アインシュタインメモ☆ブログ

 特殊相対性理論が発表され、はや101年。 新世紀の世に捧ぐ、愛と希望のサイエンス・ラプソディ☆

皇室典範緒論

2006-03-01 11:31:52 | 時事関連
 

 世界は西と東、「ギリシャ-ローマ文化圏(セム語圏)」と「インド-ヨーロッパ文化圏」に大きく二分化できる。宗教でいえば、ユダヤ教とヒンドゥー教である。世界には基礎宗教としてはこのふたつしかなく(一部のアニミズムを除く)、キリスト教、イスラム教は前者、仏教は後者にそれぞれ派生する。

「ギリシャ-ローマ文化圏」の宗教的特長として、一神教であることが挙げられる。ユダヤの始祖アブラハムが神と契約したところから世界が始まる(必然的に終末論が付随する)ので、個人間の契約で社会を構成する風潮が強い(民主主義理念がフランスに起源するのは偶然ではない)。また、この文化圏に於いては、「聞く」ということが大変重要視される (現在でもキリスト教以外は偶像崇拝を禁じている)。ユダヤ教の預言者が「かくしてエホヴァは語られた」と話し始める事や、英語には我々日本人には聞き取りにくい母音が多数含まれることも、それに起因している。そして、聞き(情報を得て)、論理的判断を下す風潮とは、男性的文化圏であることを示している。中東、ヨーロッパの各国がシステム、伝統を何より重んじ、一部、階級制度が現存するのも、その点に依拠していると言える。

 次に、「インド-ヨーロッパ文化」であるが、こちらは多神教文化である。日本に「やおよろずの神」なるものがあるように、全ての物質、事象を神とし、故に、「見る」ということを重用している(我々が常用する漢字の基は、見たそのままを図形化したものである)。また、同時に捻出した、森羅万象の輪廻という要因を以って、取り巻く事象を観察することによって、世界の成り行きを見極めようとした。そして、このプリミティヴな行為は直感的及び、抽象的感性に依存したパラダイムの発生を誘引し、かかる女性的文化圏の形成に到った。故に、東アジアには逆説的に男尊女卑の文化(日本には封建制度、戦時下での天皇絶対崇拝)が存在し、如いては、旧ソヴィエト、中国のような(偏重な)共産主義コミュニティが横行する由縁とも成りえた。

 世界には日本の天皇家の他にも、数多くの王朝が存在する(した)。著名な英国王朝の他、エジプト、デンマーク、オーストリア・・。アジアに於いても中国、タイ、トルコ、悪名高き北朝鮮に到るまで、相応の建国年数を経た国であれば、王朝制度はほとんど存在する(していた)と言っても過言ではない。しかし、それらの中に於いて、日本の天皇制だけに唯一存在する排他的奇特性がある。初代神武天皇より125代、2665年間伝承した「男系男子継承の原則」である。 


 皇位継承問題は、過去にも幾度か生じている。そのうちの最も最近の例は明治時代のものであり、理由は今回同様に、男児不在(側室の子も含め、全て成人前に死んでしまった)に因るものだった。それでも、「偉大なる」と讃えられた時の帝、明治天皇は側室との間に何とか男児を儲け、また、宮家に内親王を降嫁させるなどの配慮を施し、伝統ある天皇制の維持に努めた。その後、大正を経て、激動の昭和の時代に突入した。敗戦、GHQ介入による天皇制撤廃論。「人間天皇宣言」で有名な昭和天皇は側室制度を廃止し、一時は「養子をとりたい」とまで溢した

 生物界には「インセスト・タブー」と呼ばれる、必然の法則がある。植物、昆虫、その他、我々が属する有胎哺乳類に至るまでのありとあらゆる雌雄分化生物に於いて、近親間交渉(相姦)を禁忌している普遍的ルールのことであり、自然界の意志のひとつとも比喩できる。これは、近種間に於いての生殖行為では極めて稔性が低く、また、子に障害(もしくは顕著な変種)が発生しやすいことを意味している(因みに近親婚に関しては、現代に於いても各国、法令に拠って厳しく規制されている)。

