない気がする・・。

マルホランド・ドライブ(イレイザーヘッド)

2006-02-12 02:09:29 | 映画評論
 
 
「映画に解説は必要でない」

 本作品に寄せた、監督デヴィッド・リンチのコメントである。とはいえ、彼の作品はあまりに難解で、正直、全作品に解説を入れて欲しいくらいである。てなわけで、先だってデヴィッドの処女作の説明から始めることにする。
 
 1976年。デヴィッドは自主制作した処女作、「イレイザーヘッド」で米映画界に鮮烈デビューする。本作品は彼自身が映画作りの原点であると自負する通り、難解極まりない作品である。ストーリーは主人公であるリーゼント頭の背の低い男性が、ある日、彼女から妊娠の告知を受ける(注1:物語りの舞台は全て異音がする惑星のような街)ところから始まる(注2:正確には、その前に精子を暗示する物体や宇宙空間を浮遊する映像が流れる)。仕方なく彼女の家に行く主人公は、パラノイア的な彼女の父親と共に食事をし(注3:プレートの丸焼きチキンが突然踊りだし、その後は血を噴出したりなんかする)、間を置かずして子供が生まれる。主人公は子供を一人で育てることになるのだが、その子供がまるでエイリアンのような奇抜な容姿なのである(注4:デヴィッドは撮影当時、猫の解剖等をしていたらしい)。夜鳴き、病気の看病、最初はちゃんと世話をする主人公だが、結局、その子を殺してしまう。途中、ステージで白いぶよぶよの物体を避けながら踊る金髪女性(注5:精子と卵子を意味していると思われる)の映像等が挿入されながらもストーリーは進行していき、ある日、主人公の首がポロっと取れてしまう。たまたま拾った少年が近くの鉛筆工場へ持っていくと、工員はその頭を製造ラインに乗せる。ルーティンの工程を経て完成した消しゴム付きの鉛筆、工員が紙に試し書きをし、書いたものを消しゴムで消したあと、グッド!(いい感じだ)、みたいなことを言う。以上が、本作品の概要となる。

 さて。私はこの作品を6、7年前に観たのだが(モノクロ作品のため敬遠していた)、見終わってやっと、タイトルの意味が分かった。イレイザーヘッド、つまり、直訳した「消しゴム頭」がこの作品のテーマなのだ。主人公の男性が世話をする奇形児とは正に彼自身なのであり、それは人間(主として男性)の幼児性を表現していた。以降も共通することだが、彼は作品の中で善と悪を明確に線引きするタイプのアーティストだ。イレイザーヘッドにおいて彼は、人間の悪性とはイコール幼児性である、と表現したかったのだ。

 話しは本題に入るが、本作マルホランド・ドライブの冒頭は女性の腐乱死体である。主人公はベティとリタの女性二人であるが、途中、ベティの妄想シーンが入り混じるため、ストーリー展開を説明するのが非常に難しい。簡単に言うと、現実世界サイドでは(とても大まかに言って)映画界での活躍を夢見るベティが紆余曲折を経て堕落していく話しで、妄想サイドでは逆に大成功を果たしているのであるが(これがデヴィッドの厄介なところで)、途中、小人になる老夫婦、謎の殺し屋、劇場で入手した青い箱等のメタファーが複雑に絡み合っているため、顛末に関しては、とりあえず観て下さい、としか言いようがない。

 そこで、この作品のテーマであるが。デヴィッドは既述の通り、処女作「イレイザーヘッド」で男性の幼児性を描いた。私は「マルホランド・ドライブ」はその続編とも位置付けられるもので、女性の不完全性(俗にいうダメ女)を描いたものなのだと思う。つまり、ダメ女は自身で勝手に空想の世界を構築してしまう、そのことを表現しているのだ。だからこそ、ベティは冒頭で既に死んでいる(人物特定はぼかしてある)のであり、その後のストーリーに一貫性がないのだ。その他にも彼の作品はとにかくメタファーが多く、その性分からして全てに意義があるはずなのだが、ほとんど理解できない。本作品に於いても、リタを中心としたストーリーはあまりに釈然としない(しなかった記憶がある)。時間があれば、もう一度ゆっくりと観てみたい作品である。というより、デヴィッドの作品ならずっと観ていたい。              
                                        
