【人語り】拉致被害者めぐみの母 横田早紀江(69)
最後は明らかに
わが子を思う母の愛は広く深い。日だまりのように心地よく、目をつぶってしまうほどに温かい。白くなった髪。眼鏡の下からのぞく目尻には、くっきりと皺(しわ)が目立つようになった。体も一回り小さくなった。それでも、母の目には力が宿り、しっかりとひとつのことを見据えている。
「お母さんが、助けてあげるから…」
◇
「できるだけ質素に、物を大切に、他人に迷惑をかけないように、そして、悪いことには勇気を持って悪いといえるような人間になりなさい」。幼少のころから両親には、そういわれてきた。昭和十一年二月、早紀江は京都市中京区で生まれた。戦争に突入し、小四のときに京都府内の田舎の寺に集団疎開。食べる物がなく、ひもじい思いをした。「大豆ご飯って知っています? 大豆にお米がちょっとだけ配合されたご飯なのよ」
たくさん食べたい、と大きめの弁当箱に配給された大豆ご飯を入れる。だが、かばんに入れて持ち運ぶと、大豆ご飯は片隅に寄って弁当箱はスカスカになる。おかずは梅干しとキュウリの漬物。「おなかいっぱい、白いご飯が食べたかった」
戦争が終わり、中学へ。絵が好きだった。美大を目指したかったが、中学二年のときに父が他界した。経済的に余裕がなかったため普通科高校に進み、呉服関係の商社勤めを経て、染色工房で働いた。染め物は美術と似たところがあっておもしろかった。一緒に着物染めをしていた婦人の紹介で、結婚話が持ち上がる。相手は日本銀行に勤める誠実な男性、横田滋。二人は三十七年十月に結ばれた。
◇
小さな命が宿るおなかが目立ってきた。「婦長さんが『きっと、男の子よ』っていうから男の名前しか考えていなかった」。決めていた名は、「拓也」。三十九年十月五日、生まれてきたのは三二六〇グラムの女の子だった。「すごく重いなって感じました」。早紀江は、母になった。
「『早紀江』って、字を説明するのが難しいでしょ。平仮名でかわいい名前がいいなと思って。語呂もいいし、明るい感じがするので。主人も『いいね』といってくれました」
めぐみ、と名付けた。
授乳におむつ、お風呂、それに家事。寝る暇もなかった。四年後の夏、二度目の出産は双子だった。「まったく、ショックだけの人生ですよね。それはもう大変で。ガリガリにやせました」。早紀江は笑顔をのぞかせながら振り返る。
双子の弟は「拓也」と「哲也」。めぐみは、弟の誕生に「赤ちゃんが二人も来たよー」と大声ではしゃいだ。ベランダの物干し三列はすべて布おむつで埋まった。幸せだった。
三人とも、素直で優しい子に育った。大声でこっぴどくしかりつけた記憶はないという。こんなこともあった。
小学校への通学路に、登校拒否の子の家があった。早紀江は「誘ってあげなさいよ」といった。三人は言われるがままにその子の家に行き、「大丈夫だよ」と繰り返し慰めた。その子の登校拒否は終わった。
海や山、遊園地、動物園…。家族そろって方々へ出かけた。バレエのお稽古(けいこ)に出かけためぐみをみんなで迎えに行き、その帰りに外食をしたこともあった。家族水入らずの時間。早紀江の脳裏にはそうした思い出が鮮明にある。
◇
家族がそろう温かい空間は「あの日」から無くなった。めぐみが忽然(こつぜん)といなくなった日。一週間、一カ月、半年と時間だけが流れる。焦燥感を通り越し、ただ打ちひしがれた日々。「今日こそは帰ってくる」と信じてみても、夫や息子らが勤めや学校に出かけると、どうしようもない不安と寂しさに襲われた。号泣しても、息を止めてみても、悲しい朝がまたやってくる。頭は「死」という言葉もよぎった。
気持ちを落ち着けようと長年の夢だった絵を描きはじめた。教会に通い洗礼も受けた。「夫も息子もつらいのは同じ。一番つらいのはめぐみちゃんのはずじゃない。私がいなくなったら、めぐみちゃんが帰ってきたときにどうするの」。自分に、そう言い聞かせた。
気が遠くなるような長い時間が過ぎた。「あの日」から二十年。その間、めぐみあてに成人式の案内や、選挙の投票権のはがきが届いた。そして、「北朝鮮」の影が見えてから五年。さらに、北朝鮮が犯罪を認めてから三年。「苦境の人生なんですね。不思議な小説の主人公みたいに」。早紀江は、そうつぶやく。
◇
肉親をさらった北朝鮮から「死亡宣告」をされた平成十四年の九月十七日、家族らはみなむせび泣いた。国民の多くも同様だった。ただひとり、早紀江だけは別の反応を示した。「私は信じません。向こうが勝手に言っているだけで、何の証拠もないじゃないですか」
正鵠(せいこく)を得たこの言葉がなければ、問題はすべて葬り去られていたに違いない。
「最後はすべてが明るみに出ると信じています。私はどうなってもいい。親だから、子供を助けます」。来月、古希を迎える母の娘を思う強い気持ちだ。
早紀江が大切にしているカセットテープがある。めぐみが小学校の卒業式の謝恩会で歌ったシューマンの『流浪の民』が録音されたものだ。
可愛(めぐ)し乙女舞い出でつ
なれし故郷を放たれて
夢に楽土を求めたり
めぐみが独唱した部分をそっと聞くと、涙が止まらなくなる。=敬称略
(中村将)
Sankei Web 産経朝刊 【人語り】拉致被害者めぐみの母 横田早紀江(69)
