しばらく間が空いてしまいましたが、紀勢本線のダイヤの変遷ということで、昭和60年をご覧いただこうと思います。
昭和60年、国鉄は分割民営化の方向で突き進んでいる時代であり,昭和60年1月、2月を概括してみますと、国鉄の関連事業への出資が可能となり、ホテル業界への進出のための国鉄職員をホテルに派遣し、直営飲食店を開業させるなど、鉄道以外の関連事業へ力を入れています。
また、1月8日には、国鉄監理委員会が分割民営化案を示唆するなど、国鉄を取り巻く環境は悪くなることはあっても、良くなることはありませんでした。
その辺を弊サイトから引用してみたいと思います。
ホテル派遣職員67人の辞令伝達式 1/7
東京北、南、西、千葉の各局及び新幹線総局では、6月オープンをめざし都内に建設中の国鉄出資ホテルに派遣する職員67人の辞令伝達式を行った
今回の派遣は、最も厳しいといわれるホテル業界の営業サービス等の修得を目的として行われるもので、派遣の内訳は池袋のホテル・メトロポリタシへ31人、飯田町のホテル・エドモントへ36人。派遣期間は3年だが、今後の国鉄にとってはホテル等関連事業への進出が課題であるだけに、ノウハウ修得後の成果が期待されている
国鉄監理委員会が分割案を示唆 1/8
同委員会は北海道・四国・九州を分離した上で、本州も5~6程度に分割する方向で最終案を明らかにした。また各事業体の人員規模は2~3万人としている
上野駅に直営コーヒーハウス「ベル」誕生 2/1
各管理局で関連会社等への派遣や民営感覚の経営努力が進められている中、上野駅に直営コーヒーショップ2店がオープン。これは事業収入の拡大と余剰人員の有効活用等を目的に実現したもので、直営の飲食店は全国で初めて
東京北局では、3月14日に開業する新幹線地下駅にも直営物販店のオープンを決定しているが、同局では将来的にも国電区間の主要駅への進出も予定する等今後も直営店を展開し、事業収入の拡大をはかるほか、新しい人材育成の場としても期待している。
参考:国鉄があった時代 昭和60年
さて、今回は3月号と11月号を用意させていただきました。
最初に、60年3月改正の時刻表から見ていきたいと思います。
60年3月時刻改正は、東北・上越新幹線上野開業が大きな目玉であり、紀勢本線では急行きのくにが,特急くろしおに統一されたダイヤ改正でした。
「急行きのくに」の電車化により戦前から続いた南海電鉄による紀南乗り入れは中止となりました。
ソースがありませんので、噂の域を出ないのですが、国鉄が485系を南海に売り込もうとしており、特急化しようとしたのですが、価格の面で折り合わなかったと言った話を聞いたことがあります。
恐らく、従来の急行を格上げして485系になりますので、白浜まで併結される四両編成を南海に押しつけようという思惑があったのかもしれません。
結局、485系による「特急くろしお」は1年だけで運用を終わり、「やくも」の減車で捻出した車両を投入することで、全列車381系に再度置き換えています。
やはり、振り子電車で無いため白浜まではまだしも、白浜以遠では従来の急行きのくにと変わらないスピードしか出せない事も問題であったようです。
ちょっと見えにくいのですが、急行きのくに54号が運転されています。
懐かしい、「いそつり」の愛称が復活しています。また、長らく続いた夜行きのくにも廃止されました。
さて、早速時刻表を開いてみますと、特急くろしおが、天王寺始発で22本運転されています。
なんと、7:00~15:00までは30分間隔で天王寺駅から出発しています。
それと、急行きのくにですが、一本だけ臨時急行で残っていました。
ただし、客車〔12系〕であり、EF58が白浜まで牽引していました。
また、夜行列車ですが、寝台車が外され、再び愛称無しの924列車に戻り、和歌山市からの客車列車の連結も無くなっています。
また、殿を務めていた夜行きのくにも廃止されています。
ただ、臨時の夜行快速が運転されていますが、こちらは昔懐かしい、「いそつり」の愛称が復活しておりこちらも12系客車により運転されています。
いそつり号、が運転される日は定刻ですと、3分しか変わらない、5:04到着になりますので、御坊以降は時間調整をして5:17に到着するようになっています。
