アインシュタインメモ☆ブログ

 特殊相対性理論が発表され、はや101年。 新世紀の世に捧ぐ、愛と希望のサイエンス・ラプソディ☆

I have a dream that one day・・

2006-04-07 00:12:49 | その他

「私には夢がある」

 いきなりの、キング牧師チックな書き出しだが、その通り「私には夢がある」。故に、このブログは本日で終了する。

 本当はまだ、フロイトの肛門愛(及び、口淫愛他)、アインシュタインの特殊相対性理論Ⅱ等、記事にしたいことはたくさんあった。だが、やめにする。

 レオナルド・ダ・ヴィンチックな幕引きとなりますが、また機会があればお会いしましょう。

「私には夢がある。いつの日にか、・・きっと」

生命の起源

2006-03-27 22:05:22 | 論考


 以前NHK教育の番組で、「生命の誕生」を「目覚まし時計」を使って説明した生物学者(か何かだったと思う)がいた。彼は透明のアクリル板でできた箱の中に、分解した目覚まし時計のパーツ(表面を覆うプラスチックパーツから秒針、ネジの一本に至るまでの全て)を入れ、ガラガラと振って見せると、

「これを何億回、はたまた、その何十乗分回振っていると、いつか偶然に(全てのパーツがそのものピタリ合致し)目覚まし時計が完成する可能性があります。生命誕生の瞬間とは、譬えればこういうことです」、と言った。

 番組を観ていた時は然したる感銘も受けなかった(ただボーっと観ていた)が、その後しばらくして、模倣に用いたのが「目覚まし時計」だったことといい、素晴らしい解釈だということに気付いた(日本人だったが、残念なことにその名字すら記憶していない)。何より私が着目したのが、「偶然」という表現だった。その学者が何を意図したのかは、今となっては知る由もないが、この世の全てを「必然」と捉えている私にとって、その意義は軽くない。量子学的観点での「確立と兆候」にも通念する、「生命誕生に於ける偶然」とは、いったい何を含蓄しているのだろうか。
  
 アインシュタインの果たせなかった「統一場理論」を完成させ、二十一世紀最高の物理学者と謳われるスティーヴン・W・ホーキング氏は、同時に、「ビッグ・バン理論」でも有名だ。聖書にも「最初に光ありき」とあるが、彼はそれを科学的見地から事実上、立証(当然、異論、反論的学説は浜の真砂)したのである。以降はその理論を基軸に記述される。


 地球は誕生後間もない、宇宙の塵(超新星の残骸)から生まれた。地球は太陽の引力圏内に於いて比較的小さな惑星だが、それより更に小さいものは小惑星帯(岩屑)として、宇宙空間を浮遊している(つまり、地球は「運のいい」惑星だった)。しかし、その誕生に至る過程は、決して穏やかなものではなかった。衝突、崩壊、溶解が絶えず繰り返され、表面に追突する隕石の存在も助長して、全てが不安定な状況にあった(隕石そのものも破砕、溶解して、その成分のひとつとして吸収された)。

 まだ若い地球は、その成長とともに内部の温度を上昇させた(ウランその他の不安定な元素が、放射性崩壊していた)。ここで、地球の大きさとその内部からの熱量とは、絶妙のバランスを保つ必要があった。もっと小さければ燃え尽きてしまっただろうし、大きすぎれば生命を育む適温まで上昇することもなかった。また、太陽との距離関係も、実に好都合に調整された。焼け焦げてしまうほど近くもなく、(生命の素材とも言うべき炭素を始めとした原子の)化学反応が発生しないほど遠くもない。それに地球自体の自転という要素が加わったことで、表面の全ての空間が程よく、その恩恵に授かれる(生化学反応の生じやすい)環境へと徐々に変移していった。

 十九世紀のイギリスの生物学者チャールズ・R・ダーウィンは、友人に宛てた手紙にこう記している。

「もしも仮に、有機化学物の溶け込んだ暖かい水たまりに、光と熱と放電が作用することでタンパク質が合成されれば、もっと複雑な変化でも容易に進行するであろうし、生物形成以前の太古では、それらが捕食、吸収されることもなかったであろう(要約)」

 慎重派であった氏が、「もしも仮に」と前置きして提唱した「原始スープ説」は以降、一部の科学者に継承された。そして、ドイツの動物学者エルンスト・ヘッケル、ロシアの生化学者A・オパーリン等を経た後、1950年代初頭、S・L・ミラー、H・C・ユーリーの実験に於いて、終にそれが証明された。二人は原始大気を組成した「還元型大気」と呼ばれる混合気体に、(稲妻の代わりに)放電することによって、様々な有機化合物(主にタンパク質)の形成に成功したのだ。このことから、生命の素となる単純な有機化合物は、原始の地球で自然に合成されえることが証明された。炭素化合物は互いに結合して長い鎖状に重合する自律的性質があり、あとはエネルギーさえ存在すれば、自己複製能力の付与された最初の分子(生命)の発生が、理論上可能となる。 

