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棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。

2024-06-10 23:00:49 | 聖書

一体、どのくらいのキリシタンが殺されたのだろう。秀忠時代の主な殉教事件だけでも、
●1619年京都大殉教52人火あぶり
●1622年長崎大殉教55人火あぶり
●1623年江戸大殉教50人火あぶり
●1624年東北大殉教109人殉教
●1624年平戸大殉教38人殉教
と、キリがない。
新井白石の『西洋紀聞』下巻付録によると、殉教者の数は20~30万人にのぼる、となっている。しかしこの数はおおよそであり、しかも根拠が無い。
姉崎正治博士の史料に基づく実数計算では、3792人、その後ラウレス博士による計算では4045人を数えた。これらは確実な史料に基づくものであり、史料発見と共にその数は増加している。未発見の史料、無くなってしまった史料、史料に残されなかった殉教事件なども起こっていただろうから、実際の殉教者総数は、何倍にもなるであろう。

 

棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。
火あぶり、、雲仙地獄責め、竹鋸引きなど、残酷な方法が採られた。

火あぶりは、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。
他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという。
また簑踊りという火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。

雲仙地獄責めというのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。

竹鋸引きというのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。ホントに人間のやることか、とか思ってしまう。

他にも、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、前回書いた穴吊り、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。
これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに、過酷な重税による圧政は農民達に、それぞれ反感を買わせ、それが島原の乱へと繋がっていくのであった。

殺すだけなら斬首で十分、見せしめのためなら磔で十分である。このような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンを棄教させることがねらいであった。
またキリシタン宗は邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。
そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立ってくれたのである。
そのためキリシタンの処刑は残酷なだけではなく、神州が穢れる、と言う理由から、キリシタンの遺体は焼かれ、その灰は長崎の伊王島の沖まで持っていって捨てたという。

 

キリシタン史 江戸初期の大迫害 (collegium.or.jp)から抜粋。

 

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日本だけがワクチン攻めされていて、日本人だけがいつまでもワクチン脳なのは、

キリシタン迫害が原因で神ヤハウェを最大に怒らせたからである。


日本人は神の教えを信じた者を殺しまくった。

2024-06-10 22:45:01 | 聖書