さて、再び今度は昭和60年11月の時刻表を参照したいと思います。
特急は3月より更に1本多い23本が運転され、「急行きのくに」が1本だけ運転されています。
この頃は、自動車道も海南までしか開通して居らず、白浜方面への旅客は鉄道で行くのが一番速い時代でしたので、国鉄に取っても紀勢本線はドル箱であったことが伺えます。
ハローホリデー有田号が運転されています。一種のアルファー列車のようなものですね。
ちょっと見えにくいのですが、急行きのくに54号が運転されています。
それ以外にも、いわゆるアルファ列車では無いのですが、ハローホリデー有田という名称で和歌山~箕島間に普通列車が運転されています。
当時は定期列車は1時間に1本であり、箕島方面から和歌山市まで誘導しようという列車として設定されていたようです。
というか、普通列車の方が3分追い上げている計算になります。
ただし、昼行列車はかなり臨時列車の本数が増えており、特急は季節臨・臨時列車合わせて6本、定期列車は9本となり、急行は、季節臨・臨時列車合わせて5本、定期列車は4本となっており、特急シフトとは言え、急行列車も残され選択肢は残されていることが判ります。
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またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。
国鉄があった時代 JNR-era
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昭和60年、国鉄は分割民営化の方向で突き進んでいる時代であり,昭和60年1月、2月を概括してみますと、国鉄の関連事業への出資が可能となり、ホテル業界への進出のための国鉄職員をホテルに派遣し、直営飲食店を開業させるなど、鉄道以外の関連事業へ力を入れています。
また、1月8日には、国鉄監理委員会が分割民営化案を示唆するなど、国鉄を取り巻く環境は悪くなることはあっても、良くなることはありませんでした。
その辺を弊サイトから引用してみたいと思います。
ホテル派遣職員67人の辞令伝達式 1/7
東京北、南、西、千葉の各局及び新幹線総局では、6月オープンをめざし都内に建設中の国鉄出資ホテルに派遣する職員67人の辞令伝達式を行った
今回の派遣は、最も厳しいといわれるホテル業界の営業サービス等の修得を目的として行われるもので、派遣の内訳は池袋のホテル・メトロポリタシへ31人、飯田町のホテル・エドモントへ36人。派遣期間は3年だが、今後の国鉄にとってはホテル等関連事業への進出が課題であるだけに、ノウハウ修得後の成果が期待されている
国鉄監理委員会が分割案を示唆 1/8
同委員会は北海道・四国・九州を分離した上で、本州も5~6程度に分割する方向で最終案を明らかにした。また各事業体の人員規模は2~3万人としている
上野駅に直営コーヒーハウス「ベル」誕生 2/1
各管理局で関連会社等への派遣や民営感覚の経営努力が進められている中、上野駅に直営コーヒーショップ2店がオープン。これは事業収入の拡大と余剰人員の有効活用等を目的に実現したもので、直営の飲食店は全国で初めて
東京北局では、3月14日に開業する新幹線地下駅にも直営物販店のオープンを決定しているが、同局では将来的にも国電区間の主要駅への進出も予定する等今後も直営店を展開し、事業収入の拡大をはかるほか、新しい人材育成の場としても期待している。
参考:国鉄があった時代 昭和60年
さて、今回は3月号と11月号を用意させていただきました。
最初に、60年3月改正の時刻表から見ていきたいと思います。
60年3月時刻改正は、東北・上越新幹線上野開業が大きな目玉であり、紀勢本線では急行きのくにが,特急くろしおに統一されたダイヤ改正でした。
「急行きのくに」の電車化により戦前から続いた南海電鉄による紀南乗り入れは中止となりました。
ソースがありませんので、噂の域を出ないのですが、国鉄が485系を南海に売り込もうとしており、特急化しようとしたのですが、価格の面で折り合わなかったと言った話を聞いたことがあります。