 しかし、仮に必要な分子全てが生成できたとしても、そこから「生命」が生じる保証はない(ここでやっと、冒頭の「目覚まし時計」の例が引き合いとして出てくる)。それ以降、(化学合成を繰り返し行う)煮え滾る釜が創造力を発揮するまでに、何億年もの時を必要とした。更に、何億分の一の確立でしか起きない化学反応が運良く生じた後でも、現在に至る途方もなく永い経緯(道のり)には、想像を絶するほどの苦渋が満ちていた(例えば、生命がエネルギー摂取機構が確立するには、熱力学の法則に反しなくてはならない。この他にも、幾何級数的な障害の発生が憶測される)。兎にも角にも、「生命」がその貴重な第一歩を歩み始めたのが今から40億年近く前であったろうことは、間違いないと考えられている。

 現在、最も太古の生物とは「超好熱性化学合成無機独立栄養生物」と呼ばれる、数千分の一ミリ程度の細菌であると考えられている(現存する彼らの種は、沸点近くで最多に増殖する)。そして、昨今の遺伝子分野に於ける科学進歩により、彼らから始まるあまたの生物は、全て同じ遺伝子(リポソームRNA)構造を共有していることが判明した。この発見は、単純且つ明確な「一確定論」を帰納する。つまり、「絶滅種を含む全ての種は、たった一己の生(個体)に帰属する」という事実だ(リボソームRNAはその複雑な構造故に、独立した複数の類似はありえない)。


 前述のホーキング氏は(生命を含む)宇宙の創世に関し、「そこに何らかの意思・因果関係・必然性を前提とすることが、より科学的だ」と述べている。現役で活動している他の科学者の中にも、その始まりには何か「サイコキネシス」のような意志(念)が介在したと考えるのが妥当である、とする者も(依然、少数派だが)存在する。そして、かくいう私も、地球以外の惑星に於ける生命体の存在を信じていない。「奇跡の星」という表現が大好きで、また私は、我々とは全て「その存在自体が奇跡なのだ」と信じている。

 最後に。宇宙を周期的に移動する流星群(彗星等)が、ゼロではないにせよ、どうして嘗て(きっと、これ以降も)それほど何度も地球を危機的状況に陥らせなかったのか(小型のものは大気圏で焼失するにしても、その他が衝突しないのか)ご存知であろうか。それは、衛星である「月」の存在のおかげだ(その引力を以って回避、または月自体に衝突させている)。地球を包括する宇宙とは、「間然するところのない取り合わせの妙」の裡に成り立っているのだ。


※生命の起源に関しては、他に「粘土論」もあり、かなり興味深いものです。また、今回の記事に於いては、イギリス古生物学会の会長も務めたリチャード・フォーティ氏著作の、「生命40億年全史」から多くを抜粋しています。関心のある方は(単行本しかない故に少し高価ですけど)一読してみて下さい(他に氏の専門である「三葉虫の謎」なる書籍も存在します)。

ホェン・ドーヴス・クライ/プリンス

2006-03-26 22:00:56 | 音楽評論


When Doves Cry-Prince

Dig if u will the picture
Of u and I engaged in a kiss
The sweat of your body covers me
Can u my darling
Can u picture this?

Dream if u can a courtyard
An ocean of violets in bloom
Animals strike curious poses
They feel the heat
The heat between me and u

How can u just leave me standing?
Alone in a world that's so cold? (So cold)
Maybe I'm just 2 demanding
Maybe I'm just like my father 2 bold
Maybe you're just like my mother
She's never satisfied (She's never satisfied)
Why do we scream at each other
This is what it sounds like
When doves cry

Touch if u will my stomach
Feel how it trembles inside
You've got the butterflies all tied up
Don't make me chase u
Even doves have pride

How can u just leave me standing?
Alone in a world so cold? (World so cold)
Maybe I'm just 2 demanding
Maybe I'm just like my father 2 bold
Maybe you're just like my mother
She's never satisfied (She's never satisfied)
Why do we scream at each other
This is what it sounds like
When doves cry

How can u just leave me standing?
Alone in a world that's so cold? (A world that's so cold)
Maybe I'm just 2 demanding (Maybe, maybe I'm like my father)
Maybe I'm just like my father 2 bold (Ya know he's 2 bold)
Maybe you're just like my mother (Maybe you're just like my mother)
She's never satisfied (She's never, never satisfied)
Why do we scream at each other (Why do we scream, why)
This is what it sounds like

When doves cry
When doves cry (Doves cry, doves cry)
When doves cry (Doves cry, doves cry)

Don't Cry (Don't Cry)

When doves cry
When doves cry
When doves cry

When Doves cry (Doves cry, doves cry, doves cry
Don't cry
Darling don't cry
Don't cry
Don't cry


 分化人類学者の指摘を受けるまでもなく、人は経験から学習する動物だ。以前の記事でも触れた通り、その行動は無意識と習慣の多大な影響下にあり、また、人格自体もそれまでに体験したことの総体に過ぎない。もっと言えば、人(主として男性)は体験を通してしか、外部(彼以外の人間及び、生物)と観念を共有することができない。

 例えば私は、自身の思考形態を根底から変移する時期を経過して初めて、その大変さを識った。それまでの自身を自己否定し、新たな「自身が信じるもの」への軌道修正をする、それには真摯な勇気の固持と痛切なストレスに晒される必要があり、その体験を経て初めて、サナギから成体へと変容する蝶への畏敬の念を覚えた(ここでいう「変容」とは、「メタモル・フォーゼ」の概念とは意を画する)。


 思春期を通した私の過去には、「PRINCE」の存在が欠かせない。私は元来、音楽自体(曲)への遍歴があるものの(いい物はそれが何であれいい、の概念)、限定されたアーティストへ固執する傾向はなかった(今でもない)。しかし、何にでも例外はあるもので、そのひとつが「PRINCE」の存在だ。