 平成の現在に至るまでの天皇制維持の道のりは、決してなだらかなものではなかった。既述の生物学的見地からの危険性を常に孕み、また、周知の通り、歴代天皇の半数は側室天皇であるし、時に10親等離れた宮家を、時に(直系)女性天皇を即位させして、それでもこの国は「男系男子継承の原則」を頑迷に堅持し、その比類なき純潔無垢の系譜を連綿と継承してきたのだ。 

 一部への着火を覚悟に記せば、天皇家に一般的な民主主義的概念は存在しない(宮家にはある。皇室離脱すればいい)。端的な表現を用いれば、我々の持つ常識とは程遠く乖離した形で制約されている。天皇家は他の全ての日本人、貴族、華族、士族、現代の財閥、官僚、市民に至るまでのあまたの人民(臣民)とは、歴史上に於いても隔絶した存在なのである。それは、先に述べた昭和天皇の「人間天皇宣言」以降もなお、選挙権は本より、名字すら持たず、天皇のみにして行う国事行為、儀礼式典の存在を思えば御理解頂けるだろう。

 そして、暴論、僻論でなく、天皇制は男女差別(正確には区別)である(区別とは質の差、差別は質を人為的に粉飾したもの、と定義している)。昨今の男女同権社会の機運は大賛成であるが、我々は同時に、男女同質ではないことを再認識しなくてはならない。男女の本質的性差ついては以降に別途、特化した記事を設けるつもりでいるので、ここでは敢えて掘り下げる事を避けるが、では、父性とは何か。それは、「権威、秩序、制度(システム)及び、それに依拠したバランス感覚」のことである。
 
 この場合に於いて、天皇制に象徴される「父性の原理」とは、長期的及び、大局的見地からの合理性(システム)を意味している。そして、この世に万能たるシステムは存在しえないことを根拠に、時代背景他を考慮したメンテナンスの必要性の付随は避けられないが、それがその根幹、骨子への抵触に至ることは決して許されない。何故なら、この原理とは宇宙の誕生直後から自然に作用する、科学的論拠に裏付けされた「矩」であり、また、それには秩序の崩壊を防ぐ合理的根拠が実在すると演繹していいからである。

 自民党の党章は「菊」をモディファイしたものだ。それは、朝日新聞の社章に同じく「体制」を意味している。自身を歴史的人物に擬える笑殺すべき時の首相は、やたらと皇室典範改正に固執し(問題提起した既成事実だけは評価できる)、昨今の家政化した社会の住民の目には、それが映えて見える。しかし、立ち止まってよく考えて欲しい。紀元前から伝承する万世一系の国家規範をほんの数年間の社会事情、国民感情に因って汚してしまってよいのであろうか。仮に女系天皇を容認すれば、今後、時の権力者の手に因って天皇が政治的、利権目的のために利用されて宮家が際限なく増加し、如いては、天皇制そのものの存在意義が、時間の経過に並行して消失していくのである。

「血は水より濃い」という言葉がある。この場合の水とは、多くの詩人、アーティストが会得したように、形而上に於いての「自由」を意味する。そして、(成分を包括する)血(血統)とは、この世の「秩序」を抽象している(事実、血は水より液体濃度の高い、エントロピーの低い物質である)。

 とはいえ、私は21世紀の現代に於いて、民主主義の根幹たる「自由と平和」より、「血統」を重んじるべきだと安易に言うわけではない。しかし、そもそも本当の意味での「自由」とは自分勝手ではなく、「自分本位」を差す。与えられた生(境遇、運命等)を全て肯定的に受け止め、その中で自分自身に誠実に生きることを言うのだ。つまり、名状しがたい障害が存在するのかもしれないが、同じ人間である天皇にも、与えられた枠の中で等身大の自由と平和を以って生きて行くことが可能なはずなのである。