恐らく、従来の急行を格上げして485系になりますので、白浜まで併結される四両編成を南海に押しつけようという思惑があったのかもしれません。
結局、485系による「特急くろしお」は1年だけで運用を終わり、「やくも」の減車で捻出した車両を投入することで、全列車381系に再度置き換えています。
やはり、振り子電車で無いため白浜まではまだしも、白浜以遠では従来の急行きのくにと変わらないスピードしか出せない事も問題であったようです。
ちょっと見えにくいのですが、急行きのくに54号が運転されています。
懐かしい、「いそつり」の愛称が復活しています。また、長らく続いた夜行きのくにも廃止されました。
さて、早速時刻表を開いてみますと、特急くろしおが、天王寺始発で22本運転されています。
なんと、7:00~15:00までは30分間隔で天王寺駅から出発しています。
それと、急行きのくにですが、一本だけ臨時急行で残っていました。
ただし、客車〔12系〕であり、EF58が白浜まで牽引していました。
また、夜行列車ですが、寝台車が外され、再び愛称無しの924列車に戻り、和歌山市からの客車列車の連結も無くなっています。
また、殿を務めていた夜行きのくにも廃止されています。
ただ、臨時の夜行快速が運転されていますが、こちらは昔懐かしい、「いそつり」の愛称が復活しておりこちらも12系客車により運転されています。
いそつり号、が運転される日は定刻ですと、3分しか変わらない、5:04到着になりますので、御坊以降は時間調整をして5:17に到着するようになっています。
さて、再び今度は昭和60年11月の時刻表を参照したいと思います。
特急は3月より更に1本多い23本が運転され、「急行きのくに」が1本だけ運転されています。
この頃は、自動車道も海南までしか開通して居らず、白浜方面への旅客は鉄道で行くのが一番速い時代でしたので、国鉄に取っても紀勢本線はドル箱であったことが伺えます。
ハローホリデー有田号が運転されています。一種のアルファー列車のようなものですね。
ちょっと見えにくいのですが、急行きのくに54号が運転されています。
それ以外にも、いわゆるアルファ列車では無いのですが、ハローホリデー有田という名称で和歌山~箕島間に普通列車が運転されています。
当時は定期列車は1時間に1本であり、箕島方面から和歌山市まで誘導しようという列車として設定されていたようです。
というか、普通列車の方が3分追い上げている計算になります。
ただし、昼行列車はかなり臨時列車の本数が増えており、特急は季節臨・臨時列車合わせて6本、定期列車は9本となり、急行は、季節臨・臨時列車合わせて5本、定期列車は4本となっており、特急シフトとは言え、急行列車も残され選択肢は残されていることが判ります。
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実際に乗務されていた方のコメントは、とてもありがたいです。
私の父親も国鉄に勤務しておりまして、職種は違えど国鉄改革の中で翻弄された一人でした。
天王寺の駅売店もよく覚えております、釜飯屋、喫茶店、スッポンの販売店などが並んでいたように思います。
阪和線ホームの端でほんとに狭いスペースでしたが、営業していたことはよく覚えております。
485系の乗り心地に関しての話もありがとうございます、又機会がありましたら色々とご教示いただければ幸いです。
構内、検修職員をはじめ多くの方が他区への転勤、余剰人員活用策として天王寺鉄道管理局も直営の飲食店、駅売店を開設しました。
私もその一人で駅売店への職種替えで新聞に載せられました。
一年足らずの経験で元の運転士に戻り、僅かではありますが485系「くろしお」にも乗務しました。鈍足と言われ、381系と比べ軽快さは劣りましたが、重厚で安定した乗り心地は、安心して速度が出せる素晴らしい車両であった事を付け加えさせて頂きます。
それと、活用策、駅売店での経験はその後の慣れない接客時に大いに役に立ったのも事実です。
ご教示いただきありがとうございます。
キハ55も保護棒を付けていましたので限界的にはかなり厳しかったのはある程度予測できたのですが、渡り線の電化工事の問題が有ったのですね。
ありがとうございます。
また、一つ賢くなりました。