 その理由解明には、未だ至らない(人間誰しも自分のことが一番よく分からないものだ)。ただ、飽くまで憶測として述べれば、彼の生得的に運命付けられた(俗に言う劣等感も含めた、心的複合体の意での)コンプレックス及び、その分化過程のスピードが、私のそれらに酷似していたのだろう。

 昨今の「PRINCE」と言えば、打撃系格闘技「K-1」のオープニング・ソングとして(何故か)使用されている「Endorphinmachine」の存在が挙げられる。とはいえ、「PRINCE」の芸歴は意外にも長く(日本ではあまり売れないため知られていないが、30年近い)、映画等の主題歌になっているものの他にも、(私流で言う)優れた作品は山のように存在する。

「When Doves Cry」に於ける「you」は彼女であり、同時に母親のことでもある。プリンスはこの作品に於いて、成長し恋人(この場合、彼女)と構築する人間関係は、幼児期に於ける母親とのそれを踏襲(投影)しているに過ぎない普遍的事実(「Animals strike curious poses・・」の部分は、あまりに感慨深い)を歌い上げているのだ(曲に関係なく追記すれば、上司との関係は父親とのそれを再構築)。

 英語の「dove」には(小型の)ハトという意味の他に、「愛人」というスラングもある(この作品には、他にも多くのダブル・ミーニングが織り込められている)。ギターを自身の性器に擬えて弾きあげることでも有名な彼が、そのソロ演奏から始まるこの歌に託したメッセージを読み取る鍵は、聴く側の感性に委ねられているのだろう。

ICU(集中治療室)

2006-03-25 21:51:05 | こばなし


「産んで育ててやった親には、(子供を)殺す権利もあるんだ。あんまり、世話焼かすんじゃねえ・・」

 幼少時に於けるその教育方法は、以前の記事に記した。その後、思春期に突入した私は、それ故に派生する権威への反発、協調性への不和等の諸問題(具体的には教師他への反発、種々の集団活動への参加拒否等)を勃発させる度(学校側には母親のみが対応)に、上記のような不条理な恫喝を受けて育った(とはいえ、それを気にするほど、当時の私の神経も細くはなかった)。

 そんな父が以前、心筋梗塞で倒れた(私の心臓疾患は、その体質を継承している)。一時は奇特、ではなく(な、はずはなく)危篤状態であったため、二人姉弟の私は「小銭(保険金)が入るぜ」、と俄かな期待を寄せたりもしたが、結局、(生命力の強い彼は)賦活し始めてしまったため、母に勧められるまま、病院へ見舞いに行くこととなった(当然にしてその本質を見抜いていた母の口からは、若い看護士の存在が仄めかされていた)。

 二回曲がると来た道を忘失する、歳を負う毎にその深刻さを増す「方角不認知症」は、何の変哲もない収容所を模した建造物内に於いて、酷く私を疲弊させた。途中幾度もすれ違う看護士に心奪われながら、それでも何とか「ICU(集中治療室)」の表札の架かる一角にたどり着いた私は、その入り口へと歩を進めた。
 
 そこで、私の中に、はたと疑念が湧いた。眼前には、大きな、ツインベッドが丸ごと納品できそうな扉が聳えているのだが、その入室方法が不詳だったのだ。扉の表面にはどこにも取っ手らしきものが見当たらないし、その正面の床に何度も足を踏み込んだりもしてみた(自動扉イメージ)が、それはピクリとも反応しなかった。しばらく待ったが、声を掛けたくなるような人物との邂逅にも至らなかった私は、思い切ってその隙間に手を差し込んだ。

 意外なほど素直に扉は開いた(こじ開けた)。一般に、笑顔の素敵な女性にはしかるべき男性の影が想起されるのだが、ダメもとで自身を晒したら(タイミングが合致して)、想いのほか容易に食事に誘えた。そんな感慨を彷彿させる、開放だった。室内に踏み込むと、透明のカーテンに覆われたベッドが(確か)6つ見えた。順に覗き込んで行く私は、3つ目くらいで、人口呼吸器を装着した(あまり私と似ていない)見慣れた顔を発見した。

 彼は寝ていた。しかし、わざわざ彼の好物であるグレープ・フルーツ(ルビー)をスプーンとともに持参した孝行息子である私は、その肩を揺すってみた。すると、程なくして、彼は目を開けた(やはり、生きていた)。意識が朦朧としていたのか、その瞳はしばらく中空としていたが、やがて私を見据えると、何やらあえぎ始めた。

 当時、自宅に不審な電話があった。たまたま在宅していた私が、「はい、もしもし」と電話に出ると、相手はただ「俺だ」、と言った。不義を感じた私が「どちらさまですか?」と訊ねると、受話器の向こうの人物は(少し苛立った感を伴い)、再び同じ句を唱えた。間違い電話を確信した私が、「うちは○○ですけど」と(ぎりぎりの自制心を以って)答えると、男は、「ああ・・」と、低い吐息のような言葉を漏らし、一方的に電話を切った。後日、その不審電話の主が、会社に掛けるつもりで誤って自宅にリダイアル発信した(着信が受付嬢でないことに訝った)父であることが判明した。謎解きした母は笑っていたが、私はそれまで以上に、その接触を控えるようになった・・。