 冒頭にも触れたように、日本国は起源的にも女性的文化圏である。天照大御神(あまてらすおおみかみ)は女性神であり、国旗の日の丸は太陽、つまりは母性神を意味している。その我が国に於いて、天皇制こそが唯一普遍的に実在(残存)する「父性の象徴」なのである。そして、母性と父性は相対的、相補的な対照に位置し、どちらかの一方の存在なくしてはそのどちらも成り立たないのだ。我々には日章旗を「ただの白い布切れ」に変え、(ほぼ)崩壊した父性のその萌芽の可能性すら握りつぶしてしまう権利があるのだろうか。
 
 天皇制の維持、あり方は、国民ひとりひとりの意志に大きく依存している。その支持なくしては、(ミクロ的な視野に於いて)天皇制の存在そのものが空転してしまうからだ。仮に、現在の紀子様の御子が女子であっても、秋篠宮様の次の皇位までには、まだ40~50年の猶予が存在する。幸運にもこの現代に生きる私たちは決して急いたりせず、時に、しのびがたきを共にしのんだ先祖を想い、末裔まで恥じることのない誇りを胸にこの問題に取り組むべきだろう。


 私の天皇との出会いは、高校時代に遡る。時の「昭和天皇」が崩御されたのだ。私の(ピストルズ狂いのパンクの)友人は街の建造物に「HIROHITO・DEAD」と書き連ね、右翼団体に追い立てられていた。その影響があったのか、私も20代前半までは、天皇制批判(昭和天皇戦争責任言及)の姿勢を貫いていた。今想えば、いたずらに若かりし頃の面映い思い出だ・・。

 
※記事中のふたつの文化圏の解釈は、通常の四大文明の起源論とは地理的、歴史的に別な角度から狭義に於いて定義されたものであり、また、そのふたつは神話及び、諸事実に於いて多くの共通性、類縁関係を保持している(例えば、サンスクリット語の「ヴィデヤー(見る)は、ギリシャ語の「イデア」及び、ラテン語の「ビデオ(ビデオカセットのビデオ)」の語源である等)。



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2 コメント

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Unknown (gimon)
2006-03-20 21:39:58
ギリシャ・ローマは多神教文化圏そのものですが・・・厳密に言えばヨーロッパのほとんどが多神教文化圏ですよ。
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コメントありがとうございます (bonita-koji)
2006-03-20 23:23:37
まず、本文では割愛した説明を付記します。今から四千年前に原インド・ヨーロッパ系民族がギリシャ・ローマ圏に大挙して移住し(ふたつの文化圏は起源的に同属)、多神教文化を形成します(本文末の注意書きは、憚りながら、このことを意味しようとしたつもりでした)。

 しかしその後、セム語系民族であるイエス(ユダヤ人)がキリスト教を以ってギリシャ・ローマ圏に浸透したことで、(キリスト教義に感化された現代風の)ギリシャ・ローマ文化圏と、(起源的な)インド・ヨーロッパ文化圏の形成に至りました。私は本記事に於いて、この「二分化」を示唆したつもりでした。

 また、同文に於いて私は、「一神教」という言葉を、既述二分化以降の、アッラー、キリスト、アブラハム等の唯一神を祭り上げる「一次元的宗教」という意味で使用しました(これに関しても、言葉が足らなかった事実は認めます)。



 古代インド、ノルウェイ、ギリシャ及び、エジプトを代表とする「神話の中の神々」という見解からは、あなたのご指摘が客観的に正しいといえます。だた、当該記事に於いて私の意図したのが、史実性側面からも狭義的見解であるという実意は、御理解下さるようお願い致します(結果として誤解を生じたことはお詫びします)。また、お気づきの点がありましたら、またコメント下さい。ありがとうございました。

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