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わが子を思う母の愛は広く深い。日だまりのように心地よく、目をつぶってしまうほどに温かい。白くなった髪。眼鏡の下からのぞく目尻には、くっきりと皺(しわ)が目立つようになった。体も一回り小さくなった。それでも、母の目には力が宿り、しっかりとひとつのことを見据えている。
「お母さんが、助けてあげるから…」
◇
「できるだけ質素に、物を大切に、他人に迷惑をかけないように、そして、悪いことには勇気を持って悪いといえるような人間になりなさい」。幼少のころから両親には、そういわれてきた。昭和十一年二月、早紀江は京都市中京区で生まれた。戦争に突入し、小四のときに京都府内の田舎の寺に集団疎開。食べる物がなく、ひもじい思いをした。「大豆ご飯って知っています? 大豆にお米がちょっとだけ配合されたご飯なのよ」
たくさん食べたい、と大きめの弁当箱に配給された大豆ご飯を入れる。だが、かばんに入れて持ち運ぶと、大豆ご飯は片隅に寄って弁当箱はスカスカになる。おかずは梅干しとキュウリの漬物。「おなかいっぱい、白いご飯が食べたかった」
戦争が終わり、中学へ。絵が好きだった。美大を目指したかったが、中学二年のときに父が他界した。経済的に余裕がなかったため普通科高校に進み、呉服関係の商社勤めを経て、染色工房で働いた。染め物は美術と似たところがあっておもしろかった。一緒に着物染めをしていた婦人の紹介で、結婚話が持ち上がる。相手は日本銀行に勤める誠実な男性、横田滋。二人は三十七年十月に結ばれた。
◇
小さな命が宿るおなかが目立ってきた。「婦長さんが『きっと、男の子よ』っていうから男の名前しか考えていなかった」。決めていた名は、「拓也」。三十九年十月五日、生まれてきたのは三二六〇グラムの女の子だった。「すごく重いなって感じました」。早紀江は、母になった。
「『早紀江』って、字を説明するのが難しいでしょ。平仮名でかわいい名前がいいなと思って。語呂もいいし、明るい感じがするので。主人も『いいね』といってくれました」
めぐみ、と名付けた。
授乳におむつ、お風呂、それに家事。寝る暇もなかった。四年後の夏、二度目の出産は双子だった。「まったく、ショックだけの人生ですよね。それはもう大変で。ガリガリにやせました」。早紀江は笑顔をのぞかせながら振り返る。
双子の弟は「拓也」と「哲也」。めぐみは、弟の誕生に「赤ちゃんが二人も来たよー」と大声ではしゃいだ。ベランダの物干し三列はすべて布おむつで埋まった。幸せだった。
三人とも、素直で優しい子に育った。大声でこっぴどくしかりつけた記憶はないという。こんなこともあった。
小学校への通学路に、登校拒否の子の家があった。早紀江は「誘ってあげなさいよ」といった。三人は言われるがままにその子の家に行き、「大丈夫だよ」と繰り返し慰めた。その子の登校拒否は終わった。
海や山、遊園地、動物園…。家族そろって方々へ出かけた。バレエのお稽古(けいこ)に出かけためぐみをみんなで迎えに行き、その帰りに外食をしたこともあった。家族水入らずの時間。早紀江の脳裏にはそうした思い出が鮮明にある。
◇
家族がそろう温かい空間は「あの日」から無くなった。めぐみが忽然(こつぜん)といなくなった日。一週間、一カ月、半年と時間だけが流れる。焦燥感を通り越し、ただ打ちひしがれた日々。「今日こそは帰ってくる」と信じてみても、夫や息子らが勤めや学校に出かけると、どうしようもない不安と寂しさに襲われた。号泣しても、息を止めてみても、悲しい朝がまたやってくる。頭は「死」という言葉もよぎった。
気持ちを落ち着けようと長年の夢だった絵を描きはじめた。教会に通い洗礼も受けた。「夫も息子もつらいのは同じ。一番つらいのはめぐみちゃんのはずじゃない。私がいなくなったら、めぐみちゃんが帰ってきたときにどうするの」。自分に、そう言い聞かせた。
気が遠くなるような長い時間が過ぎた。「あの日」から二十年。その間、めぐみあてに成人式の案内や、選挙の投票権のはがきが届いた。そして、「北朝鮮」の影が見えてから五年。さらに、北朝鮮が犯罪を認めてから三年。「苦境の人生なんですね。不思議な小説の主人公みたいに」。早紀江は、そうつぶやく。
◇
肉親をさらった北朝鮮から「死亡宣告」をされた平成十四年の九月十七日、家族らはみなむせび泣いた。国民の多くも同様だった。ただひとり、早紀江だけは別の反応を示した。「私は信じません。向こうが勝手に言っているだけで、何の証拠もないじゃないですか」
正鵠(せいこく)を得たこの言葉がなければ、問題はすべて葬り去られていたに違いない。
「最後はすべてが明るみに出ると信じています。私はどうなってもいい。親だから、子供を助けます」。来月、古希を迎える母の娘を思う強い気持ちだ。
早紀江が大切にしているカセットテープがある。めぐみが小学校の卒業式の謝恩会で歌ったシューマンの『流浪の民』が録音されたものだ。
可愛(めぐ)し乙女舞い出でつ
なれし故郷を放たれて
夢に楽土を求めたり
めぐみが独唱した部分をそっと聞くと、涙が止まらなくなる。=敬称略
(中村将)
Sankei Web 産経朝刊 【人語り】拉致被害者めぐみの母 横田早紀江(69)
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