                             ※アップロード写真は「イレイザーヘッド」のもの。

無意識と習慣

2006-02-11 18:06:41 | 論考
 

 例えば、あなたが自販機でジュースを買ったとする。それがコーラだったとして、ならば、あなたはどうしてコーラを買ったのであろうか。
 きっと暑い日だったから、コールドドリンクを買ったのであろう。しかし、夏場でもホットコーヒーしか飲まない人もいる。あなたはわざわざ、現在の温度、湿度はこうで、私の昨今の体調はこうこうこうであるから、といった具合にコールドドリンクの購買判断を下したのであろうか。仮にそうであったとして、では何故、数種の清涼飲料水の中からコーラを選んだのであろうか。コーラに含まれるコカの成分が云々で、私の普段の食生活は肉食中心のこうこうこうであるから、今日はコーラにしよう、と選んだわけでは決してないはずである。何が言いたいのかというと、あなたがコールドドリンクを選んだのは暑かったから(無意識)であり、何気なくコーラを選んだのは、恐らくそれがいつものこと(習慣)だからである。人は自分で考えているほど、普段の行動を論理的根拠に依存しているわけではない。このことは一日の行動を時間、もしくはイベント毎にでもセグメントしてみれば、すぐに分かることである。

 習慣とは、繰り返し行ううちに自然と身に付いたものであり、その根幹には必ず某かの根拠が存在する。上記の例に従えば、コーラを選ぶようになったのは、たまたま好きな人がいつもそうするのであったのかも知れないし、それがダイエットコークであれば、健康に配慮して始めたのかも知れない。しかし、その理由が何であれ、習慣で行う動作の原点に目を向け、合理的根拠という名の光を照射することは、自身にとって必ず大きな意義をもたらしてくれる。例えば、女性が結婚して主婦になり、家計簿を付ける。普段何気なく行っている収支について書面に記すことによって、意外な一面が浮き上がり、それによって経済面での無駄を省くことができる。このことは、キリスト教に於ける偶像崇拝(マリア像の前で祈っている、あれのこと)の概念にも通じるもので、形而下の物質を媒体として自己の内面に到る行為である。

 次に、無意識。この場合、暑かったからコールドドリンクにした、というものであるが、人体のメカニズムに於いて、この無意識というものがとても正確に作動していることが昨今判明している。既述のような現状の体質を根拠とした行動の選択を、人の体というのは無意識にしているのだ。何気なく冷たいコーラを選び、飲んだ。そこで美味いと感じる(直感)のであれば、それは自身の心身にとって、とても良い行いであると言える。つまり、人は根幹理由として、目で見た、誰かがこう言ってたというものではなく、自身が心地良い(気持ちいい)と直感的に感じるものに従って生きることの方が、自他共にとって良い行いであると言えるのである。

 私は快楽主義者だ。自分勝手ではなく自分本位の観点から自身にとっての心地良い行いに、出来る範囲内で日々終始できるよう心掛けていきたい。また、私は科学及び仕事というものの本質を、上記のマリア像に位置付けられるものではないかとも考えている。物事の本質には、観点を同じにすれば、ある種の共通性が認められるであろうことを自負している。


 ※無意識に関してはフロイト、ユングを祖とした心理学者がその解明に挑んだ系譜があるので、別の機会でその本質に迫っていきたい。また、無意識とは潜在意識に起因するもの、直感とはそれより広い(よりユング的な)インスピレーションの概念を含む意味合いで、この記事が構成されていることを付記しておく。

特殊相対性理論

2006-02-11 15:45:09 | アインシュタイン
 
 
 イギリスの文豪バーナード・ショーは言った。

「古代ギリシャの科学者プトレマイオスの時代は1400年続き、ニュートンは300年続いた。アインシュタインの宇宙はどのくらい続くのだろうか」と。

 アインシュタインの代名詞と言えば、「相対性理論」である。相対性理論とは、実は複数の理論の総称である。今回はそのうちの、「特殊相対性理論」を取り上げたいと思う。

 アインシュタインの生まれた時代は、ニュートン力学が世界を支配していた。ニュートンは相対性原理において、時間を絶対と考えていた。つまり、この世の全てのものがなくなってしまっても、時間だけはこくいっこくと時を刻むという考え方である。それをひっくり返してしまったのが、アルバート・アインシュタインの特殊相対性理論だ。