 入院(見舞い)時期、既述の親子関係にあった私は、呼吸器の向こうから発せられる、その「意図するもの」を理解することができなかった。

(遺言なら、しっかと聞いてやるぜ) 

 それでも、初めてその姿を見下ろすことの許された私が、楽勝なことを考え始めた頃、病室の奥に併設された詰め所から血相を変えて近付く看護士の姿が見えた・・(これ以降に、その少し気の強そうな看護士が、笑顔の私に対し、早口で捲し上げた内容を要約する)。

 あなたはどうしてここにいるのか。面会者は専用入り口から、両手の消毒、専用ガウン、スリッパを着用して初めて、入室することができる。そもそも、現在は面会時間に該当しない云々・・。

 つまりは、その時の父の言葉(あえぎ声)も、きっとそれを意味していた。そして、私はますます、自宅での居場所を萎縮させることとなった・・(もちろん、グレープ・フルーツを手渡す機会にも恵まれなかった)。


 彼は依然、よく食べ、よく忘れる男だ(この形質もまた、確実に私の遺伝子に継承されている)。成人以降、「おう」、以外のコミュニケーションを受けたことに乏しい私に、その正確な(彼に関する)分析が不可能なのは事実だが、どうやら、観察からはそう推される・・、と言うより、現在の(それ以降の、年に2度ほど顔を合わせる)私は、ただ、そうであろうことを願っている・・。



プライドと矩論

2006-03-21 22:34:00 | 論考


「乞食」とは、道に落ちている物を拾う人たちのことを指すのではない。彼らは単に、廃棄物の有効活用をしているに過ぎない(現行法規に於いても、遺失物の取得を原則、合法と認めている)。「本物の乞食」とは、相互理解、信頼のない者(団体)に対し、金品を要求する(または、授与される)人間のことを顕す。

 血縁という関係を以ってのみ、すねを齧る子供(もしくは、その逆)、雇用の維持だけで会社組織にぶら下がる(依存する)サラリーマン、予算取りのためだけに盲目的に地方への無駄な公共投資を継続する行政機関等、その例は枚挙に暇がない。しかし、仮に肉親から現金を一時借用していても、はたまた、定年までひとつの組織に勤め続けたサラリーマンであっても、上記に該当しないケースが(昨今では稀だが)存在する。その差異に起因するのが、「プライドの介在」だ。

 私の好きなロックン・ロールを代表としたミュージシャンたち(興味のある方は「音楽評論」のカテゴリを参照)は、時にその作品の中で、「foolish pride」なる表現を施す。この意味するものとは、多くが、自己顕示欲であったり、虚栄心であったりして、プライドの本質とは異なる、単なる幼児性に過ぎない(もちろん、当のアーティストたちも否定的に使用している)。つまり、プライド概念の成立には、「一定上位での自我の覚醒」が必須事項となる。

 また、プライドを直訳すれば、「自尊心」となる。読んで字の如し、「自身を尊ぶ気持ち」を意図している。自己を客観的、論理的に一己の生命として敬愛するわけであるから、当然、その前に自身をよく知る必要がある。そして、ここで敢えて喚起すれば、英語で「存在する」とは「exist」と綴り、そのラテン語の語義は「外へ出て行く(踏み出す)こと」である。

 仮に、とてもサディスティックな、俗に言う「イジメっ子(ここでは成人男子と仮定)」がいるとする。彼は職場に於いて、上司を除く二十名の同僚(部下を含む)とグループ作業をしている。彼はその性格故に、業務遂行上、ことあるごとに周囲への不義を働くのだが、ここで、彼がその全員に対し攻撃性を示すかというと、えてしてそうではない。中には、部下にあたる社員であっても、その範疇外に活動する者も存在するはずだ。それは何故かというと、「人格に統一性はない」からである。

 人格とは、当該人物(ここでいう彼)の五歳の頃の自分、十歳の時のと或る経験をし(反応をし)た自分、思春期に恋愛をした自分・・etcの統合(体系化)した総体に過ぎない。この側面からも、人間が自身以外の(物理的には表皮を境界とした)外部との接触なしには自我の形成には至らず、そればかりか、その本質を顧みることすら出来ない事実が帰納できると言える。

 そして、かかる論点からの、「外部との明確な識別を獲得した人物のプライド」とは、イコール「知性」でもある。再び例証すれば、女性から金品を受け取る男性がいるとする。彼らの未熟な恋愛関係は、その物質的授与に拘束されている。その時、その男性が自身及び、その女性のことを真義に案じ、現在の唯物的関係を絶った(具象的には別離、もしくは正当な関係へ移行した)としたら、それを世間一般で、「プライドのある男性」と呼ぶのではないだろうか。そして、そうすることが、それぞれにとっての、長期的及び、大局的見地からの幸福を醸造する「ヴェクトル」も意味する。

 論語に「不踰矩(七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず)」という、有名な言葉がある。「矩」という単語には、型、規格、四角形等の語義があり、規矩、矩尺、矩形を英訳する場合は、standard、rule、common等の単語が主としてあてがわれる。しかし、人に於いての「矩」とは、その人物を取り巻く(厳密には出生後、現在に至るまでの)事象の全てであり、直訳には「formula」が相応しいのではないか、と私は考えている(ご興味頂けた方は、スピード概念と民主主義理念をご覧下さい)。そして、私は「自由」の語義を、「与えられた矩の全肯定下に於ける自己実現」であると解釈している。


※「プライド」に関し必然的に付記すれば、女性の側からのプライドとは、上記と少し様相を違える。よりフィジカルになる、と形容していい。つまり、その自尊心とは、「自身の身体を物質的に大切にすること」だと換言できる。ここで敢えて差別化した理由は、そもそも母性なる「叡智」を生得的に保持できる女性が、わざわざ男性の場合のような「時間軸に即した知性」を獲得する必然性はないことを叙述したかったからであり、また、決してできないことを意図するのでもない。その気になれば、(現状がそうであるように)女性の方が優位であるとも形容できるからだ。ただ、その獲得経緯には多大な「犠牲」が伴うため、相対的に空間理念に所属することができる女性が、わざわざ物質的(稀でなく身体的)犠牲を併発させてまで、それに固執しなくてはならない蓋然性は低いと言えるだろう。


 最後に、「You Gotta Be」「Life(ドラマ主題歌)」「Kissing You(映画Romeo&juliet主題歌)」で有名なDes'ree(デズリー)の、「I Ain't Movin'」を付与しておきたい。「私は逃げない」と歌う、アフリカ系イギリス人である彼女のソウルが、あなたのハートにヴァイブすることを祈って。


I Ain't Movin'-Des'ree

Love is my passion
Love is my friend
Love is universal
Love never ends

Then why am I faced with so much anger, so much pain?
Why should I hide? Why should I be ashamed?
Time is much too short to be living somebody elses life
I walk with dignity, I step with pride

'Cos I ain't movin' from my face,
from my race, from my history
I ain't movin' from my love,
my peaceful love, it means too much to me
Loving self can be so hard
Honesty can be demanding
Learn to love yourself,
it's a great, great feeling

When you're down baby, I will set you free
I will be your remedy, I will be your tree
A wise man is clever, seldom ever speaks a word
A foolish man keeps talking, never is he heard

Time's too lonely, too lonely without words
Future voices need to be heard
Eyebrows are always older than the beards
Momma said be brave, you've nothing to fear

I ain't movin', I've been here long before
I ain't movin', 'cos I want more
I ain't movin', got my feet on the ground
As far as I'm concerned, love should win the rounds

サヴァイヴァー/デスティニーズ・チャイルド

2006-03-21 22:33:38 | 音楽評論


Survivor-Destiny's Child

(Verse 1)
Now that you are out of my life,
I'm so much better,
You thought that I'd be weak without ya,
But I'm stronger,
You thought that I'd be broke without ya,
But I'm richer,
You thought that I'd be sad without ya,
I laugh harder,
You thought I wouldn't grow without ya,
Now I'm wiser,
You thought that I'd be helpless without ya,
But I'm smarter,
You thought that I'd be stressed without ya,
But I'm chillin'
You thought I wouldn't sell without ya,
Sold 98 million.

[Chorus]
I'm a survivor (what),
I'm not gonna give up (what),
I'm not gon' stop (what),
I'm gonna work harder (what),
I'm a survivor (what),
I'm gonna make it (what),
I will survive (what),
Keep on survivin' (what),
I'm a survivor (what),
I'm not gonna give up (what),
I'm not gon' stop (what),
I'm gonna work harder (what),
I'm a survivor (what),
I'm gonna make it (what),
I will Survive (what),
Keep on survivin' (what).

(Verse 2)
Thought I couldn't breath without ya,
I'm inhalin'
You thought I couldn't see without ya,
perfect vision
You thought I couldn't last without ya,
but I'm lastin'
You thought that I would die without ya,
but I'm livin'
Thought that I would fail without ya,
but I'm on top
Thought that it would be over by now,
but it won't stop....
Thought that I would self destruct,
but I'm still here Even in my years to come,
I'm still gonna be here

[Chorus]

(Kelly)
I'm wishin' you the best,
Pray that you are blessed,
Much success, no stress, and lots of happiness,
(I'm better than that)
I'm not gonna blast you on the radio,
(I'm better than that)
I'm not gonna lie on you or your family, yo,
(I'm better than that)
I'm not gonna hate you in the magazine,
(I'm better than that)
I'm not gonna compromise my Christianity,
(I'm better than that)
You know I'm not gonna diss you on the Internet
Cause my mamma taught me better than that.

[Chorus]

After all of the darkness and sadness,
Still comes happiness,
If I surround myself with positive things,
I'll gain prosperity.

[Chorus]


 私が初めてデスティニーズ・チャイルドを知ったのは、ちょうど「Independent Women」が、映画「チャーリーズ・エンジェル」の主題歌として流れていた頃だった。その曲の一部に、KRS-ONEの「Step Into A World」のフレーズが挿入されていたことから、当時は、またパクリ物か、と感じた程度だった。だが以降、度々耳にするそのメロディを聞けば聞くほど、私の中にある種の「嫌悪感」が芽生え、肥大化していった。

 人は自身にないものに憧憬を抱き、似たものに共鳴する。そして「嫌悪」とは一種の否定観念であり、即ち、「嫌だ」と感じるものは、自身の本質に迫る某かの表象である場合が多い(そのアンテナが、無意識裡に察知しているのだ)。

 私は、彼女たちの曲の中の、有名な数種を聴いてみた。上記以外には、「Say My Name 」「Lose My Breath 」「 No, No, No, Part I、Ⅱ」「Girl」程度だ。

 そして、ある明白な結論に至った。その概要を語るのは、私の中に執拗に残存する韜晦癖が邪魔をするため不可能だが、断片だけ記せば、ある曲を想い出した。その曲とは、Bonnie Tylerの「HOLDING OUT FOR A HERO」だった。

 彼女たちの曲はアップテンポのものが多い。デスティニーズ・チャイルドというユニット自体は、昨年の6月を以って解散したらしいが、その表現した作品は、ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラに並ぶ、現代の洗練された女性像であり、且つ、その叫びなのかも知れない。

ユー・キャン・リーヴ・ユア・ハット・オン/ランディ・ニューマン

2006-03-21 22:33:22 | 音楽評論


You Can Leave Your Hat On-Randy Newman

Baby, take off your coat...(real slow)
Baby, take off your shoes...(here, I'll take your shoes)
Baby, take off your dress
Yes, yes, yes
You can leave your hat on
You can leave your hat on
You can leave your hat on

Go on over there and turn on the light...no, all the lights
Now come back here and stand on this chair...that's right
Raise your arms up in to the air...shake 'em
You give me a reason to live
You give me a reason to live
You give me a reason to live

Suspicious minds are talking
Trying to tear us apart
They say that my love is wrong
They don't know what love is
They don't know what love is
They don't know what love is
They don't know what love is
I know what love is


 二百人の男女がカップリングすれば、百通りの愛し方が成立する。そんな愛を歌にしたのが、この「You can leave your hat on」だ。

 この歌は85年のミッキーローク主演作品「ナイン・ハーフ」の、挿入歌として使用されている。映画のストーリーは、若き実業家(だったと思う)とキャリア・ウーマン(キム・ベイシンガー)の9週間半に及ぶ(一部)サディスティックな愛(情事)を描いたドラマで、この歌をBGMにしたストリップ・シーンも設定されている。

 私は、これ以外にランディ・ニューマンを知らない(でも凄い人らしい。詳細はこちら)。ただ、私も彼に等しく、いくつかの愛の形を知っている。何故なら、過去に数人の素敵な「キム・ベイシンガー」と共有した時間を保持しているからだ。

思考の試行

2006-03-19 20:35:18 | 論考
 

 以前の記事に、人間の存在意義とは思考することだ、と書いた。言い換えればそれは、この形骸化した社会に於いては、横並びに同調するだけでなく、時として、自身の判断で物事の本質を見抜く術を身に付ける必要性がある、ということを示唆したかったのだ。しかし、我々の社会にはそれを遮蔽するものが多く存在する。今回はその説明を試みた。

 ライン工場に勤める工員は、毎朝、始業前にはこう唱える。「今日も一日、迅速、真面目に安全作業云々・・(セリフは何だっていい。ここでは、経営者サイドにとって利益のある、特定の言葉を唱和させられる事実を確認するだけ)」 その時(唱和中)の彼は、もしかしたら食事のことを考えているかも知れない。はたまた彼女、友人、趣味のこと、もしくは、ただ眠くてぼーっとしているだけかも知れない。しかし、その心理状況は問わない。現実として発声させられることに最大の意義があるからだ。

 また、洗剤メーカーは年間何十億円もの広告費をかけ、昼ドラが終了した(主婦が観ている)時間にCMを流す。その際、必ずと言っていいほど(CM放映の目的はインパクトと与えることなので、例外はあるが)、口にしやすい(受け入れられやすい)フレーズ(メロディ)を挿入する。

「酵素パワーのトップ!」と毎日聞かされている主婦は、仮に彼女にとっては「ボールド」のほうが好きであっても、いざ売り場出掛けると、何気なく(無意識に)トップを買い物カゴに入れやすくなる。何故なら、トップのロゴを見た瞬間にいつものCM(フレーズ)を思い出し(脳裏にはメロディが流れ)、ある種の習慣化された親近感を芽生えさせるからだ。この一連が、一般に「サブリミナル・エフェクト」と呼ばれる刷り込みの正体だ。

 メディアに於けるサブリミナル・エフェクトは、日本でも一応(飽くまで一応)規制されている(その発端と経緯はこちら)。しかし、映像意外に関しては、未だ野放しの状態にある。その最もたる例が「選挙カー」だ。

 以前の記事(皇室典範緒論)でも述べたが、この国は歴史的にも「抽象的感覚的文化圏」に属する。このことが、「侘び寂び」に代表される奥ゆかしき日本の文化の形成を至らしめた由縁になったのは事実だが、反面(故に)、ここでは選挙カーに代表されるような実際に耳(口)にする規制事実を受け入れやすくなる傾向が見られる。

 ここで注記すると、(上記の工員の例でも一部触れたが)潜在意識に対しては顕在意識下での思考はほとんど障害にならない。頭(意識下)で何を考えていようとも、「潜在意識は反復して入力されたもの(キーワード、行為等)」を単純に取り入れるからだ。このことは、(主に女性がする)ダイエットを例にすると分かりやすい。ダイエットを行う際、「太らない、太らない」と思念する女性は、概ね失敗する。何故なら、潜在意識に「~ない」は通念せず、「太る」のみが情報として伝達され(潜在意識は肯定形のみ受容する)、結果、太るための生活習慣が(無意識に)現実生活で具象化されるからだ。

 また、これは潜在意識に限らないが、ある種の心理学的見地から、「人の感情に於ける好きと嫌いは等価」である。ベクトルの向きが違う(主な要因は抑圧と考えられる)だけで、自身にとって「気になるもの」だからだ。このことは、「結婚相手のことを最初は大嫌いでした」と言う新婦(もしくは新郎)の言質等が証左として挙げられる。

 かくして、(毎朝、彼女のことだけを考えているだけかもしれない)工員は所属する企業にとって有益なスタッフとなり(このこと自体は決して否定的事案でない)、選挙権を持つ一般市民は、選挙時期に毎日街宣車を走らせる(時として、所属する団体の資金が豊富なだけの)候補者Aへの投票の可能性を高める(サブリミナル・エフェクトの誘発する最大のファクターのひとつが、この反復行為である)。

 また、日本には「言霊」という思想がある。ここでその起源は割愛するが、現代社会に遍在する精神的傾向として挙げれば、「口にしたことが本当に発生する」という観念形態のことである。

 例えば、「明日は彼女とディズニーランドに行く」と言った友人に対し私が、「どうせ、明日は雨が降るさ」と言ったとする。夜が明け(天気予報に反し)本当に雨が降ると、件の友人はこう言う(考える)であろう。「お前が変なこと言うから、本当に雨が降ったじゃないか・・」

 私が(僻んで)口にした言葉と現実的事象(降雨)との間には何の因果関係もなく(もしあれば、私はアフリカに行き、神として君臨する)、神経症でない友人にしても、そのことは当然にして理解できている(責められるべきは良純のほうだ)。しかし(飽くまで無意識、刹那の)想起としては、余計なことを口にした私に対し、その非難の矛先が向けられる。これがこの国の根底に潜在するパラダイムであり、文化なのだ。

 英語の「name」には、「名付ける」の他に「明示する」といった意味もある。それ自体は「in the name of~」の成句からも明らかなように、宗教色を帯びた表現ではあるが、ある側面に立脚すれば、自身を取り巻く種々の事象を「name(意識下)」していくということは、大人になるための「確定概念の一種」でもある。そして、敢えて極論として記せば、そこで初めて個性化(ユング的には分化)され、自身の「name」を享受するに値する存在となるのだ(日本でも「名は体を表す」と言う)。

 私に盲目的な欧米化主義を提起する気は皆目ないが、物事の本質を見極める上で自身の所属する文化を精査、掌握し、同時に、フレキシブルな他文化への理解、融合に勤める姿勢は、「かくありき」なのではなかろうか。


※画像は、自然の光(理性)を用いて真理を探求していこうとし、「近代哲学の父」と称された、ルネ・デカルト(Wikipediaより説明共々拝借)。

経済成長という名の幻想

2006-03-19 20:34:38 | 論考
 

 作家の村上龍氏が以前、「インセンティブ」に対応する日本語は存在しないことを指摘していた。言わずもがな、言語は文化である。そして、概要として(主に英語に対し)対訳しきれない日本語は他にも数多く存在し、以下にその顕著な一例の差異と弊害を叙述する。

 戦後の日本は、瓦礫だけの焼け野原から驚異的復興を果たした。これほどの急進的経済成長は世界的にも稀有であり、一時は「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン(エズラ・F. ヴォーゲル著作)」なる書籍まで、出版されたほどだった。しかし、反面、この成功体験は国民の精神性を蝕み、同時に、「恒久的経済成長(具体的には株価の永続的右肩上がり等)」なる妄想概念を植えつけた。

 ここでまず、「経済」という日本語は、戦後の「経国済民」を語源としている。経国済民とは読んで字の如し、戦後の復興、国家の治世に根ざした言葉だ。これに対し、英語の「economy」はギリシャ語のオイコス(家)ノモス(法)を原義としており、エコノミー自体は本来、「節約及び、倹約」を意味する。つまり、日本語(経済)の「直線的成長」とは、大きく語義が異なる。

 派生し、その明晰な例として、生物に於いての「成長」は、その生涯の比較的早期に終了し、「成熟」の段階へと移行する。成長がストップすることで、以降は退行するのかといえば決してそうではない。このことは、(こと顕然な例として転移すると)人間の脳をモデルに説明できる。人の脳細胞は二十歳程度を分岐点とし、以後、日に約十万個のペースで死滅していく。とはいえ、既述の如く、加齢するほど白痴化するのかといえばそうでない。そして、この逆行は、そのメカニズムを証左としている。

 私が幼少の頃、世俗に言う「頭の良し悪し」は、大脳の容量(大きさ)に起因するとされていた。だが、(その後、しわの数だ、等の変節を経て)現在のより高度な大脳(分子)生理学に於いては、それが「シナプス」の活性化に大きく依存することが明示されている。シナプスとは簡略すれば神経細胞(脳細胞)間のコミュニケートを果たす接合部位のことを指し、これが如何に可塑化されているかが、昨今話題になっている「脳年齢」なるものにも深く関係しているのだ。「フレキシブルな脳の可塑化」という概念自体の捉え方(照射する側面)にもよるが、このことが直線的成長でなく、成熟を意味していることに異論の余地はなく、また、この摂理は(無論、原則と例外の大前提を踏まえた上で)万事に共通する。

 包括して言えば、日本経済にこれ以上の(健全な)成長はあり得ない。以降は如何に成熟化(合理化、効率化)を図るだけだ。そして、その過程で必然的に生じるひとつが、「思考の有用性」だ。

 十七世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と提唱し、二十世紀の心理学者カール・グスタフ・ユングは、その自著に於いて、「人生の自然な終点は老いではなく叡智である」と述べ、また、現存する日本の加藤典洋は、前世紀後半に「日本の無思想」を著述した。即ち、人間の存在意義とは「思考すること」であり、合理的根拠及び、客観的事実に拠らない活動にのみ終始する者は、その存在意義を失った状態にある、とセグメントしても過言ではないのだろうか。

 また、「可塑」という言葉は、英語で「plastic」と綴る。人間の行為を脳活動(思想)の具現化であるとすれば、安価で便宜性に富んだ石油製品で創造(ここでは敢えてこう表現)した今の世界は、あまりに空虚で放擲であるようにも思える。


※写真は実験用にスライス、培養(着色)化した海馬シナプス。

平和の象徴≠ハト?

2006-03-15 22:19:19 | こばなし


「若い頃はな、暴れた馬(飼っていたらしい)が出ると、竹ざお握り締めて、がんがんにシバキ倒してやってもんよ云々・・」

 私にはちょうど三十歳、年の離れた父がいる。幼少の頃の私はよく、田舎育ちの彼の事実確認しようがない(親戚に訊ねようにも、同席する父のオーラの前に硬直)自慢話を聞かされて育った。「やめちまえ、ばっきゃろう」が口癖だった彼は、芸人並みの話術を保持するだけでなく、同時に、「ハンター」でもあった。

 小学校に通い始めたある日。私が家に帰ると、二匹のハトがいた。母に聞くと、父が会社近くの小川で捕まえてきた、とのことだった。その罠とは、捧で立て掛けたひっくり返した笊(ざる)の下にパン屑を置き、タイミングを見計らって、結んであった紐を引っ張る(棒を倒して、笊の中にハトを捕獲)という古典的なもの(何時間待ったのか)で、勝利者たる彼は、勇み気に微笑んでいた。

 日本では新沼謙治(演歌歌手、ご記憶であろうか)等が有名であるが、ハトなる鳥は世界的に最も愛されているペットのひとつである。現在でも主にヨーロッパでは、熱烈な飼育者たちが、パウダー、ファンテール、ラント、バーブ、ドラゴン、タンブラー等と呼ばれる諸品種を飼育し、その美しさ(特質的形状)を競っている。とはいえ、もちろん当時の私に斯様の知識はなかったし、その上、二匹は子供目にもただの野バト(首の辺りが緑色のやつ)にしか見えなかった。

 また、以前の我が家では、一時、鶏を飼育していたことがあった。夜祭りの屋台で、「雌鳥だ」と騙された私が持ち込んだものだった。

(今度はこいつを飼う気かな・・) 私はぼんやりと考えていた・・。

 その時だった。研いでいた出刃包丁を手におもむろに振り向いた父は、(まるでそんな私を嘲笑うかのように)もう一方の手で逃げ惑うハトの一匹を捕まえると、まな板の上に乗せ、その首を刎ねた(と同時に、私は以前飼っていた鶏の最期も同様だったことを思い出した)。

 耳にしたことは覚えていない。だが、ハトは確かに断末魔の叫びを上げたはずだった。暫く痙攣した小さな体躯はやがて動きを止め、それを待っていた父は、血みどろの手でその胸元に包丁を突き刺した(ジーザス・・)。内臓を全て取り出し満足(?)した彼は、次に毛を毟り始めた(子供心に、手くらい洗えよ、と思ったのは記憶している)。

 二匹目も同じ運命を辿った。気付くと既に、母と姉の姿はなかった(密かに外出済み)。そして、約一時間後。男二人の食卓には、それまでに(それ以降にも)見たことのないサイズの、鳥の丸焼きが置かれた。

(喰え・・)

 彼の意図することは分かっていた。何よりも、その視線が物語っていた。とはいえ、ついさっきまでラブリーにポロポロ鳴いてた生物を、やすやすと食す気にはなれなかった。しかし同時に、(柔道をかじったこともある彼に)矮小な私が逆らえるはずのない事実も必至であった。そして。(当然、カットする食器もない)私は、その少し体毛の残存する肉塊を手で掴み、口へと運び始めた・・。

「つまりな、こいつらは不味いから『平和の象徴』なんてことになってんだよ。これでもし、美味しかったりしてみろよ。滅んでるか、家畜になってるかのどっちかだわな。分かるか・・。まあ、残さず全部喰えよ」

 私は自身のノルマである一匹を、懸命に、できるだけ噛まずに呑み込んだ(呑み込めないほど不味くもなかった)。そもそも味付けしてんのかよ、とも思ったが、口は災いのもと(再チャレンジされても困る)であるが故に、私はただ寡黙に義務を果たした。
 
 彼のコレクションは他に、つぐみ、ひよどり(かすみ網使用、共に捕獲禁止動物)、へぼ(地蜂)、うなぎ等、多岐に亘った。彼にとって自然はイコール「恵み」であり、そこに存在する全ては「食材」だった(節足動物及び、図鑑にも載ってないようなシダ類は勘弁してほしかった)。

 かくして。私はハト(学名:Columba livia)なる種の存在意義を知った。ただ、今なお軌跡する疑問は、当時まだ七歳だった私に、そこまでした彼の意図とはいったい何だったか、ということだ。無論、本当に意図なるものが存在したとしての話しだが・・。