
ここに、同じ車が何台かあったとする。
これらは「同じフェラーリだ」と言えば、みな同じフェラーリである。
これらは「みんなクルマだ」と言えば、どれもクルマである。
ところが、同じフェラーリでも原子レベルの大きさに拡大したならば、その原子や分子の組み合わさり方は異なる。
原子レベルでなくても、幅が数μm違うかもしれないし、塗装の厚みがほんのわずか違うかもしれない。
原子と同じくらいの大きさの人がこれらのフェラーリを見たならば、それぞれ、全く違うものに見えるだろう。
しかし、原子そのものを見てみると、同じ粒で出来ており、例えばこのクルマがカーボンで出来てるなら、
「同じカーボンの物体」ということになる。
この場合、鉛筆の芯も、ダイヤモンドも同じってことになる。
つまり、何を基準にするかによって、同じ物であったり、違う物であったりする。
しかし、そこにある何台ものフェラーリは特に何か変わったわけではない。
違いを作ったのはそれを見た存在の意識であり、意識が設けている基準である。
そうでなければ、そこにある物が、同じか違うかなんて決めることが出来ない。
つまり、「違い」という概念は、意識によって作られている。
これが、「分離の意識」なのでしょう。
なので、本来は「同じ」「違う」という概念すら幻想なのかもしれない。
・・・というヒマなことを今日は考えていました。