 まず、彼の発想法について述べたい。発明家トーマス・エジソンが「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力である」と言ったことは有名だが、同じことがアインシュタインに於いても言える。彼の排他的発想方法(主として特殊相対論時)とは、「思考ジャンプ」と呼ばれるものである。

アインシュタインは16歳の頃、白昼夢を見た。「もし光の上に乗ることができたら、世界はどうなるんだろう・・」

 この発想はその10年後、「特殊相対性理論発表」という形で身を結ぶのであるが、驚くべきは、彼が16歳の白昼夢の時点で「光速度不変」の概念を揺るぎないものと確信していたことだ。これが「思考ジャンプ」の正体で、言い換えれば、直観的に物事の本質を見抜く感性なのである(つまり、理論そのものは後付けであるとすら捉えられる)。

 特殊相対性理論の根本的理論「光速度不変」とは、光の速度(秒速30万km)こそが絶対(光源他、何物の影響も受けない)であり、時間とは相対的なものである。また、光の速度に近付けば近付くほど時間の流れが緩やかになる、ということを意味している。

 例えば、地球は時速1700km程度で自転しているが、とても正確な時計を極点(北極or南極)と赤道下(ライン上どこでも)に置くと、赤道の方へ置いた時計が極点のものに対し、少しづつ遅れていくのだ(このことはタイムパラドックスとして「バックトゥザフューチャー」他の多くの映画、著作の基本理念として、以降活用されている)。
 
 現在では種々の実験によって上記は通説となっているが、100年前、アインシュタインがこの理論体系(「光のドップラー効果」「同時刻の相対性」「E=mc2」「光電効果」等)を発表したときは、著名な科学雑誌に掲載したにも関わらず、数ヶ月間何の反応もなかった。誰にも理解できなかったのだ(現在においても正確に理解できるものは世界に数人しかいない)。その後、やっと科学の常識を根本から覆す画期的論理であると認められ、アインシュタインとその理論は世界中にセンセーションを起した。意外に知られていないが、彼はその際日本にも訪れていて、東洋文化に深い関心と愛着を示した(このことは晩年の中国密訪の伏線にもなる)。


 アインシュタインは幼い頃から、形骸化した権威に対して漠とした嫌悪を抱いていた。成人し、相対論を発表した自身が、今度はその権威自体として祀り上げられることに対しても同様の観念を抱き、そこに神の意図を感じていた。彼が光に関する概念を一新したことは、その生い立ちにリンクすると私は考えている。何故なら形而上に於ける光の概念とは、この世の真理(母性)を意味するからである。このことは、また以後の記事に於いて、適宜述べていこうと思う。

科学の本質

2006-02-11 14:14:55 | 論考
 

 「I only trace the lines that flow from God. (わたしはただ、神から流れ出る糸を辿るだけである)」

 20世紀最高の科学者の一人アインシュタインは、生前、よくこんな言葉を口にしていた。彼にとって科学とは、老獪なる神が定めたシステムの集大成であり、科学者とほそのパズルを解くものであった。

 電気とは何か? この問いに正確に答えられる物は、誰一人としていない。電気を目で見て説明できたものは、あらゆる科学者を含めた人類史上、未だ存在していない。かといってその存在を疑うものは、文明社会において皆無だ。何故なら我々は電気というものにどういう性質があり、どう有効利用でき、どうすれば発生させることができるかを経験上知っているからだ。

 では、UFOはどうだろうか。心霊現象、その他の現代科学で解明されていない怪奇現象と呼ばれているものは、一体どうなのであろうか。私はそれらの全てがインチキであるとは、決して断定できないと思っている。それらと電気の違いとは、体験した人数が多いか少ないかだけであるからだ。つまり、ある現象について嘘か本当かと聞かれれれば、「分からない」としか答えようがないのである。何故ならそれは実際に見た(感じた)人に対しては確実に存在し、そうでない人にはそうでないとしか言いようがないものだからである。昨今、一部バラエティ番組において、脚本通りの出来レースを以ってそれらを揶揄する風潮があるが、私はそれに携わる人間に決して敬意を払わない(そんな人が関わった映画に価値は見出さない。事実ない)。


 「パンドラの箱」の物語に登場する火とは、科学を暗示している。創世記におけるイブが口にしたのは、知識の実である。このふたつは偏重な懐古主義者によって通常ネガティヴに捉えられることが多いが、私はそうは思わない。科学こそが大いなる意思の下へと私たちを導く、唯一にして且つ自然な方便なのである。

 現代において真の科学者、アーティストと定義付けできる人たちの多くは、同時に、超常現象への解明に多大な関心を寄せている。私もこのカテゴリーにて同様の活動及び、形而上並びに形而下の科学の融合を目指していければと考えている。

ITと読めない子

2006-02-11 01:50:04 | こばなし

 
 もう、かれこれ5、6年前の話しだ。沖縄サミットで日米首脳会談が行われた。その際、日本の外務省は時の総理大臣、森嘉朗氏にある提案をした。今にして思えば、それはわが国にとって、真珠湾攻撃を彷彿とさせるほどの無謀な策略であった。

「森首相。まずクリントン大統領に会ったら、ハウアーユー?と言って下さい。そうすると向こうは多分、アイムファインサンキュー、エンジュー?と訊いてくるから最後に、ミートゥー、と言って下さい。以降は通訳が入りますんで、お願いします・・」

 そして本番の日が訪れた。・・が。我らが森君はクリントンを前に何を血迷ったか、なんと!

「フーアーユー?」
 と言ったのだ!

 端的に言って、歴史に残る政治家である。現役のユナイテッドステイツのプレジデントに、お前は誰だ?と言ったのだ。それはつまり、ゴルバチョフ、エリツィンら冷戦時代のソヴィエトの書記長クラスを一掃してしまったばかりでなく、あのチェ・ゲバラを以ってすら、草葉の陰でひっくり返らせたであろうこと必至なのである。

 何はともあれ。かのクリントンもこれには、定評のあった笑顔を多分に引き攣らせたのであるが、しかし、森君より少しだけIQの高い彼は咄嗟にこう切り返した。

「I'm Hillary's husband!(わたしはヒラリーの夫だよ)」

 さすが幼少の頃、ケネディ大統領と握手を交わした(女くせの悪さはそのせい?)男である。常に女性を立て(縦?)、有権者のハートをがっちり掴みこむだけのコミュニケーション能力を、瞬時に発揮できるのである。

 さて。これを受けた、森君。周知の如く、彼には一切のボキャブラリー(そもそも始めから語義を理解していない)、アドリブ能力はない。そう。彼はクリントンに対し、最初教わった通りの言葉を口にしたのである。

「ミーツー・・」

 くぉら~。われ、いつの間にわしのかあちゃんとネンゴロになっとんねん! 少なくとも、私ならこう答える(その後の会談でクリントンが森君に、「ところで、ミスターモリ。ヒラリーのプッシーの具合はどうだったんだい?」と言ったとか、言わなかったとか・・)。


 東京湾近郊に生息するダボハゼは、最近、海底のヘドロに沈下している空き缶に産卵するようになったらしい(本来は岩礁に産卵)。同じく東京の霊長類研究センターにいるオランウータンのアイちゃんは、最近、自身で自動販売機のジュースを買い、プルタブを上げ、飲めるようになったらしい。

 我らが森君も最近、六本木ヒルズに引越し、渦中の人物たち(ホリエモン関連)との黒い交友(きっとからかわれただけ)を囁かれているが、その後はどうなのであろうか。IT(アイティ)と読めるようになったのであろうか。少しはどこか進化してくれたのだろうか・・。きっと、彼がアイちゃんに抜かれる日はそれほど